第36話 勇者の口コミ、星ひとつ
役所で星の数を気にする日が来るとは、雨宮ネネも思っていなかった。
「四・八ですか。高いですね」
「四・九だったのよ、先週までは」
織部シズが机に置いた広報資料には、金色の星が五つ並んでいた。最後のひとつだけ、ほんの少し欠けている。数字の下には《第七迷宮・訪問者満足度》と書かれていた。
「出口がなくなって十一人も取り残されたのに、ずいぶん評判がいいですね」
「事件の前に集めた数字だからね。もっとも、今は営業を止めてるから、最新の満足度を取りようもないけど」
「それで、相談というのは……」
シズは資料を裏返した。
《至急照会 勇者・天城凱斗による低評価投稿について》
《評価:星一つ》
《広報上の影響が大きいため、削除または非表示の可否を検討願いたい》
「一つ足りないどころじゃないですね」
「たった一人の評価で平均がそこまで下がったわけじゃないのよ。勇者の名前が入ってるから、広まる前に何とかしたいんだって」
ネネは申請書に添付された投稿を読み直した。
《退避路の案内が危険。実際に戻れなかった。確認されるまで利用を勧めない》
凱斗は、第七迷宮の出口が通常経路から切り離されたとき、内部に取り残されていた十一人の一人だ。何度地図を見ても案内が一致せず、最終的には保安班の誘導で管理搬入口から帰還した。
感情的な悪口ではない。少なくとも、本人が体験したことは書かれている。
「これ、もう公開されているんですか?」
「昨日まではね。今朝から《内容確認中》になってるそうよ」
「誰が確認してるんですか?」
「それを今から確認するのが、私たちの仕事」
ネネは画面に表示された小さな灰色の文字を見た。星の数はそのまま残っているのに、肝心の文章が読めなくなっている。
口コミ欄の上には、相変わらず《初めてでも迷わない!》という宣伝文句が輝いていた。
「……初めてでも?」
「宣伝文句はね、なかなか死なないのよ」
「こっちの方が先に訂正をお願いしたいです」
*
迷宮案内広報課は、同じ庁舎の三階にあった。
受付の壁一面には、観光案内のポスターが貼ってある。緑の地下庭園、光る鉱石、古代の祭壇。どれも立派な景色だが、よく見ると撮影場所が第七迷宮とは限らない。
「きれいですね。この写真」
「第九迷宮の地下湖です」と案内係。
「じゃあ、どうして第七迷宮のパンフレットに?」
「系列施設ですので」
ネネがもう一度ポスターを見ようとすると、シズが小声で言った。
「雨宮さん。最初から全部を相手にしたら夕方になるわ」
「でも、ここに《第七迷宮を代表する風景》って」
「帰りに聞きましょう」
奥の応接机で待っていたのは、広報課の柊木という女性職員だった。上着の胸元には小さな星形の徽章がついている。
「お忙しいところありがとうございます。問題の投稿について、早急に対応したいんです」
「対応というのは、事実の確認ですか。それとも削除ですか?」
柊木は用意していた書類をそっと引き寄せた。
「両方、と申し上げたいところですが……率直に言えば、削除の相談です。勇者認定者が星一つをつけたと知れたら、再開後の予約に影響します」
「今は閉鎖中ですよね」
「ええ。ただ、再開を待っている宿や食堂、土産物屋もあります。私たちが評判を守らないと、地域の方にも迷惑がかかります」
その事情は、ネネにも分かった。迷宮そのものが閉じていても、周辺の店の家賃や仕入れは止まらない。観光客が戻らなければ困る人は大勢いる。
「だったら、再開するときに安心して来てもらえるようにする方が大切ではありませんか」
「もちろんです。だからこそ、あの投稿の『実際に戻れなかった』という書き方が……。読んだ人は、今でも閉じ込められたままだと思うかもしれません」
ネネは少し考えた。
「そこは確かに、説明が足りないかもしれません。十一人全員、地上に戻っていますから」
「でしょう? では削除を」
「いえ。帰還できたことと、危険な案内があったことは、別の話です」
柊木の笑顔が固まった。
「広報課では、投稿内容の一部が未確認の場合、公開を保留する仕組みがあります。今回も規程に沿っております」
「保留したあと、どこで確認するんですか?」
「投稿管理係で……」
「現地の保安記録とも照合しますか?」
柊木は返事をしなかった。
シズが渡された運用表に目を走らせる。
「確認依頼先が、広報課内の《表現審査担当》だけになってるわね」
「不適切な表現を取り除く係ですから」
「危険かどうかを確認する係じゃないのね」
紙を一枚めくると、保留理由の選択肢が出てきた。
《誹謗》《宣伝》《事実確認を要する表現》《施設の印象を著しく損なうもの》
最後の欄に、薄い鉛筆で丸がついている。
「……危険な施設の評判は、悪くなるものじゃないですか?」
ネネの言葉に、柊木はさすがに苦笑した。
「そこを分かりやすく言われると、困りますね」
「責めたいわけではないんです。実際の危険情報が届かなくなるのが困るんです」
柊木はしばらく黙り、机の端に積んだ確認待ちの紙束へ視線をやった。
「……正直に言えば、全部は見られていません。利用者の意見が増えすぎて、広告への影響が大きいものから処理しているんです」
ネネはその束の厚みに目をやった。
思っていたより、多い。
*
広報課から許可を得て、ネネとシズは第七迷宮に関する保留投稿の記録を閲覧した。原文は残っており、投稿者の連絡先は必要な部署以外には表示されない仕組みになっている。
「二週間前……『西側の案内板、壁を指してる』」
「その少し前にもあるわ。『矢印の先に扉がない。係員に訊いたら地図が古いと言われた』」
「これ、同じ場所ですかね」
最初の投稿には《標識四十》とあり、次の投稿には《西退避口付近》とあった。正確に同じ場所だと断言する材料はない。ただ、どちらも地図と現地の表示が食い違うことを訴えている。
「保留された理由は……《過度に不安をあおる表現》」
ネネは読み上げてから、もう一度画面を見た。
「『壁を指してる』って、過度な表現ですか?」
「現地を確認しないと分からないけど、本当に壁を指してたなら、むしろ控えめな表現じゃないかしら」
別の投稿には、さらに具体的な記載があった。
《案内図では避難階段につながっているのに、現地では点検扉の前で行き止まり。職員の指示で引き返した。誰かが閉じ込められる前に直してほしい》
その下に付いた処理記録は《公開保留・広報内確認待ち》。現地連絡欄は空白だった。
ネネは指で机の縁をなぞった。
投稿が正確かどうか、今は分からない。扉が正しく閉鎖されていた可能性もある。それでも、現地に知らせる価値はあったはずだ。
「七草さんに照会したいです。投稿者が見た日時と標識番号も添えて」
「そうしましょう。広報課から保安班へ渡した記録があるかも、先に確認ね」
柊木は隣の端末で連絡履歴を調べ、眉をひそめた。
「……ないですね。今まで、公開しない投稿は広報課で処理を終えた扱いになっていたようです」
「危険について書かれていても?」
「安全報告用の様式で送られたものなら、保安班へ届きます。でも口コミ欄に書かれたものは、そこへつながっていませんでした」
ネネは、以前の職場を思い出した。
道路が危ないという住民の話も、ゴミ収集の問い合わせの途中で聞いたからといって、ゴミの話になるわけではない。窓口を間違えた人の方が悪い、では済まないことがある。
「内容が危険に関係しているなら、入口が口コミでも連絡できる仕組みが必要ですね」
「全部回すとなると、現場に負担が……」
「全部同じ重さで扱わなくてもいいと思います。安全に関わる具体的な場所や状況があるものを、担当者が選別するとか」
柊木は鉛筆を手に取った。
「それなら運用を考えられます。ただ、公開の判断まで保安班に押しつけるわけにはいきません」
「そこは広報課の仕事でいいと思います。安全上どうするかを決めるのは、保安班です」
シズが頷いた。
「宣伝のために載せるかどうかと、危険情報を拾うかどうかは、別の仕事なのよね」
柊木は書類に新しい線を引いた。初めから悪気があったわけではないのだろう。宣伝と問い合わせ対応の両方を限られた人数で回そうとして、役割を混ぜてしまったのかもしれない。
それでも、誰も読まない場所へ置かれた訴えは、届かなかったのと同じだ。
*
保安班の事務室では、七草伊織が照会票を受け取ると、すぐに対応記録を開いた。
「標識四十の件は、現地巡回で指摘があった場所と近い。ただし、投稿だけでは同一箇所か判断できないわ」
「これまでの巡回記録と照らし合わせられますか?」
「やってみる。けれど、口コミの星の数は関係ないからね」
七草の声はいつもどおり淡々としていた。
「もちろんです」
「星が一つでも五つでも、壁があるなら壁はある」
「五つだったら、壁が消える仕組みがあればよかったんですけど」
「ないわ」
即答された。
図面係のモルンが、机の下からひょっこり顔を出した。
「壁が移動する仕組みならありますよ!」
「それで困ってるのよ」と七草。
「……そうでした」
モルンは抱えてきた図面を並べた。第七迷宮の案内図には、通路が移動するたびに更新される版番号が振られている。
「この投稿があった日に配布していたのは、第十六版です。翌週に第十七版を出しました。でも実際の表示板がいつ切り替わったかは、別の記録になります」
「出口消失事件と同じ種類の食い違いですか?」
「可能性はあります。ただ、まだ分かりません。現地でどの標識がどの版を表示していたか、確認が要ります」
モルンが珍しく慎重なことを言うので、ネネは思わず顔を見た。
「何ですか、その顔」
「いえ、今日は図面に巻き込まれていないんだなって」
「僕だって毎日巻き込まれるわけじゃ――」
そこで肘が巻紙を押した。机の端から転がった図面が、彼の足元を一周した。
「……今日は二回目です」
七草は拾い上げもせず、記録を読み進めた。
「標識の自動表示は、いま停止させてある。現地班が安全を確かめるまでは再開しない。問題の投稿と、巡回記録を紐づけて保全しておきましょう」
ネネがうなずいたところで、廊下から聞き覚えのある足音がした。
「ネネ、ちょっといいか?」
天城凱斗が顔を出した。
「呼ばれる前に来たの?」
「昨日の報告書の控えを受け取りに来た。そしたら広報課の人から、俺の星について訊かれて」
「あなたの星じゃないから。第七迷宮の評価だから」
「いや、そうなんだけどさ。『勇者様が星一つでは困ります』って言われたら、俺だって何か悪いことした気になるだろ」
モルンが床の図面から顔を上げた。
「勇者の星は一つだと、剣の切れ味が落ちるんですか?」
「落ちないよ!」
「じゃあ、安心ですね」
凱斗はまったく安心していない顔をした。
*
凱斗には、投稿を削除するかどうかを決める前に、事実関係の確認をお願いした。
「『戻れなかった』って書いたのは、助けが来るまで出口に行けなかったから?」
「そう。何度案内をたどっても、同じところに戻された。俺も焦ってたし、文章が雑だったかもしれない」
「今は十一人全員が帰還済みだよね。そこだけは、誤解がないようにした方がいいと思う」
「だったら書き直す。『帰還はできたが、案内が信用できない状態だった』って」
「事実なら、それがいいね」
凱斗はそこで、少し言いよどんだ。
「星も、増やした方がいいのかな」
「どうして?」
「迷宮が閉まったままだと、周りの店も困るんだろ。俺、勇者の名前で余計なことしたかなって」
ネネは答える前に、少し考えた。
凱斗が周りの人を心配するのは、今に始まったことではない。以前はその気持ちが先に走って、相手の返事を聞く前に物事を決めてしまうこともあった。
「カイト。星を増やしても、通路は直らないよ」
「……それは、そうだな」
「あなたが見た危険について、事実の部分はそのまま残してほしい。評価は自分で決めていいけど、誰かに頼まれて変える必要はないと思う」
「じゃあ、一つのままで」
「それも、私が決めることじゃないからね」
凱斗は笑った。
「難しいな。前は、ネネが『好きにしていいよ』って言うと、俺が決めてたのに」
「今回は本当に、あなたの投稿だから」
「分かってる。俺が決めた」
七草が報告用の紙を差し出した。
「投稿はあなたの体験として残していい。ただし安全上の正式な注意喚起は、こちらが確認した情報で出す。勇者の証言だけで通行許可が変わるわけではないから」
「はい。それと、あの……俺が書いていいことなら、一つ足したいです」
「何を?」
「助けてくれた保安班のことです。危険だったって話ばっかり書いたから、そこも伝えたい」
ネネは少し笑った。
「その感想も、カイトが本当に思ったことならね」
「うん」
凱斗は机に向かい、下書きを始めた。書き終わった紙には、前の文章より少し長い、落ち着いた言葉が並んでいた。
《案内表示と実際の通路が一致せず、一時帰還できなかった。保安班の誘導で全員帰還したが、通常経路は安全確認中。再開時には最新の公式案内を確認してほしい》
「星は?」とモルン。
「一つのまま」
「分かりました。じゃあ僕の今日の地図も一つで」
「地図は星の数で評価しないで!」
ネネと凱斗の声が重なった。
*
夕方、広報課と保安班の間で対応がまとまった。
凱斗の口コミは、本人の修正文を反映したうえで再公開する。保安班が確認した事実については、別に公式の安全情報として掲示する。第七迷宮は引き続き新規入場停止で、再開時期は未定。口コミ欄の近くにも、その情報への案内を置く。
過去に保留された投稿のうち、具体的な危険箇所や事故に関するものは、原文と処理履歴を残して現地担当へ照会する。調査を終える前に正しいと決めつけることも、都合が悪いからと消すこともしない。
「それから、パンフレットの《初めてでも迷わない!》という文句ですが」
ネネが切り出すと、柊木は観念したように頷いた。
「閉鎖中の案内からは外します。営業再開後の宣伝も、現地確認が終わってから見直します」
「あと、代表写真……」
「第九迷宮の湖ですね。そちらも修正します」
シズが小さく咳払いした。
「雨宮さん、全部聞けてよかったわね」
「はい。帰りまで覚えていられるか不安だったので」
柊木は苦笑しながら、改訂作業の控えを渡した。
「宣伝だけをしていればよかった頃とは、仕事が変わってきたんですね。安全情報の案内も、こちらで責任を持って載せます」
「ありがとうございます」
ネネは受領印を押した。
解決したのは、投稿の扱いだ。迷宮そのものの安全が証明されたわけではない。けれど、危険を知らせる言葉が途中で消えないようにすることなら、今日から始められる。
*
閉庁後、凱斗が建物の出口でネネを待っていた。
「今日、星一つのままでよかったかな」
「まだ気にしてるの?」
「正しいことを書いたつもりだけど、広報課の人にあんな顔されるとさ」
「星一つをつけたのはカイトでしょ。責任を持って書いたなら、そこは堂々としてていいと思うよ」
凱斗は頷いた。
「……昔、俺たちが行った食堂、覚えてる?」
「どこの?」
「駅の裏の、メニューが三つしかなかったところ」
「ああ。カレーがおいしかった店ね」
「あそこ、口コミは星二つだったんだよ」
「そうだったの?」
「俺、あの日行くの嫌がっただろ。星が少ないから。でもネネが『食べてみたい』って言うから入って、結局、俺の方がおかわりしてた」
ネネは笑った。店の主人が、二杯目のご飯を山盛りにしてくれたことまで覚えている。
「ちゃんとおいしかったね」
「うん。……星だけじゃ分からないこともあるんだな」
「その店はね。でも今回は、星の数より書いてある危険の方が大事だと思う」
「そうだな」
凱斗は、昔より少しだけゆっくり歩いた。ネネも隣を歩きながら、何を話そうか考えた。話題を選べる時間があるのは、悪くない。
ところが門を出る前に、庁舎の中からモルンが走ってきた。
「雨宮さん! ちょっとだけ!」
「もう閉庁ですよ」
「書類は明日でいいんです。でも、見てほしいものがあって」
差し出されたのは、広報課から保安班へ回された古い口コミの写しだった。
投稿者は別々で、日付も違う。ただ、どれにも一つの単語が共通していた。
《工事完了》
「この三件、通れない廊下を『工事完了』の表示で案内されたって書いてあるんです」
「工事が終わっているなら、通れるんじゃないですか?」
「それが、図面には接続済みになってるのに、現地の通行許可記録が見当たらなくて」
モルンは珍しく、図面を一枚も抱えていなかった。代わりに記録番号を書いた紙をしっかり握っている。
「本当なら、工事の完了と通行の許可は別のはずなんです。なのに、地図の更新では同じ扱いになってるみたいで……」
ネネは凱斗を見た。彼も思い当たるところがあるらしく、眉をひそめている。
「……それ、出口が消えたときの話と似てないか?」
「似ています。でも、まだ同じ原因とは言えません」
ネネはモルンから紙を受け取り、翌朝の確認事項として手帳に挟んだ。
口コミの星は、一つでも五つでも構わない。
けれど通れる道は、紙の上だけにあっても困る。
「明日、工事記録と通行許可記録を並べてみましょう」
モルンがほっとしたように頷いた。
「ありがとうございます。あと、図面を床に広げてもいい場所って、ありますか?」
「まず、ご自分が転ばない場所を探してください」
廊下に、凱斗の笑い声が響いた。
ネネはもう一度空を見上げた。今夜も星はきれいだ。
ただし明日からは、地図に描かれた星より先に、そこへ足を踏み出していいかを確かめる仕事が待っている。




