第38話 危険手当は、危険になってから?
危険な目に遭わなかったのだから、危険手当は支給できません。
そんな説明を受けた人が、迷宮管理局の窓口に来た。
「……無事でよかった、という話ではないんですね」
雨宮ネネが確認すると、向かいに座った女性は疲れたように笑った。
「無事でよかったとは思ってますよ。でも、それと給料は別でしょう」
彼女の名はリゼ。鱗のある腕を作業着の袖からのぞかせた、採掘場の見張り員だった。以前、転生者の安全相談でネネが顔を合わせたことのある女性だ。
「あんた、こんな所へ異動してたのね」
「私も、まさかまたお会いするとは思いませんでした」
「だったら話が早い。前も、現場の話が書類に入らないって相談したでしょ。今度は給料まで消えた」
リゼは布の袋から、使い込まれた勤務表を出した。
西連絡廊下の仮設扉の前で、通行人を止める仕事を十二回。うち八回は、可動区画が移動する時間帯だったという。
「中に入って何か壊したりしたら大変だから、入口から誰も通さず、床の音や扉のずれを見てたの。もし動いたら、保安班へ知らせることになってた」
「危険区域の監視業務ですね」
「契約書にはそう書いてある。危険区域の監視と現地確認に従事した時間には、別に手当がつくはずなのよ」
ところが、支給明細の欄は空白だった。
《危険発生件数 〇》
《特別手当 対象外》
ネネはもう一度、勤務表を読んだ。
「事故が起きなかったから対象外、と説明されたんですか?」
「そう。経理の人に『事故がなければ危険手当も不要です』って。じゃあ、事故が起きるまで見張ってればよかったのかって聞いたら、困った顔された」
隣で記録を見ていた織部シズが、眉を寄せた。
「困った顔になるわね」
「私だって困ってます」
リゼは鞄から昼食代の領収票まで取り出した。見張り番の日は、詰所から離れられず、温かい食事を買いに行くこともできないのだという。
「先週ね、迷宮へ行く前に弟が言ったの。『今日は石が落ちてこなかった?』って。落ちてこないように見張るのが私の仕事だよって、答えた」
リゼは領収票を畳み、改めてネネを見た。
「怪我をしたいわけじゃないの。ただ、危ない場所で働いたことは、なかったことにしないでほしい」
ネネは受付票にその言葉を書き留めた。
できるだけ、本人が言ったとおりに。
*
担当部門との照会は、予想以上にややこしかった。
勤務表を管理するのは採掘場の雇用担当。危険手当の対象区画を決めるのは迷宮運営部。支給計算をするのは共通経理課。そして、安全確認の立会い記録は保安班が持っている。
「四つの部署から記録を集めるんですか?」とネネ。
「今、五つ目を増やそうとしてるのが私たちよ」とシズ。
「……増やしてすみません」
「謝るのはまだ早いわ。人の給料の話なんだから」
二人はまず、リゼが雇用契約の写しを見せてくれることを確認し、本人の同意が必要な情報だけを照会先へ渡した。労働内容の記録と、個人の賃金明細を別々の部署へむやみに送る必要はない。
経理課の担当者は、小さな算盤を机に置いて待っていた。
「支給計算は規定に沿っています。対象区分の報告が〇件でしたので」
「危険区域での勤務が〇時間だったという意味ですか?」
「いえ。危険発生が〇件、です」
「契約書にある危険区域勤務の手当と、事故発生件数は同じものですか?」
担当者は算盤の珠を一つ動かした。
「……異なるはずです」
「じゃあ、なぜ事故件数で計算したんですか?」
「運営部から届く集計表の、その欄だけを参照するよう、計算手順に書かれていまして」
シズが手順書をのぞき込んだ。
「つまり、勤務区分を渡す欄がないのね」
「以前は現場から時間ごとの従事報告がありました。ただ、書式が統一された際に……」
経理課の担当者は最後まで言わず、別の綴りを取り出した。
書式統一の日付は、モルンが昨日調べた地図更新の仕組みを導入した時期と近かった。同じ担当者が作ったと決まったわけではないし、これだけで計算違いの原因とは言えない。ただ、別々の部署で似た省略が起きているのは気になった。
「この手順書ができたとき、勤務の時間を送る欄が必要だって誰か言わなかったんですか」とネネ。
「差し替え前の書式を扱っていた者は、何人か異動しました。引き継ぎの記録は探します」と担当者が答えた。
ネネはペンを走らせた。『誰も気づかなかった』という答えには、まだ早い。
「担当者の方だけでは訂正できませんよね」
「はい。実際にどの勤務が対象だったか、雇用担当と運営部に確かめていただく必要があります」
「では、その照合に必要な記録を揃えます。支給額をこの場で決めてほしいわけではありません」
ネネが言うと、担当者は心底ほっとした顔になった。
「助かります。ここで勝手に増やしたら、私の方が差額を説明できませんから」
「説明は、増やすときも減らすときも必要です」
「……おっしゃるとおりです」
*
午後、リゼと同じ見張りを担当した職員たちの記録が届いた。
出勤時間、交代時刻、保安班からの監視指示、異常の有無。各々の原簿は細かく書かれていた。夜勤者の欄には、手書きの小さな絵まで添えてある。曲がった床を描き、《継ぎ目の音が大きい。次の交代へ伝達》と書かれていた。
「こんなに書いてあったんですね」とネネ。
「記録は読まれないと思っていても、現場は書かないと次の人が危ないから」と七草。
その絵は、集計表のどこにも載っていなかった。意外だったのは、皆が危険な区域で働いたと記録している一方、運営側の集計では《通常巡回》へまとめられていたことだ。
「現場は嘘をついていないんですね」とネネ。
「少なくとも、この書類の範囲ではね」とシズ。
七草が持参した保安記録には、さらに別の記載があった。
《西連絡廊下C四区画 監視員配置済》
《可動床への進入 なし》
《荷重試験 未実施》
「これは正式な記録ですか?」
「ええ。私の保安班で確認した。監視員には、誰かが入らないよう見ていてもらった。検査に立ち会ったわけではない」
「それなのに、運営側には《現地対応済》とあります」
「監視員が配置されたことを、そう呼んでいるのかもしれない。でも、検査済みという意味にはならないわ」
七草は赤い鉛筆で、欄と欄の間に線を引いた。
「ここは一番大事なところ。安全のために人を配置したことと、安全が証明されたことを混同してはいけない」
モルンが横から口を挟んだ。
「地図の方にも《現地対応済》が送られてきます」
「また同じ言葉……」
「はい。地図では、表示の準備が済んだという意味なんですが」
ネネは思わず、手元の付箋を見直した。
《工事完了》
《検査完了》
《通行許可》
三つに分けたはずの言葉が、いつの間にか《現地対応済》という袋にまとめて詰め込まれていた。
「これ、袋に穴が開いてたら、全部落ちますよね」
「実際に、落ちてるのかもしれないわね」とシズ。
たとえ話のつもりだったのに、笑えなかった。
*
休憩室でリゼに途中経過を伝えていると、扉の向こうから天城凱斗が顔を出した。
「失礼。保安班に呼ばれて、運搬補助の報告に……あ、ネネ」
「今日は報告書を届ける日だったの?」
「うん。昨日の板を運んだ件」
凱斗はリゼの勤務表を見て、何となく事情を察したらしい。
「危険手当、もめてるのか」
「もめてるというか、働いた内容が計算に反映されていなくて」とネネ。
「そっか。俺たち勇者は、危ない仕事でも報酬を気にせず――」
凱斗はそこまで言いかけて、口を閉じた。
リゼは黙って彼を見ている。
「……いや、ごめん。俺の場合は依頼ごとに報酬を決めてる。全然、気にしないわけじゃなかった」
「そうでしょうね」とリゼ。
「それに、俺が無償でやると決めても、ほかの人には関係ない」
「分かってるならいい。こっちは依頼がなくても、毎日ここへ来るのよ。家賃も食費も、勇者の称号じゃ払えないから」
凱斗は頭を下げた。
「悪かった。見張ってくれてた人がいたから、俺たちは閉鎖されたところに入らずに済んだんだな」
「入らなかった人ばかりじゃないけどね」
「……ああ。俺も以前は、何度か止められた」
リゼが小さく笑った。
「だったら、これからは止まってよ。止める側の仕事も、少し減るから」
「気をつける」
そのあと、凱斗は空の給水桶を二つ運ぶ手伝いを申し出た。リゼは一度断ったが、詰所まで持ち上げる人手が必要だと分かると、運ぶ場所と個数を細かく指定した。
「それ、俺一人で二つ持てるけど」
「知ってる。でも片方は中を洗ってから。勝手に水を入れたら、洗い直しになる」
「……分かりました」
ネネは思わず笑った。
昔の凱斗なら、よかれと思って満杯の桶を二つ運び込み、相手から叱られただろう。今日は空の桶を一つずつ運ぶらしい。
勇者の成長とは、剣が強くなることだけではないようだ。
*
勤務区分の再確認に協力した七草は、帳票の片隅に別紙を一枚付けた。《監視員配置と安全検査は同義ではない》。短い一行に責任者の署名が入っている。
「この写しは運営部へも渡します」と七草。「安全検査の実施記録は、保安班の原簿を照会する。それ以外の書式だけで《検査済》とは扱わないよう、今日から暫定措置を求めるわ」
閉庁までに、賃金の即時訂正はできなかった。
ただし、雇用担当はリゼたちの勤務記録を対象区分ごとに照合し直すことを決めた。運営部は危険区域の指定と作業指示を確認する。経理課は、認定された時間に応じて不足分を再計算し、該当者全員へ説明する。期限と担当者の名も、今回の連絡票に記された。
リゼは控えを受け取り、慎重に折りたたんだ。
「今日、いくら戻るかまで決まると思ってたんだけどね」
「そこはまだ確認が必要です。ただ、次にいつ、誰が答えるかは決まりました」
「……じゃあ、その日にまた来る。今度は横断幕、持ってこなくていい?」
「持ってこなくていいように、こちらも確認します」
リゼは笑って帰っていった。
ネネは椅子に座り直し、七草が届けた記録の残りをめくった。
現地確認をしなかった日にも、《現地対応済》の印が押されている。監視員が扉の前に配置された記録を、別の帳票へ写したものだった。
その隣に、見覚えのない欄があった。
《避難経路 使用実績》
《確認印 済》
「……七草さん。この日、廊下を通った人はいますか?」
「閉鎖中よ。いないはず」
「でも、使用済みになってます」
七草はすぐに返事をしなかった。原簿の番号と日時を照らし合わせ、表情を硬くする。
「これは通行記録じゃない。別の帳票から印が引き継がれている可能性があるわ」
モルンが走ってきて、同じ欄を指さした。
「こっちもです。第七迷宮の通常出口が切り替わった日の資料にも、その印があるんです」
ネネの背中に、小さな寒気が走った。
昨日まで、通れない道が完成したことになっていた。
今日は、危険区域で働いた人が、働いていないことになっていた。
そして今度は、誰も通っていない出口を、誰かが通ったことにしている。
「明日、原本を全部並べましょう」
ネネは言ってから、机の上の三枚の付箋を一枚の台紙に貼り直した。
役所の書類には便利な印が多い。
便利すぎる印は、人が何をしたのかまで消してしまうらしい。




