閑話
男は名を...いや、厳密に言えば男に名は無かった。
委員会のエージェントとして動く限り、状況にあった名を名乗るばかりで本名と呼べるものは無い。
ある時は家庭の父であり、ある時は軍の高官であり、ある時は魔研の研究室所属でもある。
まるで道化のように仮面を付け替え、誰にでもなる。
今日はプロジェクト:メノイケウスの担当としてフリードリヒ・フォン・ウェーバーがその名であった。
検問を通る。何処の基地だって用意した書類を見せれば、その発行元の欄に目が行くなり、慌てて書類を返され、震える声で通される。
まるで目が合えば消されるとでも思っているかの様に、目さえ合わせずやり過ごそうとする様はかえって滑稽にさえ映った。
無理もない。認可の署名欄にあるのは帝国皇帝の名前だ。
だが、ここまで性急な真似に走っているのには理由がある。
男は、エントランスで待っている高官や研究者たちに案内され、今日の視察をする。今の帝国にどれだけ飢えた人間がいるか、少しも考えた事の無いような肥えた腹と、おろしたてのように白い白衣に囲まれて。
だが、脳内では少し前に読んだ報告書の内容を反芻して居た。
曰く、未来観測機関SERNによれば、約3年から先の観測が出来なくなった。もとより精度の高い観測では無いが、観測自体の消失は初めての例だ。混乱を避けて公表自体は操作されているが、3年以内に何かが起こるとすれば、阻止に動かなくてはならないと年寄りどもが責突いて掻き回してくれやがったのだ。
「いやー、にしてもかのウェーバー博士に来ていただけるとは光栄ですな。SERNの公表されて居たワルキューレの滅亡も博士の働きで早まろうという訳で」
膨れた腹を抱えながら、唾を飛ばす目の前の高官に僅かに抱いた殺意も消して笑顔を浮かべ続けていれば良いのだ。
カバーストーリーは観測におけるワルキューレの消失。緘口令を敷けども口に門が建てられないなら不都合な部分を伏せて公表する事で塗りつぶすのだ。それに、ワルキューレの消失は戦争の終了を意味する。そこに向けて利権をせしめようとする連中の整理も合わせて行い、危機に先んじて掃除を済ませると言うのがジジイどもの筋書きらしい。
結局、政治は政治屋に、戦争は戦争屋に任せて私は今の私の仕事を全うすれば良いのだ。
初起動のニュクスは至らぬ点ばかりであった。だが、次の矢こそ奴らの喉を切り裂いてくれるだろう。
「と、ここまで見ていただきましたが、どうですかなこの基地は?」
考え事はここまでだ。仕事をしなくては
「ええ。この備えならば、ワルキューレは歯も立たずに堕ちることになるでしょう」
いいや、嘘だ。地図を書き換えるような山ごと消し飛ばす攻撃をどのように防げると言うのか。しかし、この基地に配備された防衛装備は使い捨て前提のハイヴと違い、左遷組の集まりでも人員不足の間に合わせも無い、先進先鋭だ。人類において二例目のナンバーズ撃破も果たせるやもしれないという期待が無いと言えば嘘になる充実っぷりだ。
「ですが、本日は件の荷物を見に来たのです。これほど厳重に警備頂いて居るなら、私も私の領分でしっかりと応えなくては」
ワルキューレへの対策として同じく地下の基地ながら、規模はハイヴの実に数倍にも及ぶここへ預けた荷物。次の兵器:ノルン。選りすぐりの最も魔法適性が高い二人を対の概念として兵器化するもの。
皮肉にも、今日ここへ来る遠因となったSERNから齎されたアイデアでもある。
実験兵器だが、理論上は敵ワルキューレを半永久的に封印する事が出来る兵器の筈だ。
目の前に並ぶ二つの肉塊を観る。
「素晴らしいですな、人が魔法を使うのではなく、魔法のために人を変えようとは。演算リソースとして人の身体は不十分か、老体もそろそろ捨てようかなどと浮かんでしまいます」
「ああ。変わらず維持されているようで何よりだ。替えの効かないものだから、計画実行日まで十分な栄養と冷却を頼むよ」
目の前の肉塊が誰であったかさえ、私は知らない。いや、書類の中でこの肉塊に消えた人数は把握している。私が吐き気を催す程悍ましいのは、この造形では無い。同じように何人の子供が犠牲となっているか知って尚、高尚な芸術品のような目で、あるいは金蔓や利権のように観る目の前の人間たちの目が悍ましいのだ。
幼き頃、滅びた町から救われた時、恐ろしいものを見る覚悟があるかと問われた。冷たくなった母親の腹にこぼれた臓器を必死に掻き集めて押し戻し、父はこれだけだと殆ど中身の無い壺を渡された時、きっとこれ以上恐ろしい事などあるはずが無いと思っていた。
だが違った。人は何処までも残酷になれる。
吐き気がするが、しかし、だからこそ私はいつか人類は必ずワルキューレを滅ぼせる程邪悪だと信じているのだ。
きっと、この子達も信じてくれるに違いない。
悪魔は私だ。だから私に本名は必要ない




