ラルゴ
その日、アルムはいつもの時間になっても現れなかった。何かあったのではと案じながら、毒の沼を眺めて過ごしていた。
やがて、洞窟の入口からかすかな足音が聞こえてきた。アルムにしては歩みが遅い。何かが擦れるような音も混じっている。荷物を引きずっているにしては、あまりにも軽い音だ。
俺は、この音をよく知っていた。瀕死の獲物が、逃げようとするときに立てる音だ。
……まさか。そんなはずはない。あまりにも嫌な予感に心臓が激しく鼓動し、体に寒気が走る。
きっと何かの間違いだ、そんなことは起こりはしない、落ち着け。俺は自分に言い聞かせるようにしながら、急いで洞窟の入口へと足を進める。
だが、アルムの姿を見た瞬間、その「まさか」が現実になってしまったことを思い知らされた。
血まみれになり、何かから逃げようとするようにふらつきながら歩いてくるアルムの姿が、そこにあった。
「ラルゴ様……逃げて……」
アルムはそう言い、力尽きるように倒れ込んだ。
俺は慌ててその身体を両の手で受け止め、できるだけ優しく、薬草の生い茂る場所へ横たえた。表情は苦痛に歪み、口元には血の跡がある。
俺は即座に鱗を噛みちぎり、アルムに血を飲ませようとした。だが、飲まない。いや、飲めないのだ。あまりに衰弱しきっている。
竜の血など気休めに過ぎないことは分かっている。毒の症状と、傷による出血は別物だ。飲めたとしても、傷を癒やす力などない。それでも、俺にはこれしかない。他に方法がないのだ。
誰でもいい。誰か――アルムを助けてくれ。
その瞬間、激しい痛みが腹部を貫いた。視線を落とすと、ひとりの男が剣を突き立てていた。冒険者か、討伐隊の一員か。
奇襲攻撃――竜狩りか。こんな時に。
いや、待て。この男なら、人間なら、アルムを救えるかもしれない。今は戦っている場合ではない。
俺は、男が腹から剣を引き抜いた隙を突き、後退した。男の足元にはアルムがいる。男がアルムを見下ろし、口元を歪めた。
「大した根性だ。まだ意識がある」
俺は即座に突進した。アルムに触れるな――
男は軽く身を翻し、素早く剣を突き立ててくる。激痛が走る。この男は、今まで相手にしてきた人間とは違う。戦い慣れている。竜との戦い方を知っており、巧みに死角へ逃げ込もうとする。
だが、そちらは毒沼だ。踏み込めば、無事では済まない。男は沼の縁で立ち止まった。
――勝った。逃げ場はない。
炎を吐いて焼き殺してやろう。俺は大きく息を吸い込み、炎袋に火を集めようとした――が、何も起こらない。炎袋の感覚がない。
どういうことだ。
「奇襲で炎袋を潰すのが竜狩りの秘訣さ。竜殺しと呼ばれる俺に目を付けられたのが運の尽きだな……それにしてもこの女、いい獲物を教えてくれたもんだ」
男の視線が、倒れたアルムへ向けられる。
「市場であの娘が身につけてた鱗を見た瞬間、分かったんだ。本物の、それも上物の竜の鱗だってな。どこで手に入れたか聞いても、頑として教えやがらねえ」
男は俺を挑発するように笑った。
「だが、女ってのは分かりやすい。尾行して人気のない路地で捕まえて問い詰めたら、案の定、竜狩りだと気づいてやがった。賢いのか馬鹿なのか」
アルムの腕を傷つけたのはお前だったのか。
「今日はたっぷり痛めつけてやったからな、血の跡を残して逃げていった。その時に、嘘をついてやったんだ。『竜の居場所は別の奴が知っていた。そいつと仲間を集めてから討伐に向かう』ってな」
男の笑みが、より深く歪む。
「必死の顔で走ってたよ。ははっ、自分から竜の巣へ案内してくれるとはな。おかげで迷わず辿り着けたぜ」
「やっぱり、その女が持ってる鱗はお前のだな。お前がよっぽど大切なんだろうな、必死で守ろうとしてやがった。まぁ俺にとっても大切な金づるだな」
男は余裕の笑みを浮かべ、答えを自慢げに告げる。そして挑発するように笑う。
「さて、ゆっくり料理してやるよ。死ぬまでは楽しませてくれよな。ああ、その女は後でたっぷり可愛がってやるから安心しろ」
そう言って男は下卑た笑みを浮かべた。
――その瞬間、頭に血が上った。冷静さは音を立てて崩れ去り、視界が真っ赤に染まる。俺はただの獣と化し、男の攻撃を受けながらも、がむしゃらに襲いかかった。
この男だけは、絶対に許さない。アルムを侮辱し、無残に傷つけた。この男のせいで、アルムは苦しんでいる。
アルムが持つ鱗に目をつけたこの男は、俺を狩るためにアルムを襲い、血の跡を追ってここまで来た。アルムは死を覚悟して、俺に会いに来た。その覚悟も、俺への想いも、この男は利用したのだ。
この男さえ――この男さえいなければ。
男は、俺が人語を解すると知っている。わざと説明臭い言葉で怒りを焚きつけてから戦いを挑む。戦い慣れた人間のやり口だ。俺もそれを知っている。
それでも、冷静さを取り戻せない。俺の血が滴り落ちていくのを面白がりながら、男は攻撃を続ける。わざとアルムのそばへ移動し、俺の攻撃をためらわせる。そのたびに、血は流れ、次第に俺の動きは鈍っていった。
そして長く感じる無様な戦いの果てに、ついに体が動かなくなってしまった。
「はぁ……はぁ……まったく、しぶとい竜だ。さぁ……ようやくだ、鱗をいただくとするか。これだけ立派なのは貴重品だ。感謝しろよ。俺は優しいからなっ、命は取らないでおいてやる。また鱗が生え揃うまでは、な」
男はそう言い、ナイフを手に俺の鱗を剥ぎ取り始めた。大きな鱗を一枚一枚――。
剥がされるたびに、悲鳴が漏れる。
「やめて……お願いします……やめてください……ううっ……」
アルムは血を吐き、涙を流しながら懇願する。しかし男は振り返りもせず、淡々と作業を続けた。
「お前は後だよ。お前みたいな小娘に興味はない。あとできっちり、楽にしてやるよ」
鱗を袋いっぱいに詰め終えると、男はナイフを手にアルムへ向かって歩き出した。
俺のすぐそばには、剥ぎ取られた鱗で膨らんだ袋が置かれている。残された力を振り絞り、俺はのろのろと体を起こした。袋を口に咥え、男の方へ向き直る。
そして男が振り返った瞬間、その袋を毒沼へと投げ入れた。
――俺は知っている。人間の傲慢を。愚かさを。欲深さを。嫌と言うほど知っている。
思った通り、男は迷わず袋へと向かった。
男の最期は、実に惨めなものだった。最初に腕が溶け、次に足が崩れ、最後には顔が崩れ落ちていく。鱗と肉が混じり合い、ゆっくりと時間をかけて沼に沈んでいった。
アルムは俺の影に隠れ、その醜悪な最期を見ずに済んだ。
俺は這うようにアルムのもとへ向かった。たどり着いたときには、アルムの意識はほとんど残っていなかった。胸に手を当て、か細い声で何かを呟いている。
しかし、その声はあまりにも小さくて聞こえない。
アルム、何を言っている。聞こえない。もう一度、その声を聞かせてくれ。
俺の血を飲んで、再び元気になってくれ。アルムが居なくなったら、俺は何を想い、何を支えに生きていけばいいのだ。こんな苦しみが永遠に続くなど、耐えられない。
アルム、目を開けてくれ――。
そして、アルムは最後に、ひとことだけ残した。
「――花よ……咲け」
アルムの胸にある手の中から柔らかい光が漏れる、魔力を帯びた光がアルムを包み込み、指の間からひとつの芽が生まれた。そして根を張り緩やかに伸びてゆく。
まるで手を伸ばすように葉をつけ、つぼみを作り、そしてついに淡い光を放つ一輪の白い花を咲かせた。
何の花なのかは分からない。だが、それは間違いなくアルムが積み重ねてきた努力の結晶であり想いの形だった。一緒に話をしたい。同じ竜になりたい。結婚したい。
俺は何ひとつ叶えてやれなかった。
アルムは俺のために、野菜や果物、いろいろな食べ物を持ってきてくれた。たくさんの本を読み、物語を聞かせてくれた。俺のために魔法使いの見習いになり、俺のために石の鱗を作り、俺の体を掃除してくれた。
きっとたくさんの人にも愛されていたはずだ。俺も同じだ。愛していたのだ。
俺さえいなければ――アルムは、もっと穏やかで幸せな人生を送れたのだろうに……。
アルムの魂は、まだここにいる。アルムの望みを叶える方法が、ひとつだけある。それに賭けよう。想いを伝えるんだ。
俺は指につけてもらった石の鱗を外し、アルムの胸元にそっと置いた。アルムが身につけていた鱗のペンダントと重なるように。
そして、毒沼へと歩みを進める。
竜の命は永遠だ。討伐されない限り、死ぬことはない。自ら死を選ぶ方法は、これしかない。
これが最後の贈り物になることを願いながら、俺は沼に身を沈めた。
強烈な痛みと熱さが襲い掛かる。鱗を失った体が、毒に触れたそばから溶けていく。血が沼に混じり、毒と溶け合っていく。
死を感じる。俺が今までやってきた事、破壊と殺戮。多くの命を奪ってきた。最後に俺の命を奪うのが俺自身とは……。
俺を滅ぼすのが強大な魔力でも武力でもなく、想い合う心だったとは……なんと強いのだろう、あの見すぼらしかった子供が、こんなにも大きな存在に……。
最後の力を振り絞り、アルムの方向に首を向ける。
最後に目に映ったのは――天井から漏れる光に照らされ、美しく咲いた花と、その花を抱くように眠るアルムの姿だった。
***
俺の体は溶けて消え、魂だけが残った。
アルムを探す。あの小さな光を目指して。
沼からアルムの身体へ、残された心の名残へ、魂の在処を探して辿っていく。だが、そこにアルムはいなかった。
アルムはどこにいる。どこへ行ってしまった。俺は、どこへ向かえばいい。
アルムがいないはずがない。俺はここにいる。ここにいるぞ――アルム!
……そのとき、かすかな声が聞こえた。聞きたくてたまらなかった声。探し求めていた声。
『ここに……いるよ。わたし……ここにいるよ』
すぐ近くから聞こえる。どこだ。どこから聞こえる。
『わたし、生きてるよ。ここで……生きてる』
生きている。だが、肉体には魂はない。
『ここだよ。もっと上だよ』
上。もう旅立つところなのか。待ってくれ俺を置いていかないでくれ。俺も連れて行ってくれ。
慌ててアルムの体から離れ、声のする方へと進んでゆく。そこには美しく咲いた一輪の花があった。
――ああ、そこか。そこにいたのかアルム。俺は花の中へと入り魂にそっと触れる。白く暖かい光だ。
そこにアルムの姿形をイメージし送り込むと、白い光はアルムの姿へと変わる。
すると今度はアルムが俺の姿を送ってきた。それを受け取って魂に形を与える。
すると竜ではなく人間の男の姿になった。以前に見せてくれた絵本の中に出てくる人間にどことなく似ているような気がする。
竜ではなく人間の姿になったことに少しだけ戸惑ったが、おかげで言葉を話せるようになった。
そしてその小さくなった手でアルムの手を握りしめ、そっと抱き寄せてみる。暖かくて柔らかい。肉体は無くても感じられる。
その存在を、心を、その想いを。そして言葉を伝える。
『ああ、アルム! 探したよ。もう旅立ってしまったのかと思った』
『いいえ、ここに居ますよ。私はここで花になって、ずっとラルゴ様を見守るつもりだったの』
『でも、まさか花に生まれ変わっているとは思わなかったよ』
『ラルゴ様こそ、泉になるなんて。さすがは竜……あっ、元・竜でしたね』
『前から言いたかったんだが、「様」づけはやめてほしい』
『はい、分かりました。ラルゴ』
『ありがとう、アルム。でも花のままでは、また枯れてしまう。前もそうだったろう?』
『でも今はラルゴがいる。沼を泉に変えてくれたでしょう?』
『確かに俺の血は毒を消すようだけど』
『体ごと入っちゃったんだから毒も全部消えちゃったみたい』
『あぁ! 本当だ、沼から毒が消えている。アルムはすごいな。何でも知っている』
『えへへっ、魔法使いだったもの、見習いだけどね』
『じゃあ、早速だが――王子様にしてくれる?』
『えっ? もうなってるわよ』
『あー……なるほど、こんな感じになるのか。それにしても、お喋りがこんなに楽しいなんて。アルムはやっぱり、俺の宝物だ』
『ありがとう、ラルゴ。私の願いを叶えてくれて』
『じゃあ――俺の願いも聞いてくれるか?』
『ええ、何でも言って』
『俺……いや、もう竜じゃないし……その……僕と、結婚してください。魂だけになっちゃったけど……そうだ、生まれ変わってもまた遭えるように、ペンダントに想いを込めよう!』
『はいっ! ラルゴ……大好き』
『僕も……大好き』
『『一緒だ! あはははははっ!』』
ああ――やっと、想いを伝えられた……。




