第七幕 黒豹の正体 第三場 氷と炎の遭遇
夜も更けた森の木の間に、何やら赤いものがちらりちらりと見え隠れしている。まったくもって、道に迷うふうでもないところからすると、不穏な夜に誘い出された不知火ではなさそうだった。
そして、孤独さを紛らすような陽気な鼻歌が、その軌跡に沿って、途切れ途切れに浮き沈みする。何かを呪うふうでもない。物の怪ではないと知れる。
「もう少し、先だったかな?」
深紅のリボンで黒髪をひとつに束ねた吟遊詩人フィロトは、何年も通い慣れた友の館へと急いでいた。
渾名を黒猫という、感激屋の若き詩人は、海を渡れば波に従い、森に入れば緑に安らぐことをよしとして、心の赴くままにあちらこちらと旅をしていた。人智を超えた未知の領域を、想像の羽根を拡げて旅する。
しかし、それを物語るには、持てる言葉の限りを知らされてばかりで、己の不甲斐なさに落ち込むことも屡々あった。意識の底から溢れる旋律の、その無限大に涙する毎日である。
人の行かないところへ赴け
人の避けることを試せ
見たことのない何かを探れ
嘘のような真実を歌え
「おれは、そうして生きてきたんだ」
誰にともなく、ふんと自慢げに鼻腔を広げて独り言ちる。
館の灯りが、遠くにぼんやり見えてきた。フィロトの胸が高鳴り始める。
広い世界をぐるりと廻って、帰り着くのは何年ぶりだろうか。フィロトは、まるで恋しいひとを想うように、胸の奥がむずむずするのを楽しみながら、友の美しい静かな笑顔を思い浮かべた。
(相変わらず、ラムダのことだ)と、悪戯っぽく呟く。
(女っ気もないなかで、あいつ自身が女のように美しいに違いない!)
アミイストーンの赤い髪が、耳のうしろでピンと立った。
「!」
(なんだか……いやな感じがする)
それは、そこはかとなく、確かではないが、何かと何かがぶつかる気配のように思えた。融けない氷と消えない炎ーー
「ねぇ、ラムダ」
「ん」
察していたのか、ラムダも面を上げた。
「あの子はどこへ行っている」
「たしか、泉へ水浴みに行くって言ってたよ」
「もうすぐ戻る頃合いなら、彼とかち合うかもしれん」
(いきなり、あいつに会ったらどれだけ怯えることか)
「彼ってーーやっぱりあいつのことかい?」
アミィストーンが鼻にしわを寄せた。
「歌が聞こえる。……そう嫌うなよ」
「嫌いなんじゃないさ! ただ、おいらのミルクに混ぜものをするんだよ!」
ラムダは、そのときの騒ぎを思い出して、くすっと笑った。砂糖を入れてあげると言って何か違うものを入れたのだろう。どろどろになったミルクを見て、赤子みたいに大泣きしたものだ。
この世の不思議を歌うフィロト。たった一目見ただけで、あれを妖精と知るだろう。知れば語るが生業ならば、ふたりを会わせるわけにはいかない。
ラムダは、迎えに出ようと、マントを軽く羽織った。それにしても気がかりなことがある。
(ラームファダの霊気が、やけに儚い……いや、強いのか?)
いずれにしても、これまでになく大きく揺れている。
(俺を求めてーー俺を恐れてーー)
何の根拠もなく浮かんだフレーズに、ラムダ自身も一瞬怯んだ。
まるで恋する乙女のように揺れている
と思う間に……
扉の向こうで、フィロトが歓喜の声を上げたと同時に、激しい雪嵐が扉を蹴破った。
「ラームファダ!」
ラムダとアミィストーンの声が揃う。
穢れを知らない妖精は、出会い頭に遭遇した、見知らぬ若い男の姿に、声も出せずに驚愕していた。怯えて震える羽根から鱗粉がきらきらと舞う。これがまたフィロトを狂喜させた。
「わお! まさか、本物 ?!」
(あの、莫迦……!)
ラムダは苦虫を嚙み潰したような顔で、吟遊詩人を制そうと一歩踏み出したが、それよりも先にアミィストーンが飛び出していった。
「その子に触るなよ、おい!」
「おっと……」
アミィストーンは、フィロトに体当たりして、ラームファダから熱波を遠ざけた。
「なんなんだよー」「いいから離れろよー」という声が遠ざかっていく。
「な……なに……だれ……」
ラームファダは、あまりの不意打ちに、がくがくと震えていた。奇声を上げて飛び出してきた若い男、その背中で一瞬早く洋琵琶の弦が鳴らなければ、物影から急に現れた存在に気づかなかっただろう。いや、気づいたところで遅かった。
「わお! 妖精の子かい?」
ラームファダは為す術なく、透ける羽根もそのままに宙に貼りつけられた。男の好奇は炎のようで、指一本触れてもいないのに、囚われの身になったみたいだった。
それは、見たものすべてを瞼に焼きつけ、得たものすべてを記憶に留めて、あらゆる謎を解き明かさんとする、純然たる吟遊詩人の性でしかない。
だが、そのきらきらと光る、野生が宿った瞳にラームファダの膝は撃ち抜かれてしまったのだった。
ラームファダは、アミィストーンがすぐさま男に飛びついて、ぐいぐいと森の奥へ押し込んでいくのを呆然と見ていた。だが、
「ラームファダ!」
「あ……」
これほどまでに油断していた、その原因たる本人が、こちらへ駆けてこようとするのを見たときーー。
「ーー来るな」
ラームファダは、反射的に踵を返した。逃げるように、いま来た道を引き返す。
(来ないで)
黒い髪、紫色の瞳。やわらかな低い声。
(貴方はーー)
それは、誰より求めていた胸だった。
(黒豹ーー)
それは、何より確かめたかったことだった。そして、再会を喜んで抱きつきたいはずだった。
(⋯⋯いやだ)
体温もなく、血の上ることのない頬に、かすかに赤みが指す。あの人は最初から知っていたんだ。
(知っていたのに……)
黒豹に寄り添い眠った夜。くすぐり合って、じゃれた夜。髭を避けて口吻した夜ーー
(いや、会いたくないーー)
ラームファダは、追いかけてくる足音に湧き上がる歓喜を覚えながらも、明らかになった真実におののいて、飛ぶように駆けていく。
今はその愛しい男から、逃れることしかできなかった。




