第五幕 迷宮への扉 第四場 導かれる夜
ノックの音を肌に感じた。
ラムダは、フラスコから、もう一方のフラスコへ、妙な色合いの液体を移し替えていて、目を離すことができなかった。
フクロウが鳴いている。真夜中である。
(ーー辿り着いたか)
森の奥の奥、ひっそりと息をひそめて佇む古い館。その扉を、身を任せるように打ちつけている音がしている。
ラムダはフラスコを持ったまま、ほっと安堵の息をついた。客は誰なのかわかっている。
ずっとずっと、水晶玉から見守りつづけた、氷雪の妖精に違いない。
ただ、薬草の調合の最後のところで、手を放すことができない。すると、事情など百も承知なタイミングで、真紅の身なりの少年がひょいと顔をのぞかせた。
「どうするラムダ、お客さまだよ」
「迎え入れてくれないか」
「“待ち人来る”か、ひと安心ひと安心」
「いつにもまして嬉しそうだな」
「あんたのことを言ってるんだぜ」
「俺のこと?」
「あんまり邪眼で見つめると、水晶だって割れちまうぞってんだ」
「いいから早く入れてあげろよ」
「よしきた! あの子が逃げないうちに」
「無駄口は叩くなよ。今夜のミルクが欲しいならな」
陽気なホブゴブリンの少年は、赤い髪をふわふわさせて、口笛を吹きながら駆けていく。
ラムダは気を取り直して、フラスコをテーブルに置き、乾燥した薬草をつまむと小鍋の湯の中に入れた。
「……あ」
調合の仕上げだったのに、ややクマツヅラを入れすぎたのか、途端に酷い臭気が漂った。
(ーー俺は、動揺しているのか)
ラムダはひっそりと滑った指先を眺めていた。
アミィストーンは無遠慮に、ラムダと妖精の少女を交互に見比べていた。手に持つ大きなマグカップには、たっぷりのミルクが入っている。蜂蜜を入れてとお願いしたら、ひと掬い分入れてくれた。ラムダの機嫌がいい証拠だ。
(ああ見えても、な)
アミィストーンは気が揉めて仕方なかった。せっかく妖精を保護できたのに、その表情はないだろうと、言えるものなら言いたかった。
(それにしても……)
薄桃色のチュニックをすとんと着て、ソファに沈みこむように座っている妖精は、お姉さんのようでもあり末っ子のようでもある。そして、こんなに打ちひしがれていても、圧倒的に強い霊力を秘めている。
(口が利けないわけじゃあない、口を利かないだけなんだ)
うんうん、とホブゴブリンの少年はひとりで考察している。
(笑顔を忘れたわけじゃあない、笑いたくないだけなんだ)
いや、笑えないだけなんだ。
ラムダが黙って、そっと妖精にカップを差し出す。卵と生姜のスープの香りだ。妖精も黙ってカップを受け取る。
(おいおい、そこはさ、『温まるよ』『ありがとう』みたいな会話でもすればいいじゃんか)
アミィストーンは、ミルクを飲むのを忘れていたのを思い出し、自分も一口飲んだ。
(それにしても……)
ラムダの兄貴の水晶玉のなかに降っていたのは、雪なんかじゃなくて、この子の髪の輝きだったのかと、つくづく思う。
それに、瞼の裏に焼きついたのは真夏の海の色じゃなくて、この子の瞳の哀しみだったんだ。
アミィストーンは、次第に目が離せなくなっていた。
(どうにも惹きつけられちまうのは……)
すっと、何か強いものに引っ張られる感じがする。とはいえ、アミィストーンも妖精である。その妖気、霊力に引きずられることはなかったようで、それにしても可愛いな、と、ラムダが聞いたら腰を抜かしそうなことをぬけぬけと考えていた。
(信じられるかい! この目で見ているんだぜ! 彷徨の哀しき妖精!)
(ラムダの兄貴が惚れちまうのも無理ねえな)
カタブツの、見目麗しき魔術師と、凍てついた神の血を引く氷雪の妖精を、またしげしげと見比べながら、アミィストーンはミルクを一気に飲み干した。
(運命ってのはなかなかに愉快だな、こう言っちゃあ何だけどさ!)
柊筮は、半ば眠っているような、ふわふわした感覚に襲われていて、記憶が曖昧だった。
どこをどう通ったかわからないが、森の中を彷徨って見つけた館の扉を叩いてみた。開けてくれたのは、真紅の形の、ホブゴブリン少年だった。遅れて現れたのは、黒髪が胸元まで垂れた、紫色の瞳の男。フードをはねたローブから、微かな薬草の匂いがしたのを覚えている。
スープを勧めてくれた手の甲に、新しい火傷の痕がひとつ、あった。
男が黙ってカップを渡してくるので、柊筮も黙っていた。部屋の隅に座っている赤い少年が、落ち着かなげにこちらを見ているのは気になるが、この沈黙が心地いいのは確かだった。
柊筮は、目の前に静かに座る長身の男の口調や、己を見つめる視線に少しの危惧もないことに、逆にたじろいだ。何かの罠にかかってしまったのか、とさえ疑った。
だが、偶然見つけたこの館が、たとえ罠であっても、朝には消える夢であっても、導かれて辿り着いたと信じてみたくなるほどに、とても疲れていたのだった。
(わたしはいったい誰なのかーー)
(わたしはいったい何なのかーー)
この男が答えを知っている気がした。
意志の強さを象る、智慧の色なる紫紺の瞳のせいかもしれない。
眠りに閉じる意識の外で、低く穏やかな男の声が語りかけている。
王子の声はもう聞こえなかった。
柊筮は、飲みかけのカップを膝の上に下ろすと、目を閉じた。そのまま眠り込んだ妖精の身体をそっと抱き上げて、ラムダは寝室へと運んだ。
くすくすと笑いながら、足を肘で小突いてくるアミィストーンを見下ろしながら、何をそんなに喜んでいるのだろうとラムダは不思議に思った。




