第九話 攻略不可だった推しに攻略されてます
アレンダート・イシュメリア王太子と、
スターフェルト伯爵令嬢マリアンネの婚約が正式に発表されたのは、
飛び級試験の合格から数日後のことだった。
王家からの発表はあっという間に学園中へ広がり、翌朝からマリアンネは、
これまでとは比べものにならないほどの視線を浴びることになった。
「おはよう、マリアンネ」
「おはようございます……」
生徒会室へ入ると、すでに来ていたアレンダートがいつもどおり声をかけてきた。
そこまではいい。
問題は、役員たちがちらちらとこちらを見ていることだった。
「……なんでしょう。みなさんの視線が……」
婚約が発表されたのだから仕方がない。
そう思っていたところで、副会長が改まった様子で声をかけてきた。
「スターフェルト嬢。このたびは、おめでとうございます」
「あ……ありがとうございます」
「やっとですね」
「……はい?」
マリアンネは瞬きをした。
「今、なんて?」
「やっとですね、と」
「やっと!?」
副会長の隣にいた役員も頷いた。
「正直、まだ婚約してなかったんだなと思ってました」
「そんなふうに見られてたんですかー!?」
「だって、会長はスターフェルト嬢を見つけたら必ず話しかけてましたし。
図書室にも急に通うようになりましたよね」
「そのうえ、生徒会にも引っ張ってきましたし」
一人が口を開くと、別の役員も続ける。
「毎日可愛いって言って、一緒に帰って、手も繋いでましたよね」
「近くでスケッチさせながら、ずっと見つめていたこともありましたし」
「やめてくださいー!! 過去ログを読み上げないでください!!」
マリアンネは真っ赤になって頭を抱えた。
そんなことまで全部見られていたのか。
いや、見られていた。同じ部屋にいたのだから当然だ。
知っていたはずなのに、改めて列挙されると破壊力が違う。
「殿下も何か言ってください! 否定とか!」
助けを求めて振り返ると、アレンダートは普通に書類を読んでいた。
「別に間違ってないだろ」
「味方がいない!」
「婚約者ならここにいるぞ?」
「そういう意味じゃありませんー!」
生徒会室に笑い声が広がった。
どうやら、マリアンネが思っていた以上に、
二人の関係はずっと前から周囲に筒抜けだったらしい。
◇
婚約したからといって、二人の関係が劇的に変わったわけではない。
アレンダートは相変わらず、マリアンネを見つければ声をかけ、
可愛いと思えば可愛いと言う。
一緒に帰りたければ誘い、手も繋ぐ。
そこへ、いつの間にか額へのキスまで追加されるようになった。
「マリアンネ」
「はい?」
生徒会室で、机の横に来た彼を見上げた瞬間、額にちゅ、と柔らかな感触が落ちた。
マリアンネの動きが止まる。
「今、なんでしました!?」
「したかったから」
「婚約前から何一つ理由が変わってないですー!」
アレンダートは楽しそうに笑った。
変わったのは、むしろマリアンネのほうだった。
ある日、王城での用事が長引き、彼がいつもより遅く生徒会室へ現れた。
「アレン様、お疲れさまです」
マリアンネは自分から立ち上がり、用意してあった茶を注いで彼の机へ運んだ。
「どうぞ。今日はお忙しかったんですよね?」
「ああ。少しね。ありがとう」
「でしたら、先にお茶にしてください。書類は急ぎではありませんから」
返事がない。
不思議に思って顔を見ると、
アレンダートは妙に嬉しそうにこちらを見ていた。
「……なんですか」
「最近、マリアンネのほうから来てくれるようになったなと思って。
前は俺が行かなきゃ来なかったのに、今ではお茶まで持ってきてくれる」
マリアンネの動きが止まった。
「……婚約者、なので」
小さく答えると、彼の笑みがさらに深くなる。
「その顔で見つめるのやめてください!」
「婚約者が可愛いこと言ってくれたのが嬉しくて」
「そういうことすぐ言う!」
「ちゃんと言わないと伝わらないだろ?」
「伝わりすぎるんですー!」
それでも、以前なら逃げるように自分の席へ戻っていたところを、
マリアンネは少し迷ってから、彼の隣の椅子へ腰を下ろした。
「……少し休んでから、仕事してくださいね」
「うん。隣にも座ってくれて嬉しい」
「……だから、いちいち言わないでください」
頬を赤くしながら、マリアンネはそのまま、お茶を飲む彼を見守った。
そんな小さな変化は、帰り道にも現れるようになった。
以前はアレンダートから手を差し出し、
マリアンネが騒いでから繋ぐのが定番だった。
最近は騒がずにその手へ重ねることも増えたが、
それでも最初に手を伸ばすのは、いつもアレンダートのほうだった。
けれど、ある日の夕方。
校舎を出たところで、マリアンネは隣を歩く彼の横顔をそっと見上げた。
「何?」
「……何でもありません」
そう答えながらも少しだけ迷い、そっと手を伸ばす。
指先が触れた途端、アレンダートが足を止めた。
「……何ですか。いつも繋ぐじゃないですか」
「今日はマリアンネから手を伸ばしてくれるんだなと思って」
「……嫌ならいいです」
恥ずかしくなって手を引こうとしたが、
その前にしっかりと握られ、指まで絡められた。
「嫌なわけないだろ。むしろ感動してる」
「そんな嬉しそうな顔しないでください」
「無理。ずっと俺からだったから。君から繋いでくれたの、すごく嬉しい」
繋いだ手を見下ろしながら、アレンダートが笑う。
そんなふうに言われれば、やっぱり恥ずかしい。
それでも今は、もうこの手を離したいとは思わなかった。
推しは遠くから愛でるものだと言い続けていたのに、
今では自分から、その手を取りにいっている。
人生とは、本当に分からないものである。
◇
季節が進み、冬。
空気はすっかり冷え込み、中庭の植え込みには朝に降った雪が少し残っていた。
生徒会を終えた二人は、いつものように並んで校舎を出た。
手は最初から繋いでいる。
もう、それについていちいち騒ぐこともなくなり、
以前アレンダートには「少し寂しい」とまで言われた。
「アレン様」
「ん?」
「……ちょっと、話しておきたいことがあるんです」
彼がこちらを見る。
いつもの調子ではないと気づいたらしく、からかうことなく尋ねた。
「今?」
「できれば、二人きりで」
「分かった」
中庭の奥にある小さなガゼボへ向かった。
この寒さでは利用する生徒もおらず、植え込みの陰になるベンチへ並んで座る。
風は幾分弱まったが、やはり空気は冷たかった。
「寒い?」
「少しだけ」
アレンダートは繋いでいた手を両手で包み込んだ。
「これでどう?」
「……暖かいです」
「よかった。それで、そんなに深刻な話なの?」
穏やかな声に促され、マリアンネは一度息を吸った。
「アレン様からしたら、かなり突拍子もない話だと思います」
「君の突拍子もない話には、だいぶ慣れたけど」
「まだまだ本領発揮してないです……」
「そこまで?」
「はい」
家族にも友人にも、ずっと話してこなかった。
この世界で打ち明けたのは、同じ転生者だったセラフィーヌだけだ。
けれど、この人とは卒業後に結婚する。
これからずっと隣にいるのなら、なぜ最初から彼を知っていたのか、
なぜあれほど遠くから見ていたのか。
その始まりを、隠したままにしたくなかった。
「……私、前世の記憶があるんです」
アレンダートが黙った。
マリアンネは、その表情を確かめながら続ける。
「今のマリアンネとして生まれる前に、
ここではない……別の世界で生きていた記憶があります」
「別の世界? それが、『推し』とかいう変な言葉と関係ある?」
「あります」
「なるほど」
「そこで納得するんですか!?」
「いや。やっと何か繋がりそうだなって」
「まだ序盤ですよ」
「続けて」
少しずつ話した。
前世では日本という国に住んでいたこと。
そこには、今とはまるで違う文化や技術があったこと。
そして、その世界には『恋の花咲くイシュメリア』というゲームがあったこと。
「通称、『こいはな』です」
アレンダートは数秒黙り、考えるように眉を寄せた。
「この国が舞台で、俺たちも出てくる?」
「はい。アレン様も出てきます」
「何をするゲームなの?」
「簡単に言うと、主人公の令嬢が学園生活の中で男性と恋をするゲームです」
説明を聞いた彼が、何とも言えない顔をした。
「フェルディナンドは?」
「攻略対象です。恋愛相手として選べます」
「なるほど。俺は?」
マリアンネは黙った。
「マリアンネ?」
「……攻略できませんでした」
「なんで?」
「それは、私が聞きたいですー!!」
思わず腰を浮かせかけた。
「アレン様、めちゃくちゃ人気があったんですよ!?
なのに攻略対象じゃないんです!」
「俺、人気だったんだ」
「大人気でした! フェルディナンド殿下のルートで主人公に助言したり、
いろいろ支えてくれたりして!」
「それで、君はそのゲームの俺が好きだった?」
「最推しでした!」
言い切ると、アレンダートは少し嬉しそうな顔をした。
「『アレンダート 隠しルート』って、何回検索したと思ってるんですか!」
「検索?」
「世界中の情報が集まってる、
ものすごく大きな図書館みたいなところで調べることです!」
「それで、隠しルートはあったの?」
「ありませんでした!!」
「それは、残念だったね」
「本当に残念でした! 作った会社に『アレン様を攻略させてください』って、
何回も何回も要望を送りましたから!」
アレンダートが笑い出した。
「笑わないでください!」
「いや。そこまでだったんだなと思って」
「それくらい大好きだったんです!」
「……そうなんだ」
マリアンネの手を包む彼の両手に、少しだけ力がこもった。
けれど、マリアンネが本当に話したかったのは、その先だった。
「後から発売された公式の設定資料集に、
アレン様の未来について書かれていたんです」
「俺の未来?」
「将来、イグナティア王国のセラフィーヌ王女と結婚するって。
とても素敵な結婚式の絵まであったんです」
マリアンネが視線を落とすと、アレンダートが小さく呟いた。
「なるほど。だからか」
顔を上げると、彼は妙に納得した様子だった。
「だから君は、最初から俺とどうにかなろうとは考えてなかったんだな。
自分が隣に立つのは全力で拒否して、俺にはふさわしい相手がいるって言って」
「……それも理由の一つでした」
「やっと分かった。マリアンネの行動が意味不明だった理由が」
「意味不明とかひどいです!」
「本当に分からなかったからさ」
「本人としては、ちゃんと筋が通ってたんです!」
「君の中でだけはね」
否定できなかった。
アレンダートは少し考えてから、次の問いを口にした。
「セラフィーヌ王女と急に親しくなったのも、その話が関係してるの?」
「……はい。セラフィーヌ様も、同じ記憶を持っていたんです」
「だから、交流競技会のあとに君の様子が変わったんだ。あの時何を聞いたの?」
「アレン様とは結婚しないって。すでに、ご自分の推しを捕獲してたので」
「……ブルクハルト騎士団長のこと?」
「そうです! 原作では四台詞しかなかったのに!」
「そこはよく分からないけど」
アレンダートが苦笑する。
そのあと少し間を置き、彼はマリアンネを見た。
「じゃあ、今は?」
「……え?」
「今、君が好きなのも、そのゲームの中の俺?」
マリアンネはゆっくり首を振った。
「違います」
それだけは、迷わなかった。
「最初は、前世で好きだったアレン様が本当にいるって、それだけで嬉しくて。
遠くから見て、元気そうなら幸せで、絵を描ければもっと幸せでした」
「うん。知ってる」
「でも、今は違います」
彼の手へ目を落とし、言葉を探した。
「図書室で一緒に勉強して、生徒会で仕事してる真面目なところとか、
甘いものが好きなこととか……疲れたらネクタイを緩めるところとか」
「よく見てるね」
「推しだったので」
「今は?」
「……婚約者です」
自分で言って、少し恥ずかしくなった。
それでも、話をやめようとは思わなかった。
「フェルディナンド殿下のことになると、普通のお兄さんみたいに呆れることも。
私が騒ぐと、楽しそうに笑うことも」
「それは楽しいからね」
「知ってます!」
笑いそうになりながら、マリアンネも今度は自分から彼の手を握り返した。
「私を見つけると、いつも声をかけてくれたこと。
何度逃げようとしても、ずっと好きだって伝えてくれたこと」
アレンダートが静かに聞いている。
「ゲームでは知らなかったアレン様をたくさん知って、
今ここにいるアレン様が好きです」
今度は、彼が黙った。
「……アレン様?」
アレンダートが、ほんの少しだけ視線を逸らした。
珍しい。本当に珍しかった。
「……それならいい」
「それだけですか?」
「今、かなり嬉しいから少し待って」
マリアンネは目を丸くした。
「処理落ちしてますか?」
「君ほどじゃない」
「アレン様でもするんですね」
「するよ」
そう言いながら、彼は包んでいた手を離し、ゆっくり腕を伸ばした。
抱き寄せられ、マリアンネも今度は自分から、彼の背中へそっと腕を回した。
「……ありがとう。話してくれて」
「はい」
「それと、ゲームの俺じゃなくて、今の俺を好きになってくれて」
耳元で、少し笑う気配がした。
しばらく、二人は何も言わなかった。
冷たい空気の中で、触れ合ったところだけが暖かい。
やがて、アレンダートが口を開いた。
「ところで、前世の君は俺を攻略したかったんだよな?」
「そこ拾います!?」
「何度も何度も要望を送ったんだろ?」
「送りましたけど!」
彼が少し身体を離し、楽しそうに笑う。
「念願叶ったってことだな」
「違います! 私が攻略されてる側ですー!!」
冬の中庭に声が響いた。
「確かに。落とすまで大変だったなぁ」
「堂々と言わないでください!」
アレンダートは笑い、マリアンネも最後にはつられて笑った。
前世にまつわる秘密を、ようやくこの人に話せた。
すべてをすぐに理解できたわけではないだろう。
それでも、彼は今までと同じように笑ってくれた。
胸の奥が少し軽くなり、二人の距離もほんの少し近づいた気がした。
二人はまた手を繋ぎ、ガゼボをあとにした。
◇
前世のことを打ち明けてから数日後。
放課後の生徒会室で、マリアンネは窓際に積まれた資料を整理していた。
ふと、中庭を横切る人影が目に入る。
「……あ」
「どうした?」
書類を確認していたアレンダートが顔を上げた。
「フェルディナンド殿下です。その隣にいる方……!」
彼も立ち上がり、窓辺へやってくる。
中庭では、フェルディナンドが一人の令嬢と並んで歩いていた。
男爵家の娘で、飛び級前のマリアンネと同じ学年。
原作ゲーム『恋の花咲くイシュメリア』の主人公、その人だった。
令嬢は魔術実習の教本らしきものを抱えていた。
フェルディナンドが何か言うと彼女が笑い、彼も見るからに嬉しそうな顔になる。
マリアンネの目が輝いた。
「アレン様。リアルこいはなです」
「……前に言ってたゲームの?」
「そうです! リアルこいはなが進行してます!」
もう隠す必要がない。それは非常に楽だった。
「彼女が原作の主人公なんです。原作でも、
魔術実習をきっかけにフェルディナンド殿下と親しくなるんですよ」
「へえ」
「一緒に勉強したり、放課後に話したりして」
「ああ。それなら最近よく見かけるな」
マリアンネは勢いよく振り向いた。
「どこで!?」
「図書室とか、訓練場の近くとか」
「なんでもっと早く教えてくれなかったんですかー!?」
「今初めて聞いたから。あの子がゲームの主人公だって」
「そうでした!」
そうだった。そもそも、今まで教えていなかった。
アレンダートは窓の外へ視線を戻した。
「この前も、フェルディナンドが勉強を教えてたよ。
途中からフェルディナンド本人も分からなくなって、
二人で教師に聞きに行ってたけど」
「解釈一致……!」
「何が?」
「そういうところです!」
マリアンネは胸元で両手を握った。
すごい。ちゃんと『こいはな』が進んでいる。
「フェルディナンド殿下、彼女のことが好きなんでしょうか……」
「たぶん、そうなんじゃないかな」
「たぶん!?」
「弟の恋愛事情なんて逐一確認してないからね」
「兄としてもう少し!」
「なんで君がそんなに必死なの」
「原作なので!」
アレンダートが呆れたように笑った。
窓の外では、フェルディナンドが令嬢の持っていた本を受け取り、
そのまま二人で校舎へ向かっていくところだった。
「……尊い」
「まだ言うの?」
「だって、リアルこいはなですよ……?」
しみじみと呟いてから、ふと大きな問題に気づいた。
「私、卒業したら続きが見られないんですよね……」
「え?」
「フェルディナンド殿下のルート、本格的に進むのは最終学年なんです。
原作だと、ここからさらに距離が縮まって、
彼女が身分差を気にして一度離れようとして、それを殿下が――」
そこまで言って、止まった。
「続きは?」
「フェルディナンド殿下の名誉のために伏せます」
「そこまで言われて隠されると気になるなあ」
「有名なイベントがあるんです! 見たい……」
「見に行くのは禁止ね。もちろんスケッチも駄目だよ」
「分かってますー!」
即座に釘を刺された。
「卒業したくないとか言い出さないよね?」
「そこまでしません! ただ、ちょっと残念です。
前世で何度も見た物語に似たことが、本当に目の前で起きてるんですよ?」
「なるほど」
「しかも、今の二人は自分で考えて、話して、ちゃんと笑ってるんです」
そう口にすると、胸の中の騒がしさが少し落ち着いた。
二人の背中は、もう校舎の陰へ消えかけている。
「幸せになってくれたらいいなって思います」
「そうだね。フェルディナンドがあの子を選ぶなら、俺は応援するよ」
「……アレン様らしいですね」
「そう?」
「はい」
マリアンネは笑った。
そして、その日の夜。
『セラフィーヌ様!!』
数秒後、通信石に返事が浮かんだ。
『何?』
『リアルこいはなも順調です!!』
『詳しく!』
「食いつきが早い!」
いそいそと筆を取る。
『今日、フェルディナンド殿下と原作ヒロインが一緒に歩いてました』
『距離は?』
『近かったです』
『表情は?』
『フェルディナンド殿下、めちゃくちゃ楽しそうでした』
『それはもう、ルート入ってるわね』
『ですよね!?』
そこまで書いてから、先ほど気づいた問題も伝えた。
『でも、もうすぐ卒業なので、最終学年のリアルこいはなが見られません』
『そこを残念がってるの?』
『本格的に動くのはここからなんですよー!』
『卒業後に学園へ観測しに行くのは禁止よ』
『アレン様にも同じこと言われました!!』
『当然ね』
『壁ドンイベント……』
『諦めなさい』
マリアンネは小さく唸った。
少しすると、また文字が浮かぶ。
『ところで、あなたの攻略対象外ルートのほうはどうなの?』
筆が止まった。
『婚約者です』
『知ってる。恋愛の進展度を聞いてるのよ』
『聞かないでくださいー!!』
その夜も、通信石の向こうでセラフィーヌが笑っている気がした。
◇
冬が過ぎ、春が近づく頃、
マリアンネは飛び級した最終学年の課程を無事に終えた。
無事に、という表現では少し足りないかもしれない。
年度最後の成績が掲示された朝、
彼女は掲示板を見上げたまま、しばらく動かなかった。
一位、マリアンネ・スターフェルト。
二位、アレンダート・イシュメリア。
「……首席?」
「首席だね」
隣でアレンダートが頷く。
「私、飛び級したんですよ? 最終学年の範囲、途中から詰め込んだんですよ?」
「一緒に勉強したから知ってるよ。すごいな。さすがマリアンネ」
あまりにも素直に言われ、思わず横を見た。
「……悔しくないんですか? アレン様、次席ですよ?」
「そうだな。二位だな」
「私に負けてますよ?」
「負けたけど、婚約者が首席なら普通に嬉しいだろ」
本当に、何とも思っていないらしい。
むしろアレンダートは、嬉しそうに笑っていた。
「よく頑張ったな」
「そうやってすぐ褒める……!」
「褒めるところだろ。飛び級して、それでも首席なんだから」
「……ありがとうございます」
小さく答えた。
首席だったことも嬉しい。
それ以上に、この人が努力をちゃんと見ていてくれたことが嬉しかった。
以前なら、遠くから推しの成績を眺めて、
今年もすごいと勝手に喜んでいただけだった。
今は隣で同じ掲示板を見ている。
その一番上には、自分の名前と彼の名前が並んでいた。
「……なんか不思議ですね」
「何が?」
「いえ、何でもありません」
マリアンネは少し笑った。
◇
卒業式まで、残すところ一か月ほど。
生徒会の仕事も少しずつ引き継ぎが始まり、
二人がここで過ごす時間も残り少なくなっていた。
そんなある日、アレンダートが書類を閉じた。
「そうだ、マリアンネ。卒業祝賀会のことなんだけど」
毎年、卒業式の夜には盛大な祝賀会が開かれる。
今年はアレンダートが卒業することもあり、王族や高位貴族の出席も多いらしい。
マリアンネも、王太子の正式な婚約者として、
彼のエスコートを受けることになっていた。
「祝賀会のドレスは俺が贈るから」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えます」
婚約者からドレスを贈られること自体は、珍しいことではない。
問題は、その婚約者がアレンダートだということだった。
「……あの、できれば普通の、あまり目立たないものでお願いしますね」
そこで、なぜか彼が黙った。
「……今、なんで黙ったんですか?」
「別に」
「嫌な予感しかしないんですけど!?」
「気のせいだよ。マリアンネに似合うものを作ってもらうから」
絶対に気のせいではない。
しかし、この時点でマリアンネにできることは、
アレンダートの良識を信じることだけだった。
◇
翌日には仕立て師が伯爵邸を訪れ、採寸と仮縫いの確認が行われた。
色や装飾について尋ねても、
「完成までは、楽しみにお待ちください」
と教えてもらえないまま時間は流れ、卒業式まで残すところ一週間となった。
そんなある日、スターフェルト伯爵邸へ、王家の紋章が入った大きな箱が届いた。
マリアンネは自室で、その箱を見つめていた。
「お嬢様、開けますね」
「……お願いします」
侍女が蓋を外し、薄紙を取り除く。
現れた色を見た瞬間、マリアンネは固まった。
深く、鮮やかな赤。
派手すぎないのに、一目で目を引く美しい色だった。
知っている。というか、毎日のように見ている。
「アレン様の髪の色だ……」
侍女がにこりと笑った。
「そうですね」
「そうですね、じゃないです!」
仮縫いでは形しか確認していなかったため、
完成したドレスを見るのはこれが初めてだった。
全体は上品な王宮向けの仕立てで、胸元や裾には繊細な刺繍が施されている。
さらに、傍らに添えられていた小箱を侍女が開けた。
中にはネックレス、イヤリング、髪飾りが収められている。
使われている宝石は、深い紫紺だった。
「アレン様の目の色までー!?」
マリアンネの叫び声が部屋に響いた。
濃い赤に、紫紺。
どう考えても、完全にアレンダート仕様だった。
「殿下のお色で揃えられておりますね」
「分かってます!」
「とてもお似合いになると思います」
「そういう問題じゃないんですー!」
これを着てアレンダートにエスコートされれば、
祝賀会の出席者全員へ「この人はアレンダート殿下の婚約者です」と、
視覚的にはっきり宣言するようなものではないか。
マリアンネは改めて深紅のドレスを見下ろした。
普通のものでお願いしますと言ったはずなのに。
いや、デザイン自体は上品だ。
露出が多いわけでも奇抜なわけでもなく、
ドレスとしてはごく正統派の美しい仕上がりである。
ただし、色が、ものすごく婚約者だった。
「……絶対わざとですよね。アレン様」
◇
翌朝、生徒会室へ入るなり、マリアンネはアレンダートの机まで一直線に向かった。
以前なら、絶対に自分からこんなふうに近づかなかっただろう。
けれど今は、そんなことを気にする余裕もない。
「アレン様! ドレス届きました!」
「よかった。どう? 気に入った?」
「すっごく綺麗で素敵でした! でも、そうじゃなくて!」
勢いよく机へ両手をつき、マリアンネはアレンダートを見据えた。
「なんで全部アレン様色なんですか!?」
「婚約者だからね」
「理由になってません! あまり目立たないもので、とお願いしたのに、
めちゃくちゃ目立つじゃないですかー!」
「婚約者の色をドレスや装飾品に取り入れるのは定番だろ?」
悪びれる様子もなく返され、マリアンネは言葉に詰まる。
そんな彼女を見て、アレンダートは楽しそうに笑った。
「嫌だった?」
「……嫌じゃないですけど」
「じゃあ、着てくれる?」
「……着ます」
答えた途端、彼の笑みが深くなる。
「楽しみだな。絶対似合うと思う」
「まだ見てもないのに、なんでそんな言い切れるんですか」
「君に似合うように作ってもらったから。早く見たいな」
また、そんなことを何でもないように言う。
「だから、そういうことを普通に言わないでくださいー!」
アレンダートは声を立てて笑った。
卒業祝賀会の夜、
遠くから見ているだけでいいと思っていた王子の色を身にまとい、
その本人の腕を取って会場へ入る。
十六歳で王立学園へ入学した日のマリアンネには、
想像することもできなかった未来が、もうすぐそこまで来ていた。




