贈り物
ある日、雨が降っていた。降り注ぐ雨水は洞窟へと流れ込み、毒の沼へと注ぎ込んでいく。俺はその時の雨が、アルムを苦しめることになるなど、夢にも思っていなかった。
その日を境に、アルムの体調は少しずつ悪くなっていった。最初は気づかぬほどわずかに。だが、次第に目に見えて衰えが分かるようになった。
ある日、アルムは辛そうな顔で俺に訴えた。
「ラルゴ様……疫病が……薬草を取ってもいいですか?」
俺は薬草を噛みちぎり、アルムの前へ山のように積み上げた。
「ありがとうございます、これで良くなる……よかった……」
一刻も早くアルムを治してやりたかった。住処まで連れて行きたかった。だが、こんな小さく弱い存在を傷つけずに運べるほど、俺の手や口は器用ではない。
もっと早く気づいていれば――。そう自分を責めることしかできない自分が、情けなかった。竜でありながら、なんと無力なのだろう。
翌日、アルムは現れなかった。その翌日も、その次の日も。
アルムはどうなったのだろう。ちゃんと回復しているのだろうか。また俺の元へ来てくれるのだろうか。あの笑顔を、もう一度見せてくれるのだろうか。
どうか誰かアルムを助けてくれ。頼む……。
一体、何に頼むというのだ。精霊か。神と呼ばれる何者かか。それとも、アルム自身の強さにか。
もう訳が分からない。なぜ俺の心は、これほどまでに荒れ狂う。なぜ鎮まらない。誰でもいい、アルムを助けてくれ。俺のもとへ連れてきてくれ――!
そう願っていたとき、俺の目の前にアルムが立っていた。
目には涙を浮かべ、顔はやつれ、肌は紫がかって変色している。アルムはか細い声で言った。
「ラルゴ様……ごめんなさい……もう……来られない」
「きっと今日が……最後……お別れに来たの……」
そしてアルムは俺の目の前に崩れ落ちるように倒れた。
一体何を言っている。薬草は効かなかったのか。どうしてこんな姿に……。
俺は慌てて薬草を集め、アルムの前へどさりと置いた。アルムはそれを口にしながら、途切れ途切れに続ける。
「ありがとう、美味しい……うぐっ……」
「いっぱい……薬草も……お水も……飲んだ……早く……来たかった」
「でも……もうダメだって……お医者様に……謝られた……」
「嫌だ……会えなくなるの……嫌だ……死ぬの……嫌だ……」
「ラルゴ様……助けて……怖いよう……」
か細く泣くアルムを見て、俺は思い知った。
――俺は恐怖している。
かつて、これほどの恐怖を覚えさせた者などいなかった。今、俺を震え上がらせているのは、アルムを失ってしまう恐怖だった。
この小さく、か弱く――それでいて、俺にとって何よりも大きな存在が消えようとしている。
これは本当に現実なのか。夢であってくれと、心底願った。
夢……このままでは、アルムの夢は何一つ叶わないまま終わってしまうのか。せめて何かひとつでも叶えてやりたい。
俺に大魔法使い並みの魔力があれば、王子様にでもなってやれるだろうに。心臓でも血でも、いくらでもくれてやるのに。
――そうだ、血だ。
竜の血なら、何かしらの効果があるかもしれない。
俺は指の鱗を噛みちぎり、溢れた血をアルムの口元へ垂らした。
「ぎゃほっ! ゲホッ! あああうっ」
「うっ……ごく、ごく……」
アルムはむせ返りながらも、血を飲み込み始めた。そしてすぐに、力尽きたように意識を失った。
俺は狼狽した。死んでしまったのかと思った。慌てて顔を近づけると、かすかな寝息が聞こえた。胸もゆっくり上下している。
俺は安堵しながら、アルムの身体にありったけの薬草をかぶせた。そしてただひたすらに、再び目を開けてくれることを願った。
俺はアルムの顔を見つめながら、ふと思い出していた。
かつて討伐に来た人間の中に、同じような顔色で死んでいった者がいた。そいつは毒の水を飲み、体を内側から溶かされながら苦しみ抜いて死んでいった。
アルムは疫病ではない。これは毒の症状だ。俺は雨の日に水が流れ出していたことを思い出す。あの水が毒を運び、アルムがそれを飲んでしまったのだ。
毒の沼を作ったのは、俺だ。アルムを苦しめたのは、俺だ。
自分自身が腹立たしい。竜である自分に、何もできないことが辛かった。せめて、自分の命を分けてやりたい。
竜は永遠に生きる。その血には、何かの力が宿っているかもしれない。アルムの命は弱く、毒に負けてしまった。ならば命を強くしてやればいい。
アルム――負けるな。戦ってくれ。勝ってくれ。お願いだから、行かないでくれ。
翌日、アルムは静かに目を開け、俺を見ながら話し始めた。
「ラルゴ様、血を分けてくれてありがとう、おかげですごく楽になった。もう駄目だとあきらめてたのに」
大粒の涙とともに微笑むアルムの顔を見ると、俺は全身から力が抜け、その場に横たわって目を閉じた。
***
その日を境に、アルムの体調は少しずつ回復していった。竜の血は毒を消す効果を持つようだ。俺の周りにだけ薬草が生えているのもそのためなのか。
しかしその結果として、アルムがここにいる。その事実だけで、俺は満ち足りていた。
だが、あの忌々しい雨だけは、どうにかしなければならない。もう二度と、あんな思いはしたくない。
俺はその日から、寝床から洞窟の入口へ向かって、雨水の通り道となる溝を掘り始めた。そうすれば、毒沼に雨水は流れ込まない。外へとそのまま流れ出ていくはずだ。
器用さはないが、力ならある。俺は爪で土を掘り、岩を砕き、余分な土砂を鼻息で吹き飛ばしていく。単純な作業だが、まるで自分が土竜にでもなったような気がした。
完成する頃には、全身が土まみれになってしまい、本当に土竜のような格好になっていた。
「こんにちは! ラルゴ様……あれっ、ラルゴ様? いない! 何なの、この溝……そんな……」
「ラルゴ様ーっ! どこにいるの? ラルゴ様ーっ!」
俺はここにいるというのに、アルムは辺りを探し回っている。さっき掘った溝を見て、俺を土砂の山か何かと勘違いしているらしい。そこまでひどい姿なのか、俺は。
……こうなったら毒沼に入って、体の泥を洗い流してやるか。毒に浸かれば、汚れなど跡形もなく溶けて消え、元の姿に戻れるだろう。
俺は立ち上がり、毒沼へ向かって歩き出した。
「ひやぁぁっ!」
泥を頭からかぶって悲鳴を上げるアルムを横目に、俺は毒沼へ体を浸す。
――その瞬間、指先に激痛が走った。
「グギアアッ!」
俺は悲鳴とも咆哮ともつかぬ声を上げ、無様にも沼から飛びのいた。激痛の原因は、指だった。以前、自分で鱗を噛みちぎった部分。そこから毒が染み込んだのだ。
これで、毒沼に浸かることはできなくなった。しかし、アルムを失うことに比べれば、大した問題ではない。
何事もなかったかのように元の場所へ戻り、アルムがどんな顔をしているか確認する。
「わ、私のせいで……怪我を……」
やはり心配そうな顔をしていた。怪我など気にしていないと、どうにか伝えたい。周りを見渡しながら考えていると、ふと、指から剥がした鱗が地面に落ちているのを見つけた。
竜の鱗は貴重品だ。売ればそれなりの収入にはなるだろう。今の生活が少しでも良くなってくれればよいのだが。
俺はその鱗を口に咥え、アルムの胸元へと差し出してみせる。受け取ってほしい。贈り物だと分かってくれれば、怪我など些細なことだと理解してくれるだろう。
アルムは両手ですくうようにして手を差し出した。俺はその掌の上に、そっと鱗を落とす。
アルムの目が大きく見開かれ、きらきらと輝いた。
「うわぁ、綺麗……ありがとうっ!」
「わたし、ラルゴ様に命をもらった! 鱗まで貰った……貰い過ぎだよ。お返し、頑張る!」
鱗を両手に握りしめ、跳ねるように喜ぶアルム。その姿を見ていると、胸の内がじんわりと満たされていくのを感じた。
貰い過ぎていると言うが、貰い過ぎているのは、俺の方なのだ。
翌日、アルムは魔女が空を飛ぶのに使用する奇妙な形の杖をついてやってきた。鱗は首からペンダントのように下げられ、腰には美しく光る石が吊るされている。
見た目だけなら、立派な魔法使いだ。鱗をペンダントにするのは嬉しいが、あまり人に見られるのはどうなのだろう。
誰かに取られたりしないか心配になるが、アルムはそんな俺の心配をよそに満面の笑顔で話しかけてくる。
「こんにちは、ラルゴ様。今日はお掃除するから、じっとしててくださいねっ」
そう言うとアルムは、するすると俺の背中へ登ってきた。何をするつもりなのかと、首を曲げて様子をうかがっていると、杖をひっくり返して両手で握り、呪文も唱えずに振り回し始めた。
背中のあたりで土埃が舞い上がり、くすぐったいような、心地よいような、不思議な感覚が広がっていく。
「ラルゴ様は沼に入れないので、私が代わりに綺麗にしますね。はい、こっちの翼を広げてください」
何だ、この感覚は。たまらなく心地いい。何かの魔法か。いや、そんなことはどうでもいい。とにかく、気持ちがいいのだ。
俺はこの心地よさを味わうために、言われるがまま、背中を見せたり、横になったり、腹を上に向けたりした。見習い魔法使いひとりに討伐された気分だ。かなわない。
アルムに対して、力以外に俺が勝っているものなど、何一つないのかもしれない。
恐るべし、アルム……もっとやってくれ……。
一通り掃除を終えると、アルムは俺の指先へ近づき、剥がれた鱗の跡にそっと触れた。
「痛かったらごめんなさい。ちょっと我慢してね」
そう言って腰から石を外し、鱗の代わりに指にはめ込む。
「川で拾った石なんだ。綺麗だったから、ラルゴ様に似合うと思って……よかった。大きさもぴったり」
ほっとしたように微笑むと、石に通された革紐を、俺の指にしっかりと結びつけた。
「鱗のお礼。これで一緒だね」
アルムはそう言って、自分の胸元のペンダントを見せてくる。俺から受け取った鱗には、石と同じように小さな穴が開けられ、革紐が通されていた。
それは、この世で何よりも大切な――俺の宝物となった。
しかし俺は後に知ることになる。ドラゴンの鱗が如何に貴重なものかを。そして人間の残忍さを。
ある日アルムは腕に包帯を巻いてやってきた。明らかに何かの怪我をしているようだ。俺は鱗のペンダントのせいで誰かに付け狙われているのかと心配になった。
「ラルゴ様こんにちは。外はとってもいい天気だよ、あっ、この腕は走っててちょっと転んじゃったんだ、でも大丈夫。心配しないで」
そう言って魔法の練習を始めるアルムの腕をよく見ると、なにやら痣のような傷が包帯の外に覗いている。
まるで強い力で掴まれたような、そしてそれを無理やり振り払って付いた痣のような傷。俺はアルムを問いただそうにも、言葉を発することができない。
洞窟の外でのアルムの事が気がかりだが、アルムの住む村に押し掛けることは、人間にとっては討伐対象が襲ってくるようにしか映らないだろう。
俺はアルムの住む村の事は何も知らない。そんなふうにもやもやと考えながら練習に打ち込むアルムを見ていると、アルムの魔法で花はつぼみになるところまで成長していた。もう少しで花が咲く。ようやくアルムは魔法使いの弟子入りができるわけだ。
そうなれば本格的に魔法の修業が始まることだろう。もうここには来られなくなるかもしれない。寂しくなるが仕方がない。アルムには夢があるのだ。それに向かって進んでほしい。
……寂しい。そうか、寂しいんだ。今までずっと一人で過ごしていたのに、アルムがいなくなるのが寂しいのか。
アルムが居なくなることを想像すると心が痛む、そして悲しくなる。ずっとそばに居てほしいと感じる。しかし俺は竜だ、人間よりも遥かに長い時間を過ごす。
いずれアルムもこの世から旅立ってしまう。その時俺は、どうなってしまうのだろう……。
そう考えながら、指に取り付けられた石を眺め、永遠の悲しみを背負う自分自身を想像して、言いしれぬ不安を感じていた。




