第一部 聖女のウワサ
噂というのは、花粉より早く飛ぶらしい。
「お嬢様、大変です! 下町がお嬢様の噂で持ちきりです!」
神殿から戻って三日後。ライザが、市場のおつかいから息を切らして駆けこんできた。
「『ローゼンベルクのお嬢様が、舞踏会で光った』って! 『倒れかけた騎士を、触れただけで治した』って! 『もしかして新しい聖女様じゃないか』って!」
「うわあ……」
「私、八百屋のおばさんにもう全部話してきました! お嬢様がどれだけすばらしいか!」
「ライザ!?」
噂の出どころの一つが、すぐそばにいた。
◇
どうしても自分の目で確かめたくて、私は下町に出かけることにした。
もちろん、アルつきで。地味な麻のワンピースに、ピンクの髪はスカーフでぐるぐる巻き。市場の娘さんに変装したつもりだ。
「お嬢様」
「なに?」
「スカーフから、髪がはみ出ております」
「えっ」
「それと、市場の娘はそんなに背筋を伸ばして歩きません。あと、手がきれいすぎます。あと、つれている男が剣を下げています」
「最後のはアルのせいだよね!?」
「私は護衛ですので」
変装は、開始三分で破綻していた。
◇
下町の市場は、にぎやかだった。
でも、公爵領の町とは、どこか違う。野菜の山が小さい。値札が高い。路地裏には、やせた子どもたちが居座っていて、広場の片隅では、片足の男の人が、かごにわずかな小銭を集めていた。
魔物との戦いで傷ついた人だ。ゲームの中でも、王都の下町はいつも「豊かさ」の数字が低かった。でも、数字で見るのと、こうして目の前で見るのとでは、全然違う。
「……聖女様、ねえ」
果物屋の前で、おばさんたちがひそひそ話しているのが聞こえた。
「公爵家のお嬢様だろう? あそこの領地は井戸の水もきれいで、芋も麦もよくとれるっていうじゃないか。そりゃあ、聖女様だって言われたら信じちまうよ」
「どうだかねぇ」
もう一人のおばさんが、吐き捨てるように言った。
「聖女なんてのはね、いざとなれば逃げるもんだよ。五十年前を忘れたのかい。うちの祖父さんは、あの戦で帰ってこなかったんだ。聖女様が、男と一緒に消えちまったあの戦でさ」
足が、止まった。
男と一緒に、消えた。
五十年前。大叔母様の「あの人」。公爵家ではあまり話されない、エドガーという名前。
頭の中で、ばらばらだったピースが、いやな音を立てて動き始める。
「……お嬢様」
アルが、私にだけ聞こえる声で呼んだ。
「右後ろ。市場に入ってからずっと、つけてきている者がいます」
「えっ」
「振り返らないでください。……そこの角を曲がります」
◇
路地裏に入った瞬間、アルの姿が消えた。
と思ったら、次の瞬間には、壁際にひとりの少年を押さえつけていた。喉元には、抜きかけの剣の柄。
「おっと、こわいこわい。護衛さん、手が早いねぇ」
押さえつけられているのに、少年はへらりと笑っていた。
年は私と同じくらい。茶色いくせ毛に、緑の瞳。鼻のあたりにそばかすが散っていて、人懐っこい子犬みたいな顔をしている。ただし、持っているのは花屋のかごで、着ているのはごく普通の市場の少年の服だ。
……あれ?
この子、さっき果物屋の前にもいなかった? いや、その前は水売りだった気がする。その前は、新聞売り……?
「全部同じ人!?」
「お、気づいた? いい目してるじゃん、お嬢様。もっとも、そっちの護衛さんには最初からバレてたみたいだけど」
「名を名乗れ」
アルの声が、低い。丁寧語がどこかに行っている。
「マーク。ただのマークだよ。名字なんて上等なもんはないんでね」
少年──マークは、アルの肩越しに、まっすぐ私を見た。
「なあ、お嬢様。ひとつだけ聞きたいんだけど。あんたが舞踏会で助けた騎士。あれ、俺の兄貴なんだ」
「……え」
「トマスっていう。森の討伐で魔物にやられてから、傷はふさがったのに、腕がずっと痛むって言っててさ。だんだん力も入らなくなって、夜もうなされてた。神殿に治癒を頼んだけど、金が足りないって断られた。あのままじゃ、もう剣も握れなくなるところだった」
金が足りないって、断られた。
その言葉が、胸に引っかかる。
「それがさ。舞踏会から帰ってきたら、きれいさっぱり治ってたんだ。兄貴、ぶつぶつ言ってたぜ。ピンクの髪の令嬢が、踊りながら触れていったって」
マークの笑顔が、ふっと消えた。
「──なんでだ?」
「え?」
「なんで助けたんだよ。貴族のお嬢様が、市民上がりの下っ端騎士を。一人だけ助けて、いいことした気になりたかったのか? それとも、自分が聖女だって見せつけたかったのか?」
緑の瞳が、じっと私を見ている。さっきまでの人懐っこさが嘘みたいに、冷たくて、鋭い。
「聖女ってのは、一人のために世界を捨てるやつのことだろ。うちのじいちゃんは、そうやって捨てられた」
路地裏が、しんとした。
私は、何を言えばいいかわからなかった。五十年前のことなんて、何も知らない。聖女がどうとかも、よくわからない。
だから、本当のことだけを言った。
「……そういうの、知らないよ」
「はあ?」
「聖女がどうとか、よくわかんない。ただ、あの人、すごく具合悪そうだったから。立ってるのもつらそうで、でも仕事中だから座れなくて。……だから、治せるなら治そうって思っただけ」
マークが、ぽかんと口を開けた。
「……それだけ?」
「それだけだけど……あ、あと、お兄さんの腕、もう痛くない? 一回じゃ取りきれてなかったら、もう一回やるから言ってね」
沈黙。
それから、マークが、ぶっと吹き出した。
「は、ははっ……なんだそれ。変な令嬢」
「変って言われた!?」
「言うだろ、普通。……護衛さん、もう放してくれよ。俺、何もしないって」
アルがちらりと私を見る。私がうなずくと、アルはしぶしぶという顔で手を離した。
マークは大げさに肩を回して、花屋のかごを拾い上げた。
「まだ信じたわけじゃねぇからな。聖女ってやつがどういうもんか、俺のこの目で確かめてやる」
「う、うん。どうぞ……?」
「どうぞってなんだよ。……あ、そうだ」
路地の入り口で、マークは振り返った。それから、さっきまでとは違う、ひどく真剣な声で言った。
「気をつけな。あんたを見てるのは、俺だけじゃないぜ」
え、と聞き返す前に、マークは人混みに消えていた。
私は、思わず空を見上げた。
路地裏をはさむ建物の、ずっと上。屋根のふちに、白い衣の裾が、ひらりと揺れて、すぐに消えた。
──神殿の、衣だった。




