第一話 推しを遠くから愛でてただけなのに
今回は10万文字程度の中編になります。
作者にしては、ちょっと糖度高めのお話になりました。
マリアンネ・スターフェルトが、
自分は転生者なのだと気づいたのは十歳のときだった。
きっかけは、本当に些細なことだ。
家庭教師との授業中、この国の正式名称が「イシュメリア王国」だと聞いた瞬間、
頭の奥で何かが弾けた。
イシュメリア。
その名前を、マリアンネは知っていた。
前世で何度も何度も遊んだ乙女ゲーム
――『恋の花咲くイシュメリア』。
通称『こいはな』の舞台となった国だ。
そして何より、ここは前世の彼女――マリが、
心の底から愛してやまなかった最推しのいる国だった。
その事実に気づいた瞬間、十歳のマリアンネは感動で打ち震えた。
『こいはな』は、しがない男爵令嬢である主人公がイシュメリア王立学園へ入学し、
王侯貴族の子女たちと出会いながら恋を育んでいく、ごく王道の乙女ゲームだった。
メイン攻略対象は、イシュメリア王国第二王子フェルディナンド。
明るく気さくで、身分を問わず誰とでもすぐに打ち解ける青年だ。
主人公とは魔術演習でペアを組んだことをきっかけに親しくなり、放課後に一緒に勉強したり、
ときには彼に付き合わされて授業を抜け出したりと、いかにも青春らしい時間を過ごしていく。
物語後半、男爵令嬢にすぎない自分では王子である彼と釣り合わないと、
主人公が距離を取ろうとする場面がある。
そこで普段の人懐こい笑顔を消したフェルディナンドが、彼女を壁際へ追い詰めるのだ。
『俺のこと、身分で判断しないで』
そう告げるイベントスチルは、プレイヤーの間でも屈指の人気を誇っていた。
――だが、マリの最推しはフェルディナンドではなかった。
その兄、イシュメリア王国王太子、アレンダート・イシュメリア。
攻略対象ですらない、ただのサブキャラクターだった。
主人公が生徒会に所属すると出番が少し増え、
弟であるフェルディナンドの好みを教えてくれたり、
彼との関係に悩む主人公へさりげなく助言をくれたりする。
それだけ。
専用ルートもなければ、好感度もない。
それなのに、濃い赤髪に紫紺の瞳という華やかな容姿に、落ち着いた物腰。
頭脳明晰で、王太子としても優秀。
それでいて弟思いで、身分の低い相手を見下すこともない。
どう考えても攻略対象の風格だった。
なぜ攻略できないのか。
前世のマリは本気で悩んだ。
――アレンダート殿下の攻略ルートを追加してください。
運営へ、そんな要望メールを何度送ったことだろう。
実は隠しルートが存在するのではないかと、選択肢や生徒会イベントの発生順を変えて何周もした。
『こいはな アレンダート 隠しルート』
『こいはな アレンダート 攻略』
『こいはな アレンダート 好感度』
そんな言葉で検索した回数も、もはや覚えていない。
もちろん、何もなかった。
アレンダートは徹頭徹尾、攻略対象である弟を支える人気サブキャラクターだった。
そんなある日、公式設定資料集の発売が告知された。
しかも紹介文には、『本編では語られなかったアレンダート殿下のその後も掲載』とある。
もしかして、追加ルートではなくとも新規エピソードくらいあるのでは。
あるいは、本編終了後の彼の日常が見られるのでは。
期待に胸を膨らませたマリは、発売日に店へ駆け込んだ。
そして、泣いた。
そこに書かれていたのは、わずか数行の文章だった。
――王太子アレンダート・イシュメリアは後年、
隣国イグナティア王国のセラフィーヌ王女を妃として迎えた。
しかもその隣には、二人が並んだ美麗な描き下ろしスチルまで掲載されていた。
白い正装を身にまとったアレンダートは、それはもう腹立たしいほど格好よかった。
隣に立つセラフィーヌ王女も、華やかで気品に満ちた、息を呑むほどの美女だった。
二人とも美しく、お似合いで、幸せそうだった。
だからこそ、マリは色々な意味で泣いた。
攻略させてくれなかったくせに、結婚相手だけは教えてくれるのか。
公式は人の心がない。
そう思った。
思ったけれど、紙面の中で穏やかに微笑んでいるアレンダートを見ているうちに、
最後には「アレン様が幸せなら、それでいい」と思えた。
推しの幸せは、オタクの幸せである。
それが前世のマリの出した結論だった。
そして今、その最推しが生きている世界に、自分もいる。
十歳のマリアンネが舞い上がったのも、無理はなかった。
◇
それから六年。
十六歳になったマリアンネは、ついにイシュメリア王立学園の入学式を迎えた。
新入生たちが整然と並ぶ大講堂で、彼女はいつもかけている丸い瓶底眼鏡の奥から、
壇上へ上がる一人の青年をじっと見つめていた。
濃い赤色の髪に、紫紺の瞳。
制服を端正に着こなした長身は、すらりとしているが決して華奢ではない。
肩や胸元には、日頃から身体を鍛えていることが分かる程度の厚みがあった。
前世で、何百回と画面越しに見た人。
アレンダート・イシュメリア。
その本人が、今、マリアンネの目の前にいた。
動いている。瞬きをしている。
壇上の中央まで歩み出て、在校生代表の挨拶を始めている。
「…………生アレン様だ……」
無意識に零れた言葉に気づき、マリアンネは慌てて口元を押さえた。
危ない。今のは危なかった。
誰かに聞かれていたら、
十六歳の伯爵令嬢が入学式早々に王太子を妙な愛称で呼ぶ不審人物になるところである。
だが、そんなことより。
――無理。スチルより格好いい。
マリアンネは必死で平静を装いながら、眼鏡越しにアレンダートを見つめた。
話すときの視線の動きや、わずかに髪が揺れる様子。
言葉の区切りで息をつく、その何気ない仕草すら、静止画では分からなかったものだ。
前世では二次元だった最推しが、今、目の前にいる。
それだけで胸がいっぱいになり、危うくその場で拝みそうだった。
――落ち着こう。
マリアンネは自分に言い聞かせた。
今世の自分はスターフェルト伯爵家の娘ではあるが、それだけだ。
家は歴史こそ長いものの、派手な権勢を誇るわけでもない。
堅実に領地を治めてきた、ごく普通の伯爵家だ。
そしてマリアンネ自身、『こいはな』には名前すら登場しない正真正銘のモブ令嬢である。
一方のアレンダートには、いずれ隣国のセラフィーヌ王女と結婚する未来が待っている。
あの美しいスチルの未来だ。
ならば、マリアンネの取るべき方針は決まっている。
関わらない。近づかない。
ただ遠くから、健やかに生きている推しを愛でる。
できれば時々、趣味のスケッチもさせてもらう。
それだけで十分だ。
推しが同じ世界で息をしている。
そんな幸運を手に入れておいて、これ以上を望むなんて罰が当たる。
マリアンネは壇上のアレンダートを見つめながら、固く心に誓った。
この学園にいる間、遠くから静かに、アレン様の幸せを見守ろう。
――このときのマリアンネは、本気でそう思っていた。
◇
入学式から半年。
マリアンネの学園生活は、驚くほど順調だった。
何より、授業が楽しい。
前世では存在すらしなかった魔術理論はもちろん、イシュメリア王国の歴史、
周辺諸国との外交関係、領地経営に関わる基礎知識まで、学べば学ぶほど知らないことが出てくる。
もともと勉強が嫌いではなかったマリアンネは、すっかり学園の授業に夢中になった。
授業を受けたあとは、その日のうちに内容を自分なりに整理する。
分からないところがあれば図書館へ行き、関連する本を探した。
そうしているうちに一つの疑問から別の疑問が生まれ、
気づけば閉館時間ぎりぎりまで本を読んでいることも珍しくなかった。
その結果、入学後最初に行われた定期試験で、マリアンネは学年首席を取った。
二度目も、三度目も。
校舎の掲示板に張り出される成績表の一番上には、毎回同じ名前が載っている。
『マリアンネ・スターフェルト』
もっとも、本人は大して気にしていなかった。
順位を取りたいから勉強しているわけではない。
ただ面白いから勉強しているだけで、結果として一番になっているにすぎない。
父と母は大喜びだったが、四歳上の兄マリウスから不思議そうな顔をされた。
「お前、昔からそこまで勉強好きだったか?」
前世の記憶を取り戻した十歳以降、急激に知識欲が増した自覚はある。
だが、そのあたりは適当に笑って誤魔化しておいた。
もちろん、マリアンネの学園生活が充実している理由は、学業だけではなかった。
推しのアレン様がいる。
これが大きい。
同じ学園に通っているのだから、
当然ながら校内でアレンダートを見かける機会はそれなりにあった。
朝、友人たちと校舎へ向かっている姿や、教師と何かを話しながら廊下を歩く姿。
図書館の窓際で静かに本を読んでいることもあれば、
剣術の授業を終え、訓練着のまま弟のフェルディナンドと話していることもある。
どれもゲームには存在しなかった光景だ。
当たり前のことなのに、そのたびマリアンネは密かに感動した。
――今日もアレン様が生きてる。今日も格好いい。
ありがたい。この世界に生まれて本当によかった。
そして、そんなゲームでは見られなかった姿を目にするたび、無性に残しておきたくなった。
幸い、絵を描くことなら前世からの趣味だ。
プロを目指していたわけではない。
ただ好きなものを好きなように描くことが楽しくて、
暇さえあればスケッチブックを開いていた。
この世界に前世の最推しが実在しているのなら、描かないという選択肢はない。
もちろん近づいたりはしない。
あくまで遠くからだ。
中庭の反対側や、校庭を見下ろせる二階の窓辺、図書館の少し離れた席。
アレンダートの邪魔にならない場所から、こっそりとその姿を描き留める。
今日の髪型は少し乱れていた。
珍しく腕まくりをしていた。
フェルディナンドと話しているとき、ほんの少しだけ眉間に皺を寄せていた。
そんな、ゲームでは絶対に見ることのできなかった一瞬を描けるのが、たまらなく楽しい。
スケッチの端には、時々ひと言だけ感想も書き添えた。
『今日もアレン様が格好よすぎる。眼福。午後も頑張れる』
『訓練着ありがとうございます。普段と雰囲気が違いすぎる。危ない』
『フェルディナンド殿下に何か言われて笑ってた。今日も楽しそうで何より』
誰に見せるわけでもない、自分だけの記録だ。
それで十分だった。
アレン様が健やかなら、それでいい。
マリアンネは本気でそう思っていた。
◇
その頃、アレンダート・イシュメリアには、少しばかり気になることがあった。
「……またか」
廊下を歩いていた足を止め、わずかに振り返る。
生徒たちが行き交う校舎に、特に妙なものは見当たらない。
隣を歩いていたフェルディナンドが、不思議そうに首を傾げた。
「兄上? どうしたの?」
「いや。最近、妙に視線を感じるんだ」
アレンダートが再び前を向くと、弟は一瞬きょとんとしてから笑った。
「兄上なんて、いつも見られてるだろ」
「そういうのじゃない」
王太子という立場上、人から見られることには幼い頃から慣れている。
尊敬や憧憬、好奇心に打算、時には敵意。
向けられる視線の種類をいちいち気にしていては、王族など務まらない。
だが、ここしばらく感じるものは少し違った。
妙に熱心なのだ。
ただ眺められているというより、
こちらの動きをじっと観察されていると言ったほうが近いかもしれない。
なのに、視線の主が接触してくる様子はまったくない。
「兄上とお近づきになりたい御令嬢じゃない?」
「だとしたら余計に妙だな。俺に興味がある令嬢なら、普通は何かしら接触を試みるだろう」
「まあ、そうなんだろうけど……兄上、自分でそれ言うんだ」
「事実を言ったまでだ」
手紙を渡そうとする者や、偶然を装って近づいてくる者、共通の知人を通して紹介を求める者。
そういう令嬢なら、これまでにも何人もいた。
だが、この視線の主にはそれがない。
ただ、ひたすら遠くから見ている。
「気になるなら探してみれば?」
「そこまで暇じゃない」
「じゃあ放っとけばいいじゃん。ただ見てくるだけなんだろ?」
フェルディナンドはあっさりと言って、再び歩き出した。
アレンダートも「そのつもりだ」と答え、その隣に並ぶ。
それから数日後の放課後、校舎から中庭へ出たところで、またあの視線を感じた。
今度はすぐに振り返ると、少し離れた木陰に立つ一人の女生徒と目が合った。
明るいベージュ色の髪に、顔の半分近くを覆い隠すような丸く分厚い眼鏡。
胸元のリボンの色から、一年生だと分かる。
何冊かの本を抱えた彼女は、アレンダートと目が合った瞬間、びくりと肩を跳ねさせた。
だが次の瞬間には何事もなかったかのように顔を逸らし、そのままそそくさと歩き去っていく。
アレンダートは足を止めたまま、しばらくその後ろ姿を見送った。
――間違いない。あの令嬢だ。
「……あいつか」
顔に見覚えはなく、名前も知らない。
ただ、一年生であることだけは分かった。
目が合ったときの様子を見る限り、悪意があるようには思えない。
むしろ、見つかったことにひどく焦っていたように見えた。
とはいえ、半年近くにわたって王太子である自分を継続的に観察している人物がいる以上、
立場上、それを単なる好奇心だと決めつけるわけにもいかない。
◇
その日の夜、王城へ戻ったアレンダートは、王家直属の影を一人呼び出した。
「学園にいる女生徒について調べてほしい。
一年生で、明るいベージュ色の髪に丸い眼鏡をかけている。今日、中庭にいた」
「かしこまりました。どの程度までお調べいたしましょう」
静かに頭を下げた影へ、アレンダートはそのまま続ける。
「身元と、俺を見ている目的。それから、家や周囲に不審な動きがないかも確認してくれ」
「承知いたしました」
影が再び頭を下げる。
この時点で、アレンダートが彼女個人に特別な興味を抱いていたわけではない。
王太子として、気になる相手の素性と目的を確認する。
それだけのつもりだった。
◇
数日後、執務室を訪れた影が、机の前で頭を下げた。
「例のご令嬢についてご報告いたします。
マリアンネ・スターフェルト様、十六歳。スターフェルト伯爵家のご令嬢でございます」
「スターフェルト……?」
書類から顔を上げたアレンダートは、聞き覚えのある姓に少し考えを巡らせた。
「ああ。弟の学年で、いつも首位を取っている令嬢か」
「はい。入学以来、すべての定期試験で学年首席を維持されております」
成績掲示で何度か見た名前だ。
自分の学年ではないため特別気に留めてはいなかったが、
一年生に非常に優秀な令嬢がいることくらいは知っていた。
まさか、あの丸眼鏡の女生徒だとは思わなかったが。
「家や本人に、不審な点は?」
「ございません。スターフェルト伯爵家は歴史ある家柄ではございますが、
政治的野心は薄く、代々堅実な領地経営を行っております。ご両親の評判も良好です」
影は淡々と報告を続ける。
「兄君は四歳上のマリウス・スターフェルト様。現在は王城で文官として勤務されております。
こちらも勤務態度に問題はなく、特定の派閥へ深く関与している様子もございません」
影は淀みなく答え、本人についての報告へ移った。
「マリアンネ様は学業に熱心で、放課後は図書館を利用することが多いようです。
交友関係にも特段問題はございません」
「そうか」
ならば少なくとも、誰かに命じられて自分を監視している可能性は低そうだ。
アレンダートは手にしていた書類を置き、本題へ入った。
「それで、なぜ俺を見ているんだ?」
影が、ほんのわずかに沈黙した。
普段ならどんな内容でも淡々と報告する男だ。その反応に、アレンダートは眉を寄せる。
「何か問題が?」
「問題、と申し上げるべきかは……」
「はっきり言え」
影は姿勢を正した。
「マリアンネ様に殿下への害意は一切ないものと判断いたします。
ただ……殿下を、遠くから愛でているだけのようです」
「…………は?」
思わず、間の抜けた声が出た。
「愛でる? 俺を?」
「はい」
「……どういう意味だ?」
「その……言葉どおり、と申しますか」
「分からないから聞いている」
問い返すと、影は説明の仕方を考えるようにわずかに目を伏せた。
「マリアンネ様は、手紙や贈答品、知人を介した紹介など、殿下への接触を一切試みておりません。
また、殿下の予定を不正に調べるような行為も確認されませんでした。
偶然お見かけした際に遠くから眺め、それで満足されているようです」
意味が分からない。
アレンダートは眉間に皺を寄せたまま、あの女生徒の姿を思い返した。
「では、俺を見ながら持っている本は何だ」
「絵を描き留めるための冊子でございます」
「……絵?」
嫌な予感がして影へ目を向けると、その視線を受けても表情を変えることなく、淡々と報告を続けた。
「講堂にいらっしゃる殿下や、図書館で読書をされている殿下、中庭を歩かれる殿下、
剣術訓練中の殿下などを描いておられます」
「待て。全部、俺か?」
「はい。かなりの枚数がございました」
アレンダートはしばらく黙り込んだ。
あの令嬢は、入学以来ずっと学年首席なのではなかったか。
「……そんなことをしている暇があるのか?」
「授業中に描いている形跡はございません。休憩時間や放課後のみのようです」
「妙なところで真面目だな……」
思わず漏らしてから、もう一度影を見据えた。
「それで結局、何が目的なんだ」
「おそらく、何も求めておられないのではないかと」
影はそう答えた。
「殿下をお見かけし、絵に描くことができれば、それだけで満足されているものと思われます」
アレンダートは椅子の背にもたれた。
ますます分からない。
自分を半年も見続け、絵まで描いているのに、近づこうとはせず、何も求めていない。
つい数日前など、目が合っただけで逃げていった。
「……変な女だな」
それで終わるはずだった。
ところが翌日から、アレンダートは学園内を歩くたび、
無意識に明るいベージュ色の髪と丸い眼鏡を探すようになっていた。
◇
数日後の昼休み、マリアンネは中庭の隅にあるベンチで、一人昼食を取っていた。
一緒に食べていた友人は、教師から呼び出されて少し席を外している。
穏やかな秋の陽射しの下、程よく風が吹き、ご飯も美味しい。
午後には、最近特に気に入っている魔術史の授業が待っていた。
今日も良い一日である。
残っていたパンを食べ終え、満足げに息をついたところで、ふと視界の端に見慣れた濃い赤色が入った。
反射的に顔を上げれば、回廊をアレンダートが歩いている。
今日も格好いい。
当たり前のように格好いい。
王太子として育てられてきたためか、ただ歩いているだけなのに姿勢がよく、
凛とした横顔まで隙なく整っている。
――今日もアレン様が眩しい。
しかも、今なら描けそうだ。幸い一人でいるし、距離も十分に離れている。
マリアンネはいそいそと鞄へ手を伸ばし、いつものスケッチブックを取り出した。
新しいページの片隅に感想を書き添え、歩く姿を描き留めようと素早く数本の線を引く。
そして、もう一度顔を上げた瞬間。
アレンダートと目が合った。
「っ!」
マリアンネは反射的に俯いた。
危ない。今、完全に目が合った。
以前にも一度あった。
あのときも死ぬかと思ったが、今日もやはり変わらず死にそうだ。
――落ち着け。ただ偶然、こちらを見ただけだ。
王太子殿下ともなれば、周囲に気を配るのは当然だろう。
少し待っていれば、そのまま通り過ぎるはず。
そう自分に言い聞かせながら、マリアンネは膝の上でスケッチブックを閉じ、
うるさい心臓が少しでも静まるのを待った。
数秒後、もう大丈夫だろうとそっと顔を上げる。
「…………え?」
まだ見ている。
それどころか、アレンダートは回廊から中庭へ下り、そのままこちらへ向かって歩いてきた。
――いや、そんなはずはない。きっと中庭に何か用事があるのだ。
そう思って、マリアンネは思わず後ろを振り返る。
あるのは植え込みだけ。
では横は、と視線を巡らせても、右には誰もいない。
左には少し離れたところに生徒がいるものの、
アレンダートが進んでいる方向とは明らかに違っていた。
恐る恐る前へ視線を戻す。
さっきより、近い。
――待って。待って待って待って。
なんでアレン様がこっちに来てるの。
頭の中で警報が鳴り響く。
何かしただろうか。
いや、何もしていない。遠くから見ていただけだ。
……絵は描いた。かなり描いた。
けれど勝手に描いているだけで、本人に見せたことなどもちろんない。
まさか、それがばれた?
いやいや、どうやって。
考えている間にも距離はどんどん縮まっていく。
逃げたい。猛烈に逃げたい。
だが、王太子殿下が明らかに自分へ向かってきている状況で、
背を向けて走り出すのは、さすがに不敬ではないだろうか。
逃げるべきか、留まるべきか。
そんな無意味な葛藤をしているうちに、とうとう足音が目の前で止まった。
「――マリアンネ・スターフェルトだな?」
推しが、自分の名前を知っている。
その事実を理解した瞬間、マリアンネの思考は完全に停止した。
「……はい」
どうにか絞り出した声は、自分でも驚くほど小さい。
「一年生の学年首位だったな」
今度は声すら出せず、こくりと頷いた。
名前だけではなく、成績まで知られている。
もう駄目だ。今日が命日かもしれない。
恐る恐る顔を上げると、紫紺の瞳が真っ直ぐこちらを見つめていた。
近い。
当然ながら、これまでこんな距離からアレンダートを見たことなどない。
前世では画面越し、今世でもいつも遠くから眺めるだけだった。
それが今は、手を伸ばせば届きそうな場所に立っている。
スチルでは分からなかった虹彩の細かな色合いまで見えそうで、
整った顔立ちも遠目で見るよりさらに鮮明だった。
無理。顔がいい。
近距離で見ると、ますます顔がいい。心臓に悪すぎる。
「君、よく俺を見ているだろう」
終わった。
マリアンネの平穏な推し活は、今この瞬間に終わった。
アレンダートの声音に責めるような響きはなく、ただ純粋な疑問を口にしているようにも聞こえる。
けれど、今のマリアンネにそんなことを冷静に分析する余裕はない。
しかも、彼の視線が膝の上のスケッチブックへ落ちた。
「それは――」
「あのっ!」
何かを言われるより先に、マリアンネは反射的に立ち上がった。
「勝手に絵とか描いててすみませんでしたー!!」
「……は?」
アレンダートが目を瞬く。
しまった。
自白した。
聞かれてもいないのに、自分から全部白状してしまった。
だが、もう遅い。
「本当に申し訳ございません! もう勝手に描いたりしませんので!」
「いや、待て。俺は別に責めて――」
「失礼いたします!!」
鞄を引っ掴んで勢いよく頭を下げると、戸惑ったような声が降ってきた。
「マリアンネ?」
名前を呼ばれた。
今、アレン様が自分の名前を呼んだ。
無理。もう無理。
これ以上ここにいたら、本当に何を口走るか分からない。
マリアンネはそのまま踵を返し、中庭から逃げ出した。
「おい、待て!」
後ろからアレンダートの声が聞こえたものの、とても振り返る余裕はない。
さすがに全力疾走こそしなかったが、令嬢として許される限界ぎりぎりの早足で、
そのまま校舎へ逃げ込んだ。
――やってしまった。
推し本人に認識されたうえ、勝手に絵を描いていたことまで自分から白状してしまった。
遠くから静かに愛でるだけの完璧な学園生活計画が、入学からわずか半年で崩壊したのである。
もう学園を辞めたい。
いや、辞めたらアレン様を見られなくなる。それは嫌だ。
では、どうすればいいのか。
答えの出ない考えをぐるぐる巡らせながら、マリアンネは教室へ戻っていった。
◇
「……本当に逃げたな」
中庭に取り残されたアレンダートは、
マリアンネが消えていった校舎の入口をしばらく見つめていた。
影から報告を受けた時点で、変わった令嬢だとは思っていた。
だが、実際に話してみれば想像以上だった。
半年ものあいだ自分を眺め続けていたくせに、いざ本人が近づけばまともに顔すら見られない。
それどころか、こちらはまだ何も尋ねていないのに、
勝手に絵を描いていたことまで白状して逃げていった。
「……何なんだ、本当に」
呆れたように呟いたものの、思い返すとなぜか少し笑えてくる。
そこでふと、足元に一冊の冊子が落ちていることに気づいた。
拾い上げてみれば、つい先ほどまでマリアンネが膝の上に置いていたものだ。
「これが例の……」
影が報告していたスケッチブックだろう。
返さなければならないとは思ったが、彼女がどんな絵を描いていたのかという好奇心が勝った。
表紙を開くと、一枚目から見覚えのある人物が現れる。
自分だった。
中庭を歩く姿。次のページには、図書館で本を読む横顔。
さらにめくれば、剣術訓練を終えたところらしい自分が描かれている。
「……本当に俺ばかりだな」
報告では聞いていたものの、実際にこれだけ並んでいるのを見ると妙な気分になる。
しかも、思っていた以上に上手い。
遠くから、それも短い時間で描いているはずなのに、姿勢や表情の特徴がよく捉えられていた。
感心しながら何気なくページをめくっていたアレンダートの目が、
絵の端に添えられた小さな文字で止まる。
『今日もアレン様が格好よすぎる。眼福。午後も頑張れる』
「…………アレン様?」
少なくとも、本人からそんなふうに呼ばれた覚えはない。
首を傾げながら次のページをめくれば、そこにも短い感想が添えられていた。
『訓練着ありがとうございます。普段と雰囲気が違いすぎる。危ない』
「何が危ないんだ」
思わず声に出してから、さらに先へ進む。
『今日も殿下が眩しい。推しが元気。それだけで幸せ』
今度は「推し」という聞き慣れない言葉に引っかかったものの、
その意味を考えるより先に、隣のページの一文が目に入った。
『一瞬目が合ってしまった。死ぬかと思った』
「ああ……」
視線の主を初めて特定した、あの日のことだろう。
確かに、あのときも目が合った途端に逃げていった。
そのまま何枚かめくったところで、アレンダートの指が止まった。
『今日はお見かけしなかった。ちょっと残念。でもお忙しいのかな。ちゃんと休めてるといいけど』
これほど大量に自分の絵を描き、嬉しそうな言葉を書き連ねている。
それなのに、どこにも「会いたい」とも「話したい」とも、「自分を見てほしい」とも書かれていない。
今日も格好いい。
見られて嬉しい。
元気なら、それで幸せ。
本当に、それだけだった。
影から報告を受けたときには、いまひとつ理解できなかった。
けれど、こうして本人の言葉を目にすると、ようやく少し分かる気がする。
マリアンネ・スターフェルトは、本当に自分へ何も求めていないのだ。
最後に、今日描き始めたばかりらしいページを開く。
そこにあるのは、まだ輪郭にもなっていない数本の線だけだった。
だが、その片隅には絵より先に一文が書き込まれている。
『今日もアレン様かっこいい。見られただけで幸せ』
「……そうか」
自分でも理由は分からなかったが、わずかに口元が緩んだ。
「本当に変な女だな」
同じ言葉を口にしているのに、そこにはもう、以前のような警戒心はほとんど残っていなかった。
◇
一方その頃。
教室へ戻り、ようやく乱れた呼吸を整えたマリアンネは、
何気なく鞄へ手を入れたところで動きを止めた。
「…………ない」
もう一度、中を探る。
ない。
念のため机の中も覗き、それでも見つからず、とうとう鞄の中身を机の上へすべて出した。
やはり、ない。
そこまでしてようやく、中庭から逃げ出す直前まで確かに膝の上に置いていたものを思い出す。
マリアンネの顔から、さっと血の気が引いた。
「スケッチブック……落とした……?」
どこで。
そして。
誰の目の前で。
答えに辿り着いた瞬間、マリアンネは力なく机へ突っ伏した。
「…………終わった……」
今度こそ。
本当に終わった。




