第六話 推しを捕獲していた王女様
イシュメリア王立学園と、隣国イグナティア王国の王立学園との間で行われる魔術交流競技会。
毎年交互に会場を移して開催されるこの催しは、単なる学生同士の親善試合ではない。
若い魔術師たちが交流し、両国の魔術教育の成果を披露するとともに、
将来国を支える世代同士の関係を築く重要な外交行事でもあった。
今年の会場は、イシュメリア王立学園。
そのため生徒会も、数週間前から準備に追われていた。
「受付名簿、最終確認できました」
「来賓用の控室は?」
「そちらも問題ありません。案内係には、今朝もう一度動線を確認してもらいました」
マリアンネの報告を聞きながら、アレンダートは手元の資料に次々と確認済みの印をつけていく。
「競技場側は?」
「来賓の移動経路と、フェルディナンド殿下たち出場者が使う経路は分けてあります」
「よし。さすがだな、マリアンネ」
「ありがとうございます」
最近では、仕事中に褒められる程度なら普通に受け止められるようになった。
――仕事中なら。
「今日も可愛いし」
「仕事に関係ないことを混ぜないでください!」
やっぱり無理だった。
近くにいた副会長が、何も聞かなかったことにするように黙って書類へ視線を落とす。
もはや最近の生徒会室では、珍しくもない光景だった。
「事実だろ」
「今それを言う必要あります!?」
「思ったから」
「もう!」
マリアンネは逃げるように資料を抱え直し、そのまま来賓受付へ向かった。
背後から、アレンダートが笑っている気配がする。
絶対に楽しんでいる。
とはいえ、今日はいつものように相手をしている場合ではなかった。
イグナティア王国。
その名前を意識するだけで、マリアンネの胸には仕事とは別の緊張が生まれる。
今回の魔術交流競技会には、隣国の王族も視察に訪れることになっていた。
そして今年、イグナティア側の王族代表として来校するのが、
セラフィーヌ・イグナティア王女である。
その名を思い浮かべると、自然と足取りが鈍った。
もちろん、知っている。
前世で何度も目にした名前も、その顔も。
なにせ、彼女は公式設定資料集でアレンダートの未来の結婚相手とされていた人物だ。
白銀の髪に金色の瞳を持つ、気品に満ちた美しい王女。
アレンダートと並んだ結婚式の一枚絵は、本当に息を呑むほど綺麗だった。
推しが自分ではない誰かと結ばれることが悔しかったはずなのに、
あまりにも幸せそうに笑っているものだから、結局は泣きながら眺めていた。
そして後日、保存用と観賞用を分けるために、設定資料集をもう一冊買った。
――落ち着け、私。今日は仕事だ。
公式で未来の花嫁になるはずだった人を、生で見る。
そう考えるとどうしても緊張してしまうが、だからといって挙動不審になるわけにはいかない。
それに、今の自分とアレンダートの関係は、
前世で知っていたゲームの設定とは、すでに大きく違っている。
『俺が君のことを好きだからだけど?』
『君と二人でいたいから』
『今日は嬉しかった』
最近になって向けられた言葉が次々と蘇り、マリアンネは思わず胸元へ手を当てた。
――駄目。
今は考えるときではない。
今日は仕事。
セラフィーヌ王女が来る。
今は、それだけに集中しよう。
◇
正門前には、生徒会役員と教師、それに王家から派遣された迎賓担当者たちが並んでいた。
アレンダートは王太子として列の中央に立ち、少し離れた場所には、
出場者を代表するフェルディナンドの姿もある。
やがて、イグナティア王国の紋章を掲げた馬車が、ゆっくりと正門をくぐってきた。
「来た……」
マリアンネは思わず小さく呟いた。
馬車が止まり、控えていた騎士が扉を開く。
その奥から姿を現した女性を見た瞬間、マリアンネは息を呑んだ。
陽の光を受けた白銀の髪は、ほとんど白に近い輝きを放っている。
丁寧に結い上げられた髪には、イグナティア王家の紋章を意匠化した髪飾り。
鮮やかな金色の瞳と整った顔立ちは華やかでありながら、ただ美しいだけではない。
王女として生まれ育った者ならではの、自然な気品と威厳があった。
――綺麗。
前世で何度も見た立ち絵よりも、設定資料集に載っていた一枚絵よりも、ずっと。
「……すごい。生セラフィーヌだ……」
思わず漏れた声に、隣にいた役員がちらりとこちらを見たが、マリアンネはまったく気づかなかった。
馬車を降りたセラフィーヌが、歓迎の列に沿ってこちらへ近づいてくる。
その姿を夢中で目で追いながら、さらにぽつりと呟く。
「スチルより綺麗……眼福……」
その瞬間、セラフィーヌの視線がまっすぐこちらへ向き、目が合った。
マリアンネは思わず固まる。
――まずい。今の、聞こえた?
小声だったうえ、まだ少し距離もある。
きっと聞こえていない。そう思いたかった。
けれど、セラフィーヌの金色の瞳がはっきりと見開かれた。
「……スチル?」
どうやら、聞こえていたらしい。
一気に血の気が引いたマリアンネだったが、セラフィーヌの反応は予想していたものとは違っていた。
不審そうに眉をひそめるでも、無礼を咎めるでもない。
ただ、まるでここにいるはずのない何かを見つけたように、驚いたままこちらを見つめている。
「……もしかして、あなた……」
「え?」
セラフィーヌが何かを言いかけた、そのときだった。
アレンダートが一歩前へ出る。
「セラフィーヌ王女殿下」
正式な歓迎の声をかけられた途端、セラフィーヌの表情から先ほどまでの驚きが消えた。
すぐさま王女らしい微笑を浮かべ、優雅にアレンダートへ向き直る。
「お久しぶりです、アレンダート殿下。このたびはお招きいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。遠路お越しいただき感謝します」
完璧な礼儀で言葉を交わす二人を見ているうちに、マリアンネの胸の奥がほんの少しだけ痛んだ。
濃い赤髪のアレンダートと、白銀の髪を持つセラフィーヌ。
設定資料集で見た一枚絵とは服装も年齢も違うのに、
こうして同じ場所にいる姿は、やはり驚くほど絵になる。
――そっか。この二人が、いつか。
そう思ったところで、不意にアレンダートと目が合った。
マリアンネの表情に何かを感じ取ったのか、彼はわずかに眉を寄せる。
けれど今は来賓を迎えている最中だ。
何も言わないまま、すぐにセラフィーヌへ視線を戻した。
その一方で、セラフィーヌもまた完璧な王女の微笑を崩さず、
ときおり確かめるようにマリアンネへ視線を向けていた。
◇
歓迎の挨拶が一通り終わり、来賓たちが順に学園内へ案内されていく。
マリアンネも自分の持ち場へ戻ろうとした、そのときだった。
「そちらの方。あなた、生徒会の方ですわね?」
呼び止められて振り返ると、そこにはセラフィーヌが立っていた。
「は、はい。マリアンネ・スターフェルトと申します」
「マリアンネ様。少し、お話ししたいことがありますの」
「……私とですか?」
「ええ」
王女らしい完璧な微笑を浮かべたまま、セラフィーヌが一歩だけ距離を詰める。
「――できれば、二人きりで」
その声は、周囲には届かないほど小さい。
けれど、金色の瞳は明らかに何かを確信しているようだった。
マリアンネの背中を、冷たい汗が伝う。
――まさか。
そんなこと、ある?
「先ほどの『スチル』という言葉について、お聞きしたいですわ」
その一言で、心臓が今度は推しとはまったく別の理由で大きく跳ねた。
◇
王女からの申し出を受け、副会長に持ち場を任せたマリアンネは、
セラフィーヌとともに来賓用の控室へ入った。
開会までは、まだ少し時間がある。
王女付きの侍女が扉の外へ下がると、室内は急に静かになった。
セラフィーヌは窓際まで歩き、念のため外の様子を確かめてから、改めてマリアンネへ向き直る。
「それで。先ほどあなた、『スチル』と仰ったわよね?」
やっぱり、そこだった。
もう誤魔化せそうにない。
「……言いました」
「やっぱり」
その瞬間、セラフィーヌの表情がふっと変わった。
先ほどまで浮かべていた隣国の王女としての完璧な微笑ではない。
期待と緊張が入り混じった、年頃の女性らしい顔でマリアンネを見つめる。
「念のため聞くけれど……あなた、日本人だった?」
マリアンネは思わず目を見開いた。
日本人。
まさか、この世界でその言葉を誰かの口から聞く日が来るとは思わなかった。
「……はい」
答えた瞬間、セラフィーヌの顔がぱっと輝いた。
「やっぱり! よかった、この世界で初めて会った!」
「セラフィーヌ様もなんですか!? わ、私もです!」
つられるようにマリアンネも身を乗り出す。
つい先ほどまで王女と伯爵令嬢として向き合っていたはずなのに、
たった一言で、その距離が一気に縮まった。
「『スチル』なんて言葉、こっちの人は使わないでしょう?
最初は聞き間違いかと思ったの。でも、私を見て『生セラフィーヌ』とも言ってたわよね?」
「そこまで聞こえてたんですか!? 忘れてくださいー!」
「無理ね」
楽しそうに笑うセラフィーヌは、先ほどまでの王女らしい姿とはまるで違って見えた。
もし前世で出会っていたなら、きっと同じゲームについて語り合っていたのだろう。
そんな親しみやすさがあった。
そのまま彼女はソファへ腰掛け、向かいの席を勧める。
「あなたも『こいはな』を知ってるのよね?」
「知ってます!」
「どのルートが好きだった?」
腰を下ろしたマリアンネは、反射的に答えかけて――少しだけ声を落とした。
「……アレン様です」
「攻略対象じゃないじゃない」
「そこなんですよー!」
思わず身を乗り出す。
「なんでルートがないんですか!? あれだけ人気があったのに!
隠しルートがあると思って、何周したか!」
「分かるわ。私も『アレンダート 隠しルート』で検索したもの」
「やっぱりみんなやってたんですね!?」
「当然でしょう」
話が通じる。
この世界へ来てから一度も誰かと共有できなかった前世の記憶が、驚くほどするすると通じていく。
その嬉しさに、さっきまでの緊張もいつの間にか薄れていた。
「それで、設定資料集まで買ったら……」
そこで少し声を落とすと、セラフィーヌがすぐに察したように頷いた。
「ああ。結婚スチルね」
「そうです! 攻略させてくれなかったのに、未来の結婚相手だけは見せてくるんですよ!?」
「公式は人の心がないわね」
「本当にそれです!」
二人で揃って頷いたあと、セラフィーヌが少し笑った。
「でも、あのスチルは綺麗だったわよね」
「はい! 悔しいほどに綺麗でした!」
迷いなく答えると、セラフィーヌは楽しそうに笑った。
「そこは認めるのね」
「アレン様も、幸せそうだったので……」
口にするうちに、先ほどまでの勢いが少しずつ失われていく。
なにせ、その結婚スチルでアレンダートの隣に立っていたのが、
今まさに目の前にいるセラフィーヌなのだ。
マリアンネは膝の上でそっと手を握った。
「……セラフィーヌ様は、将来、アレン様と……」
「結婚しないわよ?」
「……え?」
あまりにもあっさり返されて、マリアンネは何度か瞬きをした。
そんな彼女へ、セラフィーヌは今度ははっきりと言い切る。
「私、アレンダート殿下とは結婚しないわ。する予定もないし」
「でも……公式では……」
「公式は公式でしょう? ここはもう、ゲームの通りには進んでいないもの」
あまりに当然のことのように言われ、マリアンネは言葉を失った。
「そもそも、私自身が前世の記憶を持っている時点で原作通りではないでしょう? それに――」
そこでセラフィーヌの表情が、ふっと嬉しそうに緩む。
「私、もう婚約者がいるもの」
「……婚約者? 誰ですか?」
「ほら」
セラフィーヌが窓の外を示し、マリアンネもつられるようにそちらへ顔を向けた。
中庭の向こうでは、イグナティア側の騎士たちが、
競技会の警備についてイシュメリア側の担当者と確認を進めている。
その中心に、一人の男がいた。
背が高く、アレンダートたちよりもかなり年上に見える。
落ち着いた色の髪に、鍛えられた体格。
若い騎士たちから報告を受けながら、静かに指示を出していた。
その姿を見た瞬間、マリアンネの記憶の奥から、見覚えのある立ち絵が鮮明に蘇った。
「……まさか」
「分かった? ケヴィン・ブルクハルトよ」
マリアンネは思わず立ち上がる。
「ええええええええ!?」
「ちょっと、声!」
慌てて口元を押さえたものの、驚きはまったく収まらない。
「あ、あのケヴィン!? 親善試合イベントのとき、セラフィーヌ様の後ろに立ってた!?」
「そうよ」
「セリフも何個かしかなかった!」
「四つね」
「数えてる!!」
思わず両手で頭を抱える。
「『姫殿下、こちらへ』とか、『周囲は我々が警戒いたします』とか言ってた、
あのケヴィンですよね!?」
「あと『ご無理はなさらぬよう』と、最後にもう一つ」
「そこまで覚えてるんですか!?」
「当然でしょう。最推しよ?」
「最推し!?」
あまりの事実に、頭が追いつかない。
原作ゲーム『こいはな』におけるケヴィン・ブルクハルトの出番は、本当に少なかった。
魔術交流競技会のイベントで、セラフィーヌ王女の護衛として登場するだけ。
立ち絵と名前は用意されていたものの、セリフはわずか四つで、
攻略対象でもなければ個別イベントもない。
それでも、妙に出来のいい立ち絵だった。
落ち着いた雰囲気を持つ大人の男で、肩書きは騎士団長。
王女の一歩後ろに控え、周囲へ目を配りながら、低く穏やかな声で必要なことだけを告げる。
そのわずかな出番が、一部のプレイヤーには恐ろしいほど深く刺さった。
『誰この人!?』
『攻略できないの!?』
『ケヴィン団長ルートどこ!?』
『出番五分しかないのに沼った』
そんな声が飛び交い、一部界隈をざわつかせた伝説の脇役である。
「セラフィーヌ様……そこ推しだったんですか!?」
「そこって何よ」
「だって、出番五分くらいですよ!?」
「十分だったわ。初登場で顔を見た瞬間に落ちたもの」
「四台詞で!?」
「四台詞もあったのよ?」
「認識が違う!」
セラフィーヌは、なぜか誇らしげに胸を張った。
「当時、『こいはな ケヴィン 攻略』『ケヴィン団長 隠しルート』
『ケヴィン 再登場』って、何度検索したと思ってるの」
「めちゃくちゃ同志じゃないですか!」
「全部何もなかったわ!」
「知ってます! 何もなかったです!」
勢いよく言い切ったあと、セラフィーヌは悔しそうに続ける。
「公式設定資料集に載っていたのも、プロフィールが数行だけ。
年齢と身長、それに騎士団長だってことくらいしか分からなかったわ」
「なのに最推しだったんですか!?」
「だからこそ、想像の余地があったのよ!」
「強火だ……!」
あまりの熱量に、マリアンネは圧倒されていた。
自分も攻略対象ではないアレンダートを推していたとはいえ、彼にはそれなりに出番がある。
フェルディナンドのルートでは何度も登場し、主人公へ助言をする場面もあった。
攻略こそできなかったものの、プレイヤー人気の高いサブキャラクターだったのだ。
対してケヴィンは、登場時間わずか数分。セリフは四つ。
セラフィーヌは、そのわずかな供給だけで前世を駆け抜けたらしい。
――強い。
マリアンネは妙な敬意すら覚えながらソファへ座り直し、恐る恐る尋ねた。
「それで……そのケヴィン団長が、婚約者なんですか?」
「そう。私の」
「推しを捕獲してるーーー!!」
「だから声!」
慌てて口元を押さえたものの、驚きは収まらない。
「だって、あの四台詞ケヴィンをどうやって!?」
「四台詞ケヴィンって呼ばないでくれる?」
「すみません!」
窓の外にいるケヴィンとセラフィーヌを交互に見比べるマリアンネに、
彼女は少し懐かしそうな笑みを浮かべた。
「この世界で本人に会ったときは、それだけで死ぬかと思ったわ。
声までゲームと同じだし、近くで見るほうがずっと格好いいし」
「それは死にますね……!」
「でしょう?」
すっかり強火オタク同士の会話になっていたが、
ひとしきり頷き合ったあと、セラフィーヌの表情がふっと柔らかくなった。
「でもね。実際に話してみたら、ゲームでは分からなかったことがたくさんあったの」
その声色の変化に、マリアンネも自然と口を閉じる。
「真面目で、面倒見がよくて。私が無茶をすると叱ってくれるけれど、最後には必ず守ってくれる」
セラフィーヌはそう言って窓の外へ目を向けた。
その金色の瞳には、先ほどまでとは違う、穏やかな愛情が浮かんでいる。
「ゲームで見ていた数分のケヴィンより、
実際に一緒に過ごして知ったケヴィンのほうが、もっと好きになったの」
その言葉に、マリアンネの胸が小さく揺れた。
ゲームで見た推しより、本物のほうがもっと好き。
なぜかその言葉だけが妙に耳に残り、マリアンネは少し間を置いて尋ねた。
「それで……セラフィーヌ様から口説いたんですか?」
「もちろん。待っていても、ケヴィンからは絶対に来ないもの。
十五歳も年が離れているうえに、私は王女、向こうは騎士団長でしょう?」
「十五歳!?」
思わず声を上げたマリアンネに、セラフィーヌは苦笑する。
「本人もずっと、畏れ多いの一点張りだったわ。
『私は貴女の騎士です』『もっとふさわしい方をお選びください』って」
「うわ……言いそうです」
「でしょう? だから、一つずつ断る理由を潰したの」
「潰したんですか!?」
セラフィーヌは当然のように頷いた。
「年齢差は私が気にしていない。身分のことは父に話を通したし、婚姻にも法的な問題はない。
それでもまだ引こうとするから、最後は『私はあなたがいいの』って押し切ったわ」
「推しを捕まえる意志が強すぎます!」
呆気に取られるマリアンネを見て、セラフィーヌは満足そうに微笑んだ。
「だって、この世界でせっかく会えたのよ?
しかも、実際のケヴィンはゲームで想像していたより、ずっと素敵だったんだもの」
その言葉が、またマリアンネの胸に残った。
――自分も、そうなのではないだろうか。
前世で好きだったアレンダートは、優しくて頼りになり、弟思いで、
攻略対象ではないことが惜しいくらい魅力的だった。
けれど今、自分が知っている彼は、それだけではない。
笑い方も、疲れたときに見せる表情も、甘いものを少し好むことも。
こちらを見つければ声をかけてくれることも、真っ直ぐに好きだと伝えてくれることも。
どれもゲームでは知らなかった、この世界で出会ったアレンダートの姿だ。
「……マリアンネ様?」
「いえ、何でも……」
我に返って慌てて首を振ると、セラフィーヌが探るようにこちらを見つめた。
「もしかして、アレンダート殿下に口説かれてる?」
「ぶっ!」
不意打ちすぎる一言に息を詰まらせ、マリアンネは盛大にむせた。
「な、なんで分かったんですか!?」
「歓迎の挨拶をしている間も、殿下はあなたのことを気にしていたもの。
私と話しているのに、ときどき視線がそっちへ向いていたわ」
「え……」
思い当たる節もなく固まっていると、セラフィーヌはさらに続ける。
「それに、さっきから話を聞いていると、あなたが好きなのって、
もうゲームのアレンダート殿下だけじゃないでしょう?」
「それは……推しなので! 今のアレン様も好きですけど!」
「じゃあ、何が問題なの?」
「問題しかありません!」
楽しそうに身を乗り出したセラフィーヌに「たとえば?」と促され、
マリアンネは困ったように眉を下げた。
「私は普通の伯爵令嬢ですし……」
「アレンダート殿下が気にしてるの?」
「それは、気にしてないと言われましたけど」
「じゃあ却下。ほかには?」
「早いです!」
考える間もなく一つ目を潰され、マリアンネは膝の上で手を握り直した。
「私は、推しを遠くから見ていられれば、それで……」
「でも、もう遠くにいないじゃない。生徒会も一緒なんでしょう?」
「はい……」
「そのうえ、本人に口説かれてる」
「はい……」
「手は? 繋いだ?」
「……この前、一緒に帰ったときに……」
セラフィーヌは少し黙ったあと、真顔で言った。
「もう全然遠くないわね」
「言わないでください!」
思わず声を上げると、セラフィーヌは笑いを堪えるように口元を押さえた。
「それでも駄目だと思う理由が、まだあるの?」
問われて、マリアンネは言葉に詰まった。
ずっと、自分の中で一番大きかった理由がある。
「……アレン様は、セラフィーヌ様と結婚する人だから」
小さく告げると、セラフィーヌの眉がわずかに上がった。
「だから私は、そこに入っちゃいけないと思ってました。アレン様が幸せなら、それでいいので」
「なるほどね。でも、私はケヴィンと結婚するわよ」
それはもう聞いた。
分かっている。
けれど、前世からずっと当然の未来として信じてきたものが、
まだ簡単には頭から抜けてくれなかった。
そんなマリアンネの様子を察したのか、セラフィーヌは改めてはっきりと言う。
「さっきも言ったけれど、アレンダート殿下と結婚する予定は一切ないわ。
そもそも、ほかの人との結婚なんて嫌よ。私はケヴィンがいいもの」
「強い……」
「前世からずっと推していた人が、転生したら目の前にいたのよ?
そう簡単に諦められないでしょう」
「圧が強いです!」
「あなたも似たようなものでしょう?」
「私は遠くから愛でられれば……」
「私は出番四台詞の推しを婚約者にしたけど?」
「その実績を出されたら何も言えないですー!」
長いあいだマリアンネの中にあった大きな壁の一つが、ものすごい勢いで崩れていく
「……じゃあ、アレン様には、決まっていた未来なんてない……?」
「少なくとも、私と結婚する未来はないわね」
セラフィーヌはそう答えると、少し身を乗り出してマリアンネの顔を覗き込んだ。
「それで、アレンダート殿下はあなたが好きなんでしょう?」
「……はい」
「あなたも、殿下が好き」
「……はい」
「なら、何をそんなに逃げてるの?」
答えられなかった。
困って視線を落とし、しばらく考えた末に、ようやく絞り出す。
「……推しは、遠くから愛でるものだと思っていたので」
「私は捕まえたけど」
「知ってます!」
「しかも幸せよ」
「それも見れば分かります!」
即座に返すと、セラフィーヌは楽しそうに笑った。
「じゃあ、あなたも捕まえればいいじゃない」
「無理ですー! 推しですよ!?」
「だから?」
「だから……!」
その先が続かない。
セラフィーヌはしばらくそんなマリアンネを面白そうに眺めていたが、やがて少しだけ声音を和らげた。
「マリアンネ様。たぶん、あなたは一つ勘違いしてるわ」
「……何をですか?」
「今あなたが好きなのって、もうゲームのアレンダートじゃないでしょう?」
息が止まった。
「本物のアレンダート殿下と話して、一緒に過ごして、
ゲームでは知らなかったところをたくさん知った。
そのうえで、その人を好きになってるんじゃない?」
何も言えなかった。
先ほど自分が思い浮かべたものが、次々と頭をよぎる。
笑い方も、疲れたときの顔も、甘いものを少し好むことも。
こちらを見つければ声をかけてくれることも、真っ直ぐに好きだと伝えてくれることも。
どれも前世では知らなかった、今のアレンダートだ。
セラフィーヌはそれ以上追い詰めることなく、ソファへ座り直した。
「まあ、ゆっくり考えたらいいわ。ただ、のんびりしていたら向こうから捕まえに来るでしょうけど」
「もう来てるんですー!」
「でしょうね」
また楽しそうに笑われる。
そのとき、窓の外にいたケヴィンがこちらへ気づいたらしい。
セラフィーヌと目が合うと、ごく自然に穏やかな笑みを浮かべた。
それを見た彼女の表情も、ふっと柔らかくなる。
先ほどまで「四台詞で落ちた」と熱弁していた強火オタクの顔ではない。
ただ一人の男を愛する女性の、穏やかな表情だった。
それを見れば、マリアンネにも分かる。
セラフィーヌは本当に、ゲームで決められていた未来とは違う相手を選んだのだ。
前世ではほんの数分しか知らなかった人を、この世界で一から知って、
もっと好きになって、自分の意志で隣に立つことを選んだ。
――なら、アレン様は。
そして、自分は。
「……無理」
「何が?」
「今日、情報量が多すぎます……」
「頑張って」
「他人事ですね!?」
「だって、私の推しはもう捕まえたもの」
「四台詞から婚約まで持っていった人が強すぎる……!」
セラフィーヌは満足そうに微笑んだ。
その日、マリアンネが長いあいだ信じ続けていた『公式の未来』は、
四台詞の男を捕獲した強火オタク王女によって、跡形もなく破壊された。
◇
セラフィーヌとの話を終えて競技場へ戻ったマリアンネは、明らかにおかしかった。
本人としては、いつもどおりに振る舞っているつもりだった。
持ち場を代わってくれた副会長に礼を言い、来賓対応へ戻って必要な書類を確認する。
開会後は競技の進行にも目を配り、与えられた仕事を順番に片づけていった。
いつもどおり。
――の、はずだった。
「マリアンネ」
「ひゃい!?」
全然いつもどおりではなかった。
「……何だ、今の返事」
「な、何でもありません!」
振り返らなくても分かる。アレンダートだ。
というより、今は声を聞くだけでも駄目だった。
これまでなら、推しが話しかけてきた、今日も供給が強い、とどうにか処理できていた。
けれど、今は違う。
この人は、セラフィーヌと結婚しない。
前世からずっと信じていた、彼女との『公式の未来』はここにはない。
『俺が君のことを好きだからだけど?』
『君と二人でいたいから』
『嬉しい?』
これまで何度も向けられてきた言葉が、次々と頭の中に蘇る。
あれは全部、自分へ向けられた恋愛感情だった。
分かっていたはずなのに、逃げ道が一つ消えただけで、急にその事実が現実味を増して迫ってくる。
無理。
今は顔なんて見られない。
「マリアンネ。こっち見て」
「無理です!」
「なんで」
「今日はほんとに無理なんですー!」
手にしていた資料を受付の机へ置き、視線を逸らしたまま一歩下がると、
アレンダートが怪訝そうに眉を上げた。
「セラフィーヌ王女と何を話したの?」
「い、色々です! 女子の話です!」
「俺に関係あること?」
ぴたりと黙り込む。
それだけで答えとしては十分だったらしい。
アレンダートが小さく笑った。
「あるんだな」
「聞かないでください! 今、本当に頭の中がぐちゃぐちゃなんです!」
「へえ」
「へえじゃないです!」
今はとにかく、一度この人から離れたい。
そう思って横を抜けようとしたところで、「待って」と手を取られた。
足を止められたマリアンネは、反射的に顔を背ける。
「待てません!」
「なんで?」
「殿下を見ると、余計に色々考えてしまうので!」
「俺のことを?」
図星を突かれて、マリアンネは思わず視線を逸らした。
「俺のことだな」
「だから聞かないでくださいー!」
どうやら完全に面白がられている。
けれど、アレンダートはしばらくマリアンネの様子を見たあと、ふと表情を改めた。
「一つ、気になってたんだけど」
「なんですか……?」
「今朝、俺と王女が並んだとき、妙な顔してただろ。
そのあと王女と話して、戻ってきたら今度は俺を見られなくなってる」
そこまで見られていたのか。
思わず肩を強張らせると、その反応を確かめるように紫紺の瞳が細められた。
「もしかして、俺とセラフィーヌ王女のことを気にしてた?」
今度こそ、完全に動きが止まった。
「……俺たちが結婚するとでも思ってた?」
「……そういう未来があると思ってたんです」
「ないけど。王女にはすでに婚約者がいるし、俺との婚約話だって上がったこともない」
「それはさっき、知りました!」
「じゃあ、俺から逃げる理由が一つ減ったな」
「なんでそうなるんですか!?」
「違う?」
「違……」と言いかけて、マリアンネは言葉を止めた。
否定できなかった。
それはずっと、マリアンネにとって大きな理由だったのだ。
アレンダートの隣を望まなかった理由であり、望んではいけないと思っていた理由でもある。
何も言えなくなったマリアンネを見て、アレンダートは少しだけ表情を和らげた。
「まあ、すぐに答えを出せとは言わない。考える時間くらいは待つよ」
「……はい」
その言葉に、マリアンネの肩からほんの少し力が抜ける。
しかし、アレンダートはそこで終わらなかった。
「ただし」
その一言に、マリアンネは再び身構えた。
繋いだままだった手を軽く持ち上げ、アレンダートはまっすぐ彼女を見る。
「最初から逃がす気はないから、そこは覚悟しておいて」
「……え?」
次の瞬間、手の甲に柔らかな感触が触れた。
アレンダートが、そこへ口づけたのだ。
マリアンネが何をされたのか理解するより早く唇は離れ、手もそっと返された。
「じゃあ、俺は戻るから。またあとでな、マリアンネ」
それだけ告げると、アレンダートは何事もなかったように踵を返し、
運営本部へ向かって歩いていく。
濃い赤髪が人混みの向こうへ遠ざかっても、マリアンネはその場から動けなかった。
やがて、ゆっくりと口づけられた右手へ視線を落とす。
手の甲に、キスをされた。
しかも相手は、ずっと遠くから愛でていた推しであり、今では好きな男でもある。
『最初から逃がす気はないから、そこは覚悟しておいて』
先ほどの言葉まで蘇り、とうとう思考が追いつかなくなった。
――処理不能。
マリアンネの頭は、完全に停止した。
「……スターフェルト嬢? 大丈夫?」
近くにいた生徒会役員が、心配そうに声をかける。
それでも反応がないため、もう一度名前を呼ばれて、マリアンネはようやく我に返った。
「……無理」
「え?」
「今日はもう無理です……」
真っ赤な顔のまま、マリアンネは受付の机の陰へしゃがみ込んだ。




