第五幕 迷宮への扉 第二場 侍女リシアの懸念
リシアは、魔術師ヴァモスの居室の前で立ち竦んでいた。
ノックをしようとしたが、それはとてつもなく憚られた。
「……ヴァモス」
廊下にまでは届いてこない魔術師の泣き声は、押し殺せば押し殺すほど、壁を貫き響いてくるようだ。
リシアは扉に両のてのひらを当て、祈るように俯いた。
身が滅ぶまで悔やんだとしても、悔やみきれない思いだろう。手を伸ばせば、指先が触れるほどにそばにいながらも、柊筮さまの暴走を止めることができなかったのだ。
「あぁ……」
(わたしですら)
こんなに胸が痛むのだ。その光景を想像しただけで、喉が締め付けられるのだ。
(あの場に、いたとしたら、わたしはーー)
生きていられないかもしれない。
気が触れてしまった王妃は、お付きの侍女たちに抱えられて居室へ戻っていった。それを見て『お気の毒に』と思ったが、今このヴァモスの様子を目の当たりにすると、気が触れただけ楽かもしれないと、意地悪なことを考えてしまう。
硝子の砕けた窓の外は蕾ふくらむ春だというのに、この扉の向こうはあの日のままで、氷の洞窟みたいなのだろうか。
引きちぎられた白いローブの端切れを掻き抱いて、悲嘆にくれる彼の胸の裡は、推測するに余りある。
(今は泣くしかできますまい)
励ます言葉も探せずに、リシアはその場を後にした。
この日の夕刻には、ヴァモスは姿を現し、取り掛かっていた古文書の解読の仕事に戻った。
その間に、侍女や下男たちが部屋を片付けるよう言いつかったのだが、一歩入った瞬間に、誰もが見えない壁にぶち当たったように硬直した。桟だけになった大きな窓、飛び散った硝子片、床や絨毯に染み付いた血痕、びりびりに破かれたカーテンや敷布。
まだ幼い下女の中にはべそをかく者もいた。
リシアは、一言「頼む」と言って廊下を去っていくヴァモスを見送っていた。部屋から香る、誰も気付かないような、ほんの微かな妖精の残り香に、ヴァモスの肩が落ちのるがつらかった。
良い意味か悪い意味かは、わからない。だが、確実に妖精の王女に関わった男たちは、その運命を狂わされている。
箕郷だってそうだ、とリシアはふいに思い出して、何とはなしにぎょっとした。
「ぼくは、姉さんを愛している」
確固とした宣言だった。
どんな反応も要求していない。
だから、どうしてくれという下手な頼みもない。
ただ、リシアには、その愛の宣言に狂気が混ざりこんでいるのが見て取れた。人を愛しつづけるという決意を固めた顔が、こんなにもつらいとは。
これも柊筮の遺した禍いというのだろうか。
恐れをなした南嶺王の、震える口から下された命。魔術でもって追跡すること、見つけ次第に殺すこと。
さしものリシアも、呆れ気味に口元を歪めて笑った。
(気高き妖精に人の裁きが通用すると思うてか)
柊筮というのは仮の名の、氷雪の妖精は今どこにいるのだろう。
リシアはつと、窓辺に近づき、行ったことのない遥か向こうの空を見ながら、共に過ごした王女の儚くも美しい横顔を思い出した。
(どうか……)
リシアは祈る。
(〔目覚め〕の力に操られるまま果てることのないように)
(貴方の運命が酷な途を辿ることのないように)
「……聖なる森の森の精よ、私の思いをどうか届けて」
そして、願った。
(口伝を歌う吟遊詩人よ。かれの無事を聴かせてください)




