第8話 大声のクレームより、小声の「痛い」
白瀬律が雨宮ネネの視線を追った先では、若い男が待合の椅子から立ち上がろうとして、三度目の失敗をしていた。
男は二十代の終わりくらいに見える。短く整えた黒髪に、まだ皺のない顔。着ている服も旅人にしては地味で、薄茶色の上着は肘のあたりが少し擦り切れていた。けれど、椅子の肘掛けを握る手だけは、ひどく切実だった。
「十九番の方ですね」
白瀬律が受付票を確かめた。男が小さくうなずく。
「足が……どうにも、言うことを聞かなくて」
若い顔に似合わない、少しかすれた声だった。
ネネは自分の椅子を離れた。ようやく取り戻した有尾種用の椅子は、ついさっき座り心地のよさを実感したばかりだ。惜しい気もしたが、いま優先して守るべきものではない。
「お座りになったままで大丈夫です。どこか痛みますか」
「右の膝がね。転生してから、ずっと具合が悪い。今朝はちょっと、ひどくて」
男は笑おうとしたが、口元が引きつった。ネネはその前にしゃがみ、目の高さを合わせる。
「お名前を伺ってもいいですか」
「佐伯、正一です」
「佐伯さん。立ち上がらなくて結構ですから、無理はしないでくださいね」
そこで、相談室の反対側から威勢のよい声が飛んできた。
「おい! 十七番が先だろ!」
振り向くと、金髪の冒険者が長椅子の中央で立ち上がっていた。背中の剣は無駄に大きく、柄には赤い宝石が三つ並んでいる。さっきから彼は、その宝石を窓のない天井の照明へかざしては、納得のいかない顔をしていた。
「俺は『輝ける聖剣』を頼んだのに、ちっとも光らねえんだよ。先に来た客を飛ばす気か?」
「十七番の方ですね。順番にお伺いします」
「そう言いながら十九番を先に見てるじゃねえか!」
ネネの耳が片方だけ立った。表情は接客用の笑顔のままである。
「佐伯さんは、まず体調の確認が必要です。相談の受付順とは別に、医療担当へ連絡します」
「俺の剣だって緊急だぞ。こんな地味な光り方じゃ、魔物に舐められる」
「魔物の方が実際にそうおっしゃったんですか」
「……まだ会ってねえ」
「でしたら、魔物のご意見は後日伺います。ひとまず剣は鞘に収めてお待ちください」
白瀬が横を向いて咳をした。ネネはそれに気づかないふりをしたが、耳の先が少し熱い。言い過ぎたかもしれない。しかし、待合で困っている人の前で剣の輝きについて延々と議論するのも、何か違う。
「雨宮さん、医療連携の内線は三番です。僕からかけます」
「お願いします。佐伯さん、こちらで少しお話を伺わせてください」
男は安心したようにうなずいた。だがその直後、膝を動かした拍子に息をのみ、肘掛けを握り直した。
ネネの耳は、待合のざわめきよりも、その小さな声のほうを拾っていた。
*
「わしが希望したのは、二十八歳だったんですよ」
医療担当の返事を待つあいだ、佐伯は照れくさそうに言った。
見た目は本当に、そのくらいだ。ネネは失礼にならないよう、なるべく驚きを顔に出さなかった。
「以前は、おいくつだったんですか」
「七十一。もっとも、最後の何年かは歳を数えるのも面倒でね。死んでから改めて『お若いお姿を選べます』なんて言われたら、欲が出るじゃありませんか」
「ええ、そういうお気持ちはわかります」
「昔は庭木の手入れが好きでね。石段もひょいひょい上ってた。ところが膝を悪くしてからは、下から眺めるばかりで。もう一度歩いてみたかったんです」
ネネは手元の用紙に、最初に訴えた痛みと希望した身体の条件を書き分けた。膝の具合は職員が勝手に診断してはいけない。けれど、なぜここへ来たのかを聞き落とすわけにもいかなかった。
「転生して、どうでしたか」
「鏡を見たときは驚きましたよ。四十年以上戻ったかと思った。若い顔に、若い手。ところが立ち上がったら、膝が前と同じでね」
「同じ痛みだったんですか」
「いや、むしろ違う痛みが出るようになって。転生先の先生には診てもらったんですが、詳しい検査はまだで。昨日から、踏ん張れなくなってきたんです」
ネネはペンを止めた。
「それは先に医療の方へお伝えします。転生の登録についてはこちらで確認しますが、痛みが強くなっていることは、結果を待たずに診てもらったほうがいいと思います」
「お医者さんに迷惑をかけたくなくてね」
「佐伯さん。そこは気にしないでください」
言葉が少し強くなった。彼が謝って椅子から立ち上がりでもしたら、こちらのほうが困る。
ネネの前世の職場にも、こういう人はいた。番号を呼ばれるまで何時間でも待ち、ようやく窓口へ来ると、「忙しいところ、すみません」と小さく頭を下げる人。呼ばれるまで我慢できたことと、待たせてよかったことは同じではない。
佐伯はネネの顔を見て、少しだけ笑った。
「若い娘さんに叱られてしまいましたな」
「叱ったつもりは……少し、ありました」
「正直でよろしい」
両耳がぴくりと動いた。こういうときだけ、ウサギの体は本当に余計な仕事をする。
「雨宮さん」
内線を終えた白瀬が戻ってきた。
「医療連携課が対応します。現地での診療手配が必要か判断するため、今の症状と滞在先を確認したいそうです」
「こちらの世界で治療するのではないんですね?」
「佐伯さんの現地のお体は、いま向こうの世界で眠っています。ここで診察しても、現地で起きていることをすべて確認できるとは限りませんから」
ネネはうなずいた。相談者は眠っているあいだ、意識が庁につながり、転生後の姿をこちらにも取る。椅子や書類には触れられるが、本体まで転送されているわけではない。いま見えている痛そうな膝を、ここでなでて治せるという話でもないのだ。
「佐伯さん。現地の医療担当へ、症状と居場所を伝えてもよろしいでしょうか」
「ええ。頼みます。泊まっているのは、東の宿場町の……」
彼は宿の名を思い出そうとして眉を寄せた。ネネは急かさず、わかる範囲で場所を聞き取った。白瀬が窓口の照会番号から宿泊先の登録を確認し、医療連携課へ引き継ぐ。
できる手続きはここまで、と最初から区切ってしまえば楽だった。でも、どこへどうつなぐかを考えるのも、この仕事の一部なのだろう。
*
いったん席に戻ったネネは、佐伯の転生記録を開いた。
希望内容は《全身の若返り》。目標年齢は二十八歳。説明記録には、外見だけでなく身体機能も対象になると記されている。
ところが、現在の登録欄には妙な数字が並んでいた。
外見年齢 二十八。
身体機能基準年齢 七十一。
ネネは二度、数字を見直した。
「白瀬さん。これ、どういう意味ですか」
「……少し待ってください」
白瀬が身をかがめ、画面の二つの欄を指で追った。いつもすぐ答える彼が、珍しく口をつぐむ。
「外見の設定だけ、希望年齢になっていますね。ただ、登録表示が正しいとしても、実際の不調の原因までわかるわけではありません」
「その点は医療担当にお願いします。けれど、希望内容とは違いますよね」
「そうです。付与処理の履歴を確認する必要があります」
ネネは佐伯の受付票を引き寄せた。
「ご本人は『若返ったはずなのに膝が痛い』とおっしゃっていますけど、これって単なる痛みの相談じゃないですよね」
「ええ。希望した身体と実際の登録の相違です。処理記録を調べる理由があります」
画面の端には、照会の分類がいくつも並んでいた。身体機能に関する不具合、医療的な相談、条件変更の希望、説明内容の相違。項目は細かいのに、窓口へ来る人の困りごとは、その中の一つにすっきり収まってくれない。
ネネは医療連携の記録番号を残したうえで、身体登録の差異について別の調査票を起こした。医療の結果を待たずにできる確認と、医療の判断が必要なことを混ぜないためだった。
「若い顔なのに、中身が七十一歳のまま?」
声がした。
振り向くと、さっきの金髪の冒険者が、鞘ごと剣を抱いて立っている。十七番札を手の中でくるくる回しながら、興味津々で画面をのぞこうとしていた。
「お客様。こちらは別の方の相談記録です」
「あ、悪い。いや、俺の剣の光り方も数字を変えれば直るんじゃないかと思って」
「お席でお待ちください。あと、人の相談を勝手に聞かないでください」
「わかったよ。でも若返りのほうがよっぽど大変そうだな」
ようやく気づいたらしい。彼は肩をすくめ、席へ戻った。大剣の柄が掲示板の隅に当たり、今度は謝る声が聞こえた。
「まったく、今日は賑やかですね」
白瀬が小声で言った。
「私の耳には、いつもの三倍くらい賑やかです」
「椅子が戻ったので、少し楽になりましたか」
「尻尾については快適です。耳は別料金でお願いしたいです」
白瀬は「設備改善の申請先ならあります」と真面目に答えた。冗談なのに、また仕事が増える気配がする。
ネネが画面を閉じようとしたところで、佐伯の書類の右下が目に入った。いつもなら見落とすような余白に、小さな承認印がある。
四角い枠に、数字が一つ。
あの斜線二本の印ではなかった。
ネネは少しのあいだ、それを見つめた。桐谷陸の案件と自分の申請には同じ印があり、白瀬も指定された照会経路を不思議がっていた。だが、この件にはない。印の違いだけで何が起きたかは決められないし、ここで起きているのは、それとは別の処理ミスかもしれない。
だからといって、佐伯の困りごとが小さくなるわけではない。
「雨宮さん?」
「いえ。調べるべきことは、案件ごとに違うんだなと思って」
「そうですね。全部が同じ理由で起こるなら、もう少し仕事は楽なんですが」
「……逆に、大変そうな気もします」
白瀬は答えず、二枚の調査票をきれいにそろえた。
*
医療連携課から返事があったのは、その少しあとだった。
佐伯の現地の宿泊先が確認でき、地域の診療担当へ連絡が通ったという。症状の確認と移動の手助けを依頼したので、目覚めたら無理に歩かず、宿の人に伝えて待ってほしいとのことだった。登録の原因調査については、当然ながら別途時間がかかる。
ネネは待合の佐伯へ戻った。
「佐伯さん。いま、現地のお宿へ診療担当の方が来られるよう手配しています。目覚めたら、できるだけそのまま休んでいてくださいね」
「それはありがたい。で、若返りのほうは」
「希望された条件と登録内容に違いが見つかりました。理由を調べる手続きを始めます。ただ、体の状態をどう直せるかは、調査と診療の結果を見てからになります」
佐伯はしばらく黙っていた。ネネは、何か気の利いた言葉を探したが、安請け合いになりそうでやめた。
「……わしね、欲張りだと思われるのが嫌で」
「欲張り、ですか」
「七十一まで生きたんだから、次もそんなに望むなって言われそうでね。顔だけでも若くなったのに、まだ文句を言うのかと」
彼は笑って見せた。その笑い方が、さっき立てなかったときよりも、ネネには痛々しく感じられた。
「でも、歩きたかったんです。顔が若く見えることより、石段を自分の足で上がれることのほうが、ずっと」
ネネはうなずいた。
「だったら、それをきちんと伝えましょう。顔の年齢ではなく、歩ける身体を希望されたんですから」
「迷惑では、ありませんかね」
「ご相談の内容を伺うのは、私たちの仕事です。迷惑かどうかを気にして、痛いのを我慢なさらないでください」
思っていたよりも、すんなり言えた。目の前の人が静かだから、こちらも静かでいられる。そんな当たり前のことに、ずいぶん時間がかかった気がした。
佐伯は両手を膝の上に置いた。
「あなたは、いい窓口の人ですな」
「ありがとうございます。でも、まだ臨時職員なんです」
「それは関係ないでしょう」
そう言われ、ネネは少しだけ言葉に詰まった。
頭の上では耳が二本とも、申し訳ないほどまっすぐ立っていた。
次の瞬間、佐伯の輪郭がうっすらと透け始めた。向こうの世界で眠りが浅くなったらしい。彼はもう一度礼を言おうとしたが、ネネは首を振った。
「立たなくていいです。お礼はまた、お元気になってからで」
「それなら、そのときには立ってご挨拶しますよ」
「ええ。楽しみにしています」
佐伯の姿は、椅子の上から静かに消えた。残ったのは整理券一枚と、誰も座っていない椅子だった。
ネネはそれを回収し、相談票の最後へ《現地診療手配済み・身体登録差異調査中》と記した。できたことと、まだできていないことを、同じ行にまとめないためだった。
*
「それでは、十七番の方」
ネネが呼ぶと、金髪の冒険者が待っていましたとばかりに立ち上がった。
「やっと俺の番か!」
「大変お待たせしました。聖剣の光量についてのご相談ですね」
「そうだ。『輝ける聖剣』なのに、全然光らない。昼間なんてただの剣だぞ」
「確認します。夜はどうですか」
「夜は光る」
「どのくらい」
「松明一本ぶんくらい」
「……十分に明るそうですが」
「違うんだよ! 俺が欲しかったのは、こう、抜いた瞬間に空まで光が走って、みんなが振り向くようなやつなんだ!」
冒険者は両手を広げた。危うく剣が白瀬の書類へぶつかりそうになり、慌てて抱き直す。
ネネは仕様書を開いた。《輝ける聖剣》――暗所で刀身が発光し、周囲の視認性を補助する。日照下では省力のため発光を抑える、とある。
「登録の内容では、昼間は光を弱める設定になっています」
「じゃあ、何のために輝くんだよ」
「暗いところで手元と足元を照らすためですね」
「街道の灯りか!」
「ご希望の演出と違ったことは、記録して確認します。ただ、今この場で光量を変えるお約束はできません」
青年は口を尖らせたまま仕様書を見つめていたが、やがてぽつりと言った。
「でもさっきの人に比べたら、俺、ずいぶんくだらないこと言ってるな」
「くだらないかどうかを、ほかの方の相談と比べて決める必要はありません。ただ、急ぐものと、順番に伺えるものは違います」
「……なるほどな」
「それと、ここでは抜刀しないでください」
「それはさっきからわかってるって!」
彼はようやく笑った。ネネもつられて口元を緩める。
「ま、夜の見張りでは役に立ってるしな。いきなり強烈に光ったら、仲間も目をやられるか」
「そういう使い方の注意も、現地向けの説明へ加えておきますね」
「じゃあ頼んだ。あと、光る剣用の鞘って売ってるか?」
「それは武具店へお尋ねください」
ネネは即答した。相談票の分類がこれ以上増える前に、ぜひとも帰っていただきたい。
青年は笑いながら帰っていった。鞘に収まった聖剣は、最後まで一度も光らなかった。廊下には明かりが十分にある。そう考えると、なかなか勤勉な剣なのかもしれない。
*
閉庁間際、ネネは今日の案件を白瀬と見直した。
佐伯の医療連携は引き継がれ、身体登録の照会には担当部署と回答予定日が入った。明日になれば終わるという約束ではない。それでも、何もせずに「確認中」と書いておくよりはいい。
「今日は、危うく見逃すところでした」
ネネが言うと、白瀬は首をかしげた。
「佐伯さんのことですか」
「はい。十七番の人の声が大きくて、そちらばかり気になっていたので」
「気づいて、対応を変えたでしょう。それで十分とは言えませんが、見逃したわけでもありません」
白瀬の褒め方は、相変わらず少し難しい。
「耳がよくなったおかげ、ということにしておきましょうか」
「それだけではないと思いますよ」
ネネは手を止めた。
「佐伯さんが立とうとして、何度も座り直しているのを見ていたでしょう。音より先に、そちらを気にしていました」
「……そうでしたっけ」
「そうです。あの耳がなくても、気づけたと思います」
ネネは頭の耳にそっと触れた。生まれ変わってから、何かと不便が多い。便利なところもあるが、本人が望んでつけたものではない。だからといって、今日した仕事が耳のおかげだけだと決められてしまうのは、何となく悔しかった。
「白瀬さん。私、少しは即戦力になっていますかね」
「少しは、というところを外していいと思います」
「わあ、珍しく素直に褒めてくれました」
「ただし、まだ研修中です」
「そこは外してくれないんですね」
白瀬が口元を緩めた。ネネは今日ようやく取り戻した椅子に座り直し、尻尾がどこにも当たらないことを確かめる。明日の朝も、この椅子がちゃんと残っていますように。そんなささやかな願いを抱きながら、端末を閉じようとした。
最後に画面へ届いたのは、翌日の予約票だった。
《相談内容:スローライフのはずが、休みが一日もありません》
転生先は農村。付与能力は《豊穣》。備考欄には、本人による大きな文字で《もう畑を見たくない》とある。
ネネはしばらくそれを読み、隣の白瀬に聞いた。
「白瀬さん。スローライフって、どういう意味でしたっけ」
「ゆっくり暮らす生活のことですね」
「ですよね」
耳が、じわじわと後ろへ倒れていく。
仕事が忙しいのは嫌だ。けれど、明日の相談者には、少なくとも一日くらい休んでほしい。
死んでも窓口は忙しい。それだけは、どの世界でも同じらしかった。




