第一幕 王女誕生 第三場 呪具もて何とする
魔術師ヴァモスは、己の運命を呪いたくなった。
だが、手を止めることはできない。
なぜ自分なのか、いや自分しかいないのはわかっている、わかっているがと、ずっと口の中で独り言ちながら、急かされるように儀式の準備に取り掛かる。
一刻も早くと思いながら、そんなものは無意味だと即座に打ち消す。長く関わればそれだけ己に害が及びそうな、根拠もない恐怖に囚われていた。
(こんなことをして……)
そんな焦りのなかでも、ヴァモスはふと一瞬我に返り、降って湧いたような冷静さで考えた。
(こんなことをして……意味があるのかーー?)
いかなる護符も、いかなる魔除けも、氷雪の妖精の前では意味を成さないのではないか。むしろその神経を逆撫でするかもしれないのではないか。
いや、自分の命が惜しいというわけではない。ただ純粋に、魔術師の持つ常識として、妖精に対して人の子如きの制裁が通用するのかと、甚だ疑問に思えたのだった。
それならばいっそ、赤子に接する常のとおりに素手のままで触れるしかないではないかーー
ヴァモスは、この期に及んで激しく揺れ動く心持で、柊筮の眠るベッドに近づいた。
(眠れる御子よ……)
月明りに照らされて、恐ろしいくらいに清廉な妖精の子。
(ーーそなたはまことに、氷雪の妖精の取り替え子か……)
考えては、だめだ。
ヴァモスは、自分を鼓舞するように首を振る。考えてしまっては、だめだ。
魔力の源と思しい髪に映しだされる幻世界は、拒むでもなく誘うでもなく、ただヴァモスの意志を反映する。窓辺に集う精霊たちが、不安と不満の小波を起こす。
(……わかっているのだーー)
(わかっているから……そう責めないでくれーー)
ヴァモスは、銀色の髪をひと房、手に取った。諦めきって、いっそ寒々とした気持ちになっていた。
ゆっくりとその髪に、鉄の鋏を入れていく。この、畏れ知らずの蛮行に、いつかわたしは滅びるだろう。
そう思ったところで、ヴァモスはもう後戻りすることはできない。
(聖なる御子よ……そなたはまことに運命の輪を狂わせるのかーー?)
切り取った髪を傍らに置く。
(次は、爪だ……)
ヴァモスは、震える溜息を細く長く吐く。
温もりのない氷の指先、穢れを拒む無垢の色。
夜空の星が、軌道を外れて戸惑うように飛び交っている。
ヴァモスは涙が出そうになった。こんな小さく、可愛らしい爪に刃物を入れるなどと、わたしは一体どうしてしまったのだとさえ思った。
ぱちん。
(ーー)
爪を切り落とす鋏の音に、いっそ目覚めてくれればと、その場でしばらく待ったほどだった。
銀の髪をひと房切る音に、小さな爪を切る音に、目覚めない方が不思議なほどに強い霊力を感じるのに、取り替え子はぴくりともしない。
ヴァモスは、今更ながらに自分のやってしまったことに怯えはじめた。感傷的になるなんて、どうかしている。呪いの儀式のための髪と爪を、あわや落としそうになったが、しっかりと革袋の中に収めて部屋を出た。
真新しい蜜蝋に、銀の容貌を彫り込んでいく。
異なる世界のあの麗しさを再現しうるはずもないと、重々承知の上だ。
出来上がった蝋人形に、妖精の髪と爪を埋め込んでいく。最後に服を着せたところで、ヴァモスは息をしていなかったことに気が付いた。
軽く呼吸困難に陥り、落ち着きはしたものの、額にべっとりと脂汗をかいていた。
「……」
ヴァモスは、手にした蝋人形を見下ろした。臓腑を鷲づかみにされた邪眼の碧が甦るように思えた。
と同時に、愚行と知りつつも泳がせて、雷の気を溜めているようでもある。
ヴァモスは、激しい悪寒に大きくぶるっと身震いした。それが合図であったかのように、武者震いなのか、歯の根が合わないほどに震えはじめた。
このままでは、儀式を遂行する覚悟が霧のように消えてしまう。ヴァモスは道具やら呪具やらを革袋に乱暴に詰め込むと、何かに追われるように走って城を飛び出した。
遺跡の丘に辿り着いたのは、かなり夜も更けた頃合いだった。
だが、ヴァモスはあることに気が付いて、ぞっとした。
沈む方向に傾いていたはずの月の位置が、少し戻ってはいないだろうか。と、思うや、身体に何かがまとわりついたように感じて、やみくもに自分の身を払った。
冷汗が噴き出した。
雪のやまない深更において、小高い丘の遺跡はもはや魔の園のようだった。
風の流れは自然に逆らい、地底の唸りは踵を叩く。
ヴァモスは、林立する列石のなか、拾った石で円環を作った。簡易的だ、どこまで効力があるかわからない。
だが、遂行しなければならない。
結果はどうあれ。
ヴァモスは、作った円環の傍らに座して、ぶつぶつと呪文を唱えはじめた。その呪文の響きに自分自身が怯えるという不甲斐なさに、薄ら笑いさえ込み上げてくる。
そのせいか、こしらえた蝋人形さえ微笑を浮かべているように見えて、なぜか『やれるものなら、やってみよ』と急かされている気がした。
ヴァモスは、意地になった。石のヤジリで『柊筮』と刻む。妖しくぬるい風が吹く。
にわかに邪気を感じて、紫蘇の葉の汁が入った小瓶を落としそうになったが、慌ててヤジリに塗りつけた。
(もう少しだーー)
ヴァモスは、口では呪文を唱えながら、胸の中では早鐘のように打つ心臓を抑えるように呟く。
(このヤジリで、人形の胸を突き刺せばーー!)
取り替え子の魂を宿した藁人形を、円環の中、頭を北側に向けて置く。
(この人形に杭を打てば!)
終わる。
終わる。
すべてが終わるはずだった。
+++++++
心の臓が凍てつけば
氷の枝葉が四肢に沿い
吐く息すらも雪煙
最期に見るのは夢か現実か
情けを知らぬ我なれば
+++++++
「ーーあっ……」
ヴァモスは、左の胸を押さえてその場に倒れ込んだ。
痛みも苦しみも感じない。ただ、背筋に、覚えのないほどの冷たさで、一条の雷光が刺さっただけだった。
(……あぁ、やはり……)
四肢がまったく動かない。人形のように横倒しになった姿勢で、ヴァモスは骨の髄に妖精の呪文が駆けめぐるのを感じていた。
それは、左の胸を侵さんとする、恍惚にも似た最期の瞬間に思えた。
あり得ないことではなかった。むしろ、当然のことが起こっただけだ。
(ーー呪文の逆流……)
気づかないでいたわけがない。
環状に並ぶ列石の群れの中の、横に倒れたサラセン石に、未だ赤子であるはずの取り替え子が片膝を抱いて座っていた。
しなやかな四肢は霊光に包まれ、まるで明日を憂うかのように肩を落としてヴァモスを見ている。
そして、そっと瞼を伏せた。
怒りか、情けか、わからない。
妖精は、若き魔術師を縛りつけたまま、己に似ても似つかない蝋人形を拾い上げると、そこに刻み込まれた名を嘲笑ったのだった。




