第37話 工事が終わった廊下に、入れません
翌朝、雨宮ネネの机には、三枚の地図が並んでいた。
どれも第七迷宮の西連絡廊下を描いたものなのに、三枚とも線のつながり方が違う。
「昨日、照会したのが最新版じゃなかったんですか?」
「昨日、照会した時点では最新版でした」
モルンは胸を張って答え、すぐに肩を落とした。
「今朝、前の最新版より古い最新版が見つかりまして」
「それ、古い版ですよね」
「番号は新しいんです。ただ、記録が登録されたのは三日前で、現場へ適用されていません」
「順序を入れ替えて説明された気分です」
織部シズが二人の間に一枚の連絡票を差し入れた。
《西連絡廊下C四区画 工事完了》
《接続図面 更新済》
《現地通行許可 記録なし》
「昨日、口コミに出てきた廊下よ。モルンが朝いちばんで照合してくれたの」
「工事が終わって、図面も新しくなったのに、通れないんですか」
「それを確かめるのが今日の仕事」
シズは事務用の付箋を取り出し、三つの欄にそれぞれ貼った。
「工事が終わった。紙の上で道がつながった。人を通していい。この三つ、同じ意味じゃないのよ」
「はい。第七迷宮で嫌というほど覚えました」
「なら話が早い。問題は、ほかの人が覚えていないことね」
その言葉を待っていたように、受付から呼出音が鳴った。
窓口に立っていたのは、大きな配達鞄を背負った女性だった。肩紐を外した途端、鞄が床で重そうな音を立てる。
「西連絡廊下って、いつ開くんですか」
女性は名乗りもせずに尋ねたあと、慌てて帽子を取った。
「すみません。運送組合のハルカです。新しい地図だと、うちの荷物集積所まで近道ができたことになってるんですけど、現地では扉が閉まったままで」
「現在、安全確認が完了していないため通行できません」
「それは現場の人にも聞きました。でも、荷主からは『道ができたなら早く運んで』って言われるんです」
彼女は配達票を広げた。以前の経路なら集積所を大きく迂回する。地図の赤い線が使えるなら、運搬の手間は半分以下になるらしい。
「通れないのは分かっています。だから、通れるって書いてあるのを何とかしてほしいんです。私たち、毎回説明して回ってるので」
ネネは顔を上げた。
通れないことへの苦情だと思っていた。だが、彼女がいちばん困っているのは、通れるという間違った情報を信じた人の期待だった。
「案内図を見せてもらえますか」
「これです。昨日、町の掲示板で配られたもの」
紙の隅には、版番号と小さな文字があった。
《工事完了に伴い経路を更新しました》
「……通行を許可した、とは書いてないですね」
「でも普通、線がつながっていたら歩いていいと思いません?」
「思います」
ネネの返事が早すぎたので、シズが横で小さく笑った。
「だからこそ、直さないといけませんね」
ネネは案内配布先を確認し、町の掲示板と運送組合に暫定の訂正を送ることを約束した。開通日までは言えない。代わりに、確実に使える迂回路と、問い合わせ先を知らせる。
ハルカは、上着の胸ポケットから折り畳んだ納品票を出した。裏面には荷主の走り書きがあった。
《工事完了のため西廊下経由。遅延は運送側負担》
「この一行がね、朝からずっと引っかかってるんです。荷物が遅れたら、私のせいになる。通れると書いた人は、ここにいないのに」
「荷主さんにも、使えない経路だと分かる案内が必要ですね。私から訂正文を出すだけでなく、現地で確認した情報だと分かるようにします」
「ありがとうございます。今日の荷物は迂回して運びます。余分にかかった時間は、荷主と相談してみます」
ハルカはようやく鞄を背負い直した。
「日付が決まったら、早めに教えてください。荷馬車の予定を組み直すのも、ただじゃないので」
「はい。『工事完了』だけでお知らせしないよう、こちらでも確認します」
「お願いします。道が増えて、仕事まで増えるとは思わなかった」
彼女を見送ったネネは、机の上の三枚の地図を眺めた。
最新版とは、いったい誰のためのものなのだろう。
*
西連絡廊下C四区画へは、保安側の固定観測通路から状況を確認できるという。
七草伊織の同行許可を受け、ネネとモルンは保安班の作業に立ち会った。ただし、閉鎖扉の向こうへは入らない。二人の役目は、現地の表示と帳票が一致しているか確かめることだった。
扉の手前には、真新しい石畳が続いていた。壁には立派な灯りが並び、頭上には金色の矢印がある。
《西連絡廊下 こちら》
「……本当に、通れそうですね」とネネ。
「見た目はね」と七草。
七草が保安員に合図すると、扉の脇に設置された計測板が青く光った。奥の床へ、細い測定光が一本伸びる。途中まではまっすぐだった光が、廊下の中央で妙な角度に折れた。
「通路の固定位置がずれています。荷重をかける試験も終わっていない。向こうの可動区画が次に移動したら、この継ぎ目に段差ができる可能性があるわ」
ネネは新しい石畳を見た。
何も知らなければ踏み出してしまう。むしろ、古い廊下より歩きやすそうに見える。
「完成した時点では、そこまで検査する手順だったんですか?」
「施工記録によれば、壁と床の取り付けまでが契約範囲。可動区画との接続試験は、保安班の担当よ」
「じゃあ工事完了は間違いじゃないんですね」
「間違いではない。ただし、通行できる証明にはならない」
モルンが持っていた図面を広げた。風もないのに端がくるりと丸まり、彼の耳を覆った。
「うう、今日はまだ一枚なのに」
「巻かれながら説明しないで」と七草。
モルンは両手で図面を押さえた。
「この線がつながったのは、施工課から《工事完了》の連絡が入った時刻です。地図の作成装置が、その信号を受け取って自動でつないでしまったんです。でも現地試験の欄は、ここ。ずっと空白です」
ネネは、表の端に小さく印字された欄を見つけた。
《通行状況:利用可》
「なぜここだけ、利用可に?」
「……それが、分からなくて」
モルンは指先で紙をめくった。
「地図を出力するとき、空欄だったら前回の状況を引き継ぐ設定なんです。工事前、この区画は《通行準備中》だったはずなのに、以前接続していた固定経路の登録が《利用可》だったらしくて」
「別の道の『利用可』が、残ってしまった?」
「そうです。地図を作る人が変えていなくても」
七草の目が細くなった。
「原記録を見ないと断定できないわ。施工課と運営計画室へ、更新履歴の保全を求めて。こちらは通行禁止を継続します」
七草は入口の監視員へ、訂正文が届くまで交差路での案内を続けるよう指示した。町に送った訂正が現地に伝わるまで、古い矢印は人を呼び込み続ける。ネネは保安員から掲示の位置を聞き、運送組合にも補足の連絡を入れた。
保安員が扉の前へ大きな表示板を設置した。
《工事完了・通行禁止 現地検査未実施》
ネネは一文字ずつ読んだ。
「分かりやすいです」
「分かりやすくないと困るのよ」
そのとき、廊下の反対側から大きな声がした。
「ここを通れば、資材が早く届くんですけど!」
声の主は、作業用の台車を押した男だった。七草が説明を始めるより早く、ネネは扉の外側まで歩み寄った。
「近道をご利用になりたいんですね」
「そりゃそうだ。向こうの詰所に工具を運ぶのに、ぐるっと回らないといけない。地図にはできたってあるのに」
「道はできています。ただ、安全に通れるかの確認がまだです。工具はどこへ届ける予定ですか?」
男が場所を告げると、保安員が既存の搬送経路を調べてくれた。時間はかかるが、固定区画を通る方法がある。
「じゃあ、その道を使うしかないか」
「お急ぎなのにすみません」
「謝らなくていいよ。通れるようになったら教えてくれれば。こっちだって、荷物ごと落ちたくはない」
男は台車の向きを変えた。
ネネは、遠ざかっていく車輪の音を聞いていた。
立派な石畳を作っただけでは、道は道にならない。それを利用する人が、安心して向こう側に着けて、初めて仕事が終わるのだ。
*
「で、俺に運べるものは?」
固定観測通路の入口で、天城凱斗が腕まくりをして待っていた。
昨日まで口コミの星を気にしていた勇者は、今日は運搬補助の立会人として呼ばれたらしい。
「カイト、今日は別の依頼じゃなかった?」
「保安班から、現場の資材が足りないって連絡をもらった。許可されている場所だけで、だよ」
凱斗は先回りして言い足した。
ネネは肩の力を抜いた。
「そこまで言わなくても」
「言わなきゃ怒るだろ」
「勝手に扉を開けたら怒るよ」
七草が凱斗へ、固定通路の外に積まれた仮設の案内板を指さした。
「閉鎖扉の手前まで運んで。設置は保安員が行う。あとは周囲の通行人を誘導してくれると助かる」
「了解です」
凱斗は板を二枚抱え、一往復で運んだ。剣を抜くよりよほど役に立った気がして、ネネは少し笑った。
「何?」
「勇者って、力仕事もできるんだなと思って」
「俺の仕事、それだけじゃないんだけど」
「知ってる。でも、今日はいちばん必要な仕事だったよ」
凱斗は照れくさそうに笑い、空になった両手を見た。
「この廊下、剣なら障害物を壊せそうだけど」
ネネが耳を立てると、彼はすぐに首を振った。
「壊さないよ。見た目だけで判断しちゃだめだって、最近よく分かったから」
「最近、教育の成果が目に見えて嬉しい」
「子ども扱いするなよ」
七草は二人のやり取りに構わず、閉鎖表示の固定を確認していた。
「勇者でも、現地試験の代わりはできない。少なくとも、自分が通れたから全員通れるとは言えないの」
「はい。俺が持てる板なら、言ってください」
「その答えは助かるわ」
七草の表情がほんの少しだけ和らいだ。
*
庁舎へ戻ると、シズが運送組合からの返事を渡してくれた。
《迂回路の周知、了解。開通時は現地確認済みの案内を希望》
「これでひとまず、間違った地図を頼りに走る人は減りそうですね」
「町の掲示板も差し替えたわ。配達先の方にも事情を伝えてくれたそうよ」
ネネは安堵した。通れる日を教えられなくても、通れない理由と、いつ次の知らせが届くのかは伝えられる。
モルンが持ち帰った台帳を机に置く。
「ほかの廊下も調べました。同じように《工事完了》を受けて、図面上だけ開通している箇所が二つあります」
「二つも?」
「うち一つは、第七迷宮の通常出口へつながる可動区画です」
ネネは手を止めた。
十一人を閉じ込めた、あの出口。
「ただし、今回の記録だけで事故の原因だと断定はできません」とモルンは続けた。「出口の位置がずれた事情もありますし。分かるのは、現地の許可を確認する前に、図面が更新されたということです」
「それだけでも、十分に困ります」
七草が原簿の写しを開いた。
「通行許可の原記録には、どちらも承認印がない。でも、運営側の月次集計には《使用可能経路》として入っている」
「許可を出していないのに、使用可能?」
「そう。しかも、検査費の集計では《検査済み》に数えられているのよ」
ネネは、ハルカの納品票に書かれていた《工事完了》の文字を思い出した。町に出た案内も、月次集計も、同じ二文字から始まっている。誰も嘘を言っていなくても、次の人が受け取る言葉はすっかり違う意味になっていた。
シズは机の端で腕を組んだ。
「それが本当なら、地図の間違いだけじゃ済まないわね」
七草は静かに頷いた。
「明日は現地検査の立会い勤務記録も確認する。作業をした人がいるのか、いたなら何をしたのか。そこからね」
ネネは新しい付箋に三つの言葉を書いた。
《工事完了》
《検査完了》
《通行許可》
似ているのに、違う仕事だ。
庁舎を出る前、彼女は机に残った地図へ目をやった。金色の矢印が、閉じた扉の向こうを指している。
この役所では、人が通れない道ほど、紙の上で立派に完成しているらしい。
ネネは矢印の脇に、赤い文字で書き添えた。
《まず、現地に聞いてください》
生前の窓口では、道を尋ねる人によくそう言われたものだった。
今は、地図の方に言ってやりたい。




