第一部 女神スラーシュ
神殿は、王都のいちばん高い丘の上にあった。
真っ白な石の柱が、何本も空に向かって伸びている。入り口の大きな扉には、招待状の封蠟と同じ、羽を広げた小鳥の紋章が彫られていた。
「緊張している?」
隣で大叔母様が聞いた。
「ちょっとだけ……いえ、すごく」
「よろしい。緊張しているうちは、余計なことをしないものよ」
後ろで、アルが小さく咳払いをした。たぶん「お嬢様は緊張していても余計なことをします」と言いたいんだと思う。聞こえる。今日もすごく聞こえる。
◇
「ようこそお越しくださいました、ローゼンベルク嬢」
出迎えたのは、あの夜の法衣の男の人だった。
大神官、オルドヴィン様。
穏やかな声。穏やかな笑顔。どこからどう見ても、優しそうなおじいさんだ。
なのに、やっぱり、背中がぞわりとする。
「ヒルダ様までご一緒とは。これは光栄ですな」
「可愛い大姪の、初めての祝福ですもの。年寄りの楽しみを奪わないでくださるかしら」
「もちろんですとも」
にこにこ。にこにこ。
オルドヴィン様と大叔母様が、お互いに微笑み合っている。微笑み合っているのに、あいだで火花が散っているのが見える。鑑定の力じゃなくても見える。
オルドヴィン様の後ろには、銀髪のイザベラ様が控えていた。今日も、紫の瞳でまっすぐ私をにらんでいる。
……いや、よく見ると、ちょっと違うかもしれない。
にらんでいるというより、じっと観察しているような。
◇
祈りの間は、神殿のいちばん奥にあった。
高い天井に丸い窓があって、そこから光がまっすぐに差しこんでいる。その光の先に、一体の白い女神像が立っていた。
「この世界をお創りになった、女神スラーシュ様です」
オルドヴィン様の声が、遠くに聞こえた。
私は、像の顔を見上げていた。
長い髪。長い睫毛。少しだけ伏せられた目。つんとすましているのに、どこかやさしい口元。
知っている。
この顔を、私は知っている。
唐揚げをもぐもぐ食べて、「……おいしい」って目を細めた、あの顔だ。
「……つ」
声が、出かけた。
紬、と叫びかけた口を、私はあわてて両手で押さえた。だめだ。こんなところで女神様を知らない名前で呼んだら、絶対にまずい。
「つ……っ、くしゅんっ!」
しんと静まり返った祈りの間に、私のくしゃみがわんわんと反響した。
……我ながら、苦しい。
「おや。お風邪ですかな」
「神殿は冷えますものね。帰ったら、温かいお茶を飲ませますわ」
大叔母様が、顔色ひとつ変えずに言った。
オルドヴィン様は「それはいけませんな」と穏やかに笑った。けれど、その目はほんの少しだけ、細くなっていた。
後ろで、アルが小さく、本当に小さくため息をつくのが聞こえた。振り返らなくても、どんな顔をしているかわかる。たぶん、ものすごく遠い目をしている。
◇
「では、女神様の前にひざまずき、祈りを」
言われるまま、私は像の前にひざをついた。
祈り方なんてわからない。だから、心の中で、ただ呼びかけた。
──紬。いるなら、返事して。
その瞬間。
音が、消えた。
顔を上げる。天井の窓から差しこむ光の中で、空中を舞っていたちりが、ぴたりと止まっていた。
振り返ると、オルドヴィン様も、イザベラ様も、大叔母様も、アルも。みんな、まばたきの途中で固まっている。
時間が、止まっている。
女神像の後ろの白い壁が、ぼうっと光った。
光は四角く広がって、まるで映画館のスクリーンみたいになる。その形を見て、私は思った。
──携帯の画面だ。
半年間、毎晩布団の中でのぞきこんでいた、あの四角。
その中に、紬がいた。
制服じゃない。白銀色の長い髪をゆらして、白い光の衣をまとっている。光の加減で色の変わる瞳だけが、あのころのままだった。
『──久しぶり。咲良』
紬が、ふわりと笑った。
『いいえ。ここでは、サラね』
「……紬」
立ち上がろうとして、足がもつれた。
「紬! どゆこと!? 説明! 説明して! いきなり飛ばして、いきなり女神で、いきなり像で、もうわけわかんないんだけど!?」
『ごめんなさい。ちゃんと話すつもりだったのよ。でも、あのときは、あちらにいられる時間がもう少なくて』
紬は少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた。
『私はスラーシュ。この世界、ソラリスを創った者よ』
「……本当に、神様なんだ」
『ええ』
「名字なかったの、そのせい?」
『……そこ?』
紬が、きょとんとして、それから小さく吹き出した。その笑い方が中庭のベンチのときと同じで、なんだか泣きそうになった。
◇
『あなたがゲームだと思っていたものは、全部本物だったの』
紬は、静かに話し始めた。
『あなたが浄化した井戸の水を、本当に誰かが飲んでいた。あなたが植えた芋で、本当に誰かが冬を越した。それから、クエスト』
「クエスト……」
『あれは、この世界の人たちの祈りよ。「どうかこの子をお救いください」って、あのお母さんは、本当に私に祈っていたの』
東の村の男の子。「……おかあ、さん?」って、目を開けた子。
あの子は、今もどこかで生きているんだ。
『だから言ったでしょう。この世界は、あなたに何度も救われたって』
「……うん」
うなずいてから、私はずっと聞きたかったことを、ようやく口にした。
「ねえ、紬。……叔母さんたちは?」
紬は、すぐには答えなかった。
その沈黙で、わかってしまった。
『あちらの人たちは、もう、あなたを覚えていないわ』
やっぱり。
『いなくなったことを、悲しませないために。……ごめんなさい。勝手に決めて』
「……ううん」
首を横に振った。振ったつもりだったけど、うまく振れたかどうかわからない。
叔母さんは、優しい人だ。私がいなくなったら、きっと自分を責める。何がいけなかったんだろうって、ずっと。
だから、これでよかったんだ。
よかったんだけど。
「……私、まだ、ありがとうって言ってなかったのにな」
毎日のお弁当。甘い卵焼き。「前より、ちゃんと笑ってる」って言ってくれた声。
ぽた、と、床に涙が落ちた。止まった時間の中で、私の涙だけが動いていた。
『──届いているわ』
紬の声が、やさしく響いた。
『言葉ではない形だけれど。あなたがこちらへ来た日、あの人は、理由もわからずに泣いていた。……覚えていなくても、心のどこかが、ちゃんと受け取っているのよ』
「……そっか」
そっか。
私は、手の甲でごしごしと目をこすった。
◇
『サラ。もうあまり時間がないわ』
画面の中の紬が、少しだけゆらいだ。まるで、電波の悪いところで映る動画みたいに。
『この世界を守る結界が、ほころびはじめている。あの騎士の腕の瘴気も、そのせいよ』
「結界って……五十年前に、神殿が張ったっていう?」
紬の瞳が、ほんの一瞬だけ、悲しそうに揺れた。
『……そう、伝えられているのね』
「え?」
『サラ。強い力を持つ者の言葉を、そのまま信じすぎないで。あなたの目で見て、あなたの力で確かめて』
画面が、大きくゆらぐ。
「待って、紬! まだ聞きたいこといっぱい——」
『また会えるわ。ここで祈ってくれたら』
紬は、中庭のベンチで見せたのと同じ、やわらかい笑顔で言った。
『唐揚げ、おいしかったわ』
──ふっと、光が消えた。
◇
ちりが、また舞いはじめる。
どこかで、衣のこすれる音がした。止まっていた時間が、何事もなかったように動き始めていた。
「……祈りは、終わりましたかな」
オルドヴィン様の声。
慌てて顔をごしごしこすって立ち上がると、オルドヴィン様は穏やかに微笑んでいた。
「涙を流されるほど、女神様への祈りが深いとは。すばらしい」
「あ、ありがとうございます……」
大叔母様が、そっと私の背中に手を添えた。「もう帰りますよ」という合図だ。
礼をして、祈りの間を出ようとした、そのとき。
すれ違いざまに、オルドヴィン様が、私にだけ聞こえる声でささやいた。
「──また、いつでもお越しください。聖女様」




