第十話 推しの色をまとった私と、私の色をまとった推し
卒業祝賀会当日、マリアンネは自室の鏡の前で固まっていた。
深い赤を基調としたドレスには、胸元や裾に繊細な刺繍が施され、
身じろぎするたびに布地が柔らかく光を返す。
耳元と首元、そして髪には、深い紫紺の宝石が輝いていた。
どう見ても、アレンダート色だった。
「……やっぱり、すごいですね」
何度見ても、婚約者感が強い。
「とてもお似合いですよ、お嬢様」
「ありがとうございます……」
今日は眼鏡もない。
せっかくの正式な祝賀会なのだからと、
母と侍女たちに勧められ、外すことにしたのだ。
その代わり、先ほど視力を一時的に補正する魔術薬を目に差してもらった。
効果は数時間ほどで、普段使いするには高価なうえ目も疲れやすいため、
こうした特別な日に使われるものらしい。
おかげで鏡の中の自分も、いつも以上にはっきり見える。
明るいベージュの髪は丁寧に結い上げられ、
普段はレンズの奥にある碧い瞳が、そのまま露わになっていた。
「……落ち着かないです」
「とてもお綺麗です」
「それが落ち着かないんです……」
普段なら眼鏡という壁がある。
今日はそれがないうえに、この格好でアレンダートの隣を歩くのだ。
考えただけで、もう帰りたい。
いや、まだ家だった。
今日は卒業祝賀会であり、正式な婚約者として、
アレンダートとともに大勢の賓客へ挨拶する日でもある。
部屋に引き返して閉じこもるわけにはいかなかった。
「お嬢様。殿下がお迎えにいらっしゃいました」
「……もう? 心の準備が……」
「十分なさっていたかと」
「してませんー!」
していたつもりだった。
けれど、実際に来たと言われた途端、全部吹き飛んだ。
◇
侍女にドレスの裾を整えてもらいながら階段を下り、玄関広間へ向かう。
そこに待っていたアレンダートの姿を見て、マリアンネは足を止めた。
同時に、こちらを振り返ったアレンダートも動きを止める。
「……マリアンネ」
「な、なんですか?」
すぐには返事がなく、紫紺の瞳がマリアンネのドレス姿をゆっくりと見つめた。
その視線に耐えきれず、思わず身じろぎする。
「やっぱり眼鏡してきたほうがよかったですか……?」
「いや。すごく可愛い」
「……っ」
「ドレスも似合ってる。髪も綺麗だし、今日はいつも以上に目が離せないな」
「い、いきなりそれ言うのやめてください!」
顔が熱くなり、思わず視線を逸らす。
その拍子に、改めてアレンダートの姿が目に入った。
そして今度は、マリアンネが固まった。
いつもの王太子らしい濃色ではなく、柔らかな明るいベージュ。
さらにタイピンやカフス、胸元の飾りには、鮮やかな碧色の石が使われている。
見覚えがあるどころではない。
「……アレン様」
「うん?」
彼がこちらを見て笑う。
マリアンネは改めて、頭の先から足元までその姿を見た。
「全身、私の色じゃないですかー!?」
玄関広間に声が響き、アレンダートが笑った。
「ああ、気づいた?」
「気づきますよ! 服の色も、装飾品の色も、
全部私の髪と瞳の色じゃないですか!」
「婚約者だから。君も俺の色だろ?」
「それはアレン様が贈ったからこうなったんでしょう!」
「そうだな。俺も君の色をまといたかったからこうした」
「だからって全身そうする必要あります!?」
抗議しても、彼は当然のような顔をしている。
「俺たちが婚約者だって、分かりやすいだろ」
「もう正式発表されてますー! 視覚情報まで追加しなくていいです!」
楽しそうに笑っていたアレンダートの視線が、ふとマリアンネの顔で止まった。
「……やっぱり、眼鏡のままでよかったかも」
「なんでですか!?」
「目立つから」
「今さらですー! 今日は祝賀会なんです!」
「分かってる」
彼が一歩近づき、マリアンネの碧い瞳をじっと見つめた。
「でも、やっぱり可愛いな。すごく似合ってるよ」
何も返せなくなったところへ、さらに続ける。
「俺の色もね」
「そういう言い方しないでください!」
「なんで?」
「恥ずかしいからです!」
「俺は嬉しいけど」
「知ってます!」
アレンダートは笑いながら手を差し出した。
「じゃあ、行こうか。足元、気をつけて」
マリアンネはその手を見た。
以前なら、ここで固まってあれこれ考え、ようやく取っていただろう。
今は少し息を吐くだけで、自分から重ねることができる。
「……お願いします」
「うん」
彼の表情が分かりやすく緩んだ。
「その顔やめてください」
「無理。マリアンネから手を取ってくれるの、まだ嬉しいから」
言わなくても分かるのに。
この人は、本当に全部言う。
◇
卒業祝賀会の会場は、王立学園最大の大広間だった。
高い天井から吊るされた魔導灯が、会場全体を柔らかく照らしている。
卒業生や在校生、教師に加え、招待された王侯貴族たちも集まっていた。
そこへ、王太子アレンダートと婚約者のマリアンネが姿を見せる。
ざわりと、会場の空気が揺れた。
視力を補正しているせいで、こちらを振り返る人々の表情まで妙にはっきり見える。普段なら見えなくて済んだものまで見えてしまい、マリアンネは小さく息を呑んだ。
「……すごく見られてますよね」
「そうだな。王太子とその婚約者なんだから、目立つだろ」
「他人事みたいに言わないでください!」
「俺は慣れてる」
「私は慣れてません!」
しかも今日の二人は、嫌でも目立つ。
赤と紫紺をまとったマリアンネに、
明るいベージュの礼装へ碧の装飾を配したアレンダート。
互いの色を身につけて並べば、誰が見ても婚約者同士だと分かる。
「絶対、みんな色のことに気づいてますよね……」
「婚約者同士なら多かれ少なかれお互いの色をまとうだろ?
全身お互いの色はあまりいないかもしれないけど」
「確信犯……!」
抑えたつもりの声が少し大きくなり、近くからくすくすと笑い声が聞こえた。
完全に聞かれている。
マリアンネが小さくなると、アレンダートは少し声を落とした。
「さっきも言ったけど、よく似合ってるよ。君が俺の色を着てくれるの、嬉しい」
また、何も言えなくなる。
「だから俺も、君の色を着たかった」
いつだって、この人は真っ直ぐだ。
そんなふうに言われると、もう反論できない。
「……もう」
「どうかした?」
「何でもありません」
マリアンネは彼の腕に添えた手へ少し力を込め、自分からほんの少し身を寄せた。
◇
祝賀会が始まってしばらくすると、楽団が曲を奏で始めた。
中央の人の輪が開き、何組もの男女がフロアへ出ていく。
それを見ていたマリアンネの前にも、すっと手が差し出された。
「マリアンネ。踊ろう」
来た。
分かっていた。卒業祝賀会なのだから、当然ダンスはある。
しかも自分は王太子の正式な婚約者で、今日のエスコート相手でもあるのだ。
「どうした? 嫌?」
「嫌ではないです。……踊ります」
そう答えて手を重ねると、アレンダートは満足そうに笑い、
そのままマリアンネをフロアへ導いた。
周囲から再び視線が集まる。
なるべく意識しないよう姿勢を整えたところで、腰へ彼の手が添えられた。
「緊張してる?」
「少しだけです。でも、大丈夫です」
一度深く息を吸い、曲の拍に合わせて足を踏み出す。
そこからは、身体に染み込んだとおりだった。
幼い頃から習ってきた基本のステップを踏み、姿勢を崩さず相手の動きを感じる。
アレンダートの導きは分かりやすく、足元を確認しなくても迷うことはない。
ターンを終えて再び距離が縮まると、彼が少し意外そうにこちらを見た。
「……ちゃんと踊れるんだな」
「私のこと、なんだと思ってたんですか。これでも伯爵令嬢ですよ?」
小声で抗議すると、アレンダートが楽しそうに笑う。
「いや。俺と踊るなら、もう少し騒ぐかと思って」
「踊りながら騒げません!」
「今もそれなりに騒いでるけど」
「誰のせいですか!」
周囲から見れば、王太子と婚約者が
穏やかに言葉を交わしながら優雅に踊っているように見えるのだろう。
たぶん。きっと。
今日くらいは、完璧な婚約者として踊りきるつもりだった。
「でも、本当に平気なんだな」
「何がです?」
アレンダートが少しだけ顔を寄せた。
「俺と、こんなに近いの」
そこで意識してしまった。
腰に添えられた手。
自分の手を取る指。
少し顔を上げれば、すぐそこにある紫紺の瞳。
礼装姿の最推しが、自分だけを見ながら、こんな距離で踊っている。
「……っ」
「マリアンネ?」
「今それ意識させないでください……!」
途端に足が乱れた。
「危ない」
腰を支えられ、崩れかけた姿勢が戻る。
アレンダートは何事もなかったように次のステップへ導いた。
「さっきまで上手だったのにな」
「アレン様が余計なことを言うからです!」
「ごめん。でも、そんなマリアンネも可愛い」
「これ以上追い打ちかけないでください! 足踏んでしまいますよ!」
必死に立て直しながら睨むと、彼はまだ笑っている。
絶対にわざとだ。
「……もう喋らないでください。集中できません」
「分かった」
今度は素直に引き下がった。
そこからしばらく、二人は本当に何も言わず、曲に合わせて踊った。
マリアンネも次第に落ち着きを取り戻し、彼の動きに合わせて足を運ぶ。
回って、離れて、また手を取り、近づく。
不思議だった。
前世では画面の向こうでしか見られず、
転生してからも遠くから眺めるだけでいいと思っていた人。
その人と今、同じ曲に合わせ、歩調を重ねて踊っている。
最後のターンを終えて顔を上げると、アレンダートと目が合った。
「……本当に上手だな」
今度は、からかう声ではなかった。
「ありがとうございます」
「今日、マリアンネと踊れてよかった」
また、そうやって真っ直ぐ言う。
マリアンネは少し視線を落としたあと、小さく笑った。
「……私も、アレン様と踊れて嬉しかったです」
アレンダートの表情が、分かりやすく柔らかくなる。
「そっか」
「そんな嬉しそうな顔しないでください」
「無理。マリアンネが自分から言ってくれるの、まだ嬉しいから」
最後の音が響き、二人は足を止めた。
アレンダートが優雅に一礼し、マリアンネも礼を返す。
拍手の中で顔を上げると、また目が合った。
「もう一曲踊る?」
「少し休ませてください!」
「じゃあ、またあとでな」
「……はい」
答えてから、マリアンネはふと気づいた。
もう一度この人と踊ることを、当たり前のように受け入れている。
以前の自分ならしなかった返事が少し照れくさくて、マリアンネは小さく笑った。
◇
その後、何人もの賓客と挨拶を交わすうちに、
マリアンネも少しずつ余裕を取り戻していた。
「おめでとうございます」
そう言われるたび、最初は緊張した。
けれど、隣にはずっとアレンダートがいる。
話に詰まりそうになれば自然に助けてくれるし、
マリアンネ自身が話せる相手には、黙って任せてくれた。
必要以上に庇われないことも、心地よかった。
挨拶が途切れたところで、彼がそっと尋ねる。
「疲れた?」
「少しだけ。でも、まだ大丈夫です」
「分かった。疲れたら遠慮せず言って」
そう言って、アレンダートはまた柔らかく笑った。
こうして近くにいるようになってから、
ゲームでは知らなかった彼をたくさん知った。
画面の中では、もっと隙のない、完璧な王子に見えていた。
けれど、本当のアレンダートは疲れることもあれば、楽しそうに笑うこともある。
弟に呆れたり、甘いものを好んだりもする。
そして今は、こうして自分のことを気にかけ、柔らかく笑ってくれる。
そんな一つ一つを知るたびに、ゲームの中の『推し』ではなく、
目の前にいるアレンダートを少しずつ好きになっていったのだと思う。
そんなことを考えながら、いつの間にか彼の横顔をじっと見つめていたらしい。
「……マリアンネ。俺のことまた描きたくなってる?」
「ちょっと」
「今日はさすがにスケッチブック持ってきてないだろ」
「脳内保存するので大丈夫です」
「なんだそれ」
二人で少し笑った。
そのとき、近くを通りかかったフェルディナンドの姿が目に入った。
彼は少し先にいる例の男爵令嬢へ声をかけ、
振り返った彼女に、ぱっと顔を明るくした。
迷う様子もなく、そのまま彼女のもとへ歩いていく。
「……あ、リアルこいはなです……進行してる……」
「そうみたいだね」
「尊い……」
「婚約者の隣で、その弟の恋愛を見て尊いって言うのやめてくれる?」
「だって!」
「マリアンネが見るのはこっち」
腰に軽く腕を回され、マリアンネは小さく声を上げて、アレンダートを見上げた。
「急に触らないでください!」
「婚約者だからいいだろ」
「万能理由みたいに使わないでくださいー!」
◇
夜も更け、祝賀会が終わりに近づいた頃、
マリアンネは会場の端でアレンダートと並んで立っていた。
華やかな大広間に、笑い声と音楽が満ちている。
隣には、深紅の髪をした王子がいた。
かつては、同じ空間にいられるだけで幸せだった。
遠くから姿を見られれば、それだけで一日嬉しかった。
そんな人の隣に、今は自分がいる。
自分の色をまとった彼と、彼の色をまとった自分が、
婚約者として堂々と並んでいるのだ。
「……アレン様」
「ん?」
マリアンネは少し笑った。
「今でも、ちょっと信じられないんです。こうしてアレン様の隣にいることが。
最初は、遠くから見ているだけでいいと思ってたのに」
「今はどう?」
「……今は」
そっと彼の手を取る。少しだけ勇気を出して、そのまま顔を上げた。
「ここにいたいです。アレン様の隣に」
アレンダートは少し目を見開いたあと、柔らかく笑って指を絡めてくれた。
「うん。ずっと隣にいて」
「……はい」
遠くから愛でるだけだった推しが、今は手を伸ばせば触れられる距離にいる。
もう彼は、ただ眺めているだけの『推し』ではなかった。
婚約者であり、これから人生を一緒に歩いていく人だった。
――なお、婚約が成立すると同時に、
王太子殿下は着々と結婚式の準備まで進めており、
卒業からわずか二週間後には花嫁になることを、
このときのマリアンネはまだ知らなかった。




