第四話 推しに生徒会へ勧誘されました
「マリアンネ。生徒会に入れ」
「…………はい?」
新年度最初の処理落ちは、生徒会室へ呼び出されて早々に訪れた。
目の前には、今年から生徒会長を務めることになったアレンダートがいる。
その隣には副会長らしい上級生が座り、ほかの役員たちも新年度の書類に目を通していた。
そんな場所へ突然呼び出されたものだから、てっきり教師からの伝言でもあるのだと思っていた。
違った。
王太子殿下直々の、生徒会勧誘だった。
「……あの、もう一度お願いしてもよろしいでしょうか」
「生徒会に入れ」
「聞き間違いではなかった……」
「何だと思ったんだ」
「分かりませんけど、できれば聞き間違いであってほしかったです」
思わず本音が漏れると、アレンダートが眉を上げた。
「嫌なのか?」
「嫌というより、なんで私なんですか!?」
「入学以来ずっと首席。教師からの評価もいいし、問題行動もない」
「問題行動……」
王太子を遠くから眺め続け、スケッチブックへ大量に描き留めていた件が、一瞬頭をよぎった。
あれは問題行動に入らないらしい。
本人公認になったので、たぶん大丈夫なのだろう。
「今年は役員を何人か増やしたい。君なら仕事を任せられる」
「もっとほかに優秀な方がいらっしゃるのでは?」
「君が首席なんだろ」
「それを言われると弱いですけど!」
王立学園の生徒会は、そもそも誰でも入れるものではない。
王族やそれに連なる家の者は、将来の公務経験も兼ねて所属することが多く、
それ以外では、学業成績や教師からの推薦によって選ばれた優秀な生徒が中心だ。
だから、マリアンネに資格がないわけではない。
ないのだが。
「……殿下。私が生徒会に入ったら、毎日ここに来るんですよね?」
「基本的には」
「殿下も?」
「俺は生徒会長だぞ」
無理だ。
今でさえ、三日に一度ほど図書室へ現れるだけで供給過多なのに、
これからは毎日、放課後を同じ部屋で過ごすことになる。
さすがに心臓がもたない。
「……やっぱり、私には荷が重いかと」
「何が?」
「色々です!」
「具体的に」
「具体的には言えません!」
理由の大半が「推しが近すぎる」なのだから、この場で説明できるはずがない。
必死に逃げ道を探すマリアンネを見て、アレンダートは不思議そうに首を傾げた。
「マリアンネ、勉強は好きだろ? 書類仕事も嫌いじゃなさそうだが」
「……まあ、整理したりするのは好きです」
「去年の学園祭では会計の手伝いもしていたらしいな」
「よくご存じですね!?」
「推薦された人間のことくらい確認する。教師からの評価も高いし、向いてると思うけどな」
あまりにも正論で、言い返せない。
だが、アレンダートはそこで終わらなかった。
「それに、毎回君を探すのも面倒だからな」
「……はい?」
今、ものすごくおかしな理由が混ざった気がする。
「何ですかそれ! 毎回探すのが面倒って!」
「実際面倒だ。図書室にいない日もあるし、中庭にもいない」
「授業とか友人との予定とかありますから、
いつも同じ場所にいるわけでは……というか、そもそも探さなくていいんですよ!?」
「俺が困る」
「なんでですか!!」
思わず声を張り上げると、生徒会室にいた役員たちが一斉にこちらを見た。
しまった。
ここには二人しかいないわけではない。
「し、失礼いたしました……」
マリアンネが慌てて身を縮める一方で、アレンダートはまったく気にした様子もなく続ける。
「だから、ここに来るようになれば分かりやすい」
「私を何だと思ってるんですか!」
「学年首席の優秀な生徒」
「今の流れではそう聞こえませんでした!」
アレンダートの口元がわずかに緩んだ。
また楽しんでいる。
絶対に楽しんでいる。
「ともかく」
何事もなかったように話を戻すと、
アレンダートは机の上から一枚の書類を取り、マリアンネへ差し出した。
「教師からの推薦も出ている。正式に打診して問題ないことも確認済みだ」
「外堀が埋められてる……」
「何か言ったか?」
「いいえ……」
受け取った書類には、確かに複数の教師の署名が並んでいた。
学業成績優秀、勤勉、責任感あり。
協調性にも問題なしと、推薦理由までしっかり記されている。
ここまでされて、「推しが近すぎるので嫌です」と断るのは、さすがにどうなのだろう。
しかも困ったことに、生徒会の仕事そのものには少し興味があった。
学園行事の企画や予算管理、各委員会や教師との調整、
さらには外部との交流まで扱うとなれば、普通に面白そうである。
「……ちなみに、仕事内容は?」
「やっぱり興味あるんじゃないか」
「それとこれとは別です!」
すぐに食いついたことを指摘され、マリアンネは少しだけ視線を逸らした。
「まずは書記補佐と資料管理を任せる予定だ。慣れたら会計関係も頼みたい」
「資料管理……」
「過去の学園行事の記録も見られるぞ。他国の学園との交流記録もある」
「それはちょっと見たいです」
「決まりだな」
「まだです!」
危なかった。
今、普通に釣られかけた。
マリアンネは手元の書類とアレンダートの顔を見比べる。
仕事は面白そうだし、教師から正式な推薦まで出ている。
となれば、残る懸念は学業への影響くらいだ。
「……学業と両立できますか?」
「ああ。試験前は活動を減らすし、仕事が一人に偏らないよう分担もする」
そのあたりまできちんと考えられているらしい。
そうなると、唯一にして最大の問題は――やはりこれしかない。
「……殿下も毎日いるんですよね」
「だから生徒会長だと言ってるだろ。何がそんなに問題なんだ」
「私の心臓です」
「そろそろ慣れろ」
「何度お会いしても慣れません!」
「なら、もっと近くにいれば慣れるんじゃないか?」
「荒療治すぎませんか!?」
しかし、アレンダートは冗談ではなく、わりと本気でそう考えている顔だった。
駄目だ。
この人に、推しを推す側の繊細な心理など永遠に理解されない。
マリアンネは諦めるように大きく息を吐き、もう一度書類へ目を落とした。
「……分かりました。入ります」
「そうか。歓迎するよ」
途端にアレンダートが満足そうな顔をしたので、マリアンネは思わず眉を寄せる。
「なんで殿下がそんなに嬉しそうなんですか」
「戦力が増えるからだろ」
迷いなく答えたあと、アレンダートは少しだけ口元を緩めて付け加えた。
「マリアンネを探す手間も減るしな」
「やっぱりそれあるじゃないですかー!」
今度こそ、生徒会室のあちこちから堪えきれない笑い声が漏れた。
◇
こうしてマリアンネ・スターフェルトは、
本人が身構えていたよりもずっとあっさりと、生徒会役員になった。
最初の数日は、もちろん緊張した。
何しろ放課後に生徒会室へ行けば、そこには当たり前のようにアレンダートがいる。
遠くから眺めているだけだった頃には、到底考えられなかった環境だ。
「マリアンネ、昨日頼んだ資料は?」
「こちらです」
差し出した書類を受け取り、アレンダートは中身をめくりながら「早いな」と呟く。
「整理されていたので、それほど時間はかかりませんでした」
「そうか。確認する」
ただそれだけの、ごく普通の仕事上のやり取り。
けれど最初のうちは、その一つ一つをどうしても意識してしまった。
推しに仕事を頼まれている。
推しに書類を渡している。
そして今、推しが自分の作った資料を読んでいる。
仕事そのものより、そちらに気を取られるほうがよほど疲れる。
ところが人間とは恐ろしいもので、
一週間、二週間と毎日のように顔を合わせているうちに、そんな環境にも少しずつ慣れてきた。
もちろん、アレンダートが推しであることに変わりはない。
顔を見れば今日も格好いいと思うし、不意に笑いかけられれば今でも心臓は跳ねる。
それでも、仕事中は仕事だと切り替えるくらいのことはできるようになった。
そして、生徒会室で過ごすようになったからこそ、
図書室や中庭では見られなかったアレンダートの姿を知ることも増えていった。
◇
「……疲れた」
ある日の夕方。
大量の書類を処理し終えたアレンダートが、そう呟きながら椅子の背へ身体を預けた。
「お疲れさまです」
「ああ」
そのまま首元へ手を伸ばし、きっちりと締めていたネクタイをわずかに緩める。
マリアンネの手が止まった。
――何それ。聞いてない。
学園ではいつも隙なく制服を着こなしているアレン様が、生徒会室ではそんなことをするのか。
新規スチル。
いや、公式には存在しない。
リアル限定供給。
破壊力が高すぎる。
「……何だ?」
視線に気づいたアレンダートがこちらを向き、マリアンネは慌てて首を横に振った。
「何でもありません」
「また描きたい顔してるな」
「なんで分かるんですか!?」
「それだけ分かりやすければな。休憩中だし、描けばいいだろ?」
「……いいんですか?」
「今さら聞くのか」
その言葉を聞くなり、マリアンネは鞄へ手を伸ばした。
迷いなくスケッチブックを取り出す姿に、アレンダートが呆れたように笑う。
「仕事中は描かないんだな」
「それはもちろんです。今は休憩時間ですので」
「妙なところで真面目だな」
「前にも言われた気がします」
「そうか?」
もっとも、影から最初の報告を受けたときにも、
アレンダートが似たような感想を抱いていたことなど、マリアンネが知るはずもない。
鉛筆を走らせながら、ときどき顔を上げる。
少し緩んだネクタイに、背もたれへ深く預けられた身体。
いつもより力の抜けた表情まで、遠くから眺めていた頃とはまるで違って見えた。
近くにいるからこそ知ることのできる、普段とは少し違うアレンダート。
――生徒会、入ってよかったかもしれない。
ふとそんなことを思った瞬間、アレンダートと目が合った。
「今、嬉しそうな顔したな」
「してません!」
「してた」
「殿下は休憩しててください!」
「してるだろ」
アレンダートが楽しそうに笑う。
その笑顔まで描き留めたくなって、マリアンネは誤魔化すように紙の上へ視線を戻した。
遠くから見ているだけで十分だったはずなのに、
こうして近くにいるからこそ知ることのできるアレンダートが、少しずつ増えている。
そして、それを嬉しいと思っている自分の気持ちについては――まだ、あまり深く考えないことにした。
◇
それからさらに数週間が経ち、マリアンネは生徒会室で過ごす時間にも、だいぶ慣れてきていた。
もちろん、完全にではない。
不意に距離を詰められれば今でも驚くし、真正面から笑いかけられれば心臓は跳ねる。
それでも、少なくとも仕事中ならば、かなり普通に会話ができるようになった。
「マリアンネ、この数字確認してくれるか。昨年度の予算と合わない」
「はい。どこです?」
呼ばれて隣へ行き、アレンダートが指し示した箇所を覗き込む。
「ああ、これはたぶん――」
肩が触れそうな距離にいても、仕事に集中しているあいだなら、
以前のように毎回悲鳴を上げることはない。
本人としては、かなりの進歩だった。
ただし、それはあくまで仕事に集中しているあいだだけの話である。
「……終わった」
夕方、ひと区切りついたらしいアレンダートがペンを置いた。
「お疲れさまです」
「ああ。そっちは?」
「私も今終わりました」
「じゃあ、少し休憩するか」
生徒会室に残っていたほかの役員たちも、
それぞれ手を止め、用意されていた焼き菓子へ手を伸ばしている。
マリアンネも一ついただき、食べ終えてから指先を拭った。
少し迷った末に鞄からスケッチブックを取り出すと、すぐにアレンダートが気づく。
「今日も描くのか? 最近、生徒会室でもよく描くな」
「ここでしか見られない殿下が多いので」
「何だそれ」
笑いながら、アレンダートが椅子の背へ身体を預ける。
今日もネクタイは少しだけ緩められていた。
もう何度か目にした姿ではあるが、それでもやはりいい。
マリアンネは顔から首元、制服の襟へと線を重ね、
机の上に置かれた腕まで描いたところで、ふと鉛筆を止めた。
視線が、アレンダートの手へ向く。
前世のゲームでは、立ち絵やスチルでも顔や全身を見ることがほとんどで、
手だけをじっくり眺める機会などなかった気がする。
けれど今、その手は目の前の机に無造作に置かれていた。
指は長く、節もしっかりしているが、骨ばりすぎてはいない。
剣術を嗜んでいるせいか、ただ綺麗なだけではなく、ほどよく力強さも感じられる。
――綺麗だ。
描いてみたい。
そう思った瞬間、考えるより先に口が動いていた。
「……殿下の手、綺麗ですね」
言ってから、ぴたりと鉛筆が止まる。
しまった。
今、声に出した。
「そうか?」
アレンダートは特に気にした様子もなく、自分の手へ目を落とした。
もう言ってしまったものは仕方がない。
マリアンネは開き直ることにして、スケッチブックへ視線を戻す。
「はい。指が長くて形も綺麗ですし、
骨格もしっかりしてますけど、ごつすぎなくて……絵にしたら映えそうです」
「手だけでも?」
「手だけでも描きたいくらいです」
「じゃあ描けばいいだろ」
「今、描いてます」
顔を上げて手元を確かめると、アレンダートが少し考えるように自分の手を見た。
「そこからちゃんと見えるか?」
「はい。十分です」
「もっと近くで見るか?」
「……え?」
聞き返した次の瞬間、アレンダートが身を乗り出した。
そして、スケッチブックを押さえていたマリアンネの左手を取る。
頭が、理解を拒否した。
ついさっきまで絵に描こうと眺めていたその手が、今、自分の手に触れている。
「これなら分かりやすいだろ」
アレンダートは何でもないことのように言いながら、
持ち上げたマリアンネの手へ自分の手のひらを重ねた。
確かに分かる。
指の長さも、大きさも、骨の形も。
ものすごくよく分かる。
だが、それどころではない。
「な、な、な、何してるんですかー!?」
結局、悲鳴が出た。
生徒会室にいた全員が一斉にこちらを見たが、マリアンネには周囲を気にしている余裕などない。
「何って、近くで見せてる」
「見るとは言いましたけど、触るとは言ってません!!」
「触ったほうが骨格とか分かりやすいだろ」
「急に絵描きへの理解を深めないでくださいー!」
慌てて手を引こうとすると、その動きに気づいたアレンダートの指がすぐに緩んだ。
ただ、完全に離れる前に、彼は重なった二人の手を見比べる。
「君の手はずいぶん小さいな」
「その情報いりません!! もう無理です心臓がもちません!」
「手を見てるだけで?」
「見るのと触れるのは別問題なんです!」
「そういうものか?」
「そういうものなんです!!」
また、心底理解できないという顔をされた。
最近、この表情を見る機会がやたらと増えた気がする。
けれど次の瞬間、アレンダートの表情がふっと改まった。
「……嫌だったか?」
声音まで少し変わる。
マリアンネは動きを止めた。
冗談でも、からかっているわけでもない。
本当に嫌だったと言えば、今すぐにでも手を離すつもりなのだろう。
そう分かってしまうと、嘘は言えなかった。
「……嫌では、ないです」
答えると、アレンダートは少しだけ表情を緩めた。
「ならいいだろ」
「よくないんです! 心臓に悪いんです!」
その返しに、とうとうアレンダートが吹き出した。
「結局それか。毎日会ってても全然慣れないな」
「推しへの耐性なんて、そう簡単につかないんです!」
「毎日会ってれば、少しはつくだろ」
「毎日会ってるから余計にです!」
「……意味が分からないな」
「私も最近、ちょっと分からなくなってきました!」
そこまで言って、マリアンネは自分の言葉に引っかかった。
――最近、何が分からなくなってきたのだろう。
以前は単純だった。
アレン様は推し。
遠くから見られるだけで幸せで、それだけで十分だった。
けれど今は、話せば楽しい。
隣に座られれば緊張するけれど、嫌ではない。
むしろ、いない日は少し物足りなく感じることさえある。
こうして手に触れられて、恥ずかしくてどうにかなりそうなのに、
それでも――心の底から離してほしいとは思っていなかった。
「……マリアンネ?」
呼ばれて、はっと我に返る。
「何でもありません!」
考えるな。
今は、まだ考えてはいけない。
マリアンネは勢いよく首を振った。
「と、とにかく! 殿下の手はもう十分分かりましたから!
大きさも指の長さも確認できました! なので離してください!」
「分かった」
今度は素直に手を離してくれた。
触れていたところが軽くなり、ほっとした。
――はずなのに。
ほんの少しだけ、物足りないような気がした。
何を考えているの、私は。
慌てて鉛筆を握り直したものの、紙へ線を引くことはできなかった。
「描かないのか?」
「……今日はもう無理です」
「なんで?」
「手を見るたび思い出すので!」
「何を?」
「聞かないでください!」
アレンダートはまた楽しそうに笑っている。
絶対に楽しんでいる。悔しい。
それでもその日の夜、自室へ戻ったマリアンネは、結局スケッチブックを開いていた。
昼間描きかけたページには、アレンダートの横顔と、少し緩められたネクタイ。
それから、机の上に置かれた手が描きかけのまま残っている。
ふと自分の左手へ目を落とす。
もうとっくに離れているのに、触れられた感触だけが妙に鮮明に残っている気がした。
大きかった。
暖かかった。
「……無理」
誰もいない部屋で一人顔を赤くしながら、絵の端へ小さく書き込む。
『殿下の手、やっぱり綺麗だった』
そこで一度鉛筆を止めたものの、少し迷ってから、その下へさらに書き足した。
『というか触られた。意味が分からない。まだ感触を覚えてる。今日死ななかった私えらい』
書き終えた途端、急に恥ずかしくなって、マリアンネは鉛筆を置くと両手で顔を覆った。
「……本当に何してるんだろう、私……」
◇
その頃、王城へ戻ったアレンダートもまた、昼間の出来事をふと思い出していた。
手を取った瞬間、マリアンネは見たこともないほど真っ赤になった。
あれほど長いあいだ遠くから自分を眺め続けていたくせに、ほんの少し触れただけであの反応をする。
面白い。
最初は、そう思った。
けれど、それだけではないような気もする。
自分よりずっと小さかった手。
細い指。
重ねたときの感触が、なぜか今になっても妙に鮮明に残っていた。
アレンダートはしばらく自分の手を眺めたあと、小さく息を吐く。
「……何だろうな」
答えは出ないまま、再び机の上の書類へ視線を戻した。
その理由に気づくのは、もう少し先のことだった。
◇
それから数日後の放課後、マリアンネは借りていた資料を返すため、一人で図書室へ向かっていた。
腕の中には、学園行事に関する分厚い記録簿が二冊ある。
今日はアレンダートも教師との打ち合わせがあるらしく、生徒会室をいつもより早めに出ていた。
つまり、図書室へ向かう途中で突然話しかけられる可能性は低い。
そう考えて少し安心してしまった自分に、マリアンネは苦笑する。
別に、話したくないわけではない。
むしろ最近では、生徒会室で顔を合わせれば嬉しいし、
何気ない話をするのも楽しいと思うようになっていた。
だからこそ、困るのだ。
以前は遠くから眺めているだけで満足だった。
それなのに今は、話したいと思う。
忙しそうにしていれば気になるし、姿を見かけない日には少し物足りなく感じることさえある。
そこまで考えたところで、マリアンネは思考を振り払うように小さく首を振った。
――駄目。深く考えてはいけない。
アレン様は推しだ。
前世からずっと大好きだった人で、いずれセラフィーヌ王女と結ばれるはずの人。
自分はただ、その幸せを遠くから見守ることができればいい。
それで十分だったはずだ。
「スターフェルト様」
不意に呼び止められ、マリアンネは足を止めて振り返った。
そこには、同じ学年の令嬢が二人立っている。
たしか、どちらも高位貴族の娘だったはずだ。
「少し、よろしいかしら」
「はい?」
声音こそ丁寧だったものの、二人の表情はあまり穏やかではない。
何の用だろうと首を傾げていると、そのうちの一人が少し言いにくそうに口を開いた。
「最近、アレンダート殿下と随分親しくしていらっしゃいますわね」
――来た。
マリアンネは内心で遠い目をした。
いつかは、こうして何か言われるのではないかと思っていたのだ。
王太子であるアレンダートは、当然ながら令嬢たちから人気がある。
そんな彼の近くに、それまで特に目立つことのなかった伯爵令嬢が突然現れたのだから、
気になる者がいても不思議ではない。
しかも今では毎日のように生徒会室で顔を合わせ、
廊下ですれ違えばアレンダートのほうから声をかけてくる。
傍から見れば、親しくしているように見えるのだろう。
「生徒会の仕事でご一緒することは増えましたけれど……」
「それだけではないでしょう? 殿下のほうから、よくお声をかけていらっしゃるではありませんか」
それは、自分に言われても困る。
マリアンネのほうから話しかけたことなど、ほとんどないのだ。
どう答えたものかと困っていると、もう一人の令嬢も表情を引き締めた。
「殿下のお立場はお分かりでしょう? あまり距離を縮めすぎるのは、いかがなものかと思いますの」
少し刺々しい言い方ではあったが、不思議と腹は立たなかった。
むしろ、その言葉を聞いて最初に浮かんだのは――やっぱり、そう見えるのか、という思いだった。
近づきすぎている。
確かに、そのとおりかもしれない。
自分から近づいたつもりは一度もないのに、
アレンダートのほうが当たり前のように距離を縮めてくるものだから、
いつの間にかマリアンネ自身の感覚までおかしくなっていた。
だからこそ、ここで一度きちんと説明しておいたほうがいいのかもしれない。
「ご心配には及びません」
マリアンネは二人を安心させるように、にこりと笑った。
「アレンダート殿下のことは心から尊敬しておりますし、大好きですけれど」
その言葉に、令嬢たちが揃って目を見開く。
けれど、そこを隠すつもりはなかった。
推しなのだから、大好きなのは当然だ。
「私が殿下のお隣に立ちたいとか、そういうことはまったく考えておりませんので!」
「……そうなの?」
「はい」
きっぱりと頷いたものの、二人はまだ戸惑いを拭えないようだった。
「でも、あれだけ親しく……」
「殿下がお優しいだけです。私は今までどおり、
遠くから殿下がお幸せでいらっしゃるのを見られれば、それで十分なんです」
そう。
少なくとも、ずっとそう思ってきた。
アレンダートには、彼にふさわしい未来がある。
その隣に立つのは自分ではないし、そんな未来を望むつもりもない。
だから、これでいい。
「殿下にはきっと、もっとふさわしい方がいらっしゃいますから」
そう言って、マリアンネはいつもどおり笑ってみせた。
◇
少し離れた回廊の角で、アレンダートは足を止めていた。
教師との打ち合わせを終え、生徒会室へ置き忘れた書類を取りに戻る途中だった。
偶然マリアンネの声が聞こえてきただけで、聞き耳を立てるつもりなどなかった。
けれど――
『アレンダート殿下のことは心から尊敬しておりますし、大好きですけれど』
その言葉に、思わず足が止まった。
大好き。
そう言われたことが、ほんの少しだけ嬉しかった。
だが、続いて聞こえてきた言葉に、その気分はすぐに消える。
『私が殿下のお隣に立ちたいとか、そういうことはまったく考えておりませんので!』
アレンダートの眉間に、わずかに皺が寄った。
『私は今までどおり、遠くから殿下がお幸せでいらっしゃるのを見られれば、それで十分なんです』
そして最後に、
『殿下にはきっと、もっとふさわしい方がいらっしゃいますから』
何だ、それは。
胸の奥に、はっきりとした苛立ちが湧いた。
これまでにも、マリアンネは似たようなことを何度も言っていた。
遠くからでいい。自分から近づくつもりはない。
アレンダートは『推し』という存在だから、見ているだけで幸せなのだと。
そのたびに、そういうものなのかと首を傾げながらも、変わった令嬢だと面白がっていた。
なのに今、他人へ向かって、自分の隣に立つつもりはないとはっきり言い切る声を聞いた途端、
どうしようもなく腹が立った。
自分でも、なぜそこまで苛立つのか分からない。
アレンダートはしばらくその場に立ち尽くしていたが、
結局、その場ではマリアンネに声をかけず、そのまま別の回廊へと足を向けた。
◇
生徒会室へ戻ったアレンダートは、いつもどおり席につき、書類へ目を通していた。
機嫌の悪さを表に出しているつもりはなかった。
けれど、先ほど聞いたマリアンネの言葉が、どうしても頭から離れない。
やがて資料の返却を終えたマリアンネが戻ってきた。
「……会長。こちらの書類、確認を」
「ああ」
副会長から受け取った書類に目を通し、判を押して返す。
「次」
仕事そのものは滞りなく進んでいた。
ただ、普段より言葉が少なくなっている自覚はある。
しばらくすると、少し離れた席で書類を整理していたマリアンネが、
何度かこちらを窺っていることに気づいた。
何か言いたそうにしては視線を戻し、それでもまた少しするとこちらを見る。
やがて迷った末に、マリアンネのほうから声をかけてきた。
「……殿下。今日、少しお疲れですか?」
アレンダートは書類から顔を上げた。
「別に。そう見える?」
「いつもより、少しだけ」
その答えに、アレンダートはじっとマリアンネを見る。
こういう小さな変化には気づくのだ。
遠くから眺めているだけだった頃とは違い、
今では毎日のように近くで顔を合わせ、話をして、笑い合うようになった。
手を重ねただけで真っ赤になり、隣に座れば近いと騒ぐ。
それなのに、自分の隣に立ちたいとはまったく思っていないらしい。
「……何なんだよ」
「え?」
「いや。何でもない」
再び書類へ視線を落としたものの、マリアンネはまだ不思議そうにこちらを見ている。
その顔を見ていると、また妙に腹が立った。
自分だけ、何も知らないような顔をして。
――いや、実際に何も知らないのだろう。
そもそもアレンダート自身ですら、
なぜこんなにも苛立っているのか、まだ分かっていないのだから。
◇
夜、自室へ戻ってからも、昼間に聞いたマリアンネの言葉が頭から離れなかった。
『私が殿下のお隣に立ちたいとか、そういうことはまったく考えておりませんので!』
あれほど自分を好きだと言い、入学してからずっと遠くから眺め続けていた。
何十枚も絵を描き、話しかければ嬉しそうに笑う。
少し触れただけでも、分かりやすいほど顔を赤くする。
それなのに――
『殿下にはきっと、もっとふさわしい方がいらっしゃいますから』
「……何だ、それ」
アレンダートは小さく呟き、ベッドへ腰を下ろした。
自分にふさわしい相手が誰なのかを、なぜマリアンネが勝手に決めるのだろう。
王太子である以上、いずれ結婚することは分かっていた。
相手を選ぶ際には家柄や教養、
政治的な事情も考慮することになるのだろうと、これまでは漠然と考えていた。
けれど、もし自分の意思で誰かを選ぶのなら。
そう考えた瞬間、真っ先に浮かんだのは、
明るいベージュ色の髪と丸い眼鏡、それから楽しそうに笑う顔だった。
勉強の話になれば夢中になって、こちらが王太子であることすら忘れる。
かと思えばスケッチブックを胸に抱え、
『推しは遠くから愛でるものなんです!』と大真面目に力説する、変わった令嬢。
その顔を思い浮かべたところで、アレンダートはふいに息を漏らした。
「……ああ」
ようやく、すべてが繋がった。
自分は、マリアンネが好きなのだ。
「……そういうことか」
気づいてしまえば、驚くほど腑に落ちた。
なぜ何度も図書室へ足を運んだのか。
姿が見えなければ探し、生徒会へ入れてまで毎日顔を合わせようとしたのか。
手を重ねたときの感触が、いつまでも記憶に残っていたのか。
そして今日、自分の隣に立つつもりはないと言い切られただけで、なぜあれほど腹が立ったのか。
答えは、全部同じだった。
「……俺、あいつが好きなのか」
改めて口にしてみても、不思議なくらい違和感がない。
むしろ、どうして今まで気づかなかったのかと思うほどだった。
ただ、一つだけ問題がある。
マリアンネが自分を好きなのは間違いない。
本人が何度もそう言っているし、態度を見ていても疑いようがない。
それなのに、自分の隣に立つ気だけはまったくないらしい。
意味が分からない。
普通なら、相手も自分に好意を持っていると分かれば話は早いはずだ。
ところがマリアンネの場合、好きだからこそ遠くにいたいのだという。
自分を眺めていられればそれで幸せで、別の誰かと結ばれても、その幸せを見守れれば満足らしい。
アレンダートはしばらく考え込み――やがて、ふっと眉間の力を抜いた。
「……だったら」
よく考えれば、別に難しい話ではない。
マリアンネが今、自分の隣に立ちたいと思っていないのなら。
そう思うようにすればいい。
名前を呼ぶだけで動揺し、少し距離を詰めれば真っ赤になる。
手に触れただけでも、あれほど取り乱した。
しかも、こちらはこれまで一度だって、
マリアンネを恋愛対象として振り向かせようと思って行動したことはない。
それであの反応なのだ。
そう考えると、なんだか可笑しくなってきた。
「まだ何もしてないじゃないか」
ならば、やることは決まっている。
アレンダートは迷うことなく結論を出した。
「――よし。落とそう」
その夜、王太子アレンダート・イシュメリアは、
遠くから自分を眺めているだけで満足していた一人の伯爵令嬢を、本気で振り向かせることを決めた。




