第二幕 〔目覚め〕の兆し 第三場 月夜の逢瀬
とある夜。
やけに胸が騒いで眠れそうになく、柊筮は、気怠そうに身体を起こすと、夜気で揺れるカーテンをあけた。雄牛の角のような三日月が、そっぽを向いて掛かっている。
と。
骨の髄にしみこむような霊気を感じて、柊筮はハッとした。
(……来てる!)
ひったくるようにして、薄物のマントを掛布の上から取り上げる。喉元の留め具を掛けるのももどかしく、走り出しながらマントを羽織る。
恋しい野性の友の臭いに導かれるように、柊筮は森に誘いこまれていった。
足音もなく駆け出しながら、こめかみを打つ鼓動の速さに意味を求めて諦めた。
意味など要らない。“彼”のそばでは安らげた。ただ、それだけでいい。
鬱蒼と繁る樹木に遮られて月光は届かず、闇に包まれて径は消え失せる。
それでも、柊筮は迷うことなく走りつづけた。もう目を伏せてさえ辿り着ける。何度も何度も駆けた道だ。
「あ……」
柊筮は、森を抜けたところで足を止めた。
胸がとくん、と跳ね上がる。
湖畔にたたずむ四阿のなか、寝そべりまどろむ黒豹の姿があった。
柊筮は、そっと歩を進めた。
青光りする豹の毛皮が静かな寝息で上下している。竪琴の弦のような髭が夢を語って蠢いている。
と、そのとき。
気配を察したのか、黒豹が頭を上げて、こちらを見た。その、ひらかれた紫色の眼に、柊筮は心地よく射抜かれた。
羽衣のような軽さで、首に抱き着いてくる妖精に、豹は少し身を引いた。何とはなしに、恥じらいが見えた。構わずに柊筮はぎゅっと抱きしめ、頬をすり寄せる。
湖面に映った月影が、風もないのに揺らめいた。
下生えの間から無数の光の粒が、立ち上っては消えていく。
まるで邪魔をしてはならぬと気遣っているように、どこか遠くの方でリンリンと虫が鳴いていた。
静かな静かな逢瀬であった。
柊筮は、豹の逞しい体躯に寄りかかり、ときおり独り言のように「黒豹」と呼びかける。そうすると、豹は頭を少し傾けて、じゃれつくように押しやってくる。
たまに、銀髪が鼻にかかってくしゃみをすると、柊筮は一瞥をくれて、ふっと微笑うのだった。
「ねぇ」
「……」
「どこからくるの」
「……」
「どこへ帰るの」
「……」
「あなたも本当はーー」
(幻なの)
黒豹は困ったように喉を鳴らし、駄々をこね始めた妖精の頬を舐めてくる。
これもいつものことだ。わかって訊いている。
柊筮は、鋭い牙を隠した口にそっと接吻た。髭が無遠慮に邪魔をしてきた。
柊筮は眠るように目を閉じて、これもまた常のように、物思いに沈んでいく。
ひとつ違いの弟と較べて、自分の異状さに気がついた。街へ出れば女神のように敬われたりもするが、愛されてはいるのとは違うように感じる。
畏れられている、と言う方が当たっている。
(みな、わたしを見つめる目の奥に、護符の十字を宿している)
ごまかそうとすればするほど、その偽りの言は、彼らの頬を朱色に染め上げるのだ。
だけど彼らを責められないと、意識のどこかで気づいてはいた。理由なんてわからない。ただ“知っている”のだ。
(いつかわたしは、自分が何なのかを知ることがあるのだろうか……)
そんなことをぼんやり考えて、たまに身じろぎする柊筮の囁くような身体の重みを受け止めながら、黒豹もその紫色に光る双眼を閉じるのだった。
やがて、精霊たちの寝起きの羽音が、夜明けの刻を森に知らせる時分になった。
拗ねてうつむく柊筮のそばで、黒豹の四肢が立ち上がる。いつもと違い、引き留めるように脚にしがみつかれて、豹はびくんと見下ろした。
ためらいながらも、腕に力を込めてくる。そして、か細い声で「行かないで」と言うのが聞こえた。
顔を下向けて隠しているが、頬に光るものが見えた。
黒豹は鼻面で柊筮の面を仰向かせると、愛撫するように舌で涙をすくってやった。
(…行ってしまった)
なぜだか今日は、無性に寂しい。城へ帰る気もしない。
このまま湖のまわりをぼんやり歩いて、今日は離宮にひきこもろうか。
(……)
黒豹が去っていった方を、一度振り返る。そして、肩を落とす。
(恋人を想って、日がな一日竪琴を弾こう)
柊筮は、とぼとぼと歩き始めた。
白馬や栗鼠がきっと慰めにきてくれるだろうと、そう思っても、沈む心は晴れなかった。




