第一部 月明かりの共犯者
「……ローゼンベルク様」
イザベラ様は、かすれた声で私の名前を呼んだ。
それから、はっとしたようにフードを深くかぶり直す。もう遅い。銀色の髪は、月明かりの下でしっかり見えてしまった。
「な、なぜあなたがここに」
「えっと……それは、こっちも聞きたいというか」
夜中に、黒マントで、北側の井戸。
どう見ても、私たちは同じことをしに来ている。
イザベラ様もそれに気づいたのか、ぎゅっと唇をかんだ。その手のひらには、まだ消えかけの光がちらちらと残っている。
「……見ていたのね」
「ご、ごめんなさい」
「笑えばいいわ」
「え?」
「聖女候補が、こんな夜中にこそこそ井戸に手をかざして。一晩かけても、少ししか消せないのよ。……笑えばいいじゃない」
イザベラ様の声が、震えていた。
お茶会のときの、氷みたいな顔じゃない。今にも泣き出しそうな、悔しそうな顔だった。
◇
「笑わないよ」
私は、イザベラ様の隣にしゃがみこんだ。
後ろでアルが一歩動く気配がしたけれど、何も言わなかった。マークは腕を組んで壁に寄りかかり、ライザは……なぜかパンの袋を胸に抱えて、はらはらした顔をしている。
「イザベラ様は、この井戸がおかしいって、自分で気づいたんでしょう?」
「…………」
「神殿は『井戸の手入れのせい』って言ってるのに。それでも、おかしいって思って、こんな夜中に、ひとりで来たんでしょう?」
「……お祖父様は、結界は完璧だとおっしゃるわ」
イザベラ様は、井戸のふちを見つめたまま言った。
「五十年前、北の森で、お祖父様が命がけで張られた結界ですもの。……あれは決して破れない。だから瘴気が王都に入ってくるはずがない。体調を崩す者がいるのは、その者たちの不摂生のせいだ、と」
「でも、イザベラ様はそう思わなかった」
「……感じるのよ」
ぽつりと、こぼれるような声だった。
「この井戸からも、あのお茶からも。冷たくて、にごっていて、いやな感じがする。小さいころから、そうだったの。私だけ。お祖父様に言ったら、『聖女候補が弱音を吐くな』って」
小さいころから。
見えないけれど、感じる。誰にもわかってもらえないまま、ずっと。
それって、どれだけ心細かっただろう。
「イザベラ様。手、貸してもらってもいいですか」
「……何をするつもり」
「一緒にやりましょう」
私はイザベラ様の手をとって、自分の手と重ねて、井戸のふちに置いた。冷たい手だった。夜風の中で、ずっとここにいたんだ。
──きれいになって。
手のひらが、あたたかくなる。
光が、私の手から、重ねたイザベラ様の手を通って、井戸の底へと流れこんでいく。イザベラ様の手から出ていた小さな光も、それに混ざって、ひとつになっていく。
黒いもやが、ほどけるように消えた。
「…………」
イザベラ様は、自分の手を見つめたまま動かなかった。
「……消えたわ」
「はい」
「いやな感じが、全部。……あんなに、一晩かけても、少ししか消せなかったのに」
紫の瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。
「どうして」
イザベラ様は、私をにらんだ。にらんでいるのに、涙がどんどんあふれてくる。
「どうして、あなたなの。私は、小さいころからずっと、聖女になるために、毎日毎日祈ってきたのに。どうしてあなたは、ダンスのついでに、ポットを抱きしめたついでに、こんなに簡単に……っ」
言葉が、続かなくなった。
私は、何も言えなかった。
だって、本当のことだから。私は、ゲームで十八年分、ボタンを押してきただけだ。イザベラ様みたいに、本物の毎日を祈って過ごしてきたわけじゃない。
だから、ずるいって言われても、仕方ない。
「……でも」
私は、重ねたままの手を、少しだけ強く握った。
「イザベラ様の光、ちゃんと混ざってましたよ」
「……え」
「イザベラ様の手を通したら、光がすっと奥まで届いたんです。ひとりでやるより、ずっと楽でした。……それに、私は見えるから気づけただけです。見えないのに、ずっとひとりで感じて、誰にもわかってもらえなくて、それでもこんな夜中にあきらめずに来てたのは、イザベラ様のほうです」
イザベラ様が、ぽかんと口を開けた。
それから、真っ赤になった。耳まで、首まで、真っ赤に。
「な、な、何を言っているの、あなたは!」
「ほんとですって」
「慰めなんて結構よ!」
「慰めじゃないですって!」
「……お嬢様方、声が大きいです」
アルの低い声に、二人そろって口をつぐんだ。
◇
「……今夜のことは、誰にも言わないで」
イザベラ様は、ごしごしと袖で涙をふいて、フードを深くかぶり直した。
「あなたが井戸を浄化して回っていることも、私は見なかったことにするわ。お祖父様にも、言わない。……今夜のところは」
「ありがとうございます、イザベラ様」
「お礼を言われる筋合いはないわ。……共犯になっただけよ」
共犯。
なんだか、ちょっとかっこいい響きだ。
イザベラ様は立ち上がりかけて、ふと動きを止めた。それから、迷うように何度か口を開いては閉じて、ようやく、小さな声で言った。
「……北の森の奥に、結界の要石があるの」
「要石?」
「結界を支えている、大きな石よ。五十年前に、そこで結界が張られたと伝えられているわ。でも、神殿の者以外は、決して近づいてはいけないことになっている。私でさえ、行ったことはないの」
北の森。夜空に走っていた、あの黒いひび。
「井戸がおかしいのは、北側ばかり。……要石に、何かあったのかもしれない」
イザベラ様は、そこで言葉を切った。
フードの奥から、紫の瞳が、まっすぐ私を見た。
「……サラフィーナ、さん」
初めて、名前で呼ばれた。
「もし、私があそこへ行くと言ったら。……一緒に、来てくださる?」




