第41話 朝食は一名様分です
開庁間もない窓口で、雨宮ネネは一番の相談票に日付を書き込んだ。待合席には、迷宮の入口を尋ねてきた旅人が座っている。くしゃくしゃの観光案内は膝の上、その脇にはさっき渡した番号札があった。
昨日は迷宮の通行許可について説明する資料を配っていた。それなのに今日は、宝箱の食事代を聞き取ろうとしている。役所の仕事は、廊下をひとつ開けたくらいでは落ち着かないようだ。
「一番の方、どうぞ」
雨宮ネネが呼ぶと、旅人は勢いよく立ち上がった。
「一番! 俺です!」
「はい。先ほどの宝箱のお話ですね」
「そうなんです。あの、宝箱が朝飯を食べるんですよ」
「そこまでは伺いました」
「しかも、宿の女将が二人分払えって言うんです」
ネネは相談票を自分の正面に置いた。平和になったと喜んでいいのか、まだ判断がつかなかった。
「まず、お名前をお願いします」
「ハインです。仕事で各地を回るついでに、迷宮にも入っています」
「宝箱を見つけたのは第七迷宮ですか?」
「いや、隣町の古い迷宮です。四日前に拾って、二日前にこの町に着きました」
「なるほど。こちらの迷宮は初めてなんですね」
「入口にもたどり着けてませんからね」
それは確かに、初めてだった。
「宝箱が食事をしたところを、ご自身でご覧になりましたか?」
「見ました。焼きたてのパンを、ぱくっと」
「蓋が開いて、中に入ったということですか?」
「ええ。あいつ、食べるときだけやたら素早いんです」
「ほかの物も入れられるんでしょうか」
「硬貨を入れようとしたら、蓋を閉められました」
「……宝箱なのに?」
「俺もそう思いましたよ」
ネネは相談票の《対象物の用途》という欄を見つめた。宝箱の用途を聞いているはずなのに、いきなり難問になっている。
「お話を整理します。ハインさんは、宿で朝食一名分を申し込んだ。ところが宝箱も食べるので、追加の料理を出してもらった。その代金を請求されている、と」
「料理の分なら払いますよ。腹に入ったんだから。でも女将が、宝箱も宿泊客だって言うんです」
「宿泊客ですか」
「部屋代まで二人分にすると言い出して」
窓口の後ろで、織部シズが書類から顔を上げた。
「宝箱は、ベッドを使ったの?」
「いや、床に置いてました」
「風呂は?」
「入りません」
「宿帳に名前は?」
「書けるわけないでしょう!」
ハインの声に、待合の人たちが振り向いた。ネネは慌てて声を落とすよう促した。
「では、宿泊客として数える理由を宿の方にも確認する必要がありますね」
「よかった。役所の人なら分かってくれると思ってました」
「いえ、まだ何も決まっていません」
「えっ」
「それから、宿泊料金をこちらで決めることもできません。迷宮由来の物が安全か、どう扱うべきかについては確認できますが、宿との料金の約束は別の話です」
期待に満ちていたハインの顔が、少しだけしぼんだ。
「じゃあ、何のために相談したんですかね、俺」
「少なくとも、宝箱が何なのかを調べるためです」
そう言ったところで、待合の入口から威勢のいい声が飛んできた。
「その男、ここにいますか!」
振り向くと、大柄な女性が腕まくりをしたまま立っていた。腰には宿の鍵束、手には厚い帳面。いかにも商売をしている人の顔である。
「あっ、女将」
「探したよ、ハインさん。朝食が終わった途端にいなくなるから!」
「逃げたんじゃない、迷宮を探してたんです」
「昨日も迷宮を探して夕飯に遅れたでしょう!」
「道が分かりにくいんですよ!」
ネネは昨日改訂されたばかりの案内図を、そっと机の端へ寄せた。迷宮の道案内についてだけは、今は反論できない。
女性はカウンターの前に立ち、深々と頭を下げた。
「朝霧亭をやっております、オルガと申します。お騒がせしてすみません。うちの宿で、ちょっと困ったことになりまして」
「今、ハインさんから事情を伺っていました。オルガさんは、宝箱を宿泊客として扱いたいんですね」
「いえ、最初は荷物だと思ってましたよ。でも、今朝はほかのお客様のパンまで食べようとしたんです」
「それは困りますね」
「それに、鍵を掛けた物置へ移したら、いつの間にか食堂の椅子の下に戻ってまして」
ネネのペンが止まった。
「……歩くんですか?」
「私は見てません。でも動いたのは確かです」
「いや、運んだのは俺かもしれないですよ」とハインが口を挟んだ。「夜中に眠くて、よく覚えてなくて」
「そういうところが信用ならないって言ってるんです!」
二人の言い分がぶつかり始める前に、ネネは机を軽く叩いた。
「分かりました。食事代と部屋代については、まずお二人で明細を確認してください。宝箱のほうは、こちらで現物を見ないと判断できません」
オルガが腕を組む。
「見てもらえるんですか?」
「はい。ただ、勝手に開けたり壊したりはしません。危険がないか、動く条件があるかを確認します」
「お願いします。あの箱、気味は悪いんですが……」
そこでオルガは、なぜか言いよどんだ。
「何か?」
「食べ方だけは、妙に行儀がいいんですよ」
ハインが勢いよく頷いた。
「そう! 俺のほうが女将に行儀が悪いって叱られました!」
「ハインさんは食事中、剣の手入れをするからです!」
「さすがに刃は抜いてない!」
「鞘に入っていればいいってもんじゃありません!」
ネネは、宝箱のほうが宿の決まりを守っている可能性について、相談票には書かないことにした。
昼過ぎ、ネネとシズは朝霧亭へ向かった。
宿は迷宮へ続く街道沿いにあり、出入口の脇には旅人の泥を落とすためのブラシが並べられていた。壁には新しい第七迷宮の案内図が貼られている。その隣には《客室内での武器の手入れ禁止》という札も増えていた。こちらは、つい先ほど決められたらしい。
「ハインさん、余計な仕事を増やしてますね」
「店側にも言い分があるってことよ。さて、問題の宝箱は?」
オルガに案内されて食堂へ入ると、窓際のテーブルの下に、木製の箱が置かれていた。幅はネネの両腕に収まるほど。古びた金具と、角の擦り切れた木板には長い年月が感じられるが、妙に手入れが行き届いている。蓋の中央には小さな鳥のような模様が彫られていた。
「これです」
ハインが得意げに箱を指さした。
「迷宮で見つけたときは、もっと埃だらけだったんですけどね。宿に着いたら女将が拭いてくれて」
「食卓に上がるなら汚いままじゃ困りますから」とオルガ。
「食卓に上げてるんですか?」
「朝だけですよ。床に置いておいたら、なぜか椅子の上にいるんです」
「……ご自分で移動するところは?」
「見てません」
ネネは箱から少し距離を取ってしゃがみこんだ。蓋は固く閉じられ、金具にも動いた形跡はない。生き物らしい息遣いも、魔法道具にありがちな光も音も見当たらなかった。
「普通の箱に見えますね」
「でしょう?」とハイン。「だから昨日も背負って歩いてたんです」
「見た目で安全だと決めないで」とシズが言う。「迷宮の中から持ってきたものなら、まず触れずに様子を確かめましょう」
ネネは頷き、オルガに尋ねた。
「食事をするのは朝だけですか?」
「今のところ、そうです。夕食では何も起きません」
「何時ごろ?」
「朝食を出して、しばらくしてから。私が台所へ戻る間に食べることもあれば、目の前で食べることもあります」
「食べるのはパンだけですか?」
「パンも卵も。今朝は林檎まで」
「ずいぶん健康的ですね」とネネがつぶやく。
「うちの朝食は栄養の釣り合いを考えてますから」とオルガは胸を張った。
「宝箱の栄養については、まだ分かりませんけど」
シズは苦笑しながら、箱の周囲を見た。
「昨日の朝も、同じ場所?」
「昨日はそちらの席でした。旅のお客様が隣に座られてね。パンをひとつ持っていかれても怒らずに、分けてあげていたんです」
「その方は何と?」
「『家でも犬にご飯を狙われるんだ』って」
「宝箱は犬じゃありませんよ」とハイン。
「犬なら宿泊規則に書いてあるんだけどねえ」
オルガは心底困った顔をした。朝霧亭の宿泊規則には、動物を連れ込む場合の届け出がある。魔法道具についての条項もある。ただ、食事をする宝箱には、どちらもぴったり当てはまらなかった。
「だからお役所へ来たんです。宿に置いていい物なのか、誰に責任があるのか、はっきりさせたくて」
「宿泊料金を増やすためじゃなかったんですね」
「増やせるなら増やしたいですよ。朝食を二つ作ってるんですから。でも、払ってもらえば何でも泊めていいってことにもなりませんでしょう」
さきほどは怒鳴り合っていた二人にも、それぞれ事情がある。ネネは相談票を挟んだ板に、宿側の心配を追加した。
その間、宝箱は少しも動かなかった。
「ハインさん、これはどうやって持ち出したんですか」
「迷宮の奥で見つけて、空っぽだったから拾ったんです。蓋は開いてました。最初は何を入れてもよかったんですよ」
「今は?」
「開けようとしても開かない。なのに朝飯になると自分で開く。都合のいい箱ですよ」
「持ち帰った場所と経路は覚えていますか?」
「だいたいなら。あそこの迷宮には管理人がいて、持ち出しの申告もしました」
「では、申告先も確認しましょう。拾った場所の記録が必要になるかもしれません」
ネネがそう言うと、ハインは急に不安そうな顔をした。
「取り上げられるんですか?」
「まだ決まっていません。所有者の分からない品物でもありますから、確認は必要です」
「いや、俺は別に、宝物として高く売りたいわけじゃないんですよ。ただ、持って帰ってくる途中で、ちょっと愛着が湧いたというか。箱の方も、道中は馬車の揺れに合わせて金具を鳴らしてたんです」
ハインは箱を見下ろし、気恥ずかしそうに顎をかいた。
「馬車で揺れると金具が鳴るでしょう。あれを聞きながら一人で旅をしていると、誰か連れてる気になって」
「だったら朝食ぐらい、気持ちよく払っておくれよ」とオルガ。
「だから食った分は払うって言ってるでしょう!」
やっぱり話は戻ってしまう。
ネネは、笑いかけてから口元を引き締めた。
「今のところ、こちらでは箱が動いたところも食事をしたところも確認できていません。宿泊客かどうかも、すぐには判断できないです。明日の朝食時に、もう一度立ち会ってもいいですか?」
「もちろんです」とオルガ。「ただし、朝食代はいただきますよ」
「職員二名分ですね」とシズ。
「はい。お二人には、ちゃんとしたお席を用意します」
ネネは胸を撫で下ろした。少なくとも、自分たちまで箱と同じ分類に入れられる心配はなさそうだ。
その日のうちに、シズは保安班へ状況を報告した。簡易確認では、外から触れただけで危険になるような兆候は見つからなかったが、安全が確認されたわけではない。翌朝の立会いは箱に手を出さず、ほかの客を近づけない条件で行うことになった。
翌朝、二人は朝食の提供が始まる前の朝霧亭に到着した。
食堂には焼きたてのパンの香りが満ち、厨房から皿の触れ合う音が聞こえてくる。宿泊客が三々五々集まり、眠そうな顔で席につき始めていた。
オルガは客席から少し離れた窓際に、一つ、余分な椅子を用意していた。その上に、例の宝箱がちょこんと載っている。
「昨夜、また床に置いておいたんですけどね。朝になったら、もうここに」
「ほかに動かした方は?」
「確認しましたが、誰も触っていないそうです」
ネネは宝箱から少し離れた席に座り、記録帳を開いた。シズは出口と窓の位置を確かめてから、隣に腰を下ろす。もし箱が急に跳ねたり、人に飛びかかったりしたら、観察を中止して客を遠ざける手はずだった。
ハインが食堂へ入ってきたのは、そのときだった。
「おはよう。おっ、もう席を取ってもらったのか」
彼は当然のように、宝箱の隣へ座ろうとした。
「ハインさん」とネネが呼び止める。「今朝は私たちのそばにいてください。いつもと違う状況にしたくないので、朝食が始まったら普段どおりにお願いします」
「分かりました。何もしなければいいんですね」
「そうです」
「それが一番難しいんですけどね、俺」
オルガが聞こえるように咳払いをした。ハインは大人しく座った。
盆に載せられた料理が運ばれてくる。丸いパン、卵、温かいスープ、薄く切った果物。宝箱の前にも小皿が置かれ、パンが一つ載せられた。
「これは店からです」とオルガ。「今日は検査なんでしょう。あとで請求するのも面倒だから」
「ありがとうございます」とネネ。
「ただし、うちの皿まで食べたら話は別です」
ネネはその注意を記録帳に書くべきか、一瞬迷った。
客たちが食べ始めても、箱は動かなかった。パンから湯気が消え、スープの表面に薄い膜が張りかけても、蓋は閉じたままだ。
「ほら、見られてると食べないんですよ」とハインが小声で言う。
「昨日は目の前でも食べたと聞きましたけど」
「そのときは、誰も気にしてなかったから」
「気にしているかどうか、分かるんですか?」
「いや、俺には分かりません。そうだと嬉しいだけで」
しばらくして、オルガがパンのおかわりを持ってきた。
「お二人も、冷めないうちにどうぞ。朝食代は払ってもらってるんですから」
ネネは時計と宝箱を交互に見つめていたが、シズに肘をつつかれ、ようやく自分の皿へ向き直った。仕事中の食事というのは落ち着かない。それでも、せっかく用意してもらったパンを無駄にするわけにはいかなかった。
「いただきます」
何気なく言って、パンに手を伸ばした。
かたり、と小さな音がした。
ネネは顔を上げる。ハインもオルガも、今は何も触っていない。椅子の上の宝箱だけが、先ほどよりわずかに傾いていた。
「……今、動きました?」
返事をする者はいなかった。
古い金具が一度、低く鳴った。まるで長い間使われていなかった扉が、ゆっくりと力を取り戻していくような音だった。
ネネは立ち上がりかけたが、シズが小さく手を上げて制した。二人の視線の先で、宝箱の蓋が持ち上がる。
中からパンを取ろうとしているわけではなかった。小皿に載せた朝食には、まだ触れていない。
蓋はネネのほうへ向けて、少しだけ開いた。
そこに何が入っているのか、席からは見えない。
「……私に?」
思わず問いかけると、箱の蓋がもう一度、かたりと動いた。
朝食を食べるだけの荷物だと思っていたものが、こちらの言葉を待っている。
ネネは手元の記録帳を閉じた。
「お話を、聞かせてもらえますか」
宝箱は、今度ははっきりと、蓋を開けた。




