第一部 王子の取引
「セドリック殿下が、お見えです」
執事のその一言で、公爵家は大混乱になった。
「な、なんだと!? 先触れもなしにか!?」
「父上、落ち着いてください。殿下が先触れなしに来るのは、子どものころからいつものことです」
「そうだったな!」
お兄様が、少しも落ち着いていないお父様をなだめている。
「サラ、お茶の支度を。庭がいいわ。殿下は昔から、うちの庭でお茶を飲むのがお好きだから」
お母様だけが、いつもどおりにこにこしていた。
うちの庭。つまり、芋畑だ。
王子様は、なぜかそこがお気に入りらしい。
◇
「やあ、サラフィーナ嬢。今日の君は、花を探しに来た蝶も迷ってしまいそうだね」
芋畑を見下ろす東屋で、殿下は今日も完璧な笑顔でそう言った。
花はない。ここにあるのは芋だ。蝶も迷うだろう。
「……ありがとうございます、殿下」
もうわかった。この人の褒め言葉は、挨拶の一種だ。「こんにちは」と同じくらいの意味しかない。
「お茶をお持ちしましたー!」
トレイを抱えたライザが、元気よくやってきた。
その瞬間、殿下の背筋が、ほんの少しだけ伸びた気がした。
……気のせいかもしれない。
「殿下、今日のお茶は公爵領のハーブを混ぜたものです! お嬢様が森で見つけた、すっごく体にいいやつです!」
「そうかい。それは楽しみだ」
「あと、お砂糖は三つまでです! 殿下、小さいころ五つも入れてたでしょう! 虫歯になりますよ!」
「ライザ!?」
王子様に向かって、虫歯。
私は青ざめた。なのに殿下は、怪しむどころか、ふっと口元をほころばせた。
「……よく覚えているね」
「覚えてますよ! あのとき私、お砂糖壺ごと取り上げたんですから!」
「うん。取り上げられた」
殿下は、砂糖をきっかり三つだけ入れた。
……あれ?
今の殿下の顔。舞踏会でも、さっきの挨拶でも見たことのない、やわらかい顔だった気がする。
そっか。殿下、お砂糖が好きなんだ。
私は、ひとりで納得した。
◇
「──さて」
ライザがおかわりのお茶を取りに戻っていくと、殿下はカップを置いた。
空気が、変わった。
「舞踏会の続きを聞かせてもらおうか。婚約者殿」
笑顔はそのままなのに、青い目が、すっと細くなる。
東屋の柱のそばで控えていたアルが、わずかに身じろぎしたのがわかった。
「……なんのことでございましょう」
「とぼけなくていいよ。あの後、君は神殿に呼ばれた。デビューした令嬢のうち、君だけが。そして今、王都では『新しい聖女』の噂で持ちきりだ」
「……」
「君が何者なのか、無理に聞くつもりはない」
殿下は、芋畑のほうへ目をやった。
「ただ、ひとつ知っておいてほしい。この国の王家は、神殿に逆らえない」
「……父からも、そう聞きました」
「五十年前、結界を張って国を救ったのは神殿だ。だから王家は、神殿に頭が上がらない。神殿が治癒にどれだけ金を取ろうと、金のない者を追い返そうと、口を出せない」
金が足りないって、断られた。
マークの言葉が、また胸によみがえる。
「──でもね、サラフィーナ嬢」
殿下の声が、少しだけ低くなった。
「王宮の書庫にある五十年前の記録。結界を張った日の記録だけが、なぜか何枚も、きれいに切り取られているんだ」
「……え」
「結界を張ったのが、本当に神殿なら。誇らしげに残しておけばいい記録だ。なぜ消す必要がある?」
強い力を持つ者の言葉を、そのまま信じすぎないで。
紬の声が、頭の奥で響いた。
「そこで、取引をしよう」
殿下は、またにっこりと笑った。舞踏会で見せた、あの悪い顔で。
「僕は、君の秘密を守る。代わりに君は、僕が神殿を調べるのを手伝う。どうかな」
「……なんで、私なんですか?」
「神殿がいちばん欲しがっているものを、君が持っているからだよ」
殿下は、さらりと言った。
「それに」
ふっと、東屋の外を見る。その先では、たぶんライザが、お湯を汲むために厨房とのあいだを行ったり来たりしている。
「君が神殿に連れていかれたら、この家の誰かが泣くだろう。……それは、見たくないんだ」
この家の、誰か。
お父様かな。お父様なら、絶対に泣く。ハンカチを三枚くらい使って泣く。
殿下って、意外とうちの家族のこと、よく見てるんだな。
「……わかりました。その取引、お受けします」
「話が早くて助かるよ」
殿下は満足そうにうなずき、それから柱のそばのアルに目をやった。
「そこの護衛くんも、よろしく。さっきから、まるで僕を斬りたそうな目で見ているけれど」
「気のせいでございます、殿下」
アルは、微動だにせずに言った。
「私は護衛ですので。お嬢様に近づくものは、すべて警戒いたします。たとえ婚約者であっても」
「それは心強い」
にこにこ。無表情。にこにこ。無表情。
ここだけ、気温が下がった気がする。
◇
「おかわり、お持ちしましたー!」
ライザが戻ってきて、凍りかけていた空気が一瞬でとけた。
殿下はそのお茶をゆっくり飲み干してから、立ち上がった。
「では、今日はこれで。また近いうちに来るよ」
「また来るんですか?」
ライザが、きょとんと首をかしげた。
「殿下って、本当にお嬢様のことが大好きなんですね! 小さいころから、しょっちゅういらっしゃいますもんね!」
殿下が、ほんの一瞬だけ、固まった。
それから、完璧な笑顔で、ゆっくりと言った。
「……そうだね。そういうことにしておこうか」
どういうこと?
私とライザは、そろって首をかしげた。
東屋の柱のそばで、アルが、ものすごく何か言いたそうな顔で、空を見上げていた。




