第45話 回収先が、分かりません
朝霧亭の女将オルガには、旅人の忘れ物を預かるための棚がある。
左から順に、傘、外套、手袋、その他。その他の棚には片方だけの靴や、持ち主の分からない鍋の蓋まで収められていた。鍋の蓋は半年ほど置かれたままで、オルガはもう捨てることを諦めているという。
「だからって、宝箱まで忘れ物の棚に入れられると思うかい?」
迷宮管理局の通信卓から聞こえてきた声に、雨宮ネネは返す言葉を探した。
「棚に入れるようお願いした覚えはないんですが……」
『誰もそうは言ってないよ。ただね、ハインさんが明日、町を出るって言うんだ』
「えっ」
『次の仕事が入ってるんだとさ。箱を連れていけないなら、あたしが預かることになるんじゃないかって』
ネネは机の上の相談記録を開いた。
旧式の管理札には《回収対象》。ただし、輪廻転生庁の説明によれば、それは現物の回収命令ではない。最終受領先も不明のままで、箱をどこへ送るべきかは決まっていない。
つまり、送り先が分からなくても、宿の部屋は明日空けなければならない。
書類の都合と宿の都合は、悲しいほど仲良くしてくれなかった。
「いったん、ハインさんご本人ともお話しします。箱を勝手に運ばないという取り決めは、今も有効です」
『それは守ってるよ。今朝も椅子から動かしてない。ただ、椅子はうちのだからね』
「……そこも含めて相談しましょう」
通信を終えると、隣の席から織部シズが顔を上げた。
「まさかと思うけど、椅子の所有権まで調べるつもりじゃないでしょうね」
「そこは調べずに済ませたいです」
「私もよ」
ネネは、昨日頼んだ写しの照合結果を探した。モルンから届いた封筒には、宝箱の底面を最初に記録した図と、輪廻転生庁が送ってきた旧式荷札の見本とが重ねられている。
四角い枠は二つ。左が《差出》、右が《受領》。見本の文字がくっきりしているのに対し、箱の底では両方とも擦れ、右の枠はほとんど輪郭だけになっていた。
欄外に、モルンの細い字がある。
《受領欄に印影は確認できません。ただし、もともと無かったのか、摩耗したのかは不明です》
「これだけじゃ、やっぱり分からないですね」
「分からないと書けているなら、まだいい方よ。昨日のハインさんみたいに、分からないまま荷車を呼ばれたら困るから」
シズは、重ねた紙をずらした。
「旧式の荷札がどう使われていたか、もう少し詳しい人に聞けないかしら」
「資料管理室には照会中です」
「書式を知ってる人がいたら、取扱いの注意ぐらいは聞けそうだけど」
ネネは一度、宛先の入力欄を見つめた。
以前の職場の名前を呼ぶことには、まだほんの少し抵抗があった。異動するまでは毎日のように顔を合わせていた人たちが、今では書類の向こう側にいる。
けれど、懐かしいから連絡するわけではない。必要な仕事があって、相手の担当に確認したいことがある。それだけだ。
ネネは照会の趣旨と管理番号を整理し、旧管理方式の取扱いについて担当者からの説明を求める通信を送った。
*
返事が来たのは、昼前だった。
『輪廻転生庁、白瀬です』
思いがけず懐かしい声が聞こえ、ネネは一瞬だけ耳を立てた。
「……白瀬さん?」
『はい。雨宮さん、そちらでも書類に追いかけられているんですか』
「追いかけられているというか、今度は書類の届け先を追いかけてます」
『順調そうですね』
「どの辺がですか!」
織部シズが、向かいの机で笑いをこらえている。
白瀬律は輪廻転生庁で一緒に働いていた先輩だ。相変わらず淡々とした声だったが、忙しい中でも正式な照会の時間を取ってくれたらしい。
『古い荷札のことですね。資料管理室から、書式の説明が必要だと回ってきました。対象の個別記録は、まだ調査中です』
「それで十分です。今、分かっている範囲を教えてください」
ネネは番号と、底面に残っていた二つの枠を説明した。
『《差出》は荷札を付けた部署が使う欄です。《受領》には実際に引き受けた側の確認を残す。届け先の住所欄ではありません』
「えっ。じゃあ、受領の枠を探しても、送り先は分からない?」
『そこに印があれば、どこの部署が受け取ったか調べる手がかりにはなります。ただ、空欄なら受け取られていないと断定できるかというと、そうでもありません』
「記録し忘れた可能性もあるから、ですか」
『それに、札だけ後から付け替えられた可能性もあります。現物が同じ経路を通ったとは限りません』
ネネは自分の手帳に《受領欄=送り先ではない》と大きく書いた。
「では、《最終受領先 記録欠落》という回答は?」
『旧台帳を後の形式へ移した際、受領の照合ができなかったものは同じ表示になります。引き渡しが無かったのか、受領簿が失われたのか、その時点では分けられません』
「……ずいぶん大ざっぱな欄ですね」
『作った人に言ってください。できれば今から三十年ほど前に』
ネネは思わず笑った。
白瀬の説明によると、古い荷札には、受け渡しが済んだあと控えをまとめて回収する仕組みがあったという。登録上の《回収対象》は、その管理札が精算されないまま残っているという意味で、札を付けられた箱を必ず取りに来るという意味ではない。
すでに資料管理室から聞いた内容と矛盾はしなかった。けれど、受領欄が空白だからといって、受取人も存在しなかったとは言えないことがはっきりした。
「原票が見つかったら、どこまで分かりますか?」
『差出側の控えと、当時の受領簿を照合できる可能性があります。残っていれば、ですが』
「こちらで何かできますか?」
『現物の底面を無理に調べ直す必要はありません。最初に確認した図と、その撮影記録を保全してください。古い記録と突き合わせます』
ネネはうなずいた。それから、少し迷って口を開く。
「白瀬さん。前の部署でこういう荷札を見かけた覚えがあって……」
『それを根拠に、箱の正体まで決めないでくださいね』
「まだ何も言ってません!」
『雨宮さんの声で分かります』
「それ、耳の能力より便利じゃないですか」
『残念ながら、私にも嘘は分かりません。ただ、あなたが今、余計な推測を始めそうなことは分かります』
シズがとうとう肩を震わせた。
話を終える前に、白瀬が付け加えた。
『もうひとつ。その箱を今、誰が預かっているかは、旧台帳とは別に記録しておいた方がいいでしょう。持っている人と、受け取る資格のある人は、同じとは限りませんから』
ネネは手帳の端に線を引いた。
実際にそこに置いておく話と、誰のものかという話。昨日から区別していたつもりなのに、改めて言われると、まだ一緒に考えかけていたことが分かる。
「ありがとうございます。助かりました」
『どういたしまして。そちらの仕事はどうですか』
「今朝は宝箱の椅子代について相談されました」
『……前の職場より、少しは落ち着いているようですね』
「どうしてそう思うんですか!」
通信が切れたあと、シズが湯飲みを口元に寄せた。
「いい先輩ね」
「はい。こちらが慌てると、だいたいああいう感じになります」
「じゃあ、今日もよく慌てたわね」
反論しようとしたネネは、手帳の文字を見てやめた。自分でも少し、そう思っていた。
*
朝霧亭では、ハインが荷造りをしていた。
部屋の床には旅道具が並べられ、外套の上に縄と水筒が転がっている。箱のある食堂とは違い、こちらは一目で旅人の部屋だと分かった。
「明日の朝、出るんです。仕事は待ってくれませんから」
ハインは申し訳なさそうに言った。
「箱を置いていくつもりだったわけじゃないんですよ。拾ったときは、普通の箱だと思っていましたし。持ち出しの申告も済ませました。それに、ここまで一緒に来たから……」
言葉の終わりを、彼は曖昧にした。
「分かります。愛着があるんですよね」とネネ。
「……まあ、あります。旅の間、金具が鳴るたびに、ひとりじゃない気がしたんです」
ハインは照れ隠しのように靴を揃えた。
「でも、勝手に連れて歩くなと言われたら、俺にはどうしようもない。だから、どこか受け取ってくれる場所が分かればと思って」
「受け取ってくれる場所が見つかっても、そこに運んでいいかは、また別の確認が必要になります」
「役所って、先が長いなあ」
「私もそう思います」
ネネが真顔で答えると、ハインは意外そうに笑った。
食堂へ降りると、オルガが椅子をひとつ引いて待っていた。件の宝箱は、昨日と同じ椅子の上に載っている。背もたれには《仮置き場所・動かさないこと》と書いた札が結びつけられていた。
「……その札は?」とハイン。
「お客が座ろうとするからね。場所を変えちゃいけないんなら、せめてこれくらいはできるだろう」
「椅子代を請求しないんですか」
「請求書の書き方が分からないもの」
オルガは帳面を差し出した。今日からの保管について、宿の側で考えた条件が書かれている。食堂の端の決まった場所に置くこと。客を近づけないこと。移動が必要になれば、先に保安班へ相談すること。料理は本人が食べるかどうか分からないので、勝手に人数へ加えないこと。
「で、いつまでなら、ここに置けるんでしょう」とハイン。
「三日だね」とオルガ。「その間に話をつけるか、別の安全な場所を相談しておくれ」
「三日で解決する保証はありません」とネネ。
「そりゃ、あたしだって分かってる。でも三日後に何ができるかは、その時に決められるでしょう。最初からいつまでも預かる約束はできないよ」
もっともな話だった。
七草伊織からは、朝霧亭の区画を使った暫定保管を続ける条件について、現場確認を行うと連絡が入っている。安全管理上の適否は、ネネではなく保安班が判断する。それまでネネにできるのは、当事者の希望と困り事を整理し、必要な連絡を漏らさないことだった。
「費用はどうします?」とハインが尋ねる。
「食べてない朝飯の分は取らないよ」とオルガ。「場所を使う分は、あんたと相談して決めよう」
「部屋代二人分なんてことは……」
「言わないってば! あんた、いつまでそれを気にするんだい!」
ハインはようやく肩の力を抜いた。
そこへ保安班の連絡係が来て、当面の安全条件を確認した。箱は無理に開けず、一般客を遠ざけ、状態が変われば連絡する。三日後までに保安担当が再点検し、朝霧亭で預かり続けられるか、別の方法が必要かを改めて判断する。
ネネがそれぞれの合意事項を読み上げると、オルガはうなずき、ハインも署名した。
「これで、行き先が決まったんですか?」とハイン。
「いいえ。でも、行き先が決まるまでの間、どうするかは決まりました」
「……似てるようで違うんですね」
「似てることばかりなんですよ、この仕事」
*
手続きを終えたネネは、食堂の片隅に戻った。
宝箱の蓋は閉じたままだった。今朝も朝食には手をつけていないという。オルガが差し出した少量のパンも、食べる様子はなかったため、長く置かずに片づけたらしい。
ネネは少し離れた場所から声をかけた。
「ハインさんは、明日から仕事で町を離れます。でも、あなたを勝手に連れていくわけではありません。ここで預かってもらえるか、保安班と確認しています」
箱は動かなかった。
「あなたが何なのかは、まだ分かりません。前の記録も調べています。だから今は、決まっていないことを決まったように言わないでおきます」
蓋の合わせ目から、細長い紙の端がのぞいている。昨日見かけたものと同じだった。
ネネは立ち上がって七草からの確認手順を見た。接触せずに観察できる範囲で記録し、何かが落ちても直接拾わず連絡すること。箱の中を覗いたり、紙を引っ張り出したりしないこと。
「それ、昨日もあったんです」とネネがシズへ伝える。
「ええ。今日も手は出さないでおきましょう」
そのとき、厨房からオルガの声が響いた。
「ハインさん! 荷造りの縄、うちの箒に巻きつけていかないでおくれ!」
「違うんです、長さを測ってただけで!」
「箒の長さを測ってどうするんだい!」
ネネが思わずそちらを振り返ったとき、背後で小さな音がした。
紙が床に落ちていた。
シズがすぐに近寄ろうとするネネを止め、オルガに客を離してもらった。保安班の連絡係が、落下した位置と箱の状態を確かめたうえで、薄い紙を透明な保管板に移す。
短冊ほどの大きさしかない紙だった。水に濡れたのか、端が波打っている。誰かが引き裂いたような跡はなく、古い活字と、かすれた手書きの文字が残っていた。
ネネは手渡された記録写真を見た。
《一時預り 控》
《管理番号 ――》
《引渡し先 確認後記入》
管理番号の部分は破れ、読めなかった。裏側には短い手書きの文があるが、写真ではほとんど判別できない。
「……引渡し先が空白」とネネ。
「そうね。でも、これが昔から箱と一緒にあった紙なのかどうかも、まだ分からない」とシズ。
ネネはうなずいた。
箱の底に古い札があり、そこには受領を示す印影が確認できない。今、箱のそばに落ちた紙には、引渡し先を後で書くような欄がある。
同じ仕組みの書類なのか、それとも似ているだけなのか。判断するには、まだ材料が足りない。
けれど、これまでとは違う疑問が生まれていた。
返す相手を探していたのは、箱を管理していた誰かなのか。
あるいは、箱がずっと何かを預かっていたのだろうか。
ハインが食堂の入口から、不安そうに顔をのぞかせた。
「……その紙、俺が拾った箱の持ち主が分かるやつですか?」
「まだ分かりません。でも、確かめる価値はあります」
「持ち主が分かったら、俺はもう連れて歩けないんでしょうか」
ネネは答える前に、箱を見た。
所有者が見つかることと、明日から誰が面倒を見るかは同じ話ではない。まして、この箱が自分のことをどう考えているのかさえ、何も聞き取れていない。
「誰のものかと、誰が預かるかは、分けて考えましょう。少なくとも、今ここで決めることではありません」
ハインは黙ってうなずいた。
その後ろから、オルガが帳面を持って声をかける。
「で、あんた。明日の朝食は一人分でいいんだね?」
「俺の分だけです!」
「箱の分は?」
「それは、本人に聞いてください!」
ネネは思わず笑った。
つい数日前まで「箱なんだから聞いても仕方ない」と言っていた人が、今はちゃんと聞こうとしている。
相変わらず返事の取り方は分からない。届け先だって不明のままだ。それでも、少しずつ、話の進め方は変わっている。
そして、新しく出てきた紙には、まだ誰の名も書かれていない。
明日は、その空白から調べていくことになりそうだった。




