第一部 夜の井戸めぐり
「却下だ」
お兄様は、眼鏡を押し上げながら即答した。
「まだ何も言ってないよ!?」
「言わなくてもわかる。王都の北側の井戸を、夜中にこっそり浄化して回りたい。そうだろう」
「……なんでわかるの」
「おまえの兄を十八年やっている」
さすが苦労人。読みが深い。
「でもお兄様、放っておいたら、北側の人たちがどんどんお腹を壊すんだよ。神殿は『手入れを怠ったせい』で済ませてるし。私なら、こっそり治せる」
「こっそり、ね。舞踏会でダンスのついでに騎士を治し、お茶会でティーポットを抱きしめて令嬢たちに引かれたおまえの『こっそり』を、私はどこまで信用すればいい」
「うっ」
何も言い返せない。
お兄様は、長いため息をついた。それから、机の引き出しから一枚の紙を取り出して、私の前に広げた。
王都の地図だった。北側のあちこちに、細かい字で印がつけられている。
「……これ」
「ミレーユ嬢の話を聞いて、昨日のうちに調べさせた。井戸の水で体調を崩す者が出ている区画だ」
「お兄様……!」
「勘違いするな。却下は却下だ。ただし」
お兄様は、眼鏡の奥の目をそらしながら言った。
「アルフレッドを必ず連れていくこと。日付が変わる前に帰ること。光は絶対に人に見せないこと。……守れるなら、私は今夜、書斎で調べものをしていて何も知らない」
大好き、お兄様。
◇
「お嬢様、本当にこの格好で行かれるのですか」
「うん。今度こそ完璧な変装だよ」
真夜中の裏門。私は黒いマントのフードを深くかぶって、ぐっと親指を立てた。髪は全部フードの中に押しこんだ。今日はもう、はみ出していない。たぶん。
「お嬢様、お供します!」
隣で、ライザも同じ黒マントをかぶって、同じように親指を立てていた。
「ライザも来るの!?」
「当然です! お嬢様の行くところ、ライザありです! 夜食のパンも持ってきました!」
「遠足じゃないんだよ!?」
アルが、無言で夜空を見上げていた。今夜も、ものすごく遠い目をしている。
「よう。こっちだぜ、お嬢様」
闇の中から、ひょいと声がした。
路地の角に、マークが立っていた。今日は夜警の見習いみたいな格好をしている。
「マーク!? なんでここに」
「北側の井戸を回るんだろ。あんたんとこの兄貴から、昼間に話が来た。道案内してくれってさ」
お兄様、どこまで手を回してるの。
そういえば、市場の路地裏でのことは、アルがお兄様に報告していた。……まさか、そこからマークを捜し当てたの?
「勘違いすんなよ。あんたを信じたわけじゃねえ。ただ、北側は俺の庭みたいなもんだし……あのへんの連中が腹壊してるのは、見てて気分のいいもんじゃないからな」
マークは鼻をこすって、くるりと背を向けた。
「ついてきな。神殿の夜回りに見つからない道を通ってやる」
◇
北側の街は、昼間の下町よりもっと静かだった。
最初の井戸は、小さな広場の真ん中にあった。
フードの奥から鑑定の目で見ると、石の井戸の口から、ゆらゆらと黒いもやが立ちのぼっている。ミレーユの家のポットより、ずっと濃い。
「……ここ、ひどい」
「見えるのか?」
マークが、小声で聞いた。
「うん。黒いもやが、井戸からあふれてる」
「俺には、ただの井戸にしか見えねえけどな」
私は井戸のふちに両手を置いた。アルがすぐ後ろに立って、マントを広げるようにして、私の手元を通りから隠してくれる。
──きれいになって。
手のひらが、あたたかくなる。光が、井戸の底へと流れこんでいく。黒いもやが、ほどけるように消えていった。
顔を上げると、マークが目を丸くしていた。
「……今、光った」
「えっ、見えた!? 隠したつもりだったんだけど」
「すぐ横にいりゃ見えるっつーの。……ほんとに、光るんだな」
マークは、しばらく井戸をのぞきこんでいた。それから、ぽつりと言った。
「兄貴の腕も、こうやって治したのか」
「うん。……たぶん、こんな感じ」
「……そっか」
それきり、マークは何も言わなかった。でも、次の井戸へ向かう背中は、さっきよりほんの少しだけ、ゆっくりになっていた。
◇
二つ目。三つ目。四つ目。
北へ行けば行くほど、もやは濃くなっていった。
五つ目の井戸を浄化して、私はふらりとよろけた。すかさず、アルの腕が背中を支える。
「お嬢様。今夜はここまでに」
「大丈夫。あとひとつ……」
「お嬢様」
低い声。丁寧なのに、有無を言わせない声。
「……はい」
「お嬢様、パンをどうぞ! 食べると元気が出ます!」
「ライザ、遠足じゃないって……もぐ。おいしい」
パンをかじりながら、私はなんとなく北の空を見上げた。
そして、息をのんだ。
王都を囲む城壁の、さらに向こう。真っ暗な夜空に、細い線が一本、走っていた。
ひびだ。
まるで、空そのものがガラスでできていて、そこに小石がぶつかったみたいな。細くて、ぎざぎざの、黒いひび。そこから、墨を水に落としたように、もやがじわじわと染み出してくる。
「……お嬢様?」
「アル。あそこ、見える?」
「北の空、ですか。……星が少ないようにしか見えませんが」
やっぱり、私にしか見えないんだ。
結界の、ほころび。
紬の言っていたことが、本当に、目の前にあった。
◇
「……最後に、もうひとつだけ。見るだけでいいから」
アルにそうお願いして、私たちは帰り道にある、最後の井戸のある広場へ向かった。
そこには、先客がいた。
井戸のそばに、ひとりの人影がしゃがみこんでいる。灰色のマントで全身を覆っていて、顔は見えない。両手を井戸のふちにかざして、何かを小さくつぶやいている。
その手のひらから、かすかな光がこぼれていた。
弱い光。今にも消えそうな、ろうそくの火みたいな光。それでも何度も、何度も、井戸に向かって光を送っている。
でも、もやは、ほとんど薄くならない。
「……どうして。どうして、消えないの……」
震える声が、聞こえた。
知っている声だった。
風が吹いて、灰色のフードがふわりとめくれる。
月明かりの下で、銀色の髪がきらめいた。
「……イザベラ様?」
思わず、名前を呼んでいた。
弾かれたように、人影が振り返る。
紫の瞳が、まっすぐに私をとらえて──大きく、見開かれた。




