ウルフ・オブ・ウォールストリート
8月11日、義人は首都陥落の恐怖に直面した若き大統領が、世界中に生放送されるカメラの前で、恐怖のあまり自身のネクタイを過呼吸気味に噛み締める姿を目撃する。まさに人が壊れた瞬間であった。アメリカによって育てられた男の、その親を信じ、勇ましく行動を起こした末路がこれだ。それは同時にアメリカの国際的な影響力が地に落ちた瞬間でもあった。
アメリカは口先だけでロシアを非難するに留まり、兵を送ることもせず、ただグルジアという国が焼かれる様を眺めることしかできなかったのだ。それほどまでにアメリカも疲弊していた。限界を迎えていたのだ。泥沼化した戦争を2つも抱え、住宅バブル。サブプライムローンの崩壊がもう間もなく始まろうとしている。
国際社会も義人も嫌でも理解させられた。明日は我が身だと。終わったはずのソ連が再び帰ってきたのだと。そして、元KGB。現首相の狂信的なまでの野心。もう一度、ロシアを偉大なる国にするという野望を突き付けられたのであった。
俺は一体、何をすればいいんだ…………。
義人が戸惑い、北の大地がロシアの鉄槌によって揺れた僅か1ヶ月後。世界はもう1つの爆弾が、その火薬に火をつけたことを目撃することになる。
2008年9月。アメリカの名門投資銀行、リーマン・ブラザーズが経営破綻した。リーマンショック。のちにそう呼ばれる世界規模の金融、経済危機の幕開けであった。
2008年9月15日、月曜日。リーマン・ブラザーズが民事再生法を申請し、事実上倒産。 負債総額は約6000億ドル。当時のレートで約64兆円という史上最大の倒産規模となり、100年に1度の危機とも称された。
その原因は、アメリカのサブプライム・ローン。低所得者向け住宅ローンである。
2000年代前半。アメリカの住宅価格が上昇し、住宅は下がらないという神話の時代が到来する。家を買えば翌年には価値が勝手に上がる時代に低所得者や過去に延滞歴などがあり通常のローン。プライム・ローンを組めない層にも銀行は積極的に融資を行った。その理由は至極単純で、債務者が自己破産してローンを返せなくなったとしても担保の家を取り上げて売れば買い値よりも高く売れ、絶対に損をしない。確実に利益を出せると思い込んでいたからである。
さらに銀行は返済能力の低い低所得者のいつ焦げ付くか分からないゴミのような債権を大量に集め、そこに優良なローン。貸した金がほぼ確実に返ってくる極めて安全なプライム・ローンを最新の金融工学という名の魔法でこねくり合わせ、1つの新しい金融商品を完成させた。そしてその新商品を世界中の投資家や金融機関に売り捌く。彼らは飛びついた。優良なプライム・ローンが入っており、一部が破産したとしても全体の利益の方が大きく、カバーできると信じたからだ。
だが、2007年頃から住宅バブルは弾け、価格は暴落。家を売っても借金が返せない。世界中に売り捌いた新商品はいつ爆発するか判らない。危険な爆弾に成り代わっていたのであった。
では、最新の金融工学自体がなかったのかというと、そういう訳でもない。ウォール街には確かに天才的な数学者や物理学者たちが大金で雇われ、最先端の数式を使ってリスクの計算を行っていた。なら、なぜ起こったのか。それは住宅価格は絶対に下がらないという前提の下で行われた計算式だったからであり、複雑に混ぜ合わせ過ぎたせいで誰がどれだけ不良債権を抱えているのか売った本人でさえ分からなくなってしまっていたからである。そしてバブルが弾け、低所得者たちが一斉に自己破産をし始めると、その天才たちの想定を遥かに超えるスピードで世界中の投資家たちは全ての金融商品の投げ売りを始めた。誰もが損をしたくない。巻き込まれたくはないという人間の心理までは計算できなかったのである。
こうして、この年の日本は記録的な株価の下落が起こり、日経平均株価は一時7000円を割り込むというバブル崩壊後の最安値を更新。そして投資家たちがリスク回避のために円を買ったことで1ドル80円台まで円高が進んだ。
さらにリーマン・ブラザーズ日本法人の経営破綻を皮切りに不動産、生命保険、建設業界などの大手企業が相次いで経営破綻に陥るのであった。
これにより最も深刻だったのが、急激な雇用の悪化である。外国での需要、特にアメリカでの消費が消滅したため自動車や電機などの輸出企業が巨額の赤字に陥り、大規模な減産を余儀なくされた。この輸出企業の苦境により、製造業を中心とした派遣切り。労働者の大幅なリストラ。さらには卒業直前の新卒内定取り消し。大手企業、特に製造業や金融業での採用枠の大幅な絞り込みが行われる。
そして新卒の採用を完全にストップする企業も現れ、まさに就職氷河期の再来であった。これは超氷河期と呼ばれ、就職率が過去最低水準まで下落する。これにより非正規労働者が増大。正社員になれず、派遣やアルバイトを選ぶ学生が急増した。
この時期の採用枠縮小は数年後、企業内で若手層の欠如という構造的な欠陥を引き起こす原因にもなる。
日本政府や日銀もまた、この未曾有の国難に国力を上げて奔走した。日銀は政策金利を実質ゼロまで引き下げ、ETF。上場投資信託の買い入れなどを開始。政府は経済対策として定額給付金の支給やエコカー補助金、エコポイント制度などを矢継ぎ早に導入し、中小企業向けの緊急保証制度を発動させて資金繰りの支援に追われる。
「…………」
これらの出来事により国内は元より、世界の誰もが日本の超人のことなどに構っていられる余裕はなくなり、経済の立て直しへ走り始めた。
何もできない義人はただ静かに鍛錬と勉学に励み続け、世間知らずの少年はいつしか大人へと成長していく。
次に彼が表舞台へと上がることになるのは6年後、21歳の時。2014年2月27日未明。緑色の戦闘服を着た謎の武装集団がクリミア半島の自治共和国議会や政府庁舎に乱入。建物を完全に占拠した。その武装集団の中に佇む新たな超人。この男と義人は北の大地で壮絶な戦いを繰り広げることになる。




