10. 聖女伝説
観念して白旗を上げ、大人しくレニーお手製の焼きたてクッキーを味わっていた時だ。
頭の中に、突然音が流れ込んできた。
紅茶のカップに伸ばした手をぴたりと止めて、ともすれば地面に砂で描いた絵のように一息で消えてしまいそうなその感覚を慎重に追い掛ける。
そんな私を、レニーは不思議そうに見た。
「カゴネ、どうしたの?」
「?」
兄の言葉と漂う空気に何かを感じ取ってか、アリシアちゃんも戸惑うように小首を傾げる。
しかし申し訳ないが、私は頭の中を流れる音を追い掛けるので集中していた。少しずつ確かになっていくそれは、ラジオのチューニングが徐々に合っていくような感じに似ている。違うのは、砂嵐のような雑音がないことくらいだろうか。
微かに遠くから聞こえてくるようなそれは、複数の人の足音。時折聞こえてくる声は、誰かを気遣っているような穏やかな男性の声だ。
複数の人間。移動している。誰かを案内している―――?
―――その瞬間、私の中でアイデアロールのダイス音が響く。
「……ごめんレニー、ちょっと昨夜あんまり眠れなくて。少しだけ休ませて貰って良いかな?」
「あらそうなの?そう言えば、昨夜は床で寝てたんだものね。客間が一つあるから、そこを使って良いわ」
心配してくれるレニーには心苦しいが、勿論嘘である。しかしどうしても1人で集中させて欲しかった。
アリシアちゃんにも一言謝ってから、案内してくれるレニーに続く。ドアの向こうにあったのは、ベッドと棚と小さなテーブルが置かれた小部屋だった。
「ちょっと狭いけど、ベッドは昨日整えたばかりだから。掃除もしてあるけど、一応窓を開けておくわね」
「ごめん、ありがとう。お茶とクッキーは美味しかったから、後でまた貰えたら嬉しいな」
「ふふっありがとう。取っておくから、ゆっくり休みなさい。今朝から思ってたけど、貴女ちょっと顔色悪いもの」
社畜人生の賜物です。
自前の睡眠不足顔で苦笑いすると、レニーは小さく手を振って部屋を後にした。
さて。
ベッドに腰掛け、改めて集中する。音はより近く聞こえるようになってきた。
そしてすぐに、重厚な造りのドアを開けるような音がする。頑丈というよりも、単にしっかりとした造りのドアのようだ。そうまるで、貴族の屋敷やお城のような。
『こちらです、セリナ様』
『ありがとうございます』
穏やかな年輩男性の声に続いて、はっきりと聞き覚えのある声が響く。間違いない、芹奈ちゃんだ。ていうか名前呼ばれたし。
ようやく私は確信を持った。どうやらこれは、私と芹奈ちゃんのテレパシー能力の拡大バージョンのようだ。聞こえる範囲が、芹奈ちゃんの心の声のみから周囲のものまで拡張されている、と思われる。電話の拡声ボタンのような機能だろうか。
芹奈ちゃんに話し掛けたいが、周囲に人がいる状態でそれはマズいだろう。これが彼女自身の意思によるものかはわからないが、聖女として召喚されて翌日に案内される場所だ。きっと重要な話か何かがあるに違いない。
芹奈ちゃんには悪いが、私は流れてくる音声により深く耳をそばだてた。
* * *
「―――どうぞ、お掛けください」
広い廊下を通って案内された王城の一室、部屋の両端を背の高い本棚に挟まれたそこは執務室のようだった。高い天井に細長い窓。大きなテーブル……いや、作業机だろうか。磨き上げられたそれに備えられていた、緻密な彫刻を施した上等な椅子を勧められる。
素直に腰掛けて、部屋の中で待っていた人物を見上げる。
窓を背に立っていたのは、黒を基調とした服装を着こなした壮年の男性だった。厳かな雰囲気を持つその人は、白髪混じりの短い髪をオールバックにして、顎のラインに蓄えた髭から覗く口を真一文字に引き結んでこちらを見ている。
私が座ったことを確認すると、見た目の年齢の割に真っ直ぐ伸びた背筋の体をしっかりとこちらに向けて彼は口を開く。
「ようこそお出でくださいました、聖女様。私はこの国の宰相、ザイフォール・マティアスと申します」
「本庄芹奈、です……はじめまして」
厳しい雰囲気を持つザイフォールさんに気圧されて、緊張しながら言葉を選ぶ。ここに来ると聞いた時から不安だったけれど、ちゃんと話を聞いて籠音さんにも伝えないといけないんだから。頑張らないと。
でもやっぱり、籠音さんも一緒に聞けたら良かったのに。一緒にいて貰えたらそれだけで心が軽くなったかも知れない。
仕方のないことと諦めても、厳しい表情でこちらを見るザイフォールさんの顔を見返すとどうしてもそう思ってしまう。
内心でため息を吐きそうになった時、突然頭に声が流れる。
『ごめんね』
―――驚いて、固まる。
そんな私に、怪訝そうな瞳でザイフォールさんが尋ねた。
「どうかなさいましたかな?」
「あっ……いいえ!何でもないです」
慌てて取り繕う私の頭の中で、もう一度、ごめんと籠音さんの声が聞こえた気がした。
私は小さく息を吸い、ゆっくりと吐いて気持ちを落ち着ける。
そして真っ直ぐ、さっきよりもしっかりした面持ちでザイフォールさんを見つめた。
「お話というのは、何でしょうか」
さっきまでとは表情を変えて問い掛ける私に、どこか驚いたように小さな瞳を見開きつつ、ふむ、とすぐ元の表情に戻してからザイフォールさんは答える。
「そうですな……一から全てをお話しましょう」
失礼、と一声の後、仕事机だろう幾つかの本とペン立ての乗せられた席に腰を降ろしてから、改めて話を繋げる。少し距離があるけれど、ザイフォールさんの声はとてもよく響いて聞こえるものだった。
「まず我々が、貴女様を聖女と呼ぶことについてですが」
ザイフォールさんの切り出しに合わせ、部屋の隅に立っていた背の高い男性が何かを持ってくる。テーブルに広げられたそれは、かなり古いけれど綺麗に描かれた絵図だった。
「わぁ……」
「それは我が王国に伝わる、初代聖女様降臨の様子を描いたものです」
ザイフォールさんの説明を聞きながら、思わずその絵に見入ってしまう。緻密に繊細に、神々しささえ感じるようなその絵には、1人の若くて綺麗な女性と、彼女に跪く幾人かの人々が描かれていた。濃い焦げ茶色――もしかしたら描かれた当初は黒色だったのかも知れない――の、長い髪を靡かせて人々を見る女性の瞳は、慈愛の色に満ちているのがわかる。
「我が国に伝わる聖女伝説の始まりは、愚かにも国中を巻き込んだ内乱から端を発します。当時国を治めていた国王、バートリアムには2人の子がありました。1人は勇猛果敢にして次期国王とされた第一王子、マディアム。もう1人は妾腹ながらも、聡明な頭脳で兄を支えていた第二王子、サファン。この2人の兄弟が全ての悲運の火種となったのです」
絵図を持ってきた人が、女性の足元の最前列で跪く2人の男性を指す。金髪の方が第一王子、黒髪の方が第二王子のようだ。どちらも俯いていて顔はわからないけれど、着ている服は上等なものに描かれている。
「王妃の子と妾の子、という立場に別れど、2人の王子はそれは仲良く育っていったのだそうです。第二王子に野心はなく、また第一王子も腹違いの弟を心から信頼した。このまま2人が、互いに手を取り合って国を導いていくのだと誰もが思ったそうです」
でも、そうはならなかった。
話の流れを察して、私は絵図からザイフォールさんへと目線を向ける。
ザイフォールさんは頷いて、難しい顔で続きを語る。
「病を得てバートリアム王が亡くなり、王が生前示した通りにマディアム王子が王位を継ごうという時でした。ある貴族が、王直筆の遺言書があると言い出したのです。王の寝室から発見されたそれは、確かに王の筆跡と酷似していた。そしてその中には、マディアム王子ではなくサファン王子を跡目にするようにと書かれていたのです」
そこまで聞けば、後の展開は火を見るより明らかだ。そんなものが発見されれば、当人たちの気持ちがどうあれ、周りの貴族や権力者たちが黙っている筈がない。
まるで鉛でも飲み下したような重々しい声音で、その先の顛末が語られる。
「……国中が瞬く間に戦火に包まれました。サファン王子がどれ程遺言書の内容を否定しようが、マディアム王子が荒ぶる貴族たちを説き伏せようとしようが、その勢いは止められなかった。元々武勇に優れたマディアム王子よりも、政に明るいサファン王子が跡目に相応しいのではないかとも言われていたようです。そして発見された遺言書は、その争いの火種を一瞬にして業火へと変えた。国中のほとんどの貴族たちがマディアム王子派とサファン王子派に別れ、無益な争いを繰り返しました」
テーブルに広げられた絵図の上に、古いけれど大きな地図が乗せられる。歪な台形のような形をした国が、どうやらこのアイデムタル王国のようだ。幾つもある領地のどれもが、掠れた赤か青で塗り潰されている。
「それは当時のアイデムタル王国の地図です。赤い色がマディアム王子派、青い色がサファン王子派の領地となります。当時の貴族たちは、己の領地からそれぞれ私兵を投じて戦火を広げていきました」
その有り様に私は絶句した。もう少しわかりやすく東西とか南北に別れているのかと思っていたが、本当にあちこちの貴族が好き勝手にどちらかの王子を擁立して争っていたようだった。赤と青の斑模様で埋め尽くされた地図は、混沌と称するに相応しい様相を挺していた。
「……内乱は収まらず、寧ろ激化の一途を辿ったと言います。王位を継ぐ直前だったマディアム王子にそれらを諫めるほどの力はなく、サファン王子の声も彼を支持する貴族たちにすら届かなかった。失われる尊い命に、国は疲弊していくばかり。そんな折、事件は起こりました」
まだ何かあるのか、と重苦しい展開に怖々聞き入る。こうして王国は存続しているんだから内乱は収まったのだろうが、それでも結末はどうしても気になる。
「サファン王子が自害を図ったのです。自分さえいなくなれば争いの種も消える、と。サファン王子は心を深く病んでおりました。それに気付いたマディアム王子がサファン王子の元に駆け付けると、彼は既に瀕死の重傷を負っていました。あと数分もしないうちに弟の命は事切れるだろう、と悟ったマディアム王子は、それは目も当てられないほど取り乱したそうです。半狂乱で弟の名前を叫ぶマディアム王子の目に、その時ある物が飛び込んできました」
いやな予感がする、と頭の中で籠音さんが呻く。
「……サファン王子が自らを貫いた、バートリアム王から授かった王家の短剣でした」
籠音さんの予感は当たった。
「マディアム王子はそれを手に取り、せめて自分も後を追おうと刃を自らに向けたそうです。王子に追い付いてきたお付きの者らがそれを必死に止めようとしましたが、武人としても鍛えていたマディアム王子に敵う者など居りませんでした。とうとうお付きの者らを振り切り、自らの喉に短剣を突き刺そうとしたその時」
ザイフォールさんの言葉が途切れ、目の前にファサ、と桃色の何かが置かれる。何故だか懐かしさを覚えるそれが何だか明確に認識する前に、ザイフォールさんは衝撃の一言を告げた。
「突如現れた何者かが、マディアム王子の頬を思い切りひっぱたいたのです」
…………………………………………………………………………………………………………はぁ。
いきなりの展開に私は呆ける。もしかして今までの語りは昔話じゃなくて、壮大な創作話だったんだろうか。
けれどザイフォールさんは私の戸惑いに構わず、それまでと同じ調子で言葉を続ける。
「突如として現れたその女人こそが、初代聖女のチヨ様でした。どこからか現れて混沌とするその場を見たチヨ様は、一目で状況を理解するとまずマディアム王子を落ち着かせ、すぐにサファン王子の容態を看たとのことです」
精神分析(物理)。
茫然と呟く籠音さんの言葉が頭に響く。正直私も衝撃的です。
「誰が見ても助からないとわかるサファン王子の状態にチヨ様も肩を落とされ、せめて安らかに眠れるようにと王子の体を優しく抱き締めたのだそうです。
その時でした。サファン王子の体を柔らかな光が包み込み、周囲の者たち、チヨ様ご本人ですら茫然とされる中で、致命傷を負った筈のサファン王子がみるみるうちに回復されていったのです」
正しく聖女の奇跡。
なるほどと頷く私に、籠音さんも同調している気がする。
昔話とはいえ一安心した私は、そこで改めて目の前に置かれた桃色の何かに視線を落とした。
「それは、チヨ様が御降臨なされた時に身に纏われていた衣服だそうです。わが国で、大切に保管してきました」
きちんと綺麗に畳まれたそれは、大分色がくすんでしまっているが、桃色に緑の草の模様が描かれた着物だった。劣化の為かはわからないが、所々毛羽立っているような気がする。
「サファン王子の回復に涙を流して喜んだマディアム王子は、チヨ様にそれはそれは感謝なされたそうです。チヨ様も突然のことで混乱なされてはおりましたが、王城に招かれ現状を聞かされると、自分のことよりも先ずは国をどうにかせよと2人の王子を叱り飛ばされました」
肝っ玉母ちゃんだ。尻に敷かれる。
さっきからぼそりと洩らされる籠音さんの感想に苦笑いが洩れる。終わったことだしね。こっちが緊迫してもしょうがないしね。
「ほとんど全てが麻痺して機能していなかった王城の政を司る者たちを、チヨ様は片端から叱り飛ばして行かれました。お前たちがそんなことだから国が潰れる、男ならしゃきっとせよ、とのお言葉は今日に至るまで伝えられております」
駄目だ。シリアスは死んだ。悪いがもう笑うしかない。
「徐々に政の機能を取り戻していく王城の中で、マディアム王子とサファン王子も結束を新たになされました。自分たちがはっきりしないから国も安定しない。毅然とした態度で立ち向かわねば、と。
一方でチヨ様も、ご自身の身に宿った癒しの力に気が付き、戸惑っておられました。しかし世は内乱の真っ只中。この癒しの力はきっと必要になるだろう、と決断されたチヨ様は、例え自身の命を賭けることになろうとも、傷付いた人々を癒して回ると両王子に告げられたのです。サファン王子の命の恩人たるチヨ様に危険な真似はさせられない、とマディアム王子は大反対されましたが、助けてやったのだから我が儘くらい聞き入れろ、とのチヨ様の主張に最終的には折れる形となりました」
チヨ様ツヨイ。
「やがて徐々に収まっていく内乱の火に、チヨ様は自ら各領地へと足を運ばれて傷付いた兵や国民を癒して回りました。そして完全に戦火が収まる頃には、我が国にはおびただしたい血を吸い込んだ焦土が残るのみとなりました。
けれどチヨ様は申されました。まだ人がいる。人々が元気でさえいれば国はまた元通りになると。そのお言葉通り、チヨ様は戦火が収まった後も国中の人々を癒して回られました。
そして内乱が始まってから12年の月日が流れ、ようやく国は安定の兆しを見せ始めました。その頃になってようやく、チヨ様はご自身の身の上を明かされました。自分はヒノモトという国の生まれで、どうやってここに来たかはわからないがもう帰る場所はないのだと。
そんなチヨ様を、マディアム王子もサファン王子も快く国へと迎え入れました。既にチヨ様のことを知らない者などいないほど、異国から現れた聖女様のお話は復興に励む国民たちの支えになっておったのです」
テーブルに置かれた品々がそっと回収される。そして改めて置かれたものは、A5サイズほどの小さな絵画だった。
「それはチヨ様が我が国に迎えられて20周年の折、記念にと描かれたものです。中央の椅子に腰掛けておられるのがチヨ様、両脇に立たれておられるのがマディアム王子―――いえ、マディアム、サファン両陛下です」
えっ。
籠音さんと私、驚きの声が重なる。
「歴史上異例中の異例、2人の王子どちらもが王位を継がれたのです。もしまた2人のうちどちらかのみを王にと望む者が現れぬように、そして、1人で出来ぬことでも2人で成し遂げて国を導いて行こうと。
その橋渡しをされたのが、誰あろうチヨ様でございました。お2人がいがみ合えば諫め、迷うことあらば導かん。チヨ様は終生、それを全うなされました。
癒しの力で人々を救い、政には決して口を出さず、ただ2人の王が迷った時にのみその力になる。
それが初代聖女、チヨ様という御方だったのでございます」




