第39話 使っていない出口に、使用済みの印
使用していない出口に《使用済》と書かれている。
それはもう、ちょっとした怪談だった。
「通った人の名前がないんです。人数も、時間も」
雨宮ネネが言うと、モルンは書類の山から顔を出した。
「なのに印だけはあるんですよ。第七迷宮の通常出口にも、西連絡廊下にも。ほかの二か所にも!」
「まず、そこから出てきてください。話を聞く前に救助が必要になりそうです」
モルンは紙束を押しのけようとして、書類と一緒に椅子から滑り落ちた。
「……今日は図面に巻かれてません」
「書類に埋まってますね」
織部シズは机を片づけ、床に落ちた紙を拾い上げた。
「こういうときは、印だけ追いかけても駄目よ。元の帳票が何を記録していたのか確かめましょう」
机の中央には、三種類の原簿が並んでいた。
保安班の《現地試験記録》には、検査員の名前と測定値を記す欄がある。
設備側の《経路切替試験記録》には、装置が指定の位置へ動いたかどうかを記す。
そして運営部の《経路利用実績表》には、通行が許可された出口や廊下の数がまとめられている。
「……これだけ見たら、別々の仕事だって分かるのに」
「同じ番号で管理しようとしたら、同じ出来事に見えたんでしょうね」とシズ。
七草伊織が扉を開けて入ってきた。片手に原本保全の控えを持っている。
「保安班の現地試験記録は、原本と写しが一致した。第七迷宮の通常出口は、事件の日に通行試験を実施していない。床の荷重試験も未実施。その後も、新規入場の許可は出していないわ」
「では、この《使用済》は……」
「まだ出所を確認中。印だけで人が通ったとは言えない」
ネネはうなずいた。結論を急げば、また同じことをする。
「事故で救助した十一人の記録は別にありますよね」
「ええ。保安班が確保した管理搬入口から出た十一人。時刻も人数も照合済みよ。通常出口を使ったことにはなっていない」
ネネは改めて、空欄の通行人数を見た。
数字の〇と、空欄は違う。〇人だったのか、誰も記入していないのかで、言えることが変わる。
その隣で《使用済》の赤い印だけが、妙に自信満々に見えた。
*
午前のうちに、ネネは月次報告へ押された《使用済》の日時を表にした。通行人数はどれも空欄。十一人の救出に使われた管理搬入口の記録は別に保存され、この集計には含まれていなかった。
「これだと、人が使った記録なのか、経路を登録した記録なのかも分かりません」
「だから元の帳票を出してもらったの」とシズ。
答えが見つかったのは、モルンが古い保守用の台帳を持ってきたときだった。
「これ、地図の試験装置に使う番号帳です。通路の番号を重複して登録しないよう、使った番号に印をつけるんです」
ページの上部に、小さく書かれている。
《経路番号 使用済》
「……番号?」
「はい。通路そのものじゃなくて、登録番号です」
「じゃあ、この印は『誰かが出口を使った』じゃなくて、『番号を使った』?」
「そのとおりです!」
モルンは嬉しそうに頷いたあと、急に真顔になった。
「……大変です」
「大変なのは分かってます」と七草。
さらに照合すると、設備側では、可動区画が指示を受け取った時点で《切替対応済》が送られていた。保安班の監視員が配置されると《現地対応済》が記録される。地図の作成装置はその二つを受け取って、新しい経路の線をつないでいた。
本来なら、その先に必要な手順がある。
床が安全かを測定する。案内の矢印と現地の通路が一致しているか試す。閉鎖扉や緊急出口が作動するかを確認する。結果が適合して、初めて七草たち保安側が通行を許可する。
ところが運営部の集計書式は、最後の許可記録を取り込んでいなかった。
「工事が終わって、切替命令が送られて、監視員がついた。その時点で《準備完了》として一件数える仕組みだったのね」とシズ。
「準備だけなら、まだ分かります」とネネ。
「うん。だけど月次報告では、その数が《供用可能経路》という欄に入っていた」
モルンは、原簿の紙を指さした。
「しかも、一度つけた《経路番号使用済》の印が、同じ番号の出口の運用表にも引き継がれていました。番号を使ったという意味なのに、出口を使った実績に見えてしまうんです」
ネネは紙を並べ直した。
ひとつずつの記録は、作業者がした仕事を示していた。
間違っていたのは、その記録を束ねて「安全に使える」という一つの結論に変えていた仕組みだ。
「これを作った人たちは、区別がつかないんでしょうか」
「最初は、担当者なら分かると思っていたんじゃないかしら」
シズが古い書式を開く。
「ここには《施工済》《表示準備済》《現地試験済》《許可済》と、全部別の欄があるわ。途中で報告を簡略化して、一つの《済》にしたらしい」
「便利にしたつもりだったんですね」
「便利なものほど、なくした欄には気づきにくいのよ」
ネネは、さっきの《使用済》の印を見た。
人が歩いたわけでもない出口に、番号だけが先に到着していた。
*
午後には、迷宮運営計画室の三科統括が呼ばれた。
三科は灰色の上着を着た、物腰の静かな人物だった。書類を開く前に、まず全員の顔を見た。
「現場からの照会は読んだ。安全確認の済まない経路が、運営報告では供用可能になっていたんだね」
「はい」とネネ。「それに、危険区域の見張り員さんたちの勤務が、手当の集計から抜けています」
「同じ集計表を使っているためか」
「その可能性があります。ただ、給与の訂正は別の確認が必要です」
ネネは証拠を机に置いた。
第七迷宮の案内表示を切り替えた履歴。保安班が通行を許可していない記録。運営側で《供用可能》に計上された経路一覧。そして、見張り員たちの原簿と支給区分の不一致。
三科は一枚ずつ読み進めた。
「……この様式への切り替えは、私が決裁した」
室内が静かになった。
「経路の完成見込みを把握したかった。工事費の執行と、いつごろ再開できるかを同じ表で見られるようにしたんだ。現地試験の記録は、別部署に残るから十分だと思っていた」
「その頃、地図保守から《許可済みと混同される》という照会が一件出ています」とモルンが言った。
彼が差し出したのは、半年前の問い合わせ控えだった。回答欄には《運営集計上の便宜表記につき問題なし》とある。三科は控えを受け取ると、初めて言葉を止めた。
「……これは、私の室で処理した。確認不足だった。君たちが見ているものと、私の画面で見えているものが違うのに、画面の方を信用した」
「残っているだけでは、集計の間違いは止まりません」と七草。
「そのとおりだ。しかも私は、その集計を見て、点検の費用が予定どおり使われていると判断した。実際には、検査員の立会いを組めていない箇所があった」
三科はため息をつき、書式の改訂履歴を指で押さえた。
「予算の削減を求められていた。動かせる箇所はまとめて処理し、再開予定を早めたかった。だが、早く終わったように見せる表を作っても、現場が早く安全になるわけじゃない」
ネネは、相手の顔より、机の上の数字を見た。
不正のためにわざと書き換えた証拠は、今のところない。だが、誰かが気づかないまま仕事を進めてしまう仕組みを、決裁した責任は残る。
「統括。今、通ってはいけない道の案内を信じている人がいます。閉鎖で仕事が減った人もいます。まず、その人たちへ何を伝えられますか」
三科はすぐには答えなかった。
代わりに七草が、用意していた現地検査計画を差し出した。
「第七迷宮の通常出口を含む、疑義のある区画は停止を継続する。私は保安側の権限でその判断を変えない。明日から順に、区画ごとの現地試験を実施する。適合が確認できた場所だけ、正式な通行許可を出す」
「費用と人員は運営側で手当てする」と三科。「未実施の試験を完了扱いにした報告は訂正する。監査担当へも経緯を提出し、原因調査の記録を残す。見張り員の手当は、雇用担当と経理へ再計算を急がせる」
「それを、いつまでに、誰が答えるかまで書いていただけますか」とネネ。
三科はペンを取り、連絡票の余白に担当と期日を書いた。
「ここまで具体的に求められるとは思わなかったよ」
「私も、こんなにたくさん《済》がある職場だとは思いませんでした」
シズが横で口元を押さえた。
三科は苦笑したが、書く手は止めなかった。
*
方針が決まっても、町の人の暮らしはその日のうちに戻らない。三科の署名があっても、その一枚を持って誰かが明日から西連絡廊下を歩けるわけではなかった。
ネネとシズは、運送組合のハルカ、採掘場のリゼ、周辺の食堂や宿の窓口へ、分かっていることを一つずつ知らせた。
再開日を約束できる区画は、まだない。代わりに、検査予定と閉鎖の範囲、使える固定経路、次の連絡日を伝える。休業や迂回で生じた負担については、補償と契約調整の担当窓口も併記した。
「迷宮の経営が止まっても、うちの支払いは止まらないんですけど」
ハルカが言うと、ネネは頷いた。
「そうですよね。通行の安全だけでなく、仕事の予定を立て直すための情報も必要だと思います」
「……開けられないなら、開けられないって早めに言ってください。こっちも別の仕事を取れますから」
「はい。曖昧な『もうすぐ』では案内しません」
リゼは、危険手当の再計算について担当者から連絡が来たと教えてくれた。
「対象の勤務時間を確認してるってさ。ようやく話が通じたみたい」
「まだ金額は出ていませんよね」
「そう。でも、分からないまま待たされるのと、誰が何を調べてるか分かるのとじゃ違うわよ」
ネネは小さく笑った。
その言葉は、生前に役所の窓口に立っていた頃から、何度も自分に言い聞かせてきたことだった。
*
夕方、七草の保安班が、固定区画の補助通路で最初の現地確認を終えた。
新規入場の再開試験ではない。調査や資材運搬に使う補助路について、床と扉の状態を測定し、閉鎖区画から独立していることを確かめるためのものだった。
モルンは検査済みの図面を受け取り、嬉しそうに印を押そうとした。
「これで《済》ですね!」
「待って」とネネ。
全員が同時に彼の手元を見た。
「何が済んだのか、全部書いてください」
モルンはしばらく考え、新しい欄に丁寧に記入した。
《補助通路・現地確認済。一般通行許可ではない》
「長い……」
「長くていいのよ」と七草。「間違って開けるより」
凱斗は保安員の後ろで、確認に使った空の機材箱を持っていた。ネネが近づくと、彼は箱を床に置いた。
「十一人が閉じ込められたとき、俺、ずっと思ってたんだ。誰かが出口を隠したんじゃないかって」
「そう思ってもおかしくなかったと思う」
「でも、隠れてたのは出口じゃなくて、途中の仕事だったんだな」
ネネは答えず、向こう側の閉鎖扉を見た。
「……そうだね。ただ、だからって仕方なかったことにはできない」
「うん。俺が通れなかった話、もう一度ちゃんと伝えるよ。必要なら、ほかの人たちの証言と一緒に」
「ありがとう。あなたの話も、ほかの人と同じように記録するね」
「それでいい」
凱斗は頷いた。
夕方の灯りが、床の白い線を照らしている。そこから先へは、誰も踏み出さなかった。
通れるはずの道を、今日は通らない。
それは敗北ではなく、向こうへ安全につなぐための仕事だった。
ネネは帰り支度をしながら、机の上の新しい工程表を見た。
明日から、区画ごとの再検査が始まる。ひとつの扉の向こうを、人が歩けるようになるまでには、まだいくつもの確認が必要だった。
紙の上でしか開いていなかった出口を、どこまで人の通る道へ戻せるのか。




