第43話 落とし物に前世はありますか
朝霧亭の宝箱が底面の札を見せた翌朝、雨宮ネネの机には三枚の書類が並んでいた。
一枚目は拾得物の照会票。二枚目は迷宮由来品の安全確認依頼。三枚目は、宿泊施設からの相談記録だった。
三枚とも、対象欄には《木製の宝箱一個》と書かれている。
「同じものについて書いているはずなのに、書類ごとに別のものみたいですね」
ネネがつぶやくと、隣の席でお茶を飲んでいた織部シズが顔を上げた。
「拾われたものとして見るか、危ないかもしれないものとして見るか、朝食代で揉めているものとして見るか。担当が違えば、知りたいことも違うでしょうね。ほら、例の廊下だってそうだった」
「でも、全部まとめて宝箱なんです」
「そうね。ただし、宿泊代を決めるために安全確認の結果を待つ必要はないし、安全確認をするために所有者を決める必要もないわ」
ネネは三枚を重ねかけて、思い直して横に並べた。ひとつの事件をひとつの答えで片づけようとすると、無理が出る。第七迷宮の出口問題で、嫌というほど学んだことだった。
「それにしても、本人確認の欄まであるんですね」
「どれ?」
「拾得物のほうです。《申し出た所有者の身元を確認》って」
「ハインさんのことよ。宝箱に身分証を出してもらうわけじゃないから」
「……ちょっと期待しました」
「何を?」
「箱の内側から、身分証が出てくるところを」
シズはお茶を吹きそうになり、湯飲みを机に置いた。
ネネが最初に確かめることにしたのは、旅人ハインが宝箱を持ち出したという隣町の古い迷宮だった。持ち出しを申告したと聞いている以上、そこには少なくとも、いつ、どこで、誰が拾ったかの記録が残っているはずだ。
保安班の七草伊織へ連絡すると、すぐに返事が来た。
『由来を調べるのは構いません。ただし、箱の危険性が判明したわけではありません。宿側には、いまの管理場所を勝手に変えないことと、客を近づけないことを徹底してください』
「はい。追加で食べ物を与えることも止めてもらっています」
『いいですね。……食べ物を与える、で合っていますか』
「現時点では、ほかに適切な言い方が見つからなくて」
『私もです』
通信が切れるまで、二人とも真面目な声だった。
午前中、ネネは迷宮の記録室に移った。地図保守担当のモルンが、仕事用の机いっぱいに台帳を広げて待っている。
「調べておきました! うちの迷宮では、あの形の札は使ってません!」
「ありがとうございます。早いですね」
「念のため、古い規格も見ました。倉庫の在庫表も、廃棄品の一覧も、忘れ物の控えも!」
「忘れ物まで?」
「前に、冒険者が宝箱を忘れていったことがあったので」
「宝箱を、忘れるんですか」
「持ち帰るつもりで入口に置いて、そのまま帰ったみたいです」
「中身は?」
「着替えでした」
ネネは一度うなずいてから、もう一度うなずいた。迷宮で見つかる箱が、必ずしも宝物を入れる箱とは限らない。分かっていたつもりでも、実例を聞くと少し力が抜ける。
モルンは、昨日写し取った底面の印を机の中央へ置いた。擦り切れた幾何学模様と、短い記号に続く数字。数字のいくつかは読み取れるが、一文字だけ、六にも八にも見える部分がある。
「これがうちの備品番号なら、先頭に区画を示す字が入るはずなんです。でも、こっちは違う。別の組織の管理札かもしれません」
「製作者の印という可能性は?」
「あります。箱を作った工房の印か、修理した人の印か。あとは……」
「あと?」
「本当は箱じゃなくて、箱に入っていた何かの番号だったとか」
ネネはその意見を記録した。まだ答えにはならないが、見落としたくない考え方だった。
しばらくして、隣町の迷宮管理所から返信が届いた。
ハインの名義で、確かに持ち出し申告がされている。発見場所は旧鉱道区画の奥、かつて資材置場として使われていた小部屋。箱は壁際に置かれ、当時は蓋が開いていて、中には何も見えなかったという。
《届出品目 木箱一個》
《外観 木製、金具付き》
《内容物 なし(目視)》
《申告者 ハイン》
「中身なし、ですか」
ネネは思わず声に出した。
「空っぽだったって話と合いますね」とモルン。
「はい。でも、書いてあるのは目で見た範囲だけです。今みたいに勝手に動くなんて、まだ知られていなかったんでしょうね」
返信には続きがあった。持ち出しの申告は受理したものの、拾得物の所有権を認めたわけではない。元の持ち主も、設置の経緯も不明。管理所では危険な品として扱う理由をその場で発見できず、詳細な鑑定は実施していなかった。
「申告したから自分のものになった、ということでもないんですね」
「そういうことです。少なくとも、ここの記録からは言えません」
ネネは返信を複写し、保安班へ渡す分と相談記録へ付ける分を分けた。
「それで、宝箱は今どこにあるんですか?」とモルンが尋ねた。
「朝霧亭の食堂です。ほかのお客さんが触らないようにしてもらっています」
「宿ですか。倉庫じゃなくて?」
「倉庫に閉じ込めると、なぜか食堂へ戻ってくるそうで」
「便利ですね!」
「便利かどうかは、まだ分かりません」
「僕の地図も、書いた場所へ勝手に戻ってくれたらいいのになあ」
「まずはご自分でしまってください」
書類の下からはみ出した古い地図を、モルンは慌てて引っ込めた。
昼を過ぎて朝霧亭へ行くと、女将のオルガは帳場で朝食の明細を計算していた。
「いらっしゃい。今日は何人分です?」
「食事ではなく、宝箱のことで来ました」
「だったら一人分ね」
「私を人数に数えないでください」
オルガは悪びれずに笑い、帳面をこちらへ向けた。前日に揉めていた追加の部屋代には、一本の線が引かれている。
「ハインさんと話して、部屋代の上乗せはしないことにしたよ。食べた分だけ別に計算する。なんだかんだ言って、あの人もちゃんと払ってくれたしね」
「それはよかったです」
「ただ、今朝は食べなかったんだよ」
「えっ」
「パンを置いても、誰が食べ始めても、ちっとも動かない。具合でも悪いのかねえ」
ネネは返事に困った。宝箱の体調というものがあるのかどうかも分からない。ただ、昨日まで食べていたからといって、今日も食べる義務があるわけではない。
「無理に食べさせなくて大丈夫です。観察は続けますが、食べなかったことも記録しておきます」
「そうかい。食べないなら朝食代もかからないし、私は助かるけどね」
そう言いながら、オルガは少し気にしているようだった。
食堂の奥には、客席から離して置かれた椅子があり、宝箱がそこに載っていた。周囲には簡単な仕切りが立てられ、近づかないよう頼む札が掲げられている。昨日まで箱の隣に座っていたハインは、その少し離れた席で冷めたお茶を飲んでいた。
「役所の人だ」とハインが言った。「あいつ、今日は朝飯を抜いたんです。昨日、あんなに食べてたのに」
「オルガさんから伺いました。拾った迷宮の記録も確認できましたよ」
ネネは申告内容を説明した。確かに持ち出しの記録はあるが、持ち主が誰かまでは分からないこと。箱の正体や安全性も、引き続き調べる必要があること。
ハインは話を聞くあいだ、何度も箱へ視線を向けた。
「俺が見つけたんだから、俺のものだと思ってました。でも、もし誰かの落とし物だったら、返すのが筋ですよね」
「元の持ち主が分かれば、そういう話し合いも必要になると思います」
「……本人が、ここの宿にいたいって言ったら?」
ネネは彼の顔を見た。冗談で言っているようには見えなかった。
「そのときは、何をどう伝えているのか、ちゃんと確かめる必要があります。蓋が動いたから『はい』、閉じたから『いいえ』と、私たちの都合で決めるわけにはいきません」
「そうですね。昨日も俺、勝手に返事だと思ってました」
「気になるのは分かりますけどね」
ネネは椅子に載った箱を見た。細かな擦り傷のほかは、昨日から変わったところはない。
「私たちは今、あなたが何なのか調べています」
距離を保ったまま、静かに声をかけた。
「勝手にどこかへ運ぶつもりはありません。でも、安全を確かめるために必要なときは、事情を説明します」
箱は動かなかった。
「……分かってるのかどうか、やっぱり分かりませんね」とハイン。
「はい。でも分からないからって、何も言わなくていいことにはならない気がして」
ハインは少し笑った。
「そういうの、役所っぽくないですね」
「今の、褒めてます?」
「褒めてます。たぶん」
そのとき厨房から、オルガの大きな声が飛んだ。
「ハインさん! お昼、食べるなら先に言っておくれ!」
「俺は食べます!」
「箱のほうは!」
「それは分かりません!」
「だったら最初からそう言いな!」
ネネは思わず笑ってしまった。ここにいる誰も、まだ箱のことを知らない。それでも、朝食の数は毎日決めなければならないのだ。
庁舎へ戻ったころ、ネネの机にはモルンからの追加資料が届いていた。金属札の模様を、他の部署が過去に使用した識別印と照合したものだった。
《迷宮設備関連 該当なし》
《地図管理関連 該当なし》
《物品保管関連 該当なし》
欄外に、モルンの手書きが添えられている。
《一部の古い転送札に似た意匠あり。ただし用途不明》
「転送札……」
ネネはその言葉を二度読んだ。魔法で品物を運ぶための札かもしれないし、まったく別の種類の印かもしれない。似ているだけで同じとは限らない。
けれど、記号の端にある小さな欠けを眺めているうちに、ネネは何かを思い出しかけた。
輪廻転生庁にいたころ、手続きの途中で一時的に保管するものに、似た印が付いていなかっただろうか。
申請書でも、受付札でもない。もっと古い、普段は窓口へ出てこない台帳の端に。
「シズさん、少し相談してもいいですか」
シズは手を止めて、ネネの机へ来た。
「この札、以前の職場で見たような気がするんです」
「輪廻転生庁?」
「はい。はっきり覚えているわけじゃないんですけど」
「だったら、正式に照会してみればいいんじゃない?」
「こんな件で、問い合わせていいんでしょうか」
「由来不明の品物を扱っているんだから、関係がありそうなところへ問い合わせる理由はあるわ。関係がなかったら、なかったと返してもらえばいいのよ」
シズは机の上の三枚の書類を指さした。
「ただし、聞くのは札の由来と、扱い上の注意だけ。誰の持ち物かとか、何が入っていたかとか、相手の権限で答えられないことまで一緒に聞かない。照会の目的は狭くしておきなさい」
「分かりました」
ネネは迷宮管理局の名義で照会文を作った。宝箱の発見場所、現在の保管状況、食物を取り込む現象、底面の金属札に記された識別情報。確認できたことと、推測にすぎないことを分けて記した。
最後に《当該識別印の管理主体および取扱上の注意について回答を求める》と書き、シズに確認してもらってから送信した。個人の転生記録を照会するためではない。対象の品を安全に扱うために必要な事項だけを尋ねるのだ。
「ずいぶん慎重な文章ね」
「何度も書き直しました」
「元の職場に問い合わせるの、気まずい?」
「少しだけ。辞めたあとに、宝箱について聞くことになるとは思わなくて」
「私だって思わないわよ」
夕方になっても返信は届かなかった。ネネは通常の窓口業務を片づけ、今日の相談記録へ「由来照会中」と書き加えた。
そこへ、通信卓から連絡が入った。
『輪廻転生庁より、照会への回答が到着しています。取扱注意の指定がありますので、担当者の方で確認してください』
ネネは急いで書類を受け取った。
見覚えのある書式だった。旧式の角ばった欄、文末に並ぶ担当部署の符号。昔は一日に何十枚も見ていたはずなのに、今はどこか遠い国の文書のように思える。
回答には、識別記号と同じ番号が記載されていた。擦れて判別できなかった一文字まで一致している。
《照会番号に該当する旧管理記録あり》
「……番号は一致しています」
思わず言うと、シズが椅子を寄せた。
「どこの記録?」
「管理区分までは書かれていません。詳細は別途確認が必要みたいです」
ネネはその下を読んだ。
短い文字が二行だけ並んでいた。
《処理区分 回収対象》
《登録内容 中身なし》
ネネはしばらく、書類を見つめた。
「また、中身なし……」
「拾った迷宮の記録にも、そう書いてあったわね」
「はい。でも、あちらは箱を覗いて確認した結果です。こっちが何を意味しているのかは、まだ分かりません」
同じ言葉が、まったく違う役所から返ってきた。
中身がないのなら、どうして朝食を食べるのだろう。誰も触れていないのに、どうして蓋を開けるのだろう。そもそも、輪廻転生庁が回収しようとしていたのは、箱なのか、それとも別の何かなのか。
ネネは回答書を裏返さず、もう一度、最初から読み直した。
確かなのは、底面の札と一致する番号が輪廻転生庁の旧管理記録に存在するということだけだった。札が今の箱についた経緯まで、分かったわけではない。
そして、記録の最後には、短い注意書きが添えられていた。
《現物を確認するまで、自己判断による開封・移送を行わないこと》
ネネは通信卓へ向かい、七草に追加の連絡を入れる準備をした。
宝箱の朝食代を調べ始めたはずなのに、仕事は思いがけないところまで来てしまった。
「シズさん」
「何?」
「落とし物って、前世があるんでしょうか」
シズは少し考えてから、机の上の相談票を指で叩いた。
「それを決めるのは、明日でもいいでしょう。今日やるべきことは、ちゃんと書いてあるんだから」
ネネは注意書きへ目を戻した。
確かにそうだった。
分からないことは増えた。でも、今夜、何をしてはいけないかは分かった。
箱の持ち主が誰なのか、箱自身に何があるのか。その答えを急ぐ前に、まずは誰にも勝手に蓋を開けさせない。必要なら保安班と旧管理部署の立会いを求める。
ネネは新しい連絡票を取り出した。
宛先には、保安班と朝霧亭の名前を並べた。
件名を書こうとして、少し迷う。
《宝箱の取扱いについて》
結局、今のところはそれが一番正確だった。




