第42話 お客様、荷物の方はご遠慮ください
宝箱は、蓋を開けたまま動かなくなった。
朝霧亭の食堂には、焼いたパンの香りと、妙な沈黙が漂っていた。椅子の上に置かれた古い木箱を、雨宮ネネも、織部シズも、持ち主を名乗る旅人のハインも見つめている。
「……お話を聞かせてもらえますか」
ネネは先ほどと同じ言葉を、もう一度だけ口にした。
蓋が、かたりと下がった。
「閉じましたね」とネネ。
「閉じたわね」とシズ。
「嫌われましたかね、俺たち」とハイン。
言葉に反応したのか。たまたま支えが外れたのか。まだ何も分からない。ただ、ハインが以前言っていたように、朝食を取り込むために開いたわけではなさそうだった。箱の前に置いたパンは、そのまま小皿に残っている。
「今の、返事じゃないですか?」
ハインが嬉しそうに身を乗り出すと、椅子がぎしりと鳴った。
「近づかないでください。まだ安全が確認できていませんから」
シズは穏やかな声で釘を刺し、食堂の客たちに少し距離を取ってもらった。昨夜のうちに保安班と決めていた通り、箱へ手を入れたり、無理に蓋を開けたりはしない。何か起きれば観察を中止する。
「見ているだけなんて、もどかしいですね」とネネ。
「だからこそ、見落とさずに済むこともあるわ。近づく理由を作るために、勝手に答えを決めないこと」
オルガが厨房から出てきた。
「どうなりました? うちの皿は無事ですか?」
「お皿は無事です」
「それなら、まずはよかった」
ネネは、宿の女将が宝箱より皿の安否を気にすることに驚きかけたが、昨日からの損害を考えれば無理もないと思い直した。
「ひとつ確認させてください。宝箱の蓋が開いた直前、私は何をしていましたか」
「お話を聞かせてください、って言ったでしょう」とハイン。
「その前です」
「朝食を食べようとしていたわね」とシズ。
ネネは記録帳を開いた。パンに手を伸ばす前、自分は何気なく言ったはずだ。
「いただきます、です」
「それが合図なんですか?」
「分かりません。偶然かもしれないので」
口にした途端、箱の金具が小さく鳴った。
四人の視線がそろって動く。
箱は開かなかった。
「ほら、違った」とハイン。
「まだ違うとは決まってません」とネネ。
「じゃあ、何が足りないんです?」
ネネは目の前の冷めかけたパンを見た。さっきは自分も食べようとしていたし、ほかの客も朝食の途中だった。今は誰も食べていない。
「まず、朝食を続けてもいいですか」
オルガが目を丸くした。
「ええ、もちろん。お金は頂いてますから」
調査のために食べるのか、食べたいから調査するのか、ネネ自身にも少し分からなくなってきた。
シズが隣でパンをちぎり、ネネも手元の一切れを口へ運んだ。
「いただきます」
今度はハインが言った。
箱の蓋が、指一本分ほど持ち上がった。
「開いた!」
ハインが声を上げると、蓋はまた閉じた。
「大きな声を出さないでください」とシズ。
「だって、開いたんですよ!」
「その大きな声です」
「すみません!」
謝罪も十分に大きかった。
食堂の奥で、商人風の男が椅子を引いた。
「女将さん、そこの席、何の催しだい? こっちは朝飯を食ってるんだ」
「申し訳ありません。役所の方に見てもらってるところで」
「役所? 宝箱の食事を?」
男は目を細め、しばらく考えてから言った。
「じゃあ、その箱にも領収書が出るのか?」
ネネは、その問いにすぐ答えられなかった。
「食べた分のお代については、お宿との話し合いで……」
「名前は?」
「まだ分かっていません」
「宛名が分からない客の領収書は、出しづらいねえ」
オルガが帳面を持ってきた。
「だから困ってるんですよ。昨日は朝食を二つ用意したのに、宿帳にはハインさんの名前しかない。食事代だけならともかく、あの箱を部屋に置いたままでいいのかも決められない」
「おかみさん、俺の名前で朝食二つと書けば済むじゃないか」とハイン。
「だったら最初からそう言っておくれ!」
「部屋代も二人分だって言ったでしょう!」
「逃げないように、ちょっと多めに言っただけだよ!」
ネネは思わず顔を上げた。
「……オルガさん」
「はい」
「請求額は、きちんと計算しましょうね」
「はい……」
シズが横で小さく咳払いをした。笑いを抑えるときの癖だった。
ひとまずその場では、ハインの朝食とは別に用意した料理の実費を確認し、部屋代は宝箱の扱いが分かるまで追加請求しないことになった。ネネに宿泊料金を裁定する権限はないが、何を請求しているのかを双方が同じ帳面で確かめることはできる。
「一応、確認しますね。宝箱用の寝具は出していない」
「はい」とオルガ。
「お風呂も利用していない」
「はい」
「朝食は食べる」
「食べます」
「宿帳には記名できない」
「そりゃそうですよ」
ネネは書き終えたあと、相談票を見つめた。
人間の宿泊客でも、こんなに細かく生活状況を尋ねることはめったにない。
「私たち、何を調べてるんでしょう」
「それを調べているところよ」とシズは答えた。
そのとき、食堂の入口で子どもの声がした。
「ねえ、お母さん。あの箱、朝ごはん食べるの?」
宿泊客の親子らしかった。母親が慌てて子どもの肩を引いたが、子どもはもう箱を見つけている。
「見てるだけにしようね」
ネネがそう声をかけると、子どもは素直に頷いた。そして自分の小さなパンを持ち上げ、箱に向かって言った。
「いただきます」
今度は誰も騒がなかった。
箱の蓋が静かに開いた。
開いた隙間から何かが伸びることはなかった。それなのに、小皿の上のパンが、ゆっくりと箱の縁へ引き寄せられていく。誰も触れていない。見えない糸で滑らせるように、パンは縁を越え、箱の中へ消えた。
蓋が閉じた。
「食べた……」
ハインが今度は囁いた。
「えらいねえ。こぼしてない」
子どもが褒めると、箱の金具が二度、こつこつと鳴った。
「お返事した!」
子どもは大喜びだった。母親は大慌てで頭を下げ、連れて行こうとする。ネネは慌てて呼び止め、少し離れた場所から協力してくれたことに礼を言った。
「ありがとうございます。でも、次からは私たちが確認します。危険がないか、まだ分かっていないので」
子どもは不満そうに頬を膨らませたが、箱に向かって小さく手を振ってから席に戻った。
箱の蓋が、ほんのわずかに浮いた。
ネネはその動きを記録した。
同じ「いただきます」でも、言葉だけでは動かず、誰かが食事を始めると反応することがある。大きな声や人が近づくことを嫌がるようにも見える。ただし、今の観察だけで、箱に好き嫌いや意思があると断定はできない。
「今のは、どうして子どものときだけ食べたんでしょう」とハイン。
「私たちのときは観察されていると感じたのかもしれないし、たまたま食べる時間だったのかもしれません」
「じゃあ、いただきますは関係ない?」
「関係があるかもしれません。でも、その言葉を百回唱えても、百回食べるとは限りません」
シズが頷いた。
「試すために無理に食べさせるのもやめましょう。私たちの仕事は、芸を仕込むことじゃないもの」
「芸だなんて」とハインが言いかけたところで、オルガが皿を片づけに来た。
「ところで、あのパンの代金なんですけど」
「払います!」
返事だけは、今朝いちばん早かった。
観察を終え、客が食堂を出始めたころ、ネネは保安班へ通信を入れた。七草伊織は報告を聞いたあと、箱を持ち帰って詳しく調べるようなことはせず、当面は人目の届く場所に置き、ほかの客が触らないようにしてほしいと伝えた。
『拾得元の迷宮へも照会してください。どこにあったか、どう持ち出されたか。記録が分かるまでは由来不明品です』
「分かりました。食事をする件は?」
『食事をする件は……現象として記録してください』
「はい」
『それと、勝手に餌を与えないように』
七草は少し間を置いた。
『……今の言い方は訂正します。食物を与えないように』
シズが小さく笑った。
記録帳を片づけると、オルガが厨房から戻ってきた。手には布巾を持っている。
「客が引けたから、下の棚に移してもいいですか。椅子を一脚ふさがれると、掃除がしづらくて」
「動かすなら保安班の確認を取ってからにしましょう」とシズ。
「そうでしたね。すみません」
オルガがそう言った途端、箱が小さく揺れた。
「ほら。また勝手に動く」
椅子の座面で、箱はゆっくりと向きを変えた。食卓の中央に向いていた蓋の金具が、今はネネのほうを向いている。
「何か言いたいのかな」とハイン。
「そう決めつけないでください」とネネ。
そう答えながらも、ネネは妙な気持ちになった。昔、人間だった頃、役所の窓口で長い説明を続けていると、目の前の人が黙ったまま机の端を見つめることがあった。聞いていないのかと思って言葉を重ねると、ますます顔を上げなくなる。
説明が足りないのではなく、こちらが答えを急がせすぎていることもあった。
「今日はもう、食べなくていいですよ」
ネネは箱と目の高さを合わせず、少し距離を置いたまま言った。
「知りたいことはありますけど、今すぐ全部答えてもらわなくても大丈夫です」
金具の鳴る音が、止まった。
オルガが首をかしげる。
「本当に、話が分かるんですかねえ」
「分かりません。ただ、こちらが何をしたらどう動いたかは、できるだけ正確に残したいんです」
そこへハインが、ふと思い出したように言った。
「そういや、最初に拾ったときは、もっと軽かったんですよ」
「食べたから重くなったんですか?」とオルガ。
「いや、食べる前からかな。馬車に積んだとき、妙に重く感じて」
「ハインさん、昨日は空っぽだと言ってましたよね」
「中は空でしたよ。開けて確かめました。でも、それって外から見ただけで」
ネネは箱へ視線を戻した。古びた板に擦り傷が走り、四隅を補強する金具には、ところどころ磨かれた跡がある。
「拾ったとき、底は見ましたか」
「底? いや。泥だらけだったから」
「今は、オルガさんが拭いてくださったんですよね」
「上と横だけね。ひっくり返したら蓋が開きそうだったし、底は見てないよ」
シズがネネの意図に気づいた。
「裏側に印がある可能性ね。ただし、裏返して調べるのは危ないわ。保安班に相談してから」
「はい」
ネネが諦めて記録帳を閉じようとした、そのときだった。
ことん、と木の当たる音がした。
箱が椅子の上でわずかに傾き、片方の底の縁を持ち上げていた。
隙間ができたのは、ほんの指二本分ほど。下から覗こうとすれば近づかなくてはならない。シズが制止するより早く、ネネはその場にしゃがみかけ、すぐに思い直して姿勢を戻した。
「触りません。離れて見ます」
シズが手持ちの鏡を使い、距離を保ったまま椅子の下から底面を映した。光の角度を変えると、木板の裏に小さな金属札が埋め込まれているのが見える。
「何か書いてある」
ネネは記録帳の余白を開き、シズが読み上げる文字を書き取った。
幾何学模様のような印がひとつ。その下に、短い記号と数字が並んでいる。擦れて読めない部分もあったが、拾得元の迷宮で使っている地図番号や備品の印とは、形が違った。
「これ、製作者の銘でしょうか」
「かもしれない。でも、今ここで決めることじゃないわね」
鏡の中で、箱の蓋が一度だけ上がった。
ネネは何も尋ねていない。
食堂にも、もう朝食を食べている人はいない。
なのに箱は、まるで金属札を見せるのを待っていたかのように、しばらく傾いた姿勢を保っていた。
記号を写し終えると、箱はゆっくりと元の位置へ戻った。
「……協力してくれたのかな」とハイン。
「だとしたら、ありがたいですね」
ネネは今度だけ、否定しなかった。
庁舎に戻る道すがら、シズが記録帳を覗き込んだ。
「明日は、どこから調べる?」
「まず持ち出しの申告先です。それから、あの記号を照会します」
「宿泊料金の件は?」
「別件として、当事者同士で確認を続けてもらいます」
「うまく分けられたじゃない」
ネネは少し得意になりかけたが、すぐに思い直した。
「でも私、宝箱に名前があるかどうかも聞いてないんです」
「聞いたら答えられるの?」
「そこから考えないといけませんね」
記録帳の一番下には、《朝食一食分を摂取》と書いてある。
その隣に、ネネは新しい項目を加えた。
《底面に識別札あり。由来未確認。現物へ無断で触れないこと》
食べることは分かった。たぶん、こちらの様子を見ていることも。
では、あの箱はいったい何なのか。
次に調べるべきなのは、朝食代ではなく、その問いだった。




