第47話 勝手に開けないでください
「箱を開けていただきたいんです」
朝霧亭の帳場でそう言った女性は、まさか自分のひと言で、宿の女将が奥から三枚もの札を持ち出してくるとは思わなかったらしい。
《開封禁止》
《見学禁止》
《食堂は営業中》
「どれが必要なんだい」とオルガ。
「一枚目だけでいいです」と雨宮ネネ。
「二枚目もいるだろう。また客が集まるよ」
「三枚目は?」
「貼らないと、宿が休みだと思われる」
女将の判断はどれも正しいのに、三枚並ぶと、まるで宝箱の開封を宣伝する催しの案内だった。
修復職人のレナ・ハルツは、札を順に読んで困った顔をした。
「……では、開けてはいけないんですね」
「今は、です」とネネ。「まず事情を聞かせてください。こちらも、箱がどういうものか確かめている途中なので」
レナの鞄から出てきたのは、小さな古い帳面だった。布の背表紙がほつれ、角には薄い木片が挟まっている。祖母が遺した修復工房の記録で、背表紙の裏に二羽の鳥が向かい合う印が押されていた。
「うちの祖母は古い箱や家具を直していたんです。先日、迷宮管理局から古い印の問い合わせが工房へ回ってきまして。印の形を見せてもらったら、これと同じだと思ったんです」
「見せてもらったのは、識別印の写しだけですよね」とシズ。
「はい。お預かりした箱そのものの記録は、こちらでは見ていません」
筋は通っている。レナは無断で箱の身元を調べたのではなく、自分の工房に照会が届いたから来たのだった。
「なら、帳面の印は照合する価値があります。ただし、現物を開ける許可にはなりません」とネネ。
「分かってます。でも……祖母がずっと気にしていた品物かもしれなくて」
レナは、帳面のある頁を開いた。年月日の欄は擦れて読めない。中央には《一時預り》、その下に《開封》《同席》と見える文字。
「これ、いつもは別の頁に書くんです。なのに、この頁だけ両方書いてある。祖母が何かを封じたままにしたのかもしれません」
「……開封って書いてあるから?」
「はい」
ネネは昨日の写真を思い出した。宝箱のそばから落ちた紙片にも、同じ二つの言葉があった。
同じ言葉が二か所で見つかった。だからといって、同じものを指すとは限らない。
だが、今すぐ開けないで済む理由なら、すでにひとつある。
「レナさん。宝箱は今、持ち主も、身体の仕組みも分かっていません。これまで、食べ物を取り込んだり、自分で動いたりしたことがあります。無理に開ける作業はできません」
「……はい」
「代わりに、帳面と紙片の書式を先に調べませんか」
レナが返事をする前に、宿の玄関で鐘が鳴った。
「開封はこちらですかー!」
ネネの耳が、左右別々の方向へ向いた。
*
玄関に立っていたのは、首から大きな鍵束を下げた男だった。
「開封師のガロです! レナさんから、古い箱を見てほしいと!」
「来るのは午後だと伝えたでしょう」とレナ。
「早く着いたので待とうと思ったんですが、表に《開封禁止》と書いてあって。ああ、そういう難しい仕事なのかと」
ガロは胸を張った。腰には鍵のほかに細い器具が何本も揺れている。
「開けられない箱を開けるのが仕事です」
「今日はその仕事をしていただけません」とネネ。
「開けられないからですか?」
「開けてはいけないからです」
「……私の出番ではない?」
「そうです」
男はしばらく口を開け、ようやく鍵束を押さえた。
「これまでで一番、早く終わった仕事だ」
「まだ始まってません!」
オルガが腕を組んだ。
「うちの宿に鍵の人まで来るのかい。次は何だい、宝箱の引っ越し屋かい」
「昨日、荷車は帰しました」とネネ。
「来てたのかい!」
「ハインさんが勝手に呼んで……いえ、今回は関係ありません!」
口を滑らせたネネは、レナが気まずそうに俯いているのに気づいた。祖母の記録を確かめたい。その一心で専門家を呼んだのだろう。
「レナさん。ガロさんには、今日のうちに帰っていただいて大丈夫ですか。出張費については、依頼されたお二人で確認してくださいね」
「分かりました。私がお願いしたことなので、支払います」
「おや、では何もせずにお金を……」とガロ。
「何もしなかったことの代金だよ」とオルガ。「あたしだって、客が泊まらなくても掃除代はかかる」
「女将さん、妙に詳しいですね」
「宝箱のせいでね!」
ガロは鍵束を持ち直した。帰りかけたところで、ふと振り返る。
「ひとつだけ訊いていいですか。箱の鍵穴は、どこに?」
「確認できていません」とネネ。
「鍵穴のない箱ですか。ますます私の得意分野なんですが」
「開けません!」
彼は名残惜しそうに去った。鍵束の音が遠ざかるまで、ネネは全身の力を抜けなかった。
ガロの出張費を確かめる段になり、レナが鞄から折りたたんだ請求書を取り出した。
《基本料金》
《出張料金》
《難物加算》
「……開けてもいないのに難物加算が?」とネネ。
「看板に《開封禁止》とあったので、難しい案件だと判断したそうです」
「作業に着手する前に確認すべきでしたね」とシズ。
レナが居心地悪そうにうつむいたので、ネネは慌てて付け加えた。
「今すぐ払ってくださいという話ではありません。お二人で、何を依頼して何が実施されたか確認してください。必要なら見積もりと照合して」
「ええ。祖母が生きていたら、私に言いそうです。『修復は、壊れている場所を確かめてから』って」
彼女が言うと、オルガが大きく頷いた。
「おまけに、うちは宿だ。宿屋で鍵屋を頼むなら、普通は客室の鍵が壊れたときだよ」
「そういえば今朝、二階の二号室の鍵が引っかかるって言ってませんでした?」とシズ。
「言ったよ」
「ガロさんに頼めば……」
「帰しちゃったじゃないか!」
ネネが慌てて両手を振る。
「呼び戻すなら別件として依頼してください! 宝箱の出張費に混ぜないで!」
オルガはしばらく真顔だったが、やがて吹き出した。
「分かってるよ。こっちは人間の客が泊まってる部屋なんだからね」
宝箱と人間の客室を区別する。その単純なことを確認するだけで、朝から大仕事になっている。
七草伊織が到着したのは、その直後だった。ガロとすれ違ったらしく、無言でネネに目を向ける。
「……鍵の束が歩いていましたが」
「開封師さんです」
「必要ですか」
「帰っていただきました」
「よかった。私は鍵穴の位置も確認できていないので」
「その話はもう終わったことにしましょう!」
*
現場確認では、箱に触れず、衝立の位置と客の通り道だけを調べた。
七草は用件を聞くと、帳面の閲覧だけを許可した。レナの持参したものは彼女自身の所有する帳面で、箱へ近づく必要がない。紙片の写真は、記録担当の立会いのもとで複写を照合する。
食堂の奥で、箱はいつもの椅子に載っていた。今日は朝食を食べず、小皿も片づけてある。
「祖母がこういう箱を直したのなら、どこかに記録があると思うんです」
レナは遠くから箱を見つめた。
「私、祖母が亡くなったあと、工房の帳面をずっと整理してました。知らない仕事の記録が出てくるたび、私の知らない祖母がいる気がして。最後まで何をしていたのか、全部知りたくなったんです」
ネネはすぐに慰めの言葉を返せなかった。分からないまま残されたことは、書類上の空欄より、ずっと大きい場合がある。
「全部は、分からないかもしれませんね」とネネ。
「……そうですね」
「でも、分からないところを残したまま調べることはできます。今ここにいる箱を壊さない方法で」
レナは帳面を閉じた。
「祖母が大切にしたかもしれないものを、私が真っ先に壊してしまったら、笑えませんね」
「修復工房の人が壊してしまったら、なおさら」とシズ。
「それは本当に、恥ずかしいです」
三人が小さく笑った。
そのとき、見物に来た客が衝立の外側から声をかけた。
「ねえ女将さん、あの箱、朝食の時間に開くんでしょう。夕食の時間には?」
「開かないよ」とオルガ。
「じゃあ昼は?」
「知らないよ!」
「何時なら見られる?」
「うちは宿だよ! 見世物小屋じゃない!」
オルガは勢いよく新しい札を書き始めた。
《箱の開閉時刻は未定》
ネネはペンを止めさせた。
「それだと、時間が決まったら見せるみたいです!」
「違うのかい!」
「違います!」
結局、札は《宝箱に触れないでください》の一枚に統一された。客が減り、オルガが安堵したところで、帳面の照合に戻る。
レナは帳面の古い頁を指で押さえながら、祖母の仕事について話した。
「祖母は、修理を頼まれると、すぐ直さずにまず持ち主と話す人だったそうです。私にはそれが不思議だったんですよ。傷があるんだから、直せばいいのにって」
「そういう仕事の仕方だったんですね」とネネ。
「一度、昔の鏡を直したときなんて、ひびを残してほしいと言われたそうです。理由を聞いたら、そのひびが入った日に、亡くなったご家族と大げんかをして、仲直りできたんですって」
レナは、使い込んだ指先を見た。
「直さない方がいい傷もある。そう教わったはずなのに、私は今日、箱を見た瞬間、開けることばかり考えていました」
「私も、記録を見つけると答えまで決めたくなります」とネネ。「でも、記録のために目の前のものを傷つけたら、順番が逆ですよね」
ふたりの話を聞いていたオルガが、衝立の手前から口を挟んだ。
「ひびを残したい鏡もあるのかい。うちの二階の洗面台にもひびがあるけど、あれは直してほしいね」
「それは修理をおすすめします」とレナ。
「普通に危ないです」とネネ。
「何だい、誰も思い出を大事にしてくれないね!」
オルガが大げさに肩をすくめたので、ネネはたまらず笑った。笑えることと、直さなければならないことは、案外近くにあるらしい。
記録担当の拡大写しを並べたシズが、ふと首を傾げた。
「この頁、線の引き方が変ね」
「線?」とレナ。
「《預り品》と《封書》の欄が並んでいるでしょう。ここの《開封》は、右側の小さな欄にかかっているように見える」
ネネは写真を見直した。紙片の《開封》も、文字の右側が切れているため、下の《同席》と続いているように見えた。
「つまり……宝箱を開ける話ではないかもしれない?」
「それも、まだ仮説ね」とシズ。
「でも、古い書式の見本と照らせば確かめられますよね」
「ええ。輪廻転生庁の資料管理室へ、用途の説明を求めましょう」
レナは帳面の最後の頁をめくった。祖母の手書きで、短い覚え書きが一つ残っていた。
《鳥の印は、持ち主の名ではない》
「……私、これを工房の看板のことだと思っていたんです」とレナ。「でも、もし預り品に使われた印なら、所有者を示しているとは限らないんですね」
「確かめる必要はありますね」とネネ。「印が同じでも、用途が同じとは限りません。書式と一緒に調べましょう」
レナは小さく笑った。
「今日は箱を開けずに、私の思い込みがひとつ開きました」
「それなら出張費はかかりませんね」とシズ。
「かからないでほしいです」
開封師へ払う費用を思い出したらしく、レナは鞄の紐を強く握った。
レナは手帳へ何か書きつけた。
「箱の開封依頼を取り下げます。代わりに、書式の照合に協力します」
七草が短くうなずいた。
「現物の安全については引き続き保安班が確認します。新しい記録が見つかっても、それだけで箱に触れてよいことにはなりません」
「分かりました」とレナ。
*
夕方、帳面を持ち帰るレナを見送ると、オルガがネネに一枚の紙を差し出した。
《本日の問い合わせ》
《宝箱を開ける予定はありますか 七件》
《夕食を食べますか 三件》
《箱だけ泊められますか 一件》
「最後の人、何を考えてるんですかね」とネネ。
「自分の荷物が泊まれるか訊いてきたんだよ。自分は外で野宿するって」
「……それは箱が心配で?」
「朝食代を節約したいんだとさ」
ネネは紙を折りたたんだ。迷宮の魔物や古い宝箱と向き合う仕事ではあるが、相手が人間のときも相当な難題がある。
「明日は、書式の回答が来ると思います」とシズ。
「そうですね。箱を開けないで、一つぐらい何かが分かるといいんですが」
「今日は何も開けなかったものね」
背後でオルガが帳面を閉じた。
「開けたよ」
「え?」
「食堂は一日中、開けてたよ。あんたたち、ずっとそこにいたじゃないか」
ネネは笑ってしまった。
開けなくていいものを開けずに済んだ。けれど、開けておくべき宿の扉は、今日もちゃんと開いていた。
明日は、その二つを取り違えずに済みそうだった。




