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雨宮ネネの苦悩と野望 ~死んでもクレーム対応!勇者も魔王も整理券をお取りください!~  作者: 月森 こはる
第三章・宿泊客は宝箱です編

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第46話 持ち主と、預かり主は別です


 雨宮ネネが朝霧亭に着いたとき、旅人のハインは玄関で宝箱に別れの挨拶をしていた。


「俺は行く。お前はここで、いい子にしてるんだぞ」


 当の宝箱は食堂の衝立の向こうにいる。玄関からでは姿も見えない。


「誰に話しかけてるんだい」と女将のオルガ。

「聞こえるかもしれないでしょう」

「だったらもう少し小さい声でおやり。二階の客まで起きちまう」

「見送りの言葉まで音量制限があるんですか!」


 ネネは扉の前で足を止めた。朝霧亭は旅人の宿だが、宝箱の送別会場ではない。まして、朝六時から開会するような催しでもない。


「ハインさん、出発は今日でしたよね」

「あっ、雨宮さん。ちょうどよかった。これ、書いておきました」


 渡されたのは昨夜のうちに用意したらしい、びっしり書き込まれた紙だった。


《宝箱の身元引受に関する誓約書》


 名前の下には《私は宝箱を決して見捨てません》と大きく書かれている。最後の一文だけ字が震えていた。


《ただし、仕事で長期間不在になる場合を除きます》


「自分で例外を作ってますね」

「現実的な誓約書なんです」

「そもそも、これを誰に提出するつもりだったんですか」

「役所の人に」

「受付の前に見せてもらえてよかったです」


 ネネが紙を返すと、ハインは目に見えて落胆した。


「気持ちは本当なんですよ。拾った時は空の箱だったけど、一緒に旅をして、朝飯まで食うようになった。今さら知らない箱だとは言えないでしょう」

「分かります。でも、ハインさんが気にかけていることと、持ち主であることを証明できるかは別です」

「じゃあ、保証人なら?」

「何の保証をするんですか?」

「……朝食代?」

「それはオルガさんと話してください」


 背後からオルガがすかさず帳面を差し出した。


「その話なら、今すぐできるよ」

「なんでそこだけ用意がいいんです!」


 ネネの耳がぴんと立った。紙一枚で全部片づけたくなる気持ちは、よく分かる。だが、この宿にいるのは、まだ何者とも分からない箱だ。人間の保護者を勝手に任命するわけにもいかない。


 今日、必要なのは、ハインが旅立つことと、箱を安全な場所に置いておくことを両立させる約束だった。


     *


 食堂の端にある衝立の前には、織部シズが先に来ていた。


「おはよう。持ち主は決まった?」

「決まってません。保証人が一人増えかけました」

「早い朝ね」


 宝箱は昨日と同じ椅子の上で、静かに蓋を閉じている。横には《仮置き場所・動かさないこと》という札。オルガが用意した札だが、下の方に小さく《ただし椅子は当館所有》と書き足されていた。


「この一文、必要ですか」

「必要だよ。昨日、客が『宿の備品なら売ってくれ』って言ったんだ」とオルガ。

「宝箱をですか?」

「椅子の方だよ。箱を載せたままで」

「そこは別売りにしてください!」


 シズが小さく笑い、書類を広げた。


 朝霧亭で三日間、暫定的に保管するという取り決めは、前日までにできている。保安班が現場の安全条件を確認することも決まっていた。だが、オルガは無期限に預かれるわけではなく、ハインも遠方の仕事を放り出せない。


「で、これから誰が何をするか、抜けがないようにしたいの」とシズ。「ハインさんは連絡先を残す。オルガさんは保管場所の状況を知らせる。箱の安全確認は保安班が担当。私たちは相談をつなぐ。そこまでで合ってる?」


 三人がうなずいた。箱は動かなかった。


「では、持ち主の欄は空欄にしておきますね」とネネ。

「俺の名前じゃ駄目ですか」

「拾った人の欄には書けます」

「それ、違うんですか」

「違います。大事な違いです」


 ハインは書式を覗き込み、顔をしかめた。


《発見者》

《現在の保管協力者》

《所有者》

《対象の意思確認状況》


「……欄が四つもある」

「ひとつにして間違えたことが、うちでは何度もありまして」

「役所にも苦労があるんですね」

「最近、特に」


 オルガが覗き込んだ。


「対象の意思確認って、誰に訊くんだい」

「できる範囲で、箱にです」

「本人確認なら、名前を言ってもらえばいいじゃないか」

「言ってくれたら私たちも助かるんですけど!」


 ハインが真顔で頷く。


「せめて一度でいいから、俺の名前を呼んでほしいなあ」

「呼ばれたらまず、危険がないか確かめてくださいね」とシズ。

「感動する暇もないんですか?」

「感動は安全な距離でお願いします」


 ネネは記録用の板を抱え直した。安全確認が済んでいないものに勝手に触れない。それは第七迷宮の出口騒動から繰り返してきた決まりだ。箱の前で感傷に浸ってよいかどうかは別としても、約束を軽くしてはいけない。


 記入の途中、ハインが何度もペンを持ち直した。


「あの、《発見者》の次に《持ち出し届出者》って欄も作ってもらえませんか」

「なぜです?」

「拾っただけじゃなく、ちゃんと申告しましたから。これだけ苦労してるんだから、その辺も記録に残してほしくて」


 ネネは、提出済みの持ち出し申告書を確認した。本人の名前、日付、拾った場所の大まかな位置。必要な情報はそちらにある。


「別の書類に記録があります。ここへ重ねて書く必要はありません」

「でも、頑張って書いたんですよ」

「それは伝わります」

「一文字ずつ丁寧に」

「筆跡の評価をする書類ではないので……」


 しゅんとしたハインに、オルガが横から言った。


「そういえば、あんたが宿帳に書いた住所も、ずいぶん丁寧だったね」

「でしょう!」

「読めなかったけどね」

「えっ?」

「《三番街》を《王番街》って書いてたよ。王様でも住んでるのかと思った」


 シズが咳払いをした。ネネも笑いそうになったが、ハインの住所欄を見直して、思わず眉を寄せた。


「……これ、どちらにも見えますね」

「でしょう?」とハイン。

「誇るところじゃありません。連絡が届かなくなりますよ」


 結局、ハインは郵便が届く町の名をもう一度口頭で伝え、ネネは読み上げて確認した。住所ひとつ確かめるだけで時間がかかったが、箱の置き場所に何かあったとき、知らせる先が分からないよりはずっといい。


 旅人にとって住所は少し不思議なものだ。いつも同じ場所に帰るとは限らない。それでも、誰かと約束を続けるには、連絡の取れる場所が必要になる。


「荷物のことだけじゃないんですね」とハイン。

「ええ。預けたあと、何か変わったときのためです」

「……じゃあ俺、旅先でも定期的に便りを書きます」

「その方が助かります」

「住所を読める字でね」とオルガ。

「まだ言いますか!」


 そこへ保安班の七草伊織が現れた。昨夜からの配置と変化がないか、職員とともに現地を確認するためだ。


「まず客席側の動線を確保します。箱の移動は許可しません。昨日までと状況が変わっていないか調べてからです」

「承知しました」とオルガ。「ただ、あの椅子だけは今日も朝食で使えないのかい」

「今日は使えません」

「椅子、かわいそうに」

「椅子の気持ちまで聞き始めたら、今日中に帰れませんよ」とネネ。


 七草は表情を変えず、手元の板に《椅子一脚占有》と記した。


「記録するんですか!」

「占有状態は事実です」

「……そうですね」


 ネネは負けた気がした。


     *


 出発までの間に、ハインは三度、箱のところへ行こうとした。


 一度目は「最後に撫でておきたい」。二度目は「旅のお守りを入れてやりたい」。三度目は「忘れ物を取りに来た」。


「その忘れ物は何ですか」とネネが訊くと、ハインは申し訳なさそうに答えた。


「……思い出です」

「荷物になりませんね」

「俺もそう思います」


 シズが笑いをこらえきれず、記録帳で口元を隠した。


 結局ハインは、箱には触れず、距離を取って声だけかけることにした。


「お前が何者でも、あの馬車の音を聞いてたのは俺だ。忘れるなよ」


 宝箱は動かなかった。


「……こういうとき、何か答えてくれたらな」

「返事がなくても、伝えたことにはなりますよ」とネネ。

「そうですかね」

「少なくとも、伝えずに帰るよりは」


 ハインはしばらく箱を見ていたが、やがて諦めたように笑った。


「旅が終わったら、必ず様子を聞きに来ます」

「必ず、は仕事の都合で難しいかもしれませんよ」とネネ。

「そこ、わざわざ言わなくても!」

「じゃあ、都合がついたら来てください」

「……はい。そうします」


 彼は素直に頷いた。以前なら「連れていけないなら責任も持てない」と腹を立てたかもしれない。今は、できることとできないことを分けて考えようとしている。


 ネネは少しだけ肩の力を抜いた。


 そのとき、オルガが厨房から顔を出した。


「ハインさん! 出発前の軽食、食べていくんだろう?」

「食べます!」

「箱は?」

「……朝は食べてないから、分かりません」

「そう言えるようになったなら進歩だね」


 オルガは満足げに台所へ戻った。客商売において、分からないことを分からないと言えるようになるのは、案外難しいのだろう。


     *


 オルガが出発前の飲み物を持ってきたとき、ハインはふと思い出したように、最初に箱を拾った日のことを話した。


「本当はね、あの迷宮で宝箱を見つけたとき、何かいいものが入ってると思ったんです。蓋を開けたら空で、がっかりしました」

「なのに持って帰ったんですね」とネネ。

「丈夫そうだったから、道具でも入れようかと。ところが馬車の上でがたがた鳴るでしょう。最初はうるさいと思ってたのに、気づけば音がしないと落ち着かなくなって」


 彼は自分でも不思議そうに笑った。


「一人で旅してると、夕方の道が長いんですよ。話し相手がいないから、馬の鼻息に文句を言ったり、荷物に天気を尋ねたりする。返事はないけど、何だか助けられるんです」

「馬には、天気が分かるかもしれませんけどね」とシズ。

「馬だって、毎回は答えてくれませんよ」


 ネネは、昨夜の窓口の明かりを思い出した。今の仕事を選んだのは自分だ。けれど、選んだ仕事だから、寂しい日がないわけではない。


「だから、箱が何なのか分かるまでは、大事にしておきたいんですね」

「ええ。所有者じゃなくても、そう思うのは許されますよね」

「気持ちに許可はいりません。持ち出したり、開けたりするときは必要な場合がありますが」

「……せっかくいい話だったのに!」


 ハインは抗議したが、笑っていた。ネネも笑った。


 ハインが荷車に乗り込む直前、古い紙片の保存状態について、資料担当から連絡が届いた。


 箱のそばへ落ちた紙は、今は封じた保管板の中にある。保全のため無理に伸ばしていないが、光の当て方を変えた写真で、裏面の文字の一部が読めたという。


《……開封》

《……同席》


「開封?」とハインが身を乗り出した。

「はい。ただし、何を開けるという意味かは分かりません」

「宝箱に決まってるじゃないですか!」

「決まってません」

「目の前に宝箱があるのに!」

「目の前に人間がいたからといって、『開封』は人間を開けることにはならないでしょう」

「それはそうですけど!」


 シズが肩を揺らした。


「その二文字は調べます。だから、見切り発車で箱を開けないでね」

「分かってますよ。俺、今は手を出せないんですから」


 ハインは少し寂しそうに言った。それでも、最後まで自分から箱へ近づこうとはしなかった。


 荷車が門の外へ出ていく。見送ったオルガは、ふと帳面の数字を指で弾いた。


「……そういえば、あの人、今朝のパン代は払ったのかい?」

「払いましたよ。さっき精算してました」とネネ。

「箱の分じゃないよ。自分の分だ」

「そこ、逆に忘れそうになるんですね」


 オルガは笑って帳面を閉じた。


 ネネが庁舎へ戻ろうとしたとき、入れ違いにひとりの女性が宿へ入ってきた。


 三十代半ばほど。紺色の上着に、道具で膨らんだ鞄を肩から下げている。


「こちらに、古い鳥の印のついた宝箱があると伺いました」


 女は一礼し、名刺代わりの小さな木札を見せた。修復工房の印と《レナ・ハルツ》の名が刻まれている。


「祖母が残した帳面に、同じ印があるんです。確認させていただけないでしょうか」


 ネネは反射的に言った。


「確認なら、まずお話を伺ってから――」

「できれば、箱を開けて」


 胸の前で、ネネの記録板が止まった。


 朝から一日かけて、開けない約束を確認し続けたところだった。


「……すみません。その『開けて』は、いったん持ち帰っていただけますか」

「えっ、私がですか?」

「いえ。言葉の方です」


 シズはとうとう、声を出して笑った。


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