第四幕 死または再生 第二場 魔術師ヴァモス 無力の証明
静かすぎる真夜中だった。
魔術師ヴァモスは、わけもなくふと目覚めた。
と、そこに。
どうして入ってきたものか、書物の重なる部屋の隅に氷雪の妖精が立っていた。
「あーーしゅ……う……」
即座に意識に上ったのは、やはりあの日のことである。生まれたばかりの赤子の生命を奪おうとしたわたしの咎を、償わせようというのだろうか、と。
だが、ヴァモスは怪訝そうに眉をひそめた。
なぜ、まるで己が罪人みたいに白装束なのだろう。
瞳の色が深くなるほど、何をそんなに思い詰めたのだろう。
だが、訊いてみようにも舌は貼りつき動かず、ベッドに半身を起こした肘は震えて定まらない。
そして。
ためらいながらもじわりと近寄る取り替え子の形相に、回り出した運命の輪のもう止められぬ変貌をみた。
左の胸が凍っていく
両眼が見えなくなっていく
音が遮断されていく
口があかなくなっていく
わたしはこのまま死んでいくのか
このまま石になっていくのか
灼けつくような氷の柱は
火傷するほど熱くて冷たい
わたしはこのまま死んでいくのか
わたしの身裡で起きてる変化に
わたしの意志が届かない
わたしのなかで闇と光が
勝手にせめぎあっている
次第に身体が痺れてく
「あぁ、なんてことだ……」
ヴァモスは喉元を掻くように押さえた。
まるで何かに犯されたかのように、柊筮の〔目覚め〕の速度が増している。この子のなかの本質が邪悪な何かに触れられたのだ。
人の子ならば少女くらいの姿かたちであったものが、みるみる成人になっていくのを、ヴァモスは阿呆のように、ただ見ていた。
王子よ おまえは何が望みだ
おまえの記憶をみせられるたび
この身が裂かれそうになる
どうにもならぬ泣き言に
明け暮れていてなんになろう
父よ母よ あなたがたは何をした
アイトーリアの火炎地獄で
あなたの何が満たされたのだ
その手で触れるな その口で名を呼ぶな
わたしの聖血が穢されていく
(……アイトーリア!)
その国名を聞いた瞬間、ヴァモスは蒼白になった。それに反比例して、腹の底がずんと熱くなる。己の術で死地に追いやられた民たちの断末魔の声が耳に甦る。
(まさか、あれを……)
あの、朱に染まった歴史の一幕を知ってしまったのか。
(誰がーー)
(どうしてーー)
意味のない疑念が、浮かんでは消える。
(無垢で幼い貴方が知るには、あまりに汚れたことなのに)
そのとき。
とつぜん、バルコニーへの扉が外からバタンと、乱暴に開かれた。
びゅう、と唸りを上げて、雪と氷の礫が冷たい突風とともに部屋に雪崩れ込んできた。静かすぎる夜だったはずが、いまや狂ったような雪嵐が吹き荒れている。
「な……!」
薄物の寝間着だったヴァモスは、激しくぶるっと身震いした。一瞬で凍結しそうな寒さに歯の根が合わない。
だが、それよりも彼の心臓を締め上げる現象が、目の前で起こっていた。
「柊筮!」
思わず、ヴァモスは絶叫した。
激しい雪の嵐にカーテンが荒ぶり、割れた硝子と雪と氷が散らばる床に、氷雪の妖精が倒れていた。苦痛にのたうち、理解できない言語で泣き叫んでいる。
ヴァモスは助けようとまろび出たが、妖精の周りに渦巻く雪嵐が楯となって近付けない。
「……柊筮ーー」
一歩踏み出しては転び、ヴァモスの身体は破片の上に落ちる。だが、起き上がり、踏み出してはまた転ぶ。ヴァモスは血まみれになりながらも、身を半分に折って床に転がり続ける柊筮の傍まで辿り着こうと試みた。
(あぁ、神よ……)
「しゅう……せい……」
あと少しで、そのはためくローブの裾を掴めそうなところまで来たときにーー。
まるで最後通牒のような、ひときわ強い一陣のつむじ風が吹き込み、柊筮の華奢な肢体を搦めとった。
引き裂かれた白装束が雪のように降りしきるなか、銀の裸体と虹色の羽根は完成し、無様に床に這う魔術師の目の前で、取り替え子は鮮やかに連れ去られていった。
「しゅうせい……」
連れ去られたのではない、と、ヴァモスは力なく自嘲気味に呟く。
とうとう目覚めてしまったのだ。
まだ何も伝えていないのに。
「わたしは……何を恐れて……」
この日が来るのはわかっていた。遠い未来でないこともわかっていたはずだ。なのに、何を恐れて、あの子と向き合わずにいたのだろう。
(柊筮の方が、ずっとずっと、不安だったろうにーー!)
嘘のように雪嵐が収まった夜空には、予言に満ちた三日月が掛かっている。あの子が産まれたのも、確かこんな夜だった。
(三日月の夜に雪が降る)
吟遊詩人の一節が思い出される。
ヴァモスは、白い端切れをかき集め、吠えるように泣き出した。




