↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/12

第三話 なぜか推しが日常に入り込んできます

放課後、マリアンネは図書室のいつもの席で、一人机に向かっていた。


窓際から少し離れた奥まった一角で、人通りが少なく静かなうえ、参考文献が並ぶ書架にも近い。

入学して半年ほどで見つけた、お気に入りの席だった。


机には今日の授業で使った教本と、書架から持ってきた三冊の参考書、

それから内容を整理するためのノートを広げている。


今取り組んでいるのは魔術史だ。

今日の授業では、約百年前に結ばれた隣国との魔術技術協定について扱った。

教本には締結年と概要しか載っていなかったが、

なぜその時期に両国が協力することになったのか気になり、関連資料を探していたのである。


知れば知るほど面白い。

発端は国境周辺で相次いだ魔獣被害で、そこから各国の魔術師の交流が始まり、

共同研究へ発展したらしい。

その流れが、現在の魔術交流競技会にもつながっている。


なるほど。

それなら協定だけを単独で覚えるより、魔獣被害からの流れで覚えたほうがずっと分かりやすい。

ノートへ簡単な図を書き込み、満足げに頷いたところで、真横から声が降ってきた。


「なるほど。そういうふうにまとめているのか」

「ひゃあっ!?」


肩が大きく跳ねる。

慌てて顔を上げると、アレンダートがすぐ横に立ち、興味深そうにノートを覗き込んでいた。


「ア、アレンダート殿下……!? いつからそこに!?」

「今だけど?」


「声をかけてください!」

「かけたら今の反応だったんだが」


「もっと遠くからお願いします!」

「図書室で大声出せって?」

「そういう意味ではありません!」


声を抑えて抗議すると、アレンダートは小さく笑った。

最近、この人は自分が慌てる姿を見て楽しんでいる気がする。

気のせいであってほしい。


「少し時間あるか? 君の勉強の仕方を教えてほしい」

「……私の、ですか?」

「ああ」


思いがけない用件に、マリアンネは眼鏡の奥でぱちりと瞬いた。


アレンダート自身、成績は優秀だ。

王太子として幼い頃から相応の教育を受けているだろうし、実際、学園でも常に上位に名を連ねている。


そんな人が、どうして一学年下の自分に勉強法を聞きに来るのだろう。

戸惑いが顔に出ていたのか、アレンダートは手元のノートへ視線を落としながら続けた。


「入学してからずっと首席だろ。そのノートも分かりやすそうだったから教えてほしい」

「……そういうことですか」


ようやく納得しかけたところで、アレンダートが空いている椅子へ目を向けた。


「座っていいか?」

「ど、どうぞ」


マリアンネは反射的に向かい側の席を示した。

――はずだった。


ところが、アレンダートは何の迷いもなく隣の椅子を引き、そのまま腰を下ろす。


座った。

隣に。

推しが。


マリアンネはしばらく固まったあと、恐る恐る横を見た。


「……殿下。近くないですか?」

「そうか?」

「近いです!」


思わず声が大きくなり、慌てて口元を押さえた。

図書室の奥で、司書がちらりとこちらを見る。

すみません。全部推しが悪いんです。


「じゃあ向かい側のほうがいいか?」


そう言われて、今度は真正面に座って向かい合うところを想像してしまった。


「……正面とかもっと死にます」

「……どこなら死なないんだ?」


なんとも言えない顔をされ、マリアンネは視線をさまよわせた。


「できれば斜め向かいで……いえ、三席くらい空けていただけると……」

「それじゃノートが見えないだろ」


「ノートだけお渡しします!」

「俺は説明を聞きに来たんだが」


正論だった。

遠隔でお願いします、と言いかけた言葉を飲み込み、マリアンネは肩を落とす。


「……分かりました。隣で大丈夫です……心臓には全然大丈夫じゃないですけど」

「慣れればいいだろ」

「簡単に言わないでください!」


アレンダートは気にした様子もなく、先ほど書いた図へ目を向けた。


「で、これは?」

「あ……今日の魔術史の授業をまとめ直していたんです。

教本に書いてあることを、そのまま覚えるのが苦手で」


「そうなのか? 意外だな」

「暗記はできますよ。でも、それだけだとすぐ忘れるじゃないですか。

だから、できるだけ理由と流れをつなげるんです」


勉強の話になると、意識は自然とノートへ向かった。

アレンダートが隣にいるのはもちろん大問題だが、今は説明する内容のほうが気にかかる。


「たとえば、この魔術技術協定ですけど。年号と締結国だけ覚えるより、

その前に何があったのかを調べたほうが覚えやすいんです。ここだと国境周辺で魔獣被害が増えて、

それぞれ単独で対応するより共同で研究したほうがいいという話になって――」


「それが協定につながった?」


「はい。その後、魔術師同士の交流が増えて、研究者だけでなく学生同士の交流にも発展しています。

だから、今の魔術交流競技会まで一本の流れなんですよ」


マリアンネはノートに書いた矢印を順番に辿った。


「こうすると、協定がいつ結ばれたか忘れても、前後の出来事からある程度推測できますし」

「丸暗記じゃなくて、因果関係で覚えてるのか」

「そうです!」


分かってもらえたのが嬉しくて顔を上げると、アレンダートと目が合った。

――近い。

話に夢中ですっかり忘れていたが、今は少し顔を向けるだけで目が合う距離にいるのだ。


「どうした?」

「……今、普通に喋ってました」


「ずっと喋ってただろ」

「違うんです! 殿下を意識してなかったんです!」


「それはそれで失礼じゃないか?」

「すみません!」


反射的に頭を下げると、アレンダートが思わずといった様子で吹き出した。


「いや、謝るなよ。気にしてないから、続き教えてくれ」

「……いいんですか?」

「そのために来たんだから」


まだ少し笑いを残したままノートへ視線を戻すアレンダートにつられ、

マリアンネも姿勢を正して手元へ目を落とした。


今度はなるべく横を見ないようにしよう。

話に集中していれば普通に喋れることは分かったが、

顔まで見てしまえば、また推しであることを意識してしまう。

だから、ノートだけを見る。


「ええと、それでですね。この辺りの政治史も一緒に見ると――」


そこからしばらく、二人は本当に勉強の話だけをした。


アレンダートは理解が早く、説明の途中で的確な疑問を挟んでくる。

マリアンネが考えたことのない視点から問いを投げられることもあり、

そのたびに新しく調べたいことが増えていった。

気づけば、最初の緊張はかなり薄れていた。


「じゃあ、この時期にイグナティア側で魔術師の待遇が変わったことも関係してるのか」

「あ、それは考えてませんでした! 確か向こうの書架に資料が……取ってきます!」

「俺も読みたいから、一緒に行く」


立ち上がったマリアンネに続き、アレンダートも席を離れる。

並んで書架へ向かう途中で、ふと我に返った。


待って。

今、自分は何をしているのだろう。

アレン様と並んで、図書室を歩いている。

しかも、さっきまで普通に会話していた。


「……マリアンネ? どうした?」


歩みが遅くなったのを不思議に思ったらしく、アレンダートがこちらを覗き込む。


「やっぱり無理です」

「何が」


「現実に気づきました。アレン様と普通に勉強してる……」

「今さら?」

「今さらです!」


遠目でもなければ、スケッチブック越しですらない。

今のアレンダートは、完全にマリアンネの日常の中へ入り込んできている。

供給の仕方がおかしい。


「……君、本当に俺を意識すると急におかしくなるな」

「すみません……勉強の話は楽しいので、つい……」

「俺と話すのは?」


その聞き方は卑怯ではないだろうか。

マリアンネはすぐには答えられず、少しだけ迷った。

それでも嘘をつく理由もなく、観念して正直に口にする。


「……楽しいです」

「そうか。ならよかった」


アレンダートが満足そうに頷いた。

何がよかったのだろう。

いや、そんなふうに嬉しそうな顔をされること自体がよくない。

そういうところが本当に心臓に悪い。


再び頬が熱くなるのを感じながら、

マリアンネは逃げるように視線を書架へ戻し、目的の本を抜き取った。


その後も席へ戻って勉強を続け、気づけばかなりの時間が経っていた。

やがてアレンダートが壁の時計を見上げる。


「そろそろ戻るか。参考になった。ありがとう」

「私なんかのやり方でよければ……」

「だから、そういうのやめろ。首席なんだろ。もっと自信を持て」


あまりにも当然のことのように言われ、マリアンネは思わず手を止めた。

アレンダートはそれ以上何も付け加えずに立ち上がる。

マリアンネも教本やノートを鞄へしまい、追加で持ってきた資料を書架へ戻した。


残った三冊の参考書は借りて帰るつもりで重ねていたのだが、

手を伸ばすより先に、アレンダートがまとめて抱え上げる。


「これ、全部借りるんだろ?」

「えっ、いいです! それくらい自分で持てます!」


「俺も持てる」

「そういう問題では……」

「じゃあ行くぞ」


返事を待つ気はないらしい。

三冊すべて持ったままさっさと歩き出すアレンダートに、

マリアンネは慌てて鞄を肩に掛け、そのあとを追った。


たった数冊の本を持ってもらい、貸出窓口まで並んで歩いているだけ。

それだけのことなのに、どうしてこんなにも心臓が忙しいのだろう。


手続きを終えると、アレンダートは借りた本をまとめてマリアンネへ渡しながら、

何気ない調子で言った。


「また教えてくれ」

「……また、殿下が隣に座るんですか?」


「そのつもりだけど」

「心臓がもちません!」


「じゃあ、それまでに慣れておけ」

「何をどうやってですか……!」


図書室だということを思い出し、慌てて声を落として抗議する。

その様子がおかしかったのか、アレンダートは声を殺して笑った。


「じゃあ、またな。マリアンネ」

「……はい」


去っていく背中を見送りながら、マリアンネは渡された三冊の本を胸元へ抱え直した。

最近、アレン様はやたらと「また」と言う気がする。

遠くから愛でていた頃には、一度も聞いたことのなかった言葉だ。


当たり前である。

あの頃は、話したことすらなかったのだから。


「……供給過多すぎる……」


その日も、マリアンネは顔を赤くしたまま図書室をあとにした。


◇


一方、アレンダートも帰りの廊下を歩きながら、先ほどまでの時間を思い返していた。

近づくだけで死ぬだの無理だのと騒いでいたくせに、勉強の話を始めればまるで別人だった。


知識があり、説明も分かりやすい。

何より、知らないことを知るのが本当に好きなのだろう。

疑問を投げかければすぐに考え込み、新しいことに気づけば嬉しそうに目を輝かせる。


「……なるほどな」


学年首席なのも納得だった。

ただ自分を遠くから眺め、妙な言葉を書き連ねているだけの変わった令嬢ではないらしい。


ふと、少し迷いながら「……楽しいです」と答えたときの顔が頭に浮かび、

アレンダートの口元が無意識に緩む。


「また行くとするか」


そう思ったことに、アレンダート自身は何の疑問も抱かなかった。


◇


図書室で一緒に勉強した日を境に、アレンダートとの距離は、

マリアンネの意思とは無関係に少しずつ縮まっていった。


とはいえ、マリアンネ自身の行動は何一つ変わっていない。

廊下で見かけても自分からは話しかけず、中庭で見つけても十分な距離を取る。

そして時折、邪魔にならない場所からスケッチブックを開いた。


本人から正式に許可までいただいているのだ。

堂々と、とはいかないものの、以前よりは後ろめたさなく描けるようになった。


その日もマリアンネは、中庭を見下ろせる二階の渡り廊下で鉛筆を走らせていた。

眼下では、アレンダートが数人の男子生徒と話をしている。


横顔がいい。

今日は珍しく、少しだけ前髪が乱れている。

風のせいだろうか。


――これは描いておかねば。


顔の角度や制服の襟、濃い赤色の髪が風に流れる様子を捉え、夢中で線を重ねる。

もちろんスケッチなので色はついていないが、脳内では完璧に補完できる。


今日もアレン様が格好いい。

幸せだ。

そう思って顔を上げた途端、アレンダートと目が合った。

しまった。また見つかった。


もう絵を描くことは公認されているのだから、以前ほど慌てる必要はない。

ないのだが、目が合うのは別問題だ。

反射的にスケッチブックで顔を隠そうとした、その瞬間。


アレンダートが笑った。


明らかにこちらへ向けて。

誰にでも向ける王太子としての穏やかな微笑ではなく、

マリアンネが見ていることに気づき、その反応を確かめるような笑い方だった。


顔を隠しかけていた手が、途中で止まる。

無理。今のは無理。

推しがこちらを見て笑った。

しかも偶然ではない。明確に、自分へ向けて。


「……死ぬ」


マリアンネは鉛筆を挟んだスケッチブックを胸へ抱きしめ、その場にしゃがみ込んだ。

心臓がものすごい勢いで脈打っている。


供給量がおかしい。

こんなのは頼んでいない。

遠くから愛でるだけで十分だと言ったはずなのに、なぜ本人が積極的に供給してくるのか。


しばらくそのまま心臓が落ち着くのを待ってから、

マリアンネはそっと顔だけを上げ、手すりの陰から中庭を覗いた。


アレンダートはまだこちらを見ていた。

しかも、明らかに笑っている。


「……もう無理」


耐えきれず、今度こそスケッチブックで顔を覆った。


◇


「何してるの、兄上」


隣から声をかけられ、アレンダートは視線を戻した。

フェルディナンドが不思議そうな顔でこちらを見ている。


「別に」

「今、誰かに笑ってなかった?」


弟は返事を待たずに視線を追い、二階の渡り廊下にいる女生徒を見つけた。


「あ。あれが、兄上の『推し』の子?」

「逆だ。俺があいつの推しだ」


「どっちでもよくない?」

「よくない」

「なんでそこだけ詳しくなってるの?」


アレンダートは答えなかった。

何度か本人から説明を聞いたものの、いまだに『推し』という言葉を完全に理解したわけではない。

ただ、自分がマリアンネにとって、その『推し』とやらであることだけは分かっている。


「へえ。あの子がスターフェルト嬢か。もっとこう、熱烈な感じの子を想像してた」

「あれ以上に?」

「……確かに」


スケッチブックで顔を隠しながら、

それでも時折こちらを確認している様子は、十分すぎるほど分かりやすい。


「あの子からは話しかけてこないの?」

「一度も。見かければ俺からは話しかけるけどな」


「知り合いだから?」

「ああ」


フェルディナンドが、にやりと笑った。


「兄上って、知り合い全員に見かけるたび話しかけるんだ?」

「……何が言いたい」


「別に。話しかけてないよね、ってだけ」

「うるさいぞ」


軽く睨んでも、弟はますます楽しそうに笑うばかりだ。


「でも面白いね、あの子」

「だろ」


反射的に答えると、フェルディナンドが意味ありげに口元を緩めた。

アレンダートはそこでようやく、自分が何を口にしたのかに気づいて眉を寄せる。


「何だ、その顔」

「別に? 兄上もずいぶん楽しそうだなと思って。

あ、また隠れた。兄上が笑っただけで毎回あんな感じになるの?」


そう言いながら、フェルディナンドは再び渡り廊下へ目を向けた。


「あいつはよく死にかけるんだ」

「何それ」


フェルディナンドの笑い声が、中庭へ響いた。


◇


それからというもの、アレンダートは以前にも増して図書室へ姿を見せるようになった。

最初のうちは、まだ理由があった。


「この前の続きなんだが、イグナティア側の魔術師制度について資料を見つけた」

「本当ですか!?」


そんなふうに勉強の話をしたり、マリアンネのまとめ方を使ってみた感想を教えてくれたりする。


「思ったより覚えやすい」

「でしょう!?」


マリアンネも、勉強の話なら楽しい。

推しが近いことさえ意識しなければ普通に会話できる。

問題は、そのうち特に用事もなさそうなのに現れるようになったことだった。


ある日の放課後、いつもの席で本を読んでいると、見慣れた濃い赤髪が近づいてきた。


「マリアンネ。何を読んでるんだ?」

「こんにちは、殿下。北部領の農業史です」


「また随分と渋いな」

「面白いですよ」


アレンダートは「そうか」と頷き、当然のように隣の椅子を引いた。


最近ではもう、席について文句を言うのも半ば諦めている。

近いものは近いが、騒いでも移動してくれないのだから、なるべく意識しないのが一番だ。


彼も持ってきた本を開き、二人の間に静かな時間が流れ始めた。


十分ほど読み進めたところで、マリアンネはそっと横を見る。

真剣な横顔の向こうで、長い指がページをめくっていた。


――いや、これはこれで供給が強い。

スケッチしたい。

しかし、隣でいきなり本人を描き始める勇気はない。


視線を本へ戻したものの、今度は別のことが気になってきた。

さらに数分迷ってから、小声で呼びかける。


「……あの、殿下。最近、図書室に来る率、高くないですか?」

「そうか? 前から来てるけど」


「以前は週に一度お見かけするかどうかくらいでした」

「よく見てるな」


「推しなので」

「そうだったな」


もうそこは普通に受け入れられている。


「最近は三日に一度くらいいらっしゃいません?」

「数えてるのか?」

「毎回話しかけられたら分かります!」


アレンダートは「なるほど」とだけ言って、本へ視線を戻した。

それでは納得できず、マリアンネはさらに尋ねる。


「何しに来てるんですか?」

「本を読みに。勉強もするけど」


「それは分かりますけど、前から図書室はありましたよね?

最近急に利用頻度が上がった理由を聞いてるんです」


アレンダートは少し考えた。そんなに難しい質問だっただろうか。


「ここが静かだから?」

「前から静かです」


「本が揃ってる」

「前から揃ってます」


「君がいるから」


マリアンネが固まった。

アレンダートも特に深く考えず口にしたらしく、そのまま本へ視線を戻している。

反応がないことを不思議に思ったのか、少ししてこちらを見た。


「どうした?」

「い、今、私がいるって……なんでそれが理由に入るんですか!?」

「話せるだろ。勉強の話もできるし」


マリアンネは両手で顔を覆った。


「供給が強いです……」

「またそれか」


「殿下はもう少し、ご自分の言葉の破壊力を理解してください!」

「よく分からないな」


アレンダートは小さく笑った。

本人は大したことを言ったつもりがないらしい。それが一番困る。

こういうことが増えていた。


普通に話しかけてきて、普通に隣に座り、名前を呼ぶ。

そしてときどき、こちらが勝手に深読みしてしまいそうなことを、何でもない顔で口にするのだ。

そのたびに、マリアンネの心臓は大忙しだった。


しかし不思議なことに、以前ほど、彼と話すことそのものには緊張しなくなっていた。

勉強や読んだ本、授業の話。ときには、フェルディナンドの愚痴まで聞くようになった。


「昨日、あいつ剣術の授業のあと、泥だらけのまま俺の部屋に来たんだぞ」

「ふふっ。フェルディナンド殿下らしいですね」


「笑い事じゃない。絨毯がひどいことになった」

「殿下、ご自分で掃除されたんですか?」

「まさか。侍従にものすごい顔された」


そのときの様子を思い出したらしく、アレンダートが眉を寄せる。

マリアンネは笑いを堪えながら頷いた。


「それはフェルディナンド殿下が悪いですね」

「だろ?」


そんな会話をして、気づけば一緒に笑っている。

そのたびに、マリアンネは思う。

これは、ゲームでは知らなかったアレン様だと。


弟に呆れる顔や、くだらないことで笑う声。

疲れている日は、ほんの少しだけ机に肘をつく癖。

集中すると、眉間に薄く皺が寄ること。


知れば知るほど、マリアンネの中で、

アレンダートは前世で大好きだった『こいはな』のサブキャラクターではなくなっていった。


画面の中の推しより、今、目の前で笑っている人のほうが、ずっと――


いや。

マリアンネはそこで思考を止めた。深く考えてはいけない。

アレン様は推し。それでいいのだ。


◇


冬が過ぎ、春が近づく頃には、

アレンダートにとっても、マリアンネと話すことはすっかり日常の一部になっていた。


廊下を歩けば明るいベージュ色の髪を探し、図書室へ行けばいつもの席を確認する。

中庭を通るときには、どこかからスケッチブックを構えていないか気にするようになっていた。


見つければ声をかける。

マリアンネは毎回驚くが、最近では最初の頃ほど逃げなくなった。


近づけば「近いです」と言い、名前を呼べば少し赤くなる。

それでも、そのあとは普通に話す。

面白い本があれば教えてくれるし、分からないことを聞けば一緒に考えてくれた。

会話の中で、逆に質問されることも増えている。


ただ、彼女のほうからアレンダートを探しに来ることは、相変わらず一度もなかった。


ある日の放課後、中庭の向こうにマリアンネを見つけた。

目が合うと嬉しそうに笑ったが、近づいてはこない。

それどころか、そのままスケッチブックを開いてしまう。


アレンダートは数秒眺めたあと、自分から歩き出した。

遠くでマリアンネが「えっ」という顔をする。

近づくにつれて慌て始めるその顔に、自然と口元が緩んだ。


「今日も描いてるのか?」

「な、なんで毎回こっち来るんですか!」

「いたから」


「私は遠くからでいいんです!」

「俺は別に遠くじゃなくてもいい」


当然のように足を止めると、マリアンネはスケッチブックを胸元へ引き寄せた。


「私が困ります!」

「知ってる」


「知ってて来てるんですか!?」

「ああ」

「ひどい!」


そう言いながらも、マリアンネはもう逃げなかった。


◇


そして春、アレンダートは十八歳になり、イシュメリア王立学園の最終学年へ進級した。


王太子としての立場に加え、成績も優秀で、これまでの生徒会活動での実績も十分にある。

当然のように、新年度からは生徒会長を務めることになった。


一方のマリアンネも十七歳となり、二年生へ進級した。

相変わらず学年首席を維持しており、新年度最初の試験でも、

掲示板の一番上には『マリアンネ・スターフェルト』の名がある。


その名前を眺めながら、アレンダートは今年も変わらないらしいと思った。


成績は首席。

放課後になれば図書室にいて、天気がよければ中庭で自分の絵を描いている。

そして相変わらず、自分からはこちらへ来ない。


「……面倒だな」

「何が?」


隣にいたフェルディナンドが首を傾げる。


「毎回、あいつを探しに行くのが」


そう答えると、なぜか弟から返事がない。

不審に思って顔を向ければ、フェルディナンドはなんとも言えない表情でこちらを見ていた。


「兄上。それ、自分で何言ってるか分かってる?」

「分かってるつもりだが」

「……そう」


まだ何か言いたそうだったが、フェルディナンドは結局それ以上口を挟まなかった。


アレンダートは再び掲示板へ視線を戻す。

マリアンネの学業成績は申し分なく、教師からの評価も高い。

生徒会の仕事を任せても問題はないだろう。


それに、生徒会室へ来るようになれば、わざわざ図書室や中庭まで探しに行く必要もなくなる。

そう考えたところで、答えはあっさり決まった。


「よし。マリアンネを生徒会に入れるか」

「……今のでそこに行き着くんだ」


フェルディナンドが呆れたように息をつく。


「適任だろ」

「うん。そういうことにしておくよ」


◇


数日後。

そんな兄弟の会話があったことなど知る由もないマリアンネは、生徒会室へ呼び出されていた。

そして、扉を開けて早々。


「マリアンネ。生徒会に入れ」


開口一番そう告げられた彼女は、


「……はい?」


新年度最初の処理落ちを起こすことになる。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。