マイティ・ソー
午前4時半過ぎ。到着予定時刻通りにクリミア半島へと辿り着き、優人はクリミア自治共和国の議会前に2人を降ろした。
カプセルから排出され、すぐさま周囲に睨みを効かせる義人。その後ろで中島が激しいGと液体呼吸の余韻に青ざめながらも必死に足を踏ん張っていた。
すでに国籍マークも階級章もない、緑の軍服に身を包んだ重武装の兵士たちが展開されている。その数、30から50名ほど。ロシア軍の特殊部隊、スペツナズと思われる2グループが最高会議および政府庁舎の建物内に侵入し、組織的な制圧を開始していた最中である。
「Руки вверх(手を上げろ)!!」
闇夜に紛れて突然姿を現した義人たちに対し、兵士たちは一斉に銃口を向けた。真っ先に指示に従ったのは、中島ただ1人。だが、義人と優人は超人としてここで下手に舐められるような行動はするべきではないと考え、すぐさま呼び掛ける。
「こちらに敵対する意思はない!! 貴国の超人と話がしたい!!」
ビリビリと向けられる殺気が全身を突き刺していく。だが、彼らも無闇やたらと引き金を引くことはなかった。相手がホッグ・ノーズ。またの名を『日本の死神』と呼ばれる超人であることは義人の姿を見てすぐに理解し、撃っても無駄だと判断したからである。
「早いな……。いや、早すぎる……。日本の超人か……」
兵士たちの包囲網が静かに割れた。奥から出てきたのは潜り抜けてきた戦場の数を物語る圧倒的な威圧感と研ぎ澄まされた力を纏うスキンヘッドの40代前後といった見た目の男である。白く短い髭を顎と口周りに生やし、上半身と両足を緑の大理石のような外骨格装甲で固めていた。明らかに指先の爪は生半可な強度の金属であれば紙でも切るかのように引き裂くことができると物語っている。
あいつか……。
白く冷たい息を吐きながら、ロシアの超人は義人たちを見据えた。中島が急ぎ、先程の言葉を通訳する。それを聞き、さらに眉間に縦皺を刻み込む。
「おい!! 本部に連絡しろ!! すぐに日本語の通訳を寄越せとな!!」
男は部下に指示を出し、素早く敬礼をした。
「初めまして。日本の英雄。私の名は……そうだな。ペルーン。ペルーンと呼んでくれ。君たちの訪問を歓迎する」
ペルーン……? 確か、スラヴ神話で、雷の神だったはず…………。
中島は口にすることはなかったが、なぜこの男が雷の神の名を口にしたのか理解できなかった。
そう言って差し出された右手を義人と優人は迷わず手に取る。
「初めまして。私の名前は、ホッグ・ノーズ。貴殿の歓迎に心から感謝の意を表します」
「初めまして。私の名前は優人。貴殿の歓迎に心から感謝申し上げます」
緊迫するクリミアの夜明け前。世界初の日露超人会談は静かに始まりを告げた。
午前5時。部隊はわずかな警備スタッフを排除し、内部にバリケードを築いて完全に建物を占拠した。建物の屋上にはロシアの国旗が掲げられる。
その外で3脚と2脚。対面で椅子だけが並べられ、それぞれ腰を下ろす。超人会議の始まりだ。先に切り出したのは義人である。
「我々の目的は貴国の超人を止めることです。ペルーンさん。これ以上の軍事行動は国際社会が許しません」
事前に用意された台詞を義人が伝えると、ペルーンは足を組み、低く笑った。
「貴国? それは違います。ミスター・ホッグ・ノーズ。我々は国家の軍隊ではありません。ウクライナの暫定政権に不満を持つ、クリミア住民として決起しただけのただの自警団ですよ……」
それはどう見ても嘘だろ……。
義人は鼻から息を静かに吐く。最新のロシア製アサルトライフルを構えたスペツナズ軍団を背負いながら、よくもまあそんな冗談が言えたものだと感心する。だが、これがロシアという国のやり方なのだろう。
「なるほど。地元の自警団、ですか……」
義人が話を合わせると、ペルーンは満足そうに頷き、その凶悪な爪同士を合わせ、僅かに研いだ。
「そうです。ですので、あなた方日本政府が我々に撤退しろという命令をする権限も聞き入れる耳も持ち合わせてはおりません。ですが、あなた方がわざわざ地球の裏側から我々の陳情を聞きに来てくれたというのであれば、こちらも無下に追い返すような無礼な真似は致しません。話くらいは聞きましょう」
「では、単刀直入にお伺いします。あなた方の目的は一体なんですか?」
予想は付いていたが、話の枕として義人は尋ねておく。
「そうですね、ミスター・ホッグ・ノーズ。我々はただ、ウクライナの不当な政権からこのクリミアに住む同胞たちの尊厳と安全を守りたいだけなのです。決して、他国への侵略戦争を仕掛けている訳ではありません」
「それでは、これ以上の武力行使は一時停止して頂きたい。我が国の総理が、あなた方の上層部と現在、交渉中です。それまでは、現地の超人はこの場から動かないでもらいたい。これが我々の要求です」
義人の言葉を中島が正確なロシア語に訳し終えると、ペルーンを囲むスペツナズの兵士たちの間に一瞬だけ緊張が走った。日本の死神と優人という謎の超人を前にして、一歩も動くなという要求だ。
だがペルーンは、意外なほどあっさりと、その要求を飲み込む。
「ハッハッハッ!! いいでしょう。その要求を飲みます。日本の総理の顔に泥を塗るような真似はしたくありませんからね」
男は緑の装甲に覆われた巨体を椅子に深く腰掛け直す。
「我々は元より、今回の目的はこのクリミアの治安維持だけです。これ以上、キエフまで進軍して血を流すつもりはありません。あなた方がここで私を監視し、私がここで足を止める。お互い、政府が裏で絵図を描き終えるまでの間、ここで静かにゆっくりと、美しい朝日でも待とうじゃありませんか」
煙に巻くようなペルーンの態度。だが、義人と中島はその言葉の裏にある確信を読み取っていた。
やっぱり……。ロシアの目的は最初からこのクリミア半島だけ。ここさえ確実に抑えられれば、今日のところは大人しく引き下がってくれる……。
交渉は成立した。互いに立ち上がり、ペルーンはその爪を元に戻し、固い握手を2人と交わす。それに倣い、優人も黒い装甲を一度、元に戻した。こうして最悪の超人対戦という衝突は回避される。義人と中島は静かに息を吐き出すのであった。
なぜペルーン。ロシアがここまでクリミア半島に執着するのか。それはこの島の南端にあるセヴァストポリという港にあった。この港は冬でも凍らない貴重な不凍港だ。ロシアにとって一番の弱点は、冬になると海が凍ってしまい、船が出せなくなることにある。ここを抑えておけば地中海や中東、大西洋へといつでも軍艦を派遣できるロシアにとって防衛、侵略の拠点であった。そのため、ロシア海軍の主戦力である黒海艦隊の本拠地がここにはある。
2014年、当時。ロシアはウクライナからこの基地を借りている状態であったが、ウクライナが親欧米側。親NATO政権にひっくり返ったため、このままでは基地を追い出され、最悪アメリカ、NATOの軍艦にクリミアを乗っ取られる危険性があると考え、今回の暴挙に出たのであった。
ロシア側から見れば、ウクライナやクリミア半島はヨーロッパ。NATOとの間にある最後の緩衝地帯。もしクリミア半島が完全に西側諸国の手に渡ってしまうと、すぐ目と鼻の先にNATOのミサイル基地やレーダーを配備されてしまう。それを阻止するための盾として、クリミアはなんとしてでも自国領にしておきたかったのだ。
さらに国内向けの強いロシアというアピールと歴史的執着がそこにはあった。クリミア半島は18世紀の帝国時代からロシアが血を流して獲得し、戦ってきた歴史的な聖地という意識がロシア国民の中に強くあり、歴史的にロシアの土地であったクリミアを取り戻したと国内にアピールすることで国民の支持率を爆発的に跳ね上げるという政治的な大勝負でもあったのだ。事実、このあとロシア国内で政権支持率は90%近くまで暴落から転じてV字回復する。
そして共に上からの指示があり、ペルーンも義人たち一行もそれぞれの国へと戻っていく。その後、半島内にあるウクライナ軍基地。空港。通信インフラは完全に包囲、遮断され、ウクライナ側は本土の混乱もあり、組織的な武力抵抗ができないまま無力化される。
3月16日、日曜日。ロシアの監視、軍事圧政下でロシアへの編入の是非を問う住民投票が強行される。投票結果は9割以上が賛成と発表されたが、国際社会からは偽りの投票として非難された。
しかし、ロシアは急速に事を進めていく。3月18日、火曜日。ロシア大統領はクリミアをロシア連邦へ編入する条約に署名し、一方的な併合を宣言した。
これを国際社会は承認せず、国連、ウクライナ、日本、欧米諸国は、この占領を「国際法およびウクライナ主権の重大な侵害」として認めず、後の時代に至るまで法的地位は「ロシアに占領されたウクライナの領土」である。
ロシア側は反占領派のウクライナ人や先住民族である「クリミア・タタール人」のメディア、代表機関を強制解散させ、多くの活動家を拘束、追放した。代わりにロシア本土から多数の市民を移住させ、半島のロシア化。再植民地化を推進している。
さらにロシアは本土とクリミアを結ぶ「クリミア大橋(ケルチ海峡大橋)」を建設し、物理的な一体化を強化。このクリミア占領が国際社会によって力で覆されなかったことが、後の2022年2月からのロシアによるウクライナへの全面侵攻の呼び水となり、クリミア自体も南部攻略の軍事拠点として利用されることになるのであった。
ペルーンと名乗ったあの超人が出てこない以上、義人も優人も動くことはできない。
「…………」
義人は義憤に駆られるようなこともなく、ただ静かに目を向ける。ウクライナの大統領が義人への面会、助けを求めても国も義人自身も断り続けた。
大いなる力には、大いなる責任を伴う—―。
自らを厳しく律し、冷静に事態を見極め、力の行使を行う。2014年。この時期の日本とロシアの関係は良好だった。神室総理は北方四島のうち、歯舞・色丹の二島返還を現実のものとする。
『ここに日本及びアメリカ軍基地及び超人を常駐させない』
それがロシアの提示した条件であった。アメリカはもちろん口では反対したが、義人が作ったバークレー政権時の大きな貸しを前にそれ以上のことを口にすることはできず、指をくわえて見ていることしかできなかったのである。
返還され、テレビの中の政治家や関係者らは大いに喜んだ。神室総理の支持率も党内での立場も盤石なものとなる。ただ、だからといって義人に何か恩恵があったのかというと、何もない。いつもと変わらぬ静かな日常がそこにはあった。
だが、これでいいと心の底から思っている。目立ちたい訳でも俺の手柄だと力を誇示したい訳でもない。心穏やかに自由に生きられればそれで良かった。それ以外のことはどうでも良かったのだ。
そんな風に世間から一歩引いたところに自分の身を置き、再び警察や自衛隊との訓練や勉強会。会食といった忙しい日々が流れ、2026年5月31日、日曜日。義人は冴島を殺した。




