第46話 持ち主と、預かり主は別です
雨宮ネネが朝霧亭に着いたとき、旅人のハインは玄関で宝箱に別れの挨拶をしていた。
「俺は行く。お前はここで、いい子にしてるんだぞ」
当の宝箱は食堂の衝立の向こうにいる。玄関からでは姿も見えない。
「誰に話しかけてるんだい」と女将のオルガ。
「聞こえるかもしれないでしょう」
「だったらもう少し小さい声でおやり。二階の客まで起きちまう」
「見送りの言葉まで音量制限があるんですか!」
ネネは扉の前で足を止めた。朝霧亭は旅人の宿だが、宝箱の送別会場ではない。まして、朝六時から開会するような催しでもない。
「ハインさん、出発は今日でしたよね」
「あっ、雨宮さん。ちょうどよかった。これ、書いておきました」
渡されたのは昨夜のうちに用意したらしい、びっしり書き込まれた紙だった。
《宝箱の身元引受に関する誓約書》
名前の下には《私は宝箱を決して見捨てません》と大きく書かれている。最後の一文だけ字が震えていた。
《ただし、仕事で長期間不在になる場合を除きます》
「自分で例外を作ってますね」
「現実的な誓約書なんです」
「そもそも、これを誰に提出するつもりだったんですか」
「役所の人に」
「受付の前に見せてもらえてよかったです」
ネネが紙を返すと、ハインは目に見えて落胆した。
「気持ちは本当なんですよ。拾った時は空の箱だったけど、一緒に旅をして、朝飯まで食うようになった。今さら知らない箱だとは言えないでしょう」
「分かります。でも、ハインさんが気にかけていることと、持ち主であることを証明できるかは別です」
「じゃあ、保証人なら?」
「何の保証をするんですか?」
「……朝食代?」
「それはオルガさんと話してください」
背後からオルガがすかさず帳面を差し出した。
「その話なら、今すぐできるよ」
「なんでそこだけ用意がいいんです!」
ネネの耳がぴんと立った。紙一枚で全部片づけたくなる気持ちは、よく分かる。だが、この宿にいるのは、まだ何者とも分からない箱だ。人間の保護者を勝手に任命するわけにもいかない。
今日、必要なのは、ハインが旅立つことと、箱を安全な場所に置いておくことを両立させる約束だった。
*
食堂の端にある衝立の前には、織部シズが先に来ていた。
「おはよう。持ち主は決まった?」
「決まってません。保証人が一人増えかけました」
「早い朝ね」
宝箱は昨日と同じ椅子の上で、静かに蓋を閉じている。横には《仮置き場所・動かさないこと》という札。オルガが用意した札だが、下の方に小さく《ただし椅子は当館所有》と書き足されていた。
「この一文、必要ですか」
「必要だよ。昨日、客が『宿の備品なら売ってくれ』って言ったんだ」とオルガ。
「宝箱をですか?」
「椅子の方だよ。箱を載せたままで」
「そこは別売りにしてください!」
シズが小さく笑い、書類を広げた。
朝霧亭で三日間、暫定的に保管するという取り決めは、前日までにできている。保安班が現場の安全条件を確認することも決まっていた。だが、オルガは無期限に預かれるわけではなく、ハインも遠方の仕事を放り出せない。
「で、これから誰が何をするか、抜けがないようにしたいの」とシズ。「ハインさんは連絡先を残す。オルガさんは保管場所の状況を知らせる。箱の安全確認は保安班が担当。私たちは相談をつなぐ。そこまでで合ってる?」
三人がうなずいた。箱は動かなかった。
「では、持ち主の欄は空欄にしておきますね」とネネ。
「俺の名前じゃ駄目ですか」
「拾った人の欄には書けます」
「それ、違うんですか」
「違います。大事な違いです」
ハインは書式を覗き込み、顔をしかめた。
《発見者》
《現在の保管協力者》
《所有者》
《対象の意思確認状況》
「……欄が四つもある」
「ひとつにして間違えたことが、うちでは何度もありまして」
「役所にも苦労があるんですね」
「最近、特に」
オルガが覗き込んだ。
「対象の意思確認って、誰に訊くんだい」
「できる範囲で、箱にです」
「本人確認なら、名前を言ってもらえばいいじゃないか」
「言ってくれたら私たちも助かるんですけど!」
ハインが真顔で頷く。
「せめて一度でいいから、俺の名前を呼んでほしいなあ」
「呼ばれたらまず、危険がないか確かめてくださいね」とシズ。
「感動する暇もないんですか?」
「感動は安全な距離でお願いします」
ネネは記録用の板を抱え直した。安全確認が済んでいないものに勝手に触れない。それは第七迷宮の出口騒動から繰り返してきた決まりだ。箱の前で感傷に浸ってよいかどうかは別としても、約束を軽くしてはいけない。
記入の途中、ハインが何度もペンを持ち直した。
「あの、《発見者》の次に《持ち出し届出者》って欄も作ってもらえませんか」
「なぜです?」
「拾っただけじゃなく、ちゃんと申告しましたから。これだけ苦労してるんだから、その辺も記録に残してほしくて」
ネネは、提出済みの持ち出し申告書を確認した。本人の名前、日付、拾った場所の大まかな位置。必要な情報はそちらにある。
「別の書類に記録があります。ここへ重ねて書く必要はありません」
「でも、頑張って書いたんですよ」
「それは伝わります」
「一文字ずつ丁寧に」
「筆跡の評価をする書類ではないので……」
しゅんとしたハインに、オルガが横から言った。
「そういえば、あんたが宿帳に書いた住所も、ずいぶん丁寧だったね」
「でしょう!」
「読めなかったけどね」
「えっ?」
「《三番街》を《王番街》って書いてたよ。王様でも住んでるのかと思った」
シズが咳払いをした。ネネも笑いそうになったが、ハインの住所欄を見直して、思わず眉を寄せた。
「……これ、どちらにも見えますね」
「でしょう?」とハイン。
「誇るところじゃありません。連絡が届かなくなりますよ」
結局、ハインは郵便が届く町の名をもう一度口頭で伝え、ネネは読み上げて確認した。住所ひとつ確かめるだけで時間がかかったが、箱の置き場所に何かあったとき、知らせる先が分からないよりはずっといい。
旅人にとって住所は少し不思議なものだ。いつも同じ場所に帰るとは限らない。それでも、誰かと約束を続けるには、連絡の取れる場所が必要になる。
「荷物のことだけじゃないんですね」とハイン。
「ええ。預けたあと、何か変わったときのためです」
「……じゃあ俺、旅先でも定期的に便りを書きます」
「その方が助かります」
「住所を読める字でね」とオルガ。
「まだ言いますか!」
そこへ保安班の七草伊織が現れた。昨夜からの配置と変化がないか、職員とともに現地を確認するためだ。
「まず客席側の動線を確保します。箱の移動は許可しません。昨日までと状況が変わっていないか調べてからです」
「承知しました」とオルガ。「ただ、あの椅子だけは今日も朝食で使えないのかい」
「今日は使えません」
「椅子、かわいそうに」
「椅子の気持ちまで聞き始めたら、今日中に帰れませんよ」とネネ。
七草は表情を変えず、手元の板に《椅子一脚占有》と記した。
「記録するんですか!」
「占有状態は事実です」
「……そうですね」
ネネは負けた気がした。
*
出発までの間に、ハインは三度、箱のところへ行こうとした。
一度目は「最後に撫でておきたい」。二度目は「旅のお守りを入れてやりたい」。三度目は「忘れ物を取りに来た」。
「その忘れ物は何ですか」とネネが訊くと、ハインは申し訳なさそうに答えた。
「……思い出です」
「荷物になりませんね」
「俺もそう思います」
シズが笑いをこらえきれず、記録帳で口元を隠した。
結局ハインは、箱には触れず、距離を取って声だけかけることにした。
「お前が何者でも、あの馬車の音を聞いてたのは俺だ。忘れるなよ」
宝箱は動かなかった。
「……こういうとき、何か答えてくれたらな」
「返事がなくても、伝えたことにはなりますよ」とネネ。
「そうですかね」
「少なくとも、伝えずに帰るよりは」
ハインはしばらく箱を見ていたが、やがて諦めたように笑った。
「旅が終わったら、必ず様子を聞きに来ます」
「必ず、は仕事の都合で難しいかもしれませんよ」とネネ。
「そこ、わざわざ言わなくても!」
「じゃあ、都合がついたら来てください」
「……はい。そうします」
彼は素直に頷いた。以前なら「連れていけないなら責任も持てない」と腹を立てたかもしれない。今は、できることとできないことを分けて考えようとしている。
ネネは少しだけ肩の力を抜いた。
そのとき、オルガが厨房から顔を出した。
「ハインさん! 出発前の軽食、食べていくんだろう?」
「食べます!」
「箱は?」
「……朝は食べてないから、分かりません」
「そう言えるようになったなら進歩だね」
オルガは満足げに台所へ戻った。客商売において、分からないことを分からないと言えるようになるのは、案外難しいのだろう。
*
オルガが出発前の飲み物を持ってきたとき、ハインはふと思い出したように、最初に箱を拾った日のことを話した。
「本当はね、あの迷宮で宝箱を見つけたとき、何かいいものが入ってると思ったんです。蓋を開けたら空で、がっかりしました」
「なのに持って帰ったんですね」とネネ。
「丈夫そうだったから、道具でも入れようかと。ところが馬車の上でがたがた鳴るでしょう。最初はうるさいと思ってたのに、気づけば音がしないと落ち着かなくなって」
彼は自分でも不思議そうに笑った。
「一人で旅してると、夕方の道が長いんですよ。話し相手がいないから、馬の鼻息に文句を言ったり、荷物に天気を尋ねたりする。返事はないけど、何だか助けられるんです」
「馬には、天気が分かるかもしれませんけどね」とシズ。
「馬だって、毎回は答えてくれませんよ」
ネネは、昨夜の窓口の明かりを思い出した。今の仕事を選んだのは自分だ。けれど、選んだ仕事だから、寂しい日がないわけではない。
「だから、箱が何なのか分かるまでは、大事にしておきたいんですね」
「ええ。所有者じゃなくても、そう思うのは許されますよね」
「気持ちに許可はいりません。持ち出したり、開けたりするときは必要な場合がありますが」
「……せっかくいい話だったのに!」
ハインは抗議したが、笑っていた。ネネも笑った。
ハインが荷車に乗り込む直前、古い紙片の保存状態について、資料担当から連絡が届いた。
箱のそばへ落ちた紙は、今は封じた保管板の中にある。保全のため無理に伸ばしていないが、光の当て方を変えた写真で、裏面の文字の一部が読めたという。
《……開封》
《……同席》
「開封?」とハインが身を乗り出した。
「はい。ただし、何を開けるという意味かは分かりません」
「宝箱に決まってるじゃないですか!」
「決まってません」
「目の前に宝箱があるのに!」
「目の前に人間がいたからといって、『開封』は人間を開けることにはならないでしょう」
「それはそうですけど!」
シズが肩を揺らした。
「その二文字は調べます。だから、見切り発車で箱を開けないでね」
「分かってますよ。俺、今は手を出せないんですから」
ハインは少し寂しそうに言った。それでも、最後まで自分から箱へ近づこうとはしなかった。
荷車が門の外へ出ていく。見送ったオルガは、ふと帳面の数字を指で弾いた。
「……そういえば、あの人、今朝のパン代は払ったのかい?」
「払いましたよ。さっき精算してました」とネネ。
「箱の分じゃないよ。自分の分だ」
「そこ、逆に忘れそうになるんですね」
オルガは笑って帳面を閉じた。
ネネが庁舎へ戻ろうとしたとき、入れ違いにひとりの女性が宿へ入ってきた。
三十代半ばほど。紺色の上着に、道具で膨らんだ鞄を肩から下げている。
「こちらに、古い鳥の印のついた宝箱があると伺いました」
女は一礼し、名刺代わりの小さな木札を見せた。修復工房の印と《レナ・ハルツ》の名が刻まれている。
「祖母が残した帳面に、同じ印があるんです。確認させていただけないでしょうか」
ネネは反射的に言った。
「確認なら、まずお話を伺ってから――」
「できれば、箱を開けて」
胸の前で、ネネの記録板が止まった。
朝から一日かけて、開けない約束を確認し続けたところだった。
「……すみません。その『開けて』は、いったん持ち帰っていただけますか」
「えっ、私がですか?」
「いえ。言葉の方です」
シズはとうとう、声を出して笑った。




