第44話 中身なし、と書いてありますが
朝霧亭の宝箱について、輪廻転生庁から返ってきた回答は、たった二行だった。
《処理区分 回収対象》
《登録内容 中身なし》
その二行のおかげで、雨宮ネネの仕事は昨日よりずっと増えている。
「中身がないなら、何を回収するんでしょうね」
翌朝、ネネがそう漏らすと、織部シズは机に置いた湯飲みを横へ寄せた。
「それを確かめるのが今日の仕事でしょう。先に答えを作らない」
「分かってます。でも、持ち出した迷宮にも『中身なし』って記録があったんですよ。偶然にしては……」
「片方は箱を覗いた結果。もう片方は古い役所の台帳。意味が同じとは限らないわ」
「はい。そこまでは昨日も考えました」
「じゃあ、今日はそこから先ね」
ネネは返事をして、昨夜の連絡記録を開いた。
七草伊織からは、朝霧亭の箱を現状のまま管理し、勝手な開封や移動をしないよう指示が出ている。宿への連絡も済んだ。これまでどおり、一般客を近づけず、異変があれば保安班へ報告する。
ただし、命令だけを送って終わりにはしなかった。箱を移せないことで宿に不都合が生じるなら、その事情も聞き取ることになっている。
「回収対象って書いてあるから、今日にも誰か来るんでしょうか」とネネ。
「回答書には回収日も、担当者も書いてないわね」
「でも、回収って言葉だけ見ると、来そうな気がします」
「気がするだけなら、予定表には書けないわよ」
シズはネネの手元に、新しい照会票を一枚置いた。
《旧管理記録の語義について》
《現物回収の指示の有無について》
「これを分けて聞くの。何を意味する記録なのかと、いま誰かが回収する命令を出しているかは、別の問題だから」
「……本当に、この仕事は『別の問題』だらけですね」
「全部一緒の問題だったら、相談票も一枚で済むのにね」
ネネは苦笑して、輪廻転生庁の資料管理窓口へ照会を送った。
配属先を変わってから、前の職場へ続けて照会を送ることになるとは思わなかった。宛先欄に見慣れた庁名を打ち込んだだけで、古い机の引き出しの匂いや、整理券を取らずに窓口へ押しかけてきた魔王の声まで思い出せる。
けれど今は、懐かしがっている場合ではない。
返事を待つあいだに、現場の状況を確かめておこう。ネネが朝霧亭へ連絡を入れようとしたとき、通信卓が先に鳴った。
『雨宮さん! あの箱、運んでいいんですか!』
旅人ハインの声だった。
「……運ぶって、どこへですか?」
『それが分からないから聞いてるんですよ!』
「分からないものを、もう運ぼうとしてるんですか?」
『荷車が来ちゃったんです!』
ネネは椅子から腰を浮かせた。
*
朝霧亭の前には、車輪の大きな荷車が止まっていた。
荷台には縄と毛布、それから頑丈そうな木枠が積んである。木枠には《精密品・取扱注意》という札が下がっていた。
「……宝箱のために、これを?」
駆けつけたネネが尋ねると、ハインは申し訳なさそうに頷いた。
「昨日、女将から『回収対象らしい』って聞いたんです。だったら、引き取り先へ持っていく準備をしなきゃと思って」
「引き取り先は?」
「まだ教えてもらってません」
「では、運送屋さんには何と頼んだんですか?」
「箱をひとつ運んでほしいって」
荷車の御者が、仕事を引き受けてからずっと気になっていたらしいことを口にした。
「行き先を聞いたら『役所が分かるはず』って。で、積む荷物は箱だと言うから、箱を持ってきたら、箱を入れる箱が要るって話になりまして」
「申し訳ありません」とネネ。
「お姉さんに謝られてもなあ。うちは、もう三つ箱を積んで来ちまったんですよ」
荷台には、確かに大きさの違う木枠が三つ重ねてあった。いちばん小さいものでも、宝箱よりひと回り大きい。
「宝箱を運ぶには、箱が要るんですね」
「中で暴れたら困るでしょう」
「その『中』というのは、どの箱の中ですか?」
「……俺も途中で分からなくなりました」
荷車の周りには、通りがかりの人が二、三人集まり始めていた。朝霧亭の女将オルガが、帳場から出てきて眉を吊り上げる。
「ハインさん! 昨日、勝手に運ばないでって言われたでしょう!」
「だから、まだ積んでません!」
「積んでなければいいってことじゃないよ!」
ネネは言い争いが大きくなる前に、ハインへ向き直った。
「引き取るという指示は、まだ確認できていません。箱を運ぶ準備も、いったん止めてください」
「でも、役所の書類には回収って……」
「昔の記録に、そう書かれていました。今、どこかへ持っていけという命令ではありません」
ハインの顔から力が抜けた。
「……早とちりですか」
「はい。私も最初は、回収する人が来るのかと思いました」
「じゃあ、雨宮さんも?」
「思っただけです。荷車は呼んでません」
御者が小さく笑った。
ハインは頭をかき、すぐに荷車の手配を取り消そうとした。ただし、出張料は払う必要があった。御者が示した額を見て、彼は今朝いちばん大きな声を出した。
「運んでないのに、こんなにかかるんですか!」
「荷車はここまで来たんだからな!」
「運んでないのに!」
ネネは二人のあいだに立った。
「運送の取り決めは当事者同士で確認してください。ただ、私たちの説明が誤解を招いた部分は、記録しておきます」
「役所に払ってもらえるんじゃないんですか?」とハイン。
「そこまで決まっていません!」
オルガが大きく息を吐き、御者に湯を一杯出すと言った。御者は「それはありがたい」と言って荷車の綱をほどいた。
少なくとも、箱を乗せないということだけは決まった。
*
朝霧亭の食堂は、いつもより静かだった。
例の宝箱は、客席から離した椅子の上に置かれている。古びた木の蓋は閉じたままで、金具が時折、かすかに鳴った。
昨日、何も食べなかったという箱の前には、今日は皿が置かれていない。オルガは厨房の戸口から、心配そうにその様子を見ていた。
「食べるか分からないものを毎朝作るのもねえ。食べないと決めつけるのも、気が引けるんだけどさ」
「昨日食べなかった理由も、まだ分かりませんしね」
「体の具合が悪いなら、ちゃんと診てもらわなきゃいけないんじゃないかい?」
オルガは箱を指さすことも、近づこうとすることもしなかった。
「宿に来たお客が朝飯を食べないと、どうしても気になるんだよ。相手が箱だろうがね」
その言葉に、ハインが意外そうな顔をした。
「女将、昨日まではあんなに食事代を気にしてたのに」
「商売だからね。それと心配するのは別だよ」
ネネは、この宿で箱がどんなふうに扱われてきたのかを改めて考えた。邪魔だと言われながら、毎朝小皿が用意される。運び出そうとしては叱られ、食べないと心配される。
なんだか少し、厄介な常連客のようだった。
「今日は、無理に食べさせたり、蓋を開けようとしたりしないでください。生き物なのか魔法道具なのかも分からない以上、状態の確認は専門の人と相談します」
「分かったよ」とオルガ。「朝食を出さないのも、勝手に決めちゃいけないんだろうね」
「……必ず出す義務があるとも言えません。今は記録を取りながら、様子を見ましょう」
ネネは少し離れた椅子に座った。
「あなたについて、昔の役所に記録がありました」
蓋は動かない。
「ただ、まだ何の記録か分かっていません。だから、運んだり開けたりはしません。調べるまで、ここにいてもらっていいか、宿の方とも相談を続けます」
ここにいてもらっていいか。
言ってから、少し変な気がした。相手が人間なら本人に聞けるのに、箱に対しては、こちらが言葉を重ねても返事を解釈できない。
それでも、何も説明せずに周りの者だけで決めるよりはいいと思った。
金具が、一度だけ鳴った。
「今の、分かったってことですか?」とハイン。
「分かりません。いつもと違う音だったか、記録します」
「そこは『はい』にしておけばいいのに」
「その『はい』で運ばれたら、困るでしょう」
ハインは口を閉じた。それから、箱の見える席へ大人しく腰かけた。
ふと、金具の隙間から何か薄いものが見えた。ネネは立ち上がりかけ、すぐに七草との取り決めを思い出して、足を止める。
「……シズさん。あそこ、昨日から何か挟まっていましたか?」
シズが少し離れた位置から目を凝らす。
「薄い紙みたいね。でも、こちらからは触らない方がいいわ」
「はい。見えた場所だけ記録します」
宝箱は何も食べず、何も差し出さなかった。
紙の端も、それ以上は動かなかった。
*
午後、迷宮管理局へ戻ると、輪廻転生庁から追加の回答が来ていた。
ネネはシズと一緒に封を開けた。問い合わせに対応したのは資料管理室で、以前の同僚の名はどこにもない。少しだけ残念なような、それでいいような気がした。
回答は、古い書式の説明から始まっていた。
《「登録内容 中身なし」は、当時、当該管理番号に紐づけられた内容物の登録が存在しなかったことを示す。現物を開封検査した結果を意味しない》
「……やっぱり、違う意味だったんですね」
ネネは椅子の背に身を預けた。
隣町の迷宮では、ハインが拾ったときに箱を覗き、《内容物なし(目視)》と記録されていた。一方、輪廻転生庁の《中身なし》は、台帳上の登録の話だったのだ。
「同じ言葉なのに、片方は目で見て、片方は書類を見てる」とシズ。
「誰かが後からまとめて読んだら、どちらも『何も入ってない箱』だと思いそうですね」
「だから、今日確かめられてよかったわ」
続きには、こう書かれていた。
《「回収対象」は旧管理方式における未精算の管理札に付される表示。現時点での現物回収命令ではない。移送には別途、回収指示番号と受領部署の確認を要する》
「回収するっていうのは、札の扱いのことなんですか?」
「少なくとも『回収対象』という表示だけでは、箱そのものを運ぶ根拠にならない、ということね」
ネネはその違いを、今日の相談記録へ丁寧に書き込んだ。ハインが荷車を呼んでしまった理由も、少し理解できる。二行の記録を見ただけなら、誰だって何かを回収するつもりだと思うだろう。
けれど、ここから先はまた別の疑問が残る。
なぜ、その管理札が隣町の古い迷宮にあった宝箱へ付いていたのか。回収されるべきだったのは札だけなのか、それとも札と一緒に管理されていた何かなのか。
ネネは回答の最後を読んだ。
《当該管理番号の最終受領先 記録欠落》
《原票の保管先について調査中》
「……受領先が分からない?」
「そう書いてあるわね」
「箱の持ち主も分からないし、札の行き先も分からない」
「それに、箱が何なのかも」
ネネは深く息を吐いた。
今日ひとつ分かったことは、《中身なし》が中身を確かめた記録ではなかったということ。
そして、《回収対象》は今すぐ運べという命令ではなかったということ。
これで、少なくとも誰かが思い込みだけで箱を持ち去る理由はなくなった。ハインが呼んだ荷車も、空のまま帰った。御者に支払う額については、昼過ぎになってようやく双方が納得したらしい。
ひと仕事終わった気になりかけたところで、ネネは書類の下にもう一枚、細長い紙が付いていることに気づいた。
旧式の管理番号の複写だった。輪廻転生庁で使われていた荷札の見本らしく、番号の右側に、小さな四角い枠が二つ並んでいる。
ひとつには《差出》、もうひとつには《受領》とあった。
ネネは、朝霧亭の宝箱の底面を写した絵を引き出した。輪廻転生庁からの最初の回答で、読めなかった数字はすでに確認できている。だがその右側にも、擦り傷だと思っていた四角い跡があった。見本の《受領》欄と、ちょうど同じ位置にある。
数字ばかり追っていて、枠そのものを見落としていたのだ。
「シズさん。モルンさんに、昨日の写しをもう一度照らしてもらえますか」
「受領先が分からないから?」
「はい。でも、だからって今すぐ箱をひっくり返すわけにはいきません。最初に見たときの記録が残ってますから」
シズは頷いて、地図室へ連絡を入れた。
ネネは机の上に並ぶ二枚の紙を見比べた。
受領先が、最初から書かれていなかったのか。
それとも、書かれていたものが消えたのか。
問いは二つに絞られた。どちらであっても、いま言えることはひとつだけだ。
「……次は、届け先の確認ですね」
そのとき、隣からシズが尋ねた。
「ところで、雨宮さん。今日はお昼、食べた?」
「……あ」
「朝から空箱の中身ばかり気にしてるけど、自分の中身は?」
「今から入れます!」
ネネは弁当の包みを開けた。
宝箱が朝食を食べなくなった理由は、まだ分からない。
けれど、自分まで空腹になって考え続ける必要はないのだ。
箸を取ったところで、通信卓が短く鳴った。
『雨宮さん。朝霧亭のオルガさんから伝言です。宝箱の前に、今日は一人分だけ夕食を用意していいかって』
ネネは箸を置きかけ、思い直した。
「無理に食べさせないことと、用意することは別です。安全上の確認は七草主任を通して、提供するかは宿と相談してください。それから……」
『それから?』
「私は今からお昼を食べます。折り返しは十分後でお願いします」
シズが、満足そうに湯飲みを持ち上げた。
役所で働いていると、ときどき忘れそうになる。
まず、自分の休憩時間を確保しないと、人の朝食の心配もできないのである。




