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第二話 なぜか推しが距離を詰めてきます

翌朝、マリアンネは人生でかつてないほど重い足取りで、イシュメリア王立学園へ向かっていた。


昨夜はほとんど眠れなかった。

眠ろうとするたびに昨日の出来事が脳裏を駆け巡り、

そのたびに布団の中で頭を抱える羽目になったのだ。


アレン様に話しかけられた。

名前を呼ばれ、学年首席であることまで知られていた。

それだけでも大事件だったのに。


――勝手に絵とか描いててすみませんでしたー!!


聞かれてもいないことを自白し、王太子殿下の前から逃げ出した。

挙げ句の果てに、スケッチブックまで落としてきた。

思い出すだけで消えたくなる。


何度「お願いだから誰か親切な人が拾って事務室へ届けていて」と祈ったことだろう。

しかし、最後にスケッチブックを持っていたのは中庭のベンチで、

自分が逃げ出したあと、その場に残っていたのは――


「……アレン様、だよね……」


考えうる限り、最悪の相手だった。

いや、まだ決まったわけではない。

アレンダートが拾ったとは限らないし、仮に拾ったとしても、中身まで見たとは限らない。

表紙には名前を書いていないが、ぱらりと一枚開いただけで閉じてくれている可能性だってある。


『今日もアレン様が格好よすぎる。眼福。午後も頑張れる』

『一瞬目が合ってしまった。死ぬかと思った』

『推しが元気。それだけで幸せ』


自分で書いた言葉が、次々と頭の中に蘇る。


「……無理」


教室にたどり着くなり、マリアンネは自分の机に突っ伏した。

隣の席の友人が、不思議そうに顔を覗き込んでくる。


「どうしたの、マリアンネ。朝から元気ないわね」

「……大切なものを落としたの」

「まあ。それは大変ね。落とし物の届けは確認した?」


顔だけ横へ向けて首を振ると、

友人は「じゃあ、休み時間に一緒に行きましょうか」と申し出てくれた。


「ありがとう……」


人の善意が身に染みる。

どうかこの優しい世界のどこかに、

マリアンネの羞恥に満ちたスケッチブックも保護されていてほしい。

そんな淡い希望を抱いたとき、教室の外が急にざわついた。


「どうしたのかしら」


友人が廊下へ視線を向ける。

つられてマリアンネも何気なく顔を上げ――そのまま固まった。

教室の入口に、見慣れた濃い赤髪の青年が立っている。


嘘だ。幻覚に違いない。

寝不足がついに限界を迎えたのだろう。

そうでなければ、なぜ一年生の教室にアレンダート・イシュメリア王太子殿下がいるのか。


「アレンダート殿下……?」

「どうしてこちらに? どなたかに御用かしら……」


周囲の生徒たちも明らかにざわついているところを見ると、

残念ながら自分だけに見えている幻覚ではないらしい。

アレンダートは教室内を見渡したあと、迷うことなくマリアンネへ視線を向けた。


「マリアンネ・スターフェルト」


呼ばれた。

その瞬間、教室中の視線まで一斉にこちらへ集まる。

今すぐ床が割れて、そのまま地中へ飲み込んでくれないだろうか。


「……はい」


どうにか返事をして立ち上がる。

だが、アレンダートが手にしているものに気づいた瞬間、今度こそ思考が完全に停止した。


見慣れた革張りの表紙。

昨日から行方を案じ続けていた、あのスケッチブックだ。


――終わった。

やはり拾ったのはアレン様だった。


マリアンネが本気で人生の終わりを感じているあいだにも、

アレンダートは周囲から向けられる好奇の視線などまるで気にした様子もなく、

手にしたスケッチブックを軽く持ち上げた。


「昨日の忘れ物だ」

「……あ、ありがとうございます……」


見つかった。

いや、見つかってしまった。

無事に戻ってきたことを喜ぶより先に、中身をどこまで見られたのかという恐怖が押し寄せる。


「それと、少し話したい。時間はあるか?」


――やっぱり終わった。

ないと言いたい。

ものすごく、ないと言いたい。


けれど、王太子殿下から真正面に問われて、

一介の伯爵令嬢が即座に「ありません」と答えられるほどの勇気は、マリアンネにはなかった。


「……はい」

「なら来てくれ」


それだけ言って教室を出ていく背中を、マリアンネはしばらく呆然と見つめていた。


「……マリアンネ? 殿下とお知り合いだったの?」


友人の戸惑った声に、ようやく我に返る。


「……昨日、初めてお話ししたの」

「昨日? それで今日、わざわざ忘れ物を届けに……?」


そこは深く考えないでほしい。


「行ってくるね……」


友人どころか教室中から視線を浴びながら廊下へ出ると、少し先でアレンダートが待っていた。

その姿を見ただけで、また心臓が跳ねる。


昨日までは、遠くから眺めているだけで幸せだったのに、どうして今日はこんなに近いのだろう。

というか、なぜ二日連続で話しているのか。

人生には適切な供給量というものがある。

今のこれは、明らかに過剰供給だ。


「こっちだ」

「はい……」


案内されたのは、昨日の場所から少し離れた中庭の一角だった。

植え込みに囲まれていて、完全に人目がないわけではないものの、

行き交う生徒に普通の声で話しているぶんには、会話の内容まで聞こえそうにない。


そこで足を止めたアレンダートが、改めてスケッチブックを差し出した。


「ほら」

「……ありがとうございます」


恐る恐る受け取る。

ようやく手元へ戻ってきたというのに、安心するどころか心臓はますますうるさくなった。

問題は、ここからだ。


「……あの」

「何?」


マリアンネはスケッチブックを胸元へ抱え込みながら、覚悟を決めて尋ねた。


「……中、見ましたか?」

「見たよ」


即答だった。

せめて一瞬くらい迷ってほしかった。


「上手に描けていたな」

「気にしてるのはそこじゃありませんー!!」


思わず声を張り上げてしまい、中庭にマリアンネの声が響き渡った。

会話までは聞こえないはずの距離にいた生徒まで何事かと振り返り、

マリアンネは慌てて口元を押さえる。


もう遅い。

対するアレンダートは、周囲の視線など気にした様子もなく、不思議そうに首を傾げた。


「何だ。絵の話じゃないのか?」

「違います! いえ、絵の話でもあるんですけど! そうではなくて!」


「落とし主を確認するために開いたんだが、途中から興味が湧いた」

「興味を持たないでください!」


「無茶を言うな。あれだけ俺ばかり描かれていたら、気にもなるだろう」

「うぅ……」


何も言い返せない。

しかも、アレンダートの口元はわずかに緩んでいた。


推し本人に、自分の限界オタク記録を読まれたうえで笑われている。

そう思うと、もういっそこの場から消えてしまいたくなる。


「……本当に申し訳ございませんでした。昨日も申し上げましたけど、もう描きませんので……」


深々と頭を下げると、返ってきたのは思いがけない言葉だった。


「なぜ? 俺は別に、やめろとは言っていないぞ」

「……怒っていらっしゃらないんですか? 勝手に観察して描いていたんですよ?」


「嫌ならそう言っている。害があるわけでもないし、どこかに売っているわけでもないんだろう?」

「売るなんて恐れ多いことしません!」


勢いよく顔を上げると、アレンダートはあっさり頷いた。


「なら好きにすればいいだろ」

「……いいんですか?」

「ああ。存分に描けばいい」


本人公認。

その言葉がじわじわと頭に染み込み、マリアンネの頬が思わず緩む。


これからもアレン様を描いていい。

しかも、本人がいいと言っている。

そんなとんでもない許可をもらってしまったことに胸が弾み、

その様子を見ていたアレンダートも少し笑った。


「なんなら、モデルをしてやってもいいぞ?」

「そんな恐れ多いこと頼めません! 無理です! 細部とか無理です!」

「細部?」


アレンダートが目を瞬いたが、マリアンネは勢いのまま続けた。


「私は遠くにいる殿下を見られるだけで十分なんです!

今後も私から近づいたりいたしませんし、ご迷惑もおかけしませんので!

これまでどおり、遠くからこっそり描くことだけ許していただければ、それで十分です!」


胸元にスケッチブックを抱えたまま、必死に頭を下げる。

しばらく返事がなく、恐る恐る顔を上げると、

アレンダートはなんとも言えない表情でこちらを見ていた。


「別に近づくなとも言ってないんだが」

「でも、私なんかが殿下に近づくなんて恐れ多いです!」


「俺が近づくのは?」

「もっと困ります! 無理です!」

「……なんだそれ」


心底理解できない、とでも言いたげな顔をされる。


だが、分かってほしい。

推しというものは、遠くから眺めるからこそ心穏やかに愛でられるのだ。

至近距離から紫紺の瞳で見つめられるなど、心臓への負担が大きすぎる。


アレンダートはそんなマリアンネをしばらく眺めたあと、ふと思い出したように口を開いた。


「そういえば、俺は君の『推し』ってやつなんだろ?」


マリアンネの全身が固まる。

そこまで読まれていた。


「…………はい」

「どういう意味なんだ?」


「説明するんですか!?」

「俺のことなんだろ。気になる」


当然のように言われ、マリアンネは言葉に詰まった。

胸元に抱えたスケッチブックへ視線を落としながら、どうにか言葉を探す。


「ええと……とても好きで、見ているだけで幸せになれる人というか……」

「憧れみたいなものか?」

「近いような、ちょっと違うような……説明が難しいです」


アレンダートは少し考えるように首を傾げた。


「それなのに、近づきたくはない?」

「はい!」


即答すると、また何とも言えない目を向けられた。


仕方がない。

マリアンネだって逆の立場なら、少しくらい不思議に思うかもしれない。

それでも、これだけは譲れなかった。


「推しは遠くから愛でるものなので!」


自信満々に言い切ると、アレンダートは数秒黙った。


「……そういうものなのか?」

「そういうものなんです!」

「分かったような、分からないような……」


どうやら納得はしていないらしい。

それでも、それ以上追及する気はないようで、アレンダートは軽く肩をすくめた。


「まあいい。絵は好きに描け。今度は落とすなよ」

「はい……! ありがとうございます!」


改めてスケッチブックの存在を意識した途端、

先ほどまでの羞恥が蘇り、マリアンネはそれをさらに強く胸へ抱きしめた。


これで終わり。

今度こそ、本当に終わりだ。


推し本人に限界オタク記録を読まれるという大事故は起きたものの、絵を描く許可までいただけた。

ならば、これからはまた今までどおり、遠くから静かにアレン様を愛でていればいい。


そう思って安心したマリアンネは、まだ知らなかった。

自分が「今後も近づきません」と宣言したその日から、

なぜか今度はアレンダートのほうが、少しずつ距離を詰めてくるようになることを。


◇


その日の夕方、王城へ戻ったアレンダートは、

自室へ向かう途中で弟のフェルディナンドと鉢合わせた。


「兄上、おかえり」

「ああ」


フェルディナンドは訓練帰りらしく、

軽装の訓練着を着たままで、額にはまだ汗が残っている。

そのまますれ違いかけたところで、アレンダートはふと足を止めた。


「フェルディナンド。一つ聞きたい」

「珍しいね。何?」


振り返った弟へ、アレンダートは至って真面目な顔で尋ねた。


「『推し』って知ってるか?」

「……何それ? 兄上こそ、どこでそんな言葉覚えたの?」


「今日、一年生のスターフェルト伯爵令嬢から聞いた。正確には、俺が彼女の『推し』らしい」

「ああ、いつも首席の子? ……って、どういう状況?」


フェルディナンドはますます分からないという顔をする。

無理もない。アレンダート自身、いまだによく分かっていないのだ。


「説明すると長いんだが……」

「聞きたい」


フェルディナンドは間髪入れずに身を乗り出した。

妙に楽しそうな顔をしているのが少し腹立たしいが、話を振ったのはこちらである。


「……前に話した、俺を見ていた相手があの令嬢で、気になって調べさせたら、

遠くから俺の絵を何枚も描いていたんだ」

「兄上の絵を? なんで?」

「だから、それを俺が聞きたい」


アレンダートは、昨日から今日にかけて起きたことをかいつまんで説明した。

スケッチブックに自分の絵ばかり描かれていたことや、そこに添えられていた妙な感想まで話すと、

フェルディナンドは途中で笑い出したが、構わず続ける。


「要するに、俺を見ているだけで幸せで、自分から近づくつもりはないらしい」

「それって、好きってことじゃないの?」

「おそらく、それに近いとは思う」


「じゃあ普通は近づきたくならない?」

「そう思うだろう?」


二人そろって首を傾げる。


「近くで描けばいいと言ったら、『細部とか無理です』と即答された」

「何が無理なの?」

「知らん。聞いても『推しは遠くから愛でるものです』と力説されただけだ」


フェルディナンドはしばらく考えていたが、やがて諦めたように首を振った。


「……やっぱり分かんないな。まあ、向こうから近づく気がないなら、放っておけばいいんじゃない?」


アレンダートはすぐには答えず、わずかに視線を逸らした。

その反応が意外だったのか、フェルディナンドが不思議そうに顔を覗き込んでくる。


「兄上?」

「……まあ、そうなんだが」


「何その間。気になってるじゃん」

「意味が分からないからだ」


即座に返したものの、フェルディナンドは妙に含みのある顔で「へえ」と呟いた。


「兄上って、意味の分からないものでも害がなければ放っておける人だと思ってたからさ。

わざわざ俺に聞くくらいには気になってるんだなって」

「言葉の意味が知りたかっただけだ。その顔やめろ」


「はいはい。でも、そのスターフェルト嬢って、兄上が近づくと逃げるんでしょ? 面白いね」

「面白い、か?」

「だって、兄上に近づきたい令嬢はいくらでもいるのに、その子だけ逆なんだろ?」


言われてみれば、その通りだった。

半年も自分を見ていたくせに、いざ話しかければ逃げる。

何十枚も絵を描いているのに、近くで描こうとはせず、

むしろ今後も自分からは近づかないと宣言する。


やはり、変わっている。


「今度見てみたいな、その子」

「勝手に絡むなよ。余計なことをしそうだからな」


「ただ見てみたいだけなのに」

「お前の場合、それで終わる気がしない」

「ひどいなあ」


フェルディナンドは笑いながら再び歩き出したが、

数歩進んだところでふと思い出したように振り返った。


「あ、兄上。結局、兄上がその子の『推し』ってことで合ってるの?」

「ああ。たぶん」


「ふーん。兄上が誰かの『推し』かあ」

「……意味も分かってないくせに使うな」

「兄上だって分かってないじゃん」


返す言葉がなかった。

フェルディナンドは満足そうに笑うと、今度こそ廊下の向こうへ消えていく。

一人残されたアレンダートは、その背をしばらく見送ったあと、ぽつりと呟いた。


「……推し、か」


やはり、よく分からない。

ただ、絵を描いてもいいと伝えた瞬間、

マリアンネがぱっと嬉しそうに顔を輝かせたことだけは、なぜか妙に鮮明に思い出せた。


◇


スケッチブックを返してもらった翌日、

マリアンネはこれまでの学園生活を取り戻すべく、いつもの中庭の片隅にいた。


木陰に置かれたベンチは、回廊を行き交う生徒たちの邪魔にもならず、

アレンダートを見かけても十分な距離を保ったまま眺めることができる。


完璧だ。


この二日間は少々――いや、かなり大きな事故が続いた。

推し本人に存在を認識され、スケッチブックの中身まで読まれ、

挙げ句には「モデルをしてもいい」などという、とんでもない提案まで受けてしまった。


それでも、これからも絵を描いて構わないという許可はもらっている。

ならば、今日からまた以前と同じ生活に戻ればいいだけだ。


遠くから、静かに、決して近づかず。

推しが今日も健やかであることを確認し、ときどきその尊い姿を紙の上へ残す。

これこそが、マリアンネの望む平穏な推し活である。


「よし」


胸元で小さく拳を握った、そのときだった。

回廊の向こうに、見慣れた濃い赤色が現れる。


――アレン様。今日は一人だ。


午後の授業へ向かう途中なのだろうか。

姿勢よく歩く姿を目で追っていると、自然と頬が緩んだ。


昨日あれほど恥ずかしい思いをしたというのに、やはり推しは推しである。

本人にスケッチブックを見られたくらいで、その尊さが損なわれるわけではない。


今日は少し風がある。

髪が揺れるところを描きたい。


いそいそと鞄からスケッチブックを取り出し、鉛筆を構えた、その瞬間。

アレンダートがこちらを見た。

目が合った。

反射的にスケッチブックで顔を隠しかけたものの、すぐに思い直す。


――大丈夫。

もう、絵を描いていることは知られている。

見つかったからといって逃げる必要はないのだ。

このまま遠くから、いつもどおり――


「マリアンネ」

「ひゃっ!?」


思っていたより、声が近い。

恐る恐るスケッチブックを下げると、いつの間にかアレンダートがベンチの前まで来ていた。


「な、なんでこっちに来るんですか!?」

「君がいたから」


「それ、理由になります!?」

「なるだろ」


あまりにも当然のように返されて、マリアンネは言葉を失った。


いや、ならない。

少なくとも自分の中では、絶対にならない。


推しを見つけたからといって、近づいていいわけではないのだ。

だからこそ自分は、この半年ずっと遠くから眺めるだけで満足してきたのだから。


「……できれば、もう少し向こうへ行っていただけると……」

「なぜ?」

「遠くから見たいので」


「俺を? 今ここにいるのに?」

「そこが問題なんです!」


アレンダートが不思議そうに首を傾げる。本当に何が問題なのか分かっていないらしい。


「昨日も言っただろう。絵を描くことは気にしてない。ここで描けばいい」

「近すぎます!」


「昨日よりは遠いぞ」

「比較対象がおかしいです!」


昨日は至近距離で会話をしていたのだ。

それより多少離れたところで、マリアンネにとって安心できる距離になったわけではない。

少なくとも、今の三倍は離れてほしい。


「私は、いつもどおり遠くからアレン様を――」


そこまで口にして、ぴたりと止まった。

しまった。

声に出した。


恐る恐る顔を上げると、案の定、アレンダートの眉がわずかに上がっている。


「アレン様? それ、俺のことだよな?」

「……忘れてください」


「無理だな。スケッチブックにもずっとそう書いてあったし」

「だから読まないでほしかったんですー!」


マリアンネは鉛筆をスケッチブックに挟んで膝へ置くと、そのまま両手で頭を抱えた。

この人、昨日から本当に容赦がない。


「別にいいだろ。呼びたいなら呼べば」

「面と向かって呼べるわけないじゃないですか! 推しなんですよ!?」

「またそれか」


アレンダートは呆れたように小さく息をついたが、仕方がない。

マリアンネにとって、推しとはそういうものなのだ。


「それより、マリアンネ」


不意に改めて名前を呼ばれ、マリアンネは頭を抱えていた手を下ろし、おずおずと顔を上げた。


「……というか、なんで普通に名前で呼んでるんですか」

「スターフェルト嬢って呼びにくいから。もう知り合いになったんだし、いいだろ」


「いつの間に知り合いになったんですか!?」

「昨日」

「昨日!?」


確かに会話はした。

だが、あれを「知り合いになった」と数えていいものなのだろうか。

マリアンネとしては、推し本人に羞恥を晒した記憶しかない。

戸惑うこちらをよそに、アレンダートは少し考える様子を見せた。


「マリアンネも長いな。マリ、とかでいいか?」

「それだけは、絶対にやめてください!!!」


近くを通っていた生徒が驚いて振り返ったが、気にしている余裕はなかった。


「なんでだよ」

「私が死にます!!」


「大げさだな」

「大げさじゃありません! 今回は本当に危ないんです! 再起不能になります!」


説明できるわけがない。前世の自分の名前が「マリ」だったこと。

そのマリが、画面の向こうにいるアレンダートを、ずっと「アレン様」と呼んでいたこと。

そして今、その本人から「マリ」と呼ばれようとしている。

そんなもの、耐えられるわけがない。


「嫌なのか?」

「嫌じゃないです!」


「ならいいだろ」

「嬉しすぎて死んでしまうので、駄目なんですー!」


アレンダートは数秒黙り込んだあと、呆れたように息を吐いた。


「……本当に面倒だな、君」

「すみません!」


「謝るところなのか?」

「分かりません!」


自分でも分からない。そんなマリアンネを見て、彼の口元が少しだけ緩んだ。


「分かった。今はマリアンネにしておく」

「ありがとうございます……って、今は?」

「そこは拾わなくていい」


絶対に覚えている。

この人は今後、どこかで「マリ」を再び持ち出してくる。

その予感だけは確信に近かった。


アレンダートは何事もなかったように、膝の上のスケッチブックを指差した。


「ところで、今日は描かないのか? さっきまで描こうとしてただろ」

「殿下が近づいてきたので無理になりました」


「じゃあ俺が向こうに行けば描く?」

「はい!」


「即答だな」

「適正距離というものがありますから!」


アレンダートは「……分かった」と言って踵を返した。

ようやく分かってくれたらしい。マリアンネが安堵の息を漏らしたところで、彼が振り返る。


「じゃあまたな、マリアンネ」


また?


「……またって何ですか?」

「また会ったら話しかける」

「なんでですかー!?」


「もう知り合いだから」

「その理屈やめてください!」


しかしアレンダートは答えず、片手だけ軽く上げて歩き去っていった。

その背中が十分遠ざかったところで、マリアンネはベンチの背もたれへ身を預ける。


描ける距離にはなった。

なったのだが、先ほどの会話が頭をぐるぐる回って、まったく集中できない。


『マリアンネ』

『マリ、とかでいいか?』

『また会ったら話しかける』


「……供給が多い……」


マリアンネは両手で顔を覆った。

平穏な推し活を取り戻す計画は、開始初日にして、早くも失敗の気配がしていた。


◇


そしてアレンダートは、本当に有言実行した。


「マリアンネ」

「ひっ」


廊下ですれ違えば声をかけ、掲示板の前で見つければ隣に立つ。


「また首席だな」

「な、なんで殿下が一年生の成績まで見てるんですか!?」

「目の前に掲示されてるだろ」


図書室へ向かうところに出くわせば、今日は何を読むのかと尋ねてくる。

そのたびにマリアンネは驚き、赤くなり、ときには意味不明なことを口走った。


それでも、マリアンネのほうからアレンダートへ話しかけることは、相変わらず一度もなかった。

目が合えば嬉しそうな顔をするし、離れていればこっそり絵を描いている。

だが、彼が近づかなければ、その距離は決して縮まらない。


「……徹底してるな」


ある日、遠くのベンチでこちらを描いているらしいマリアンネを見つけ、アレンダートは小さく呟いた。


目が合うと、彼女の顔がぱっと明るくなる。

次の瞬間には慌ててスケッチブックへ視線を落としたが、その場を動く気配はない。


見ているだけで幸せ。近づくつもりはない。

あの言葉は本当らしい。だったら放っておけばいい。

本人もそれを望んでいる。


そのはずなのに、アレンダートは自然と進行方向を変えていた。

こちらが近づいていくのに気づいたマリアンネが、遠くで見る見るうちに慌て始める。

その様子を見て、なぜか少し笑えてきた。


「……今日も面白いな」


結局その日も、マリアンネが望む「遠くから静かに推すだけの学園生活」は、

アレンダート本人によって阻止された。


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