第48話 宝箱は、どこへ帰りますか
朝霧亭の女将オルガは、食堂の椅子を一脚取り戻すために、迷宮管理局へ正式な相談を出した。
《相談内容 客席一脚の使用再開について》
「……これ、宝箱の案件ですよね」と雨宮ネネ。
「そうよ」と織部シズ。
「なのに、対象が椅子になってます」
「女将さんにとっては、椅子の方がよほど切実なのね」
レナが開封師を連れてきた騒動から、二日が過ぎた。箱はもう何日も食堂の端にいる。旅人ハインが出発し、レナが無理に開けるのを思いとどまり、古い紙片の調査は進んだ。けれど椅子が空く気配はない。
宿の都合も分かる。朝霧亭は特別な収容施設ではなく、毎日宿泊客に朝食を出す店なのだ。
「で、今日が預かりを見直す日なのね」とシズ。
「はい。オルガさんが決めた三日間の期限です。保安班の結果と、宿側の負担をもう一度確認します」
「それと、旧書式の回答も届いてたわよ」
ネネが振り向くと、シズは紙を一枚差し出した。
《旧式一時預り帳票 欄の解説》
《封書開封時・同席者確認》
「……封書」
「うん。レナさんの帳面にあった《開封》は、封書を開けるときの立会人を書く欄だったみたい」
資料管理室によれば、古い帳票は左側に預り品、右側に添付の封書を記録する仕組みで、右欄の下に《封書開封時・同席者確認》という文言が印刷されていた。紙の端が欠ければ《開封》《同席》だけが残る。
「じゃあ、宝箱を開ける指示じゃなかったんですね」
「少なくとも、この書式ではね。箱そのものが同じ記録の品かどうかは、まだ確認中」
「……昨日、開封師さんを帰してよかったです」
「そうね。あの人、鍵の音で廊下じゅうの人が振り向いてたもの」
資料の下には、以前の職場の署名があった。《輪廻転生庁・資料管理室 照会担当:白瀬律》。いつものきっちりした字だ。
「白瀬さんが読んでくれたんですね」とネネ。
「この方、前の職場の先輩?」とシズ。
「はい。話が早いんです。こちらの思い込みを見つけるのも」
ネネは短く礼を送ろうと通信卓を開いたが、白瀬から追伸がついていた。
《注:紙面の「封書」が現存することを示す回答ではありません。箱内の品物を推定しないこと》
「……まだ何も言ってないんですけど」とネネ。
「言いそうなのね」とシズ。
ネネは指先で追伸を押さえた。たしかに、自分の頭の中には、箱の中に古い封書が眠っている図が一瞬浮かんでいた。元の職場の記録と聞くと、何もかもつながってほしくなる。けれど、つながると決まったものはひとつもない。
「前の職場にいたころは、こんな書類を調べる役になると思ってなかったです」
「窓口の人は、いつもお客さんの名前を確かめるんでしょう?」
「はい」
「今度は箱の名前を探してる。案外、仕事は変わってないのかもね」
「……箱に受付番号を渡す日が来たら、さすがに考えます」
シズは湯飲みを持ったまま笑った。
ネネは資料の下に注意書きを見つけた。
《封書の所在が不明の場合、預り品の所在と混同しないこと》
「箱も封書も行方が分からないのに、書類だけ用心深いですね」
「三十年前から同じような間違いがあったんじゃない?」
ネネは頷いた。だからといって、宝箱の中に封書があると考える根拠もない。二つの謎は、まだ別々のままだ。
*
朝霧亭に着くと、玄関に真新しい札が立っていた。
《宝箱の見学はできません》
その下に、誰かが紙を貼り足している。
《見学できない宝箱は、奥ですか?》
「……質問で返してきてますね」とネネ。
「客だよ」とオルガが奥から言った。「『見られないなら、どこにあるのかだけでも教えてくれ』って」
「どうしてそんなに見たいんでしょう」
「食べるからさ。宝箱がパンを食べるって、珍しいだろう?」
「珍しいですけど、営業内容ではないので!」
オルガは腕を組んだ。
「それで昨日はね、『宝箱が食べないなら朝食代を返せ』って客がいたんだよ」
「朝食、食べられなかったんですか?」
「客は完食したよ。三回おかわりして」
「……返す理由がありませんね」
「そう言ったら『箱の方が食べないと味気ない』って。うちの朝飯を何だと思ってるんだい!」
怒りはもっともだった。自分の食事を平らげたうえで、別の誰かが食べなかったから返金してほしいという客は、生前の役所でも見たことがない。
宿の奥から、短い帽子をかぶった若い給仕が現れた。手には一枚の紙を持っている。
「女将さん、昨日の客からこれが」
「何だい」
「箱の席が見えなかったから、席料を返してほしいそうです」
オルガは額に手を当てた。
「またかい。そもそも、うちは席料を取ってないよ」
「じゃあ何のお金を返すんでしょう」とネネ。
「知らないよ。むしろ、箱を見るために二時間も居座った分をもらいたいくらいだね」
シズが書かれた紙を受け取り、端に走り書きされた一文を見た。
《見られない宝箱では、話の種になりません》
「話の種になるかどうかで朝食を値引きする制度はないわね」とシズ。
「私もそう思います」とネネ。
「朝飯はうまかったって書いてあるよ」とオルガ。「だったら、おしまいだ!」
給仕は安心して厨房へ戻った。ネネは机上の記録に《宿泊施設の営業に支障が発生》と書いた。
「まさか、箱が食べないだけで営業上の問題になるとは」
「騒ぎが続けばね」とシズ。「箱の安全と、宿の商売と、お客さんの好奇心。全部を一度に片づけようとすると、また椅子が足りなくなるわ」
オルガはそこへ力強くうなずいた。
「そうだよ。せめて椅子を返しておくれ。宝箱の隣で朝食を食べたくて来る人のために、椅子を増やすなんて真っ平だ」
その理屈は、ネネにもよく分かった。
七草伊織が保安班を連れて到着した。昨日からの観察記録を受け取り、現場の位置関係を確認する。
「オルガさん。現在の置き場所を変えたい、ということですね」
「ええ。食堂から出せればいいんだよ。無理に運ぶつもりはないけど、客席をあけたい」
「隣の配膳室に、使っていない一角があると聞きました」
「あるけど、皿の棚が置いてあるよ」
「移動先として適するか先に調べます。床と出入口、温度と周囲の物、それから箱の反応を確認してからです」
「皿の棚も引っ越すのかい」
「必要なら」
オルガはしばらく黙った。
「……宿の中で、宝箱の方が人間よりいい部屋をもらいそうだね」
「配膳室ですよ」とネネ。
「でも個室だよ」
「客室ではありません!」
やり取りを聞いていた保安員が、ほんの少し口元を緩めた。
*
宿側との相談には、レナも同席した。祖母の帳面の写しが、旧書式の照合に役立ったことを伝えるためだ。
「私、ずっと箱を開けたら答えが出ると思っていたんです」とレナ。「でも、開けるべきだったのは、帳面の別の頁でしたね」
「紙の頁は開けて大丈夫ですからね」とネネ。
「そこまで注意されると、何も開けられなくなりそう」
シズが笑い、複写した書式を卓に並べた。
《封書開封時・同席者確認》。似た意匠の鳥の印。受領欄が空白の旧式荷札。どれも関連する可能性はあるが、どれが誰の記録なのか、まだ定まらない。
「祖母の帳面と同じ印が使われていたのは確かです」とレナ。「ただ、祖母が箱を作ったのか、直したのか、預かったのかまでは分かりません」
「はい。今日、分かったのは書式の読み方だけです」とネネ。
「少しもどかしいですね」
「分かります。でも……」
ネネは、窓の向こうにいる七草たちを見た。保安員は椅子の周囲に線を引き、人が通れる幅を確認している。隣ではオルガが、皿の棚を自分の手でどかす場所を指示していた。
「記録が読める日まで、箱を危ないところに置いておくわけにはいきません。今、決めなきゃいけないこともあります」
レナはうなずいた。
「私にできることは、工房の古い帳面をもう少し探すことですね。今度は開封師を呼ばずに」
「助かります」
そこへオルガが戻ってきた。
「配膳室の棚なら、明日どかせるよ。ただし、一つ条件がある」
「何でしょう」とネネ。
「宝箱に部屋代は取らない。その代わり、食堂の椅子は返してもらう。それから、もし箱がパンを食べたら、誰が払うか決めておくれ」
「実際に食べた量を記録して、費用は関係者で確認する形にしましょう。箱が食べると決まったわけではないので、先に朝食を注文しないでください」
「分かったよ。でも、人間の客より手間がかかるね」
「手間の種類が違いますね」
オルガはネネの顔をじっと見た。
「あんたも大変だ。生前からそういう顔して働いてたんじゃないの」
「……なんで分かるんですか」
「窓口の人って、どこの世界でも同じ顔するんだねえ」
ネネは否定できなかった。転生して耳が長くなったせいで、その顔が前より分かりやすくなった気もする。
*
翌朝、配膳室の床と出入口の確認が終わった。皿の棚はオルガが前夜のうちに片づけ、生体管理担当も立ち会った。箱の外見と反応を観察し、安全担当が移送方法を決める。
最初に保安員が近づくと、蓋がわずかに動いた。七草が手を上げ、全員が立ち止まる。
「その反応だけでは、許可とも拒否とも判断できません。いったん距離を取ります」
ネネは見守りながら、無意識に両耳を立てていた。近くにあった椅子の脚が床を擦る音まで聞こえる。それが箱からの返事ではないと分かるのは、こういうとき少しありがたい。
しばらく置いてから、保安班は安全担当の手順に従い、箱を板ごとゆっくり移した。蓋を固定せず、無理に揺さぶらず、移動後は変化がないかしばらく観察する。箱は、それ以上動かなかった。
配膳室は食堂より静かだった。窓が一つあり、厨房から焼きたてのパンの匂いが届く。
「……悪くないじゃないか」とオルガ。
「はい」とネネ。
「よし。ここなら朝飯を食べたいときも、近くに台所がある」
「食べさせるための部屋じゃありませんよ!」
「分かってるよ。言ってみただけ」
ネネたちは三者の確認書を残した。所有者と由来は未確定。宿は二週間を目安に一時保管へ協力。安全確認は保安班が続け、宿の負担や箱の状態に変化があれば期限前でも見直す。
条件を読み上げると、オルガは意外にも、費用の欄から先に確かめた。
「二週間ごとの見直しってあるけど、その間に皿が割れたら誰が払うんだい」
「箱が割ったと確認できるなら、事情を聞いて話し合いましょう。偶然割れたお皿まで全部、箱のせいにはできません」
「そうかい。じゃあ逆に、あの箱が皿を一枚買ってくれたら?」
「買うんですか?」
「知らないよ、そういうことがあったらって話!」
ネネはペンを止めた。ありそうにない質問だが、宝箱が朝食を食べる世界では、何が絶対に起きないかも簡単には言えない。
「もし何かを受け取ったら、その経緯を記録しましょう。まだ料金や所有権は決められません」
「……あんた、何を聞いても書類に戻ってくるね」
「長年の職業病です」
オルガは笑い、少しだけ表情を和らげた。
「でも、あたしが困ってることはちゃんと聞いてくれた。そこは助かったよ。最初は宝箱の方ばかり大事にされるのかと思ったからね」
ネネは思わず顔を上げた。
「すみません。食堂の椅子一脚でも、宿にとっては大事なものですよね」
「そりゃね。朝食ひとつだって、食べてもらうまでに手間がかかってるんだよ」
いくつも書類を交わした結果、ようやくお互いが最初から言っていたことにたどりついた。少し遠回りだったが、今日のところはその遠回りにも意味があった。
オルガは署名し、最後にひとつ頼んだ。
「ねえ雨宮さん。これで、うちが箱の飼い主になったわけじゃないんだよね」
「違います」
「よかった。うちには犬も猫も、まだ飼ったことがないからね」
「箱は、そのどちらでもありません」
「そうだねえ。犬なら、たまに吠えてくれるし」
ネネは笑いそうになったが、箱が鳴らした小さな金具の音に気づいて、言葉を止めた。
偶然かもしれない。だから《返事あり》とは書かない。ただ、窓際に置かれた箱は、先ほどより少しだけこちらを向いていた。
*
庁舎へ戻ったネネの机には、別の迷宮から緊急の照会票が届いていた。
《南稜迷宮 避難廊下B》
《現地確認済み 確認者:七草伊織》
「……七草さん、今日ずっとうちの町にいましたよね」
「そうね。朝霧亭で皿の棚を見てたわね」とシズ。
「なのに、南稜迷宮を確認したことになってます」
ネネが紙を裏返すと、そこには追記があった。
《至急。見学会は明日開催予定》
「えっ、明日?」
「明日ね」
「……確認したの、誰なんですか」
シズは少しだけ遠い目をした。
「まず、確認する人を確認しましょうか」
ネネは机の引き出しから新しい相談票を出した。
宝箱のための場所は、ようやく決まった。
自分が落ち着いて座る時間は、まだ決まりそうにない。




