第五話 推しに口説かれるなんて想定してません
アレンダートの様子がおかしい。
マリアンネがそう確信したのは、
彼が以前にも増して自分の近くにいるようになってから、三日ほど経った頃だった。
いや、もともと距離感がおかしい人ではあった。
図書室では当然のように隣へ座るし、生徒会室でもこちらの机まで平然と寄ってくる。
名前だって、もうずいぶん前から当たり前のように呼ばれている。
それでも、ここ数日は明らかに何かが違った。
単純に距離が近いというより、向けられる視線や言葉の一つ一つに、妙な意図を感じるのだ。
「……殿下。最近、なんかおかしくないですか?」
放課後の生徒会室。
ほかの役員たちは別室へ資料を運びに行っていて、今は二人きりだった。
恐る恐る問いかけると、アレンダートが書類から顔を上げる。
「何が?」
「何がって……前から距離感はおかしかったですけど」
「失礼だな」
「でも最近は、なんというか……種類が違う気がするんです」
自分でもうまく説明できずにいると、アレンダートの口元がわずかに緩んだ。
「ちゃんと分かってるじゃないか」
「……え?」
「今は意図的にやってるからな」
「何をですか?」
アレンダートは、あまりにも自然な調子で答えた。
「マリアンネを口説いてるから」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
マリアンネはぱちぱちと瞬きをする。
けれど、目の前のアレンダートは冗談を言った様子もなく、
何でもないことを告げたような顔でこちらを見ていた。
「……え?」
「だから、君を口説いてる」
「え? 口説いてる? なんで……!?」
「俺が君のことを好きだからだけど?」
今度こそ、思考が完全に止まった。
好き。
誰が、誰を。
アレン様が、私を。
「……マリアンネ?」
「待ってください。ちょっと意味が分からなすぎて、理解がまったく追いついてなくて……」
「そうか」
アレンダートは少し考えるような素振りを見せたあと、
机の上に置かれていたマリアンネの右手へ手を伸ばした。
「じゃあ、理解が追いつくまでこうして待ってるとするか」
「……はい?」
手を取られたと思った次の瞬間、指まで絡められる。
「な、何してるんですかー!?」
「マリアンネの理解が追いつくのを待ってる」
「手を握る必要あります!?」
「ある。俺が握りたいから」
「理由が直球すぎます!!」
反射的に手を引きかけたものの、マリアンネは途中で動きを止めた。
強く掴まれているわけではない。
本当に嫌だと言えば、すぐに離してくれることも分かっている。
そして何より、自分は嫌だとは思っていなかった。
それが分かってしまうからこそ、余計に困る。
「嫌か?」
「……嫌では、ないですけど!」
「なら、もう少しこのままでいいな」
「理解を待つって言いながら、理解不能なことを増やさないでくださいー!」
アレンダートが楽しそうに笑う。
ずるい。
こんな状況で、そんな顔をしないでほしい。
「……どうして、私なんですか?」
ようやく絞り出した声は、先ほどよりずっと小さかった。
「そう言われても、マリアンネのことを好きになったから、としか答えられないけど」
アレンダートは繋いだ手へちらりと目を落とし、再びマリアンネを見る。
駄目だ。
理解が追いつくどころか、次から次へと情報が増えていく。
「私、普通の伯爵令嬢ですよ?」
「普通ではないと思うけど」
「どこがですか!」
「俺を遠くから描き続けて、本人に見つかってもまだ
『遠くから推します』って言い張る令嬢が、普通だと思うか?」
「そこは忘れてください!」
「無理だな」
あっさり返され、マリアンネは言葉に詰まった。
「それに、俺は君が普通かどうかなんてどうでもいい」
絡めていた指を少し緩めながら、アレンダートの親指がそっと手の甲を撫でる。
その感触に、マリアンネの肩が小さく跳ねた。
「君と話すのが楽しい。顔を見れば声をかけたくなるし、いなければ探して見つけたい」
そこまでは穏やかだった声が、ほんの少しだけ低くなる。
「だから、俺の隣に立つのはほかの誰かで当然みたいに言われたら、腹が立った」
「……え?」
思いがけない言葉に顔を上げると、アレンダートが少しだけ目を細めた。
「聞いたんだよ。この前、俺の隣に立ちたいとはまったく思ってないって言ってただろ」
終わった。
今度は別の意味で血の気が引き、マリアンネは繋いだ手のことも忘れて身を乗り出した。
「あれを、聞いてたんですか!? 全部!?」
「通りかかったときに偶然な。だいたいは聞こえていた」
「最悪ですー!」
「俺はあれで、君が好きだって自覚したから、結果的にはよかったけどな」
「……また、さらっと情報を増やさないでください……」
次から次へと処理しきれない事実を突きつけられ、もう何から考えればいいのか分からない。
マリアンネは右手を握られたまま、空いている左手で顔を覆った。
指の隙間からそっと様子を窺えば、アレンダートは相変わらずこちらを見ている。
「まだ理解追いつかない?」
「全然です……」
「じゃあ、もう少し待つとするか」
「待つなら、せめて手は……」
そこまで言って、繋がれたままの右手へ視線を落とす。
すぐにアレンダートの指から力が抜けた。
「離したほうがいい?」
「……もう少し、だけなら」
自分で答えておきながら、途端に頬が熱くなる。
アレンダートは何も言わずに少し笑うと、そっと指を絡め直した。
その瞬間、マリアンネはようやく一つだけ理解した。
この人はもう、今までのように無自覚に距離を縮めているわけではない。
視線も、言葉も、こうして手を繋いでいることさえ、全部わざとだ。
ただ自分を困らせたいからではない。
自分を、本気で口説くために。
「……推しに口説かれるなんて、想定してませんでした……」
「じゃあ今から想定しておけばいい」
「できるわけないでしょう!」
「これからも口説くつもりだし、慣れてもらうしかないけどな」
「無茶言わないでくださいー!」
マリアンネの悲鳴が生徒会室に響き渡る。
それでも、アレンダートは手を離さなかった。
そしてマリアンネも、自分からその指をほどこうとはしなかった。
王太子による本格的な求愛は、こうして本人への正式な宣言とともに始まったのである。
◇
マリアンネの眼鏡が話題になったのは、ほんの些細なきっかけだった。
生徒会室で向かい合い、二人で書類を確認していたときのことだ。
「ここ、この数字で合ってるか?」
「はい。昨年度分と照合して――」
説明しながらマリアンネが顔を上げた瞬間、
窓から差し込んだ光が丸い眼鏡の奥へ入り、碧色の瞳がいつもより鮮やかに見えた。
アレンダートの視線が、そこに止まる。
「……殿下?」
「マリアンネの目、綺麗だな」
思いがけない言葉に、今度はマリアンネが固まった。
「な、何を急に……!」
「いや。今、よく見えたから」
「見ないでください!」
「なんでだよ」
さらに確かめるようにアレンダートが少し身を乗り出し、マリアンネは反射的に身体を引いた。
「殿下! 近いです!」
「もう少し見たい」
「なんでそんな素直なんですか!?」
口説くと宣言して以来、アレンダートは本当に遠慮しなくなった。
マリアンネが慌てれば楽しそうに笑うくせに、見たいものから視線を逸らす気はないらしい。
「眼鏡、外してみてくれる?」
「嫌です! 恥ずかしいので! 普段ずっとこれなんです!」
「だから見てみたいんだろ」
「殿下だけ理屈が前向きすぎます!」
いくら抗議しても、アレンダートは楽しそうに笑うばかりだった。
「無理にとは言わない。でも、見せてくれたら嬉しい」
ずるい。
最近この人は、本当にずるいと思う。
命令するのではなく、こうして頼んでくる。
しかも「見たい」とか「嬉しい」とか、断りにくくなるようなことを平然と言うのだ。
しばらく迷った末、マリアンネは観念して息を吐いた。
「……少しだけですよ」
「ああ」
ゆっくりと眼鏡を外した途端、目の前の景色がぼやける。
同時に、アレンダートが黙った。
机を挟んだ距離では、眼鏡がなければ彼の表情まではよく見えない。
何も言われないことが急に不安になり、マリアンネは目を細めた。
「……変ですか?」
「いや。可愛い」
迷いのない声が返ってくる。
「かなり」
「……っ!」
慌てて眼鏡をかけ直そうとすると、アレンダートの声が飛んだ。
「待って。もう少しだけ」
「もう見ましたよね!」
「まだちゃんと見てない」
「なんで殿下のほうが欲張るんですかー!」
アレンダートが笑う気配がしたあと、今度は少し落ち着いた声で尋ねてくる。
「どのくらい見えないんだ? 俺の顔、今見えてる?」
「ぼんやりです」
「じゃあ――」
椅子を引く音がして、アレンダートが立ち上がる。
ぼやけた濃い赤色が机を回り込み、マリアンネのすぐ横までやってきた。
「このくらいなら?」
「……まだ少し」
答えると、今度はアレンダートが腰をかがめ、マリアンネと視線の高さを合わせた。
「これなら?」
見える。
かなりはっきりと。
というか――
「み、見えますけど近いですー!」
「そうか。よかったな」
「そうかじゃないです! なにもよくありません!」
眼鏡越しですらない紫紺の瞳が、すぐ目の前からこちらを見ている。
近すぎる。
こんな距離で推しの顔を見ることなど想定していない。
マリアンネが完全に固まっているあいだにも、アレンダートは遠慮なくその顔を眺めていた。
「……本当に綺麗な目してるな。髪の色とも合ってる」
「もういいです……何も言わないでください」
「可愛い」
それが二度目だと気づき、マリアンネはますます顔を赤くした。
「……それ、さっきも言いました」
「思ったからな」
「何回でも言うつもりですか?」
「必要なら」
「必要ありません!」
耐えきれず、手に持ったままだった眼鏡を慌ててかけ直す。
ようやく世界がはっきりすると、アレンダートは身体を起こしながら、まだ少し笑っていた。
「落ち着いた?」
「誰のせいだと……」
マリアンネは深く息を吐き、眼鏡の位置を直した。
ようやくいつもの視界に戻ったというのに、頬の熱はまったく引いてくれない。
アレンダートはそんな彼女をしばらく眺めたあと、何かを確認するように小さく頷いた。
「……眼鏡も似合ってるし、そのままでもいいかもな」
「……はい? さっき外してって言ったの、殿下ですよね!?」
「見たかったからな」
「じゃあ、なんで今度は眼鏡推奨なんですか!」
問われたアレンダートは、少しだけ考えるようにマリアンネの顔を見た。
「……目立つから。思ったより」
「目立つ?」
「眼鏡を外すと、かなり印象が変わる」
「それは……そうかもしれませんけど」
マリアンネが首を傾げると、
アレンダートはそれ以上説明するつもりはないらしく、わずかに口元を緩めた。
「まあ、今のままでも十分可愛いしな」
「また言った!」
「思ってることはちゃんと伝えないと」
「だからって何回も言わなくていいんですー!」
もう何度目になるか分からない抗議をしながら、マリアンネはぷいと顔を逸らした。
すると、楽しそうな声が追いかけてくる。
「それに、俺はもう見たし」
「なんでちょっと得意げにしてるんですか!?」
「そう見える?」
「見えますー!」
マリアンネは眼鏡の位置をもう一度直した。
――俺はもう見たし、って何なの。
まるで自分だけが先に知っていることを喜んでいるような言い方ではないか。
そんなふうに考えてしまった途端、また頬が熱くなる。
もう何も考えないことにしよう。
そう決めて書類へ視線を戻したものの、すぐ隣ではアレンダートがまだ楽しそうに笑っていた。
◇
別の日の生徒会室では、珍しく早めに仕事が片付いていた。
残っている役員たちも、雑談をしたり本を読んだりと、それぞれ思い思いに休憩している。
マリアンネも手元の書類をまとめ終えると、少し迷った末に鞄からスケッチブックを取り出した。
「今日も描くのか?」
向かいの席から声をかけられ、マリアンネは鉛筆を手にしたまま頷いた。
「はい」
「よく飽きないな」
「推しですから」
「それも、もう聞き慣れたな」
最近では、生徒会室にいるアレンダートを描くことも増えていた。
仕事中の真剣な横顔に、ふっと気を抜いたときの表情。
少し緩められたネクタイや、机の上に無造作に置かれた手。
遠くから眺めていた頃には知ることのできなかった姿は、
どれも描き残しておきたくなるものばかりだった。
ただし、いまだにある程度の距離は必要である。
近くで話すことには多少慣れたし、今では手を握られることだってある。
けれど、絵を描くとなれば話は別だ。
推しの顔を真正面から何秒も、何分もかけてじっくり見るなど、できるわけがない。
そんなマリアンネの事情などお構いなしに、アレンダートは向かいの席からスケッチブックを眺めた。
「そんなに離れてて、細かいところまで見えるのか?」
「だいたいは見えます」
「せっかくなんだから、もっと近くで描けばいいだろ」
そう言って席を立った。
嫌な予感がする。
そして、その予感はすぐに的中した。
アレンダートは空いていた椅子を引くと、
当然のようにマリアンネのすぐ隣へ座り、こちらへ身体を向ける。
「これならよく見えるだろ」
「見えすぎます。近いです!」
「手は近くで見たがったのに?」
「それとこれとは別です!」
アレンダートは楽しそうに笑った。
「顔は描きたくないのか?」
「……描きたいです」
「なら描けばいい。動かないから」
そこを突かれると弱い。
これほど近い距離で、本人が正式にモデルをしてくれる機会など普通なら滅多にない。
最近のアレン様なら、また同じことをしそうな気もするけれど、
それでも貴重な機会であることには変わりなかった。
「……少しだけお願いします」
「ああ」
覚悟を決めてスケッチブックを構え直し、アレンダートの顔を見る。
――やっぱり無理だった。
紫紺の瞳が、真っ直ぐこちらを見ている。
しかも、逸らす気配がない。
「……あの。こっち見ないでください。描けないので」
「君は俺を見るのに?」
「私は絵を描くために見てるんです!」
「俺も君を見てるだけだろ」
「意味が違いますー!」
口元を緩めるアレンダートを見て、マリアンネは確信した。
絶対にわざとだ。
最近この人は、自分が困る様子を完全に楽しんでいる。
そのやり取りを聞いていた周囲の役員たちも、示し合わせたようにそっと視線を逸らした。
どうやら助けは期待できないらしい。
「……分かりました。もう気にしません。集中しますから!」
「頑張れ」
「誰のせいだと思ってるんですか!」
半ばやけになって、アレンダートの顔を確かめながら紙へ鉛筆を走らせる。
輪郭、鼻筋、眉、目元。
少し描いては顔を上げ、そのたびに紫紺の瞳とぶつかる。
数度繰り返したところで、とうとう耐えきれなくなった。
マリアンネはスケッチブックで顔を隠す。
「……無理です」
「諦めるのが早いな」
「ずっと見られてたら描けませんよ!」
アレンダートが声を立てて笑った。
「遠くからなら、ずっと俺を見てられるのに?」
「遠くと近くでは情報量が違うんです!」
「でも、近くで見たいんだろ?」
「……見たいです。でも、見られるのは無理なんです!」
「近くで見たいのに、見られるのは駄目なのか?」
「そうなんです! 推し活には適正距離があるんです!」
そう返すと、アレンダートの笑みが少しだけ柔らかくなった。
「俺は君に見られるの、嫌じゃないけどな。むしろ最近は、見られてないと少し気になる」
マリアンネの手が止まる。
「……何ですか、その新情報。急にそういうこと言うの、やめてください……」
「嫌?」
「嫌じゃないですけど!」
「ならいいだろ」
「よくないんです!」
満足そうに笑われ、マリアンネは返す言葉を失った。
するとアレンダートは、少し下がったスケッチブックの向こうから顔を覗き込む。
「ほら。ちゃんと見ないと描けないだろ」
「……殿下が、こっちを見ないでくれるなら」
「それは嫌だ」
「なんでですか!」
「俺も君を見たいから」
今度こそ限界だった。
マリアンネはスケッチブックを机へ置くと、そのまま突っ伏した。
「もう無理です。今日は終わりです!」
「まだ全然描いてないだろ」
「描けるわけないでしょう!」
「それは残念だな」
「絶対、残念だと思ってないですよね!?」
アレンダートは否定せず、楽しそうに笑っている。
どう見ても、スケッチが中断したことを残念がっている顔ではなかった。
◇
数日後。
その日の生徒会は、そのまま早めに解散となった。
窓の外にはまだ夕方の光が残り、廊下からも生徒たちの話し声が聞こえてくる。
マリアンネはスケッチブックを鞄へしまいながら、図書室へ寄るか、
それとも今日はまっすぐ帰るかと考えていた。
すると、不意にアレンダートから名前を呼ばれる。
「マリアンネ。今日、一緒に帰ろう」
「……はい?」
また始まった。
最近のアレンダートは、遠慮という概念をどこかへ置いてきたらしい。
「なんでですか?」
「マリアンネと二人でいたいから」
「だから理由が直球すぎますー!」
「分かりやすいほうがいいだろ。伝わりやすいし」
「心臓にはよくないんです!」
抗議しても、アレンダートはまったく気にした様子がない。
「それで、俺と一緒に帰るのは嫌か?」
そこを聞かれると弱い。
マリアンネは鞄を抱えたまま黙り込んだ。
嫌ではない。
むしろ、一緒に帰れること自体は嬉しい。
それが一番困るのだけれど。
「……帰ります」
「よし」
「なんでそんな満足そうなんですか」
「一緒に帰れるから」
「そういうところです!」
アレンダートは楽しそうに笑いながら立ち上がった。
二人で生徒会室を出て、並んで廊下を歩く。
最初の頃なら、これだけでもまともに歩けなくなっていた気がする。
それを思えば今は多少慣れた。
本当に、多少だけだが。
「今日は静かだな」
「殿下が変なことを言わなければ、普通に歩けます」
「変なこと?」
「好きとか、可愛いとか、会いたかったとかです!」
「全部本当のことだけど」
「そうやって普通に返すところがもう無理ですー!」
また笑われた。
もう完全にこちらの反応を楽しんでいる。
そんなやり取りをしながら階段を下り、玄関ホールを抜けると、夕方の風が少し冷たく感じられた。
「寒いか?」
「少しだけ」
「そうか」
短く返したアレンダートが、ごく自然な動作でマリアンネの右手へ手を伸ばす。
気づいたときには、そのまま握られていた。
「なんで手を繋ぐんですか!?」
「繋ぎたいから」
「毎回それじゃないですか!」
「好きなんだから触れたいと思うのは当然だろ」
「直球すぎますー!」
反射的に手を引こうとして――やめた。
そのわずかな動きに気づいたアレンダートの指が、すぐに緩む。
「嫌?」
「……嫌じゃないです」
「じゃあ、このままでいいな」
「うぅぅ……」
完全に負けた。
けれど、離したくないと思っているのも本当だった。
そのまま二人で学園の門へ向かって歩き始める。
さっきまであれほど騒いでいたマリアンネは、今度は急に静かになった。
「どうした?」
「……今、殿下と手を繋いで帰ってるんだなって、急に実感してしまって……」
「今さら?」
「今さらなんですけど、いろいろ無理なんです!」
アレンダートが不思議そうにこちらを見る。
「さっきからずっと繋いでるだろ」
「分かってます! でも、恋愛として繋がれてるって思ったら、急に無理になったんです!」
「なるほど。俺のことを意識してくれてるってことなんだな」
「いちいち言語化しないでください!」
アレンダートは少し歩調を緩め、マリアンネの顔を覗き込んだ。
「でも、嬉しいんだろ?」
マリアンネは答えられず、繋いだ手へ視線を落とした。
大きくて、暖かい。
以前、絵の参考だと言って手に触れられたときとは違う。
今は、自分を好きだとはっきり告げた人に、その気持ちの延長として手を繋がれている。
「マリアンネ。嬉しい?」
誤魔化そうと思えば、きっと誤魔化せる。
けれど最近のアレンダートは、こちらが逃げ道を作ろうとするたび、
こうして真正面から気持ちを尋ねてくる。
そしてマリアンネ自身も、もう本当の意味で逃げたいわけではなかった。
「……嬉しいです」
小さく答えた瞬間、繋いだ手にほんの少しだけ力がこもった。
「そうか」
それだけだった。
けれど、その声が確かに嬉しそうだったから、余計に顔が熱くなる。
「……私の心臓がもちません」
「それは困ったな」
「全然困ってないですよね!? むしろ楽しんでますよね!?」
「楽しんではいるけど、それ以上に可愛いと思ってる」
「そういうことを普通に言わないでくださいー!」
また声が大きくなった。
それでも今度は、手を離そうとは思わなかった。
結局、学園の門を出て馬車寄せへ着くまで、二人はずっと手を繋いだままだった。
迎えの馬車の前で足を止めると、アレンダートがようやく手を離す。
「じゃあ、また明日。明日も一緒に帰るか?」
「毎日は私の心臓がもちません!」
「じゃあ三日に一回」
「具体的に頻度を決めないでください!」
「二日に一回でもいい」
「増えてますー!」
楽しそうに笑うアレンダートを残し、マリアンネは顔を赤くしたまま馬車へ乗り込んだ。
座席へ腰を下ろしたところで、扉が閉まる直前にもう一度名前を呼ばれる。
「マリアンネ」
顔を上げると、アレンダートがこちらを見ていた。
「今日は一緒に帰れて嬉しかった」
何も返せないうちに扉が閉まる。
馬車が動き出して数秒後、マリアンネは鞄を膝に抱えたまま、その上へ突っ伏した。
「……無理」
推しと手を繋いで帰った。
しかも、自分も嬉しかった。
それを本人に、ちゃんと言ってしまった。
「……ほんとに無理……」
そう呟いているのに、頬はいつまでも緩んだままだった。
◇
翌日の夕方、王城へ戻ったアレンダートは、
私室へ向かう途中でフェルディナンドに呼び止められた。
「兄上、ちょっといい?」
「今か?」
「うん。今」
妙に楽しそうな顔をしている。
嫌な予感がしながら足を止めると、フェルディナンドは待ってましたとばかりに切り出した。
「最近、スターフェルト嬢に追い込み漁してるよね?」
「……何だ、その言い方」
「だってそうだろ。最初は遠くから見られてるだけだったのに、
兄上から声をかけて図書室に通うようになって、生徒会にまで入れて毎日近くに置いてる。
そのうえ今は、堂々と口説いて、手まで繋いでるときた」
「話したかったし、近くにいてほしかったからな。手も繋ぎたかったから繋いだだけだ」
「それもう、普通に狩りじゃない?」
「好きなんだから当然だろ」
「強いなあ……」
あまりにも迷いなく返され、フェルディナンドは呆れたように笑った。
「昨日も二人で手を繋いで帰ってたよね。かなり目立って騒ぎになってたよ」
「別に隠してないからな。誰に見られたところで俺は困らない」
「兄上はそうなんだろうけど……。で、スターフェルト嬢は? 嫌がってないの?」
「騒いではいる」
「それは見れば分かる」
「でも、嫌かと聞けば嫌じゃないと言う。昨日は嬉しいとも言ってくれた」
「……じゃあまあ、問題はないのか」
フェルディナンドは腕を組み、少し考えてから口元を緩めた。
「追い込み漁というより、網の中で本人が『なんで網があるんですかー!?』って騒いでる感じ」
「……よく分からない例えだな」
「でも、逃げようとはしないんだろ? むしろ、ちょっと嬉しそうだし」
「まあ、そうだな」
昨日、小さな声で「……嬉しいです」と答えたマリアンネを思い出し、
アレンダートの口元がわずかに緩む。
それを見逃さなかったフェルディナンドが、すぐに笑った。
「兄上、今思い出したでしょ」
「うるさい」
「でも、本当に楽しそう」
「まあな」
今度は否定しなかった。
実際、楽しい。
褒めれば赤くなり、近づけば騒ぎ、手を繋げば固まる。
けれど、本当に嫌なことはきちんと嫌だと言うし、
こちらが尋ねれば、恥ずかしがりながらも自分の気持ちを返してくれる。
少しずつ、自分が近くにいることを受け入れてくれているのが分かった。
「それで、いつまで口説くつもりなの?」
「落ちるまで」
「もうだいぶ落ちてない?」
「俺もそう思う」
「じゃあ、何が問題なの?」
アレンダートは少し考えてから、肩をすくめた。
「本人が認めないんだ。俺の隣にいてもいいってことを」
「ああ……まだ『推しだから遠くから』って言ってるんだ?」
「手を繋いで帰っても、まだな」
フェルディナンドは感心したように息を吐いた。
「すごいな、スターフェルト嬢」
「変わってるだろ」
「でも兄上、そういうところも好きなんでしょ」
返事に迷う理由は、もうなかった。
「まあな。俺のことは好きだと言うくせに、自分が俺とどうにかなりたいとは考えてないらしい」
「そこまで徹底してるのに、兄上はまだ口説くんだ」
「当然だろ。俺の横に立ってもいいと思ってくれるようにしたいし」
フェルディナンドは呆れたように肩をすくめた。
「兄上、ほんと迷いないなぁ」
それから、ふと思い出したように話題を変えた。
「そういえば、来週はイグナティアとの魔術交流競技会だよね。兄上も運営側で忙しくなる?」
「ああ。かなりな」
「じゃあ、しばらくスターフェルト嬢とゆっくり帰れないね」
その言葉に、アレンダートの眉がわずかに寄る。
それを見たフェルディナンドが、堪えきれずに笑った。
「分かりやすいなあ」
「うるさい」
これ以上付き合う気はないとばかりに、アレンダートは再び私室へ向かって歩き出す。
「お前も出場するんだから、余計なこと考えてないで準備しろ」
「はいはい。兄上も、スターフェルト嬢を追い込みすぎて倒れさせないようにね」
「そこは気をつけてる」
「そこはちゃんと気をつけてるんだ……」
呆れ半分の声を背に、アレンダートはそのまま廊下を進んでいった。
来週は、イグナティア王国との魔術交流競技会が行われる。
学園には隣国の王族や学生だけでなく、随行する騎士たちも大勢訪れる予定だ。
生徒会長であるアレンダートも、しばらくは慌ただしい日々を送ることになるだろう。
そして、その来賓の中には、マリアンネが前世から知っている一人の王女も含まれていた。
彼女との出会いが、マリアンネの中に残っていたある思い込みを大きく揺らすことになるとは、
このときの二人はまだ知らなかった。




