第40話 出口はこちら。苦情はあちら
現地試験が始まって六日目の朝も、朝礼は定刻どおりだった。
雨宮ネネは、迷宮管理局の掲示板に貼られた勤務予定を眺めていた。
《第七迷宮 限定経路の最終試験と通行再開に伴う現地連絡》
《担当 保安班・設備班・地図保守・現地相談調整係》
「……今日、最終の試験なんですね」
隣に立つ織部シズが、いつもの調子で答えた。
「試験に通ればね。開けるのは検査に通った経路だけ。ほかは、まだ閉鎖のままよ」
「分かってます。でも、少し不思議です」
「何が?」
「第七迷宮に来てから、出口が開かない話ばかりしていたので」
ネネは、着任した日のことを思い出した。
十一人が迷宮に取り残され、地図には立派な出口が描かれているのに、誰もそこへたどり着けなかった。
あれから、迷宮管理局ではいくつものことが分かった。
工事が終わっても、通路が安全とは限らないこと。見張り員が配置されても、検査をしたことにはならないこと。使ったのが経路の番号だけなのに、出口を使用した記録に見えてしまうこと。
ひとつずつ言葉の意味を確かめるだけで、予想以上に時間がかかった。
「ここまで来たら、何も起きないでほしいです」とネネ。
「それが一番ね。何も起きなかった、という結果にも、調べた記録が要るけど」
「何も起きなかったことを証明するのって、大変なんですね」
「そのわりに、顔が嬉しそうね」
シズはネネの耳をちらりと見た。
耳は、隠そうとしても正直だ。今日は朝から、少し上を向いたままだった。
*
第七迷宮の通常出口へ至る経路は、この六日間、区画を分けて調べてきた。初日に見つかった継ぎ目の段差は設備班が調整し、翌々日には閉鎖扉の予備動力が途中で途切れて試験を中断した。直し終えたから合格、とはならず、手順を最初からやり直した。
可動区画の固定装置を作動させた状態で床へ荷重をかけ、継ぎ目に危険な段差が生じないか調べる。閉鎖扉の動作を確かめ、停電時には人をどこへ誘導するかを、保安員が実際に歩いて検証する。古い矢印は撤去され、新しい標識が現地の通路と一致していることも確認した。
問題が出た区画は、そのたびに検査から外された。
今日、試験を行うのは、固定された安全経路と通常出口を結ぶ限定的な見学経路だけだ。可動区画のうち、自由に動かす運用は引き続き停止している。
「それじゃ、最終の立会い試験を始めます」
七草伊織が言い、保安員たちが所定の位置へ散った。
ネネとシズは退出側の連絡卓で、案内が分かりやすいかを確認する。現場を歩くのは、保安班の試験員と、手順を知った立会人だけだった。
モルンは修正版の図面を胸に抱えている。
「最新版は、一枚です!」
「いまのところね」とシズ。
「そんな言い方しないでくださいよ。今回は、現地で確認できた経路にしか線を引いてませんから」
モルンは誇らしげに図面を開いた。
角を押さえるための重石まで持参している。地図に巻き込まれないための知恵らしい。
「準備がいいですね」とネネ。
「前回は三枚重ねたら、階段で自分の足元が見えなくなったので」
「その経験を、地図の改善にも生かしてください」
通信卓の向こうから、試験員の声が聞こえた。
『第一確認地点、標識と現地経路が一致。通行に支障なし』
七草が復唱し、記録係が時刻を記入する。
『第二確認地点、閉鎖区画への扉を確認。施錠状態正常』
ネネは、矢印の先にある扉を見た。閉鎖区画への案内には、以前のような金色の「こちら」ではなく、赤く《通行禁止》と書かれている。
誰も首をかしげずに通り過ぎた。
それだけのことに、少し感動してしまった。
『通常出口へ到達。扉作動正常。退出人数、二名』
出口の向こうに試験員が二人現れた。七草は人数を照合し、彼らの健康状態と通過経路を確認する。
「二名、確認。別経路への逸脱なし」
ネネは手元の帳票を見た。
人数も、時刻も、通った場所も書いてある。
今回の《使用済》には、ちゃんと人間がいる。
「……本当に、通りましたね」
ネネがつぶやくと、シズが隣で小さく頷いた。
「まだ試験結果の正式な確認があるわよ」
「はい。でも、ここまで来たことくらいは喜ばせてください」
*
試験が終わっても、七草はすぐに扉を開かなかった。設備班の測定値、現場の署名、地図上の矢印、非常時の誘導先。その照合が済んでから、ようやく通行許可の書類に印を押した。ネネはその時間を、もどかしいとは思わなかった。
保安班の記録確認と責任者の承認を経て、昼前に一部区画の通行許可が出た。
許可の対象は、検査を終えた固定経路から通常出口へ抜ける限定の見学ルートのみ。それ以外の区画は閉鎖を継続し、利用時間と定員も当面は絞る。
運営側の三科統括は、再開を知らせる掲示の前で、報道担当と町の関係者へ説明した。
「これまでの集計では、工事完了や経路番号の登録が、実際の通行許可と混同されていました。今後は現地試験の原記録と保安側の許可を確認しない限り、供用可能として表示しません。旧報告の訂正と、混同を見逃した手続きの調査も進めています」
途中、商店の主人から声が飛んだ。
「結局、全部開くのはいつなんです?」
「残る区画の検査結果によります。日付だけを先にお約束することはできません」
前なら「間もなく」と答えたかもしれない。三科はそう言わず、検査予定の掲示場所と次回の説明日を示した。
ネネは後ろで資料を配った。
町に暮らす人たちには、正確な答えだけでなく、予定を立てるための情報が必要だ。運送組合のハルカは、迂回路の案内を確認すると、配達票に新しい経路を書き込んでいた。
「今度は、線があるからって通ったりしませんよ」
「よろしくお願いします」
「通っていい線だけ太くしてもらえると助かります」
モルンがすかさず手を上げた。
「もう太くしました!」
「よし。じゃあ今度は見落としませんね」
ネネが笑うと、ハルカも笑った。
その向こうで、リゼが小さな封筒を振ってみせた。
「見張りの危険手当、再計算の結果が出たよ。支給日も書いてある」
「よかったです。内容は大丈夫でしたか?」
「勤務日を一日取り違えてたから、そこは直してもらった。今度は確認する人の名前もあるし、ちゃんと話ができたよ」
まだ支給日を待つ必要はある。それでもリゼの顔は、初めて窓口へ来たときより明るかった。
「次は、現場が危なくなる前に相談に来てくださいね」とネネ。
「そうする。あんたのところ、相談すると書類は増えるけど、話は進むから」
「褒め言葉として受け取ります」
リゼは笑い、保安員に呼ばれて持ち場へ戻った。
*
再開初日の午後、窓口には思いがけず静かな時間があった。
ゴブリン勤務者組合からは、改訂された休憩表が届いた。昼の休憩時間には訓練の出現予定を入れず、交代のための連絡方法も定められている。
グリグが確認印を押した欄の横には、ノッコの字で小さく《昼飯は食べ終わってから》と書いてあった。
「これ、備考欄に残していいんですか」とネネ。
「実際に必要な注意事項なら、いいんじゃない?」とシズ。
「必要なんですね……」
訓練棟のポコについても、生体管理担当から連絡があった。本人に手順を説明したうえで検査を行い、休養日を設ける新しい勤務計画に切り替えたという。訓練棟は迷宮本体とは別の施設なので、稼働する日も別途安全確認をして決める。
《停止札は入場口に設置。ポコの口元には近づけないこと》
最後の注意書きを見て、ネネはひとりで笑った。
ポコはもう、停止札を食べないだろうか。
それは分からない。それでも、次に食べられたとき何を確かめればいいか、今は分かる。
広報課からは、凱斗の星ひとつの口コミが正式に再公開されたという知らせも来ていた。隣には、保安班が確認した通行可能範囲と、閉鎖中の区域を案内する情報が掲載されている。
星は、ひとつのままだ。
シズがそれを見て言った。
「満足度は、あまり上がらなさそうね」
「出口の数は、ちゃんと増えましたよ」
「確かに、そっちの方が大事ね」
そのとき、三科統括の室から新しい連絡が来た。今回の訂正で、隣接する別の迷宮でも同じ集計書式が使われていたと分かったのだという。保安班は現地の記録を順に照会することになった。今日開いた道が、明日ほかの道まで安全にしてくれるわけではない。
「また書類が増えましたね」とネネ。
「仕事も増えたわ。でも、増やしたのは私たちじゃないでしょう」とシズ。
ネネは窓口の書類を揃えた。
苦情をなかったことにしない。事故が起きなかったからといって、見張った人の仕事まで消さない。正しく閉鎖した区画を、開いたことにしない。
どれも、言われてみれば当然のことだった。
けれど、その当然を毎日続けるには、誰か一人が頑張るだけでは足りない。
保安班も、地図係も、広報も、経理も、運営側も。それぞれの仕事をそれぞれが引き受け、違う部署へ必要な情報を渡す。
そんな面倒なやり方の方が、案外、近道なのかもしれない。
*
閉庁後、ネネは庁舎の外で天城凱斗と会った。
凱斗は剣を背負い、紙袋を片手に持っていた。保安班の試験に立ち会ったあと、帰りに焼き菓子を買ったらしい。
「今日、開いたんだな」
「開いたのは一つの経路だけだよ。可動区画のほうは、まだ止めたまま」
「うん。でも、あのときは出口があるのかも分からなかったからな」
凱斗は紙袋を差し出した。ネネが受け取ろうとして、一度手を止める。
「これ、みんなへの差し入れ?」
「……ネネに。仕事が終わってから渡したかった」
「ありがとう。そういうのは、先に言ってくれた方が助かる」
「たしかに」
包みはまだ温かかった。ネネは袋の口を覗き、菓子が二つ入っているのを見つけた。
「二つあるけど」
「一つは俺の分。よかったら一緒に食べようと思って」
「食べるかどうかまで聞いてくれたら満点だったね」
「……食べる?」
「今日は食べる」
夕暮れの橋のたもとに、ちょうど空いた腰掛けがあった。ネネは尻尾を挟まないよう端に座り、凱斗は隣に十分な間を空けた。こんなふうに並んだのは、いつ以来だろう。以前の彼の隣には当然のように座っていたのに、今は自分の位置を一度確かめてしまう。
「この町で、もう少し護衛を続けることにした」と凱斗が言った。「別の迷宮からも話は来てるけど、決める前に今の依頼を終わらせたい」
「それ、誰かに相談した?」
「依頼元と、仲間には。ネネにはまだ言ってなかった」
「そうなんだ」
ネネは菓子の紙を剥いた。生前の凱斗は、大事な転職の話も決めてから持ってきた。自分は嫌な顔をしないことばかり考えて、行ってほしくないとも、ついていくつもりはないとも言えなかった。今こうして昔の癖を思い出せるのは、相手を責めたいからとは限らない。
「……前は、そういう話を聞いても、私、ちゃんと答えなかったね」
「俺も、聞き方が雑だったと思う」
凱斗は菓子を持ったまま、しばらく黙った。
「休みが合ったら、前のこと、もう少し話さないか。仕事場じゃないところで」
「……うん。休みを確認してから返事する。今はそれでいい?」
「それでいい」
ネネは自分が何を望んでいるか、まだ言葉にできなかった。凱斗に会えて嬉しかったことと、昔のような関係に戻りたいかどうかは、同じではない。彼は続きを急かさず、最後のひと口を食べた。
「ところで、ここの菓子屋は誰に教わったの?」
「地図に載ってた」
「最新版?」
「店の人に場所を確認した」
「……成長したね」
「また子ども扱いする」
二人で笑ってから、橋を渡った。道は一つではない。今日は、自分で通る方を選んだ。
*
翌朝、雨宮ネネはいつもの椅子に座った。
尻尾を通す切れ込みのある事務椅子には、もうすっかり慣れた。未検査区画の停止継続を知らせる七草の連絡票を机の左側へ置き、右側には新しく配布する案内図を積む。
「いつもより静かですね」とネネ。
「まだ開庁前だもの」とシズ。
モルンが最新版の地図を一枚だけ抱えて通り過ぎた。真っすぐ進んでいたのに、廊下の角で紙の端が引っかかり、彼は一瞬だけ後ろ歩きになった。
「……本当に、静かでしょうか」
「あなたが見慣れただけじゃない?」
開庁の鐘が鳴ると、旅装の中年男性が大きな鞄を揺らして飛び込んできた。
「すみません! 第七迷宮の入口が見つからないんです!」
ネネが新しい案内図を開くと、男はくしゃくしゃになった古い観光案内を差し出した。確かに矢印の位置が違う。ネネは赤い閉鎖表示と、いま使える入口の位置を示した。
「これで行けるんですね。助かりました。出口が開いたって聞いたから、入口も分かりやすくなったと思ったのに」
「入口と出口は別の場所ですからね。ほかにも、お困りのことはありますか?」
「ああ、それで思い出したんです。泊まってる宿で、宝箱が朝飯を食べてるんですよ」
ネネは指を止めた。
「……宝箱が?」
「はい。俺が持ってきた箱です。宿の女将が、二人分の朝食代を払えって」
シズが湯飲みを置き、顔を上げた。
「それは、入口とは別のご相談ね」
「ですよね」とネネ。「まず一件ずつ伺います。こちらの番号札をどうぞ」
男は素直に札を受け取って、待合席へ向かった。
ネネは空の相談票を一枚引き出しから出した。閉じた廊下の調査はまだ続いている。今朝は出口より先に、箱の入口を調べることになりそうだ。
「……食べたものは、どこへ行くんでしょうね」
「それも、話を聞いてから」とシズ。
ネネはペンの先を整えた。番号を呼ぶ時刻になった。




