第35話 ゴブリンにも休憩時間をください!
翌朝、雨宮ネネが出勤すると、相談室の前に小さな横断幕が掲げられていた。
《昼休みを返せ! 討伐は営業時間内に!》
布の両端を持っているのは、膝ほどの背丈のゴブリン二人である。片方は妙に姿勢がよく、もう片方は眠たそうな顔をしていた。二人とも革製の胸当てを身につけているが、剣も棍棒も持っていない。
「おはようございます。迷宮管理局の雨宮です」
ネネが挨拶すると、姿勢のいい方が胸を張った。
「ゴブリン勤務者組合、臨時代表のグリグだ。話し合いに来た」
「横断幕は、どちらで用意されたんですか?」
「自分たちで縫った。『昼休み』の『休』だけ、一度間違えて縫い直した」
確かに、文字のそこだけ布が二重になっている。
「ずいぶん丁寧ですね」
「仕事では乱暴者を演じているが、手芸は得意だ」
隣のゴブリンが、ふわあ、と大きくあくびをした。
「こいつはノッコ。昨日、昼飯を三口食べたところで呼び出された」
「四口だ」
「四口だったそうだ」
ネネは受付を案内し、二人に番号札を渡した。グリグは番号を見て感心したようにうなずく。
「いい制度だな。俺たちの職場にも欲しい」
「番号札ですか?」
「いや、順番を勝手に増やされない制度」
なかなか切実な話らしい。
*
第七迷宮は、出口消失事件から引き続き本体を閉鎖している。先日ミミックのポコが停止札を飲み込んだ訓練棟も、点検が終わるまで休止中だ。
ただし、管理区域の南側には、独立した一般見学用の屋外実演場がある。出入りの経路が別で、保安確認も済んでいるため、こちらだけは営業を続けていた。
そこで働くのが、グリグたち契約ゴブリンである。
仕事は、冒険者見習いを相手にした模擬戦。あらかじめ決められた動きで飛び出し、攻撃を受けたら転がって負けを演じる。武器には防護術がかかっていて、致命傷を負うような仕組みではないが、転倒の衝撃も疲労も本物だ。
「一日に三回。朝二回、午後一回。間に休憩を取る。それが契約だ」
グリグが勤務表を広げた。字は几帳面で、各回の開始時刻の横に『負傷確認』『水分補給』『装具点検』の欄まである。
「ところが今週から、昼に一回増えた。昨日は二回だ」
「二回も?」
「一回増えたうえに、その追加分の再演だ。昼飯を食べようとしたら、『お客様がもう一度ご覧になりたいそうです』と呼ばれた」
隣のノッコが小さく手を挙げる。
「おれ、演目の途中で寝そうになった」
「それは危ないですね」
「だろ。倒れる役なのに、本当に倒れたら労災になるんだ」
シズがグリグから勤務表の写しを受け取った。
「実演場の運営からは、追加の出演を承諾したと聞いていたけど」
「俺たちは聞かれてない。現場の担当者が『勇者様も望んでいる』と言っただけだ」
ネネは昨日の相談票を思い出した。
《勇者による無断残業の強要にも抗議する》
「勇者というのは、天城凱斗さんですか?」
「そうだ。剣の上手な、あの勇者だ」
グリグの声が少し険しくなる。
「『もう一回お願いします』と言った。勇者に頼まれたら、俺たちは断れないと思われているんだろうか」
「分かりました。言ったことと、実際に指示した人を確認します。ただ、その前に」
ネネは二人の目を見た。
「今日の昼の実演は、どうなっていますか?」
「予定表には入っている。俺たちは出演を断ってきた」
「実演場の方へ、欠員が出ることは伝わっていますか?」
「昨夜、書面で出した」
グリグが取り出した控えには、受領印があった。
ネネはすぐにシズへ相談し、実演場の運営と保安班に連絡を入れた。舞台へ出る人員がいないなら、その枠を予定どおりに実施できるとは案内できない。別の魔物を急に投入することも、安全確認なしには認められない。
七草伊織からの返事は短かった。
《本日昼の追加実演は中止。通常枠の実施可否は現地確認後に判断》
「まず、今日の昼休みは守れそうです」
ネネがそう伝えると、グリグは深く頭を下げた。ノッコは安心したのか、椅子に座ったまま目を閉じた。
「……寝ました?」
「きのうから寝不足なんだ。少しだけ頼む」
相談室で昼寝をさせる規則は見当たらない。しかし、起こす理由も特になかった。
*
天城凱斗が呼び出しに応じて現れたのは、その三十分後だった。
ネネが事情を説明すると、彼は最初、ぽかんとした顔をした。
「俺が残業を命じた?」
「そう受け取られたみたい。昨日、実演場で『もう一回お願いします』って言った?」
「言った。でも、あれは……」
凱斗は途中で言葉を切った。ネネは続きを促した。
「見習いの子が、ゴブリンが倒れたあとに追い打ちしそうになったんだ。係員は止めてたけど、客席が騒いで、説明が聞こえなくてさ」
「それで?」
「次の回があるなら、俺が安全な距離から実演を見て、危ない動きをその場で説明できると思った。運営の人に『もう一回お願いします。危ないところを確認したいので』って」
ネネはメモを取った。
「誰にお願いしたの?」
「受付の責任者。ゴブリンたちには直接言ってない」
「昼休みの時間だと知ってた?」
「……知らなかった」
凱斗は眉を寄せた。
「でも、俺に勤務を増やす権限なんかないだろ」
「そうだよ。ただ、勇者が頼んだって聞いて、断りにくくなることはあると思う」
「そんなつもりじゃなかったんだけどな」
「うん。だから、誰がどう伝えたのか調べる」
シズが横から口を挟んだ。
「ちなみに天城さん。昨日の安全上の問題を、正式な報告にはした?」
「いや。運営の人に口で言えば伝わるかと」
「その運営が、何を伝えたか分からなくて困ってるのよ」
凱斗は返す言葉を失った。
ネネは思わず昔のことを思い出した。待ち合わせ駅の出口を決めるときも、彼はよかれと思って先に動き、必要な一言を省いていた。だが今回は、昔の彼ならどうだったかを考えても仕方がない。
「カイト。今から安全報告を書いてくれる? 私も現場を見に行くから、見たことだけを教えて」
「わかった。俺も一緒に行っていいか?」
「七草さんが許可した範囲ならね」
凱斗はうなずいた。
「……前より、ちゃんと聞かないとな」
「まだ報告書、一行も書いてないけど」
「そこは少し褒めてもらっても」
「書き終わったら考える」
*
南側実演場の客席には、小さな子ども連れの見学客が数組いた。
正面の舞台では、木製の砦に黄色い旗が立っている。訓練の筋書きは単純で、砦を守るゴブリンを冒険者役が追い払うというものだ。
舞台の袖には、回復用の水、予備の胸当て、休憩用の椅子が並んでいた。ただ、壁に貼られた予定表の一部分だけが、白い紙で継ぎ足されている。
《十二時十五分 特別追加公演》
《十二時四十五分 勇者監修・特別再演》
「勇者監修?」
凱斗が声を裏返した。
「俺、監修なんかしてないぞ!」
運営責任者のバルデンは、ふくよかな中年の男だった。ネネが追加公演の経緯を尋ねると、彼は営業日誌を抱えて説明を始めた。
「最近は見学のご希望が増えておりまして。勇者様が再演を望まれたので、ぜひ集客につなげようと」
「私は、人員を追加できる契約になっているかを確認したいんです」
「出演料は増やしていますよ」
「それは、出演者に提示しましたか?」
「……班長を通じて、そのつもりで」
ネネがグリグの署名欄を確認すると、そこは空白だった。隣には運営側の印だけが押されている。
「では、承諾済みとして登録した根拠は何でしょう」
「以前、追加出演に応じてくれたことがあったので……」
「以前は以前です。今回はどうですか?」
バルデンは黙った。
シズが予定表をめくると、昼休憩の欄に小さな文字が見つかった。
《混雑時は出演者の判断で短縮可》
「これ、いつから?」
「先週です。休憩を短くしてもらえれば回数を増やせますから」
「『出演者の判断で』とあるのに、判断を聞かずに枠を増やしてますね」
ネネが指摘すると、バルデンは困ったように眉を下げた。
「でも、休憩が終わったら別の組も出られるんでしょう? 少し早めるだけで」
そこへ、背後から低い声がした。
「倒れる役は、立ち上がれば終わりじゃない」
グリグだった。七草の許可を得て、当事者として現場確認に来ていた。
「一回転がったら、装具のひもが緩んでいないか見る。痛いところがないか確かめる。水を飲んで、次に何をするか頭に入れる。休憩は、ただ座っている時間じゃないんだ」
ノッコも後ろからのぞく。
「あと、飯を食う時間」
「それも大事だ」とグリグ。
バルデンは二人を見つめた。
「そこまで疲れるものなのか。みんな、いつも勢いよく倒れていたから」
「上手に倒れているんだ」とグリグは答えた。「上手だから疲れないわけじゃない」
その言葉に、凱斗が小さく息を呑んだ。
剣を振る側の彼にとって、相手は倒れて終わりの存在だったのかもしれない。けれど、そのあと身体を起こし、また舞台に戻るのは相手自身だ。
*
予定の昼公演が始まる少し前、実演場の外から声が上がった。
「勇者監修って書いてあるのに、今日はやらないのか!」
「子どもが楽しみにしてたんです!」
受付の前に、十人ほどの見学客が集まっていた。
ネネが事情を説明しようとすると、バルデンが先に頭を下げた。
「申し訳ありません。本日の特別公演は中止いたします。案内の変更が遅れました」
「急に中止って言われても!」
子どもの父親らしい男性が、声を荒らげる。
その後ろで、まだ小さな女の子が首をかしげていた。
「ゴブリンさん、病気なの?」
ネネは膝を折り、女の子と目を合わせた。
「病気ではないですよ。今日はお休みの時間なんです」
「お休み?」
「はい。みんな、働いたあとは休まないといけないから」
女の子は少し考えてから、父親の袖を引いた。
「じゃあ、ねてるとこ見に行っちゃだめだね」
「……そうだな」
父親はようやく声を落とした。
シズがすかさず、通常公演の再予約か料金調整の案内を始めた。特別公演を目当てに来た人には返金の選択肢も用意する。運営が宣伝した内容については、運営が責任を持って説明することになった。
そのとき、舞台の奥で木の板が倒れる大きな音がした。
全員が振り返った。
砦の裏から、訓練用の木槍が転がってきたのだ。続いて、空の胸当てが床へ落ちる。どうやら搬入係が片づけの途中で道具を積みすぎたらしい。
「子どもたちを下がらせて!」
七草が声を上げ、保安員が客席と舞台の間に入った。凱斗が木槍を拾おうと一歩出たところで、ネネは止めた。
「カイト、待って。七草さんの指示を!」
「……了解」
凱斗は足を止め、保安員が搬出経路を確保するのを待ってから、許可された道具だけを運んだ。
作業はすぐに終わった。けが人はいない。
「最近、舞台裏の荷物が増えてるのかしら」とシズ。
「追加公演のために、予備の装具をまとめて出していたんです」とバルデン。
ネネは現地写真と状況を記録し、七草へ渡した。安全確認が済むまでは、通常枠の再開についても改めて判断が必要になる。
大きな事故ではなかった。それでも、休憩時間を削って公演を増やすために動かしたものが、こんなところにまで影響している。
グリグは舞台を見回し、ぽつりと言った。
「俺たちは、仕事をやめたいわけじゃないんだ」
ネネが振り返る。
「子どもが驚いて笑うのは、嫌いじゃない。ノッコだって、倒れ方を練習してる。ちゃんと働いて、ちゃんと休んで、また舞台に出たいだけだ」
ノッコがうなずく。
「おれ、今日の昼飯、あったかいうちに食べたい」
それほど大きな野望だろうか、とネネは思った。
*
午後の協議には、運営側、ゴブリン代表、保安班、現地相談係が同席した。
結論は、意外なほど具体的なものになった。
実演は当面、契約どおり一日三回。追加公演は自動では組まず、担当するゴブリン本人の同意と、保安班による人員・休養・設備の確認を条件とする。休憩中は呼び出しをかけない。過去の追加出演については、実績と支払いを照合し、未払いがあれば契約担当が精算する。
昨日の安全上の疑問は、凱斗の報告書として別に受け付けた。追い打ちをしそうになった見習いへの注意は、模擬戦の開始前に行うことになり、勇者を広告に使う場合も本人の確認を必要とする。
「それから、この欄」
ネネは新しい勤務表の一角を指した。
《休憩時間中の追加出演 不可》
「ここの文字を小さくしないでください」
「……分かりました」とバルデン。
「裏に書き足すのもなしですよ」
「そこまではしませんよ」
「前の勤務表に、小さく書いてありましたので」
バルデンは返事をしなかった。
グリグが新しい表に目を通し、ようやく横断幕を畳んだ。
「今回は、いったんストライキを見送る」
ネネはほっとした。
「ありがとうございます」
「ただし、また昼飯を取り上げられたら、次は横断幕を三枚にする」
「どうして三枚?」と凱斗。
「縫うのが得意だからだ」
そこは労働争議の強みなのだろうか。
協議を終えたノッコが、袋から昼食を取り出した。具の多いサンドイッチだった。彼は一口食べて、満足そうに目を細める。
「今日は、五口いけそうだ」
「全部食べていいんですよ」とネネ。
グリグがうなずいた。
「あと、勇者にも言っておきたい」
凱斗は背筋を伸ばした。
「俺、悪気はなかった。でも、結果的にみんなの休みを削る話になった。ごめん」
「悪気があったかどうかを、俺たちは責めてない」
「……うん」
「今度、俺たちの実演を見たいなら、まず勤務時間を確認してくれ。それから、何を確かめたいのか、先に教えてほしい」
「そうする」
グリグは握手の代わりに、小さな拳を差し出した。凱斗が同じように拳を合わせると、ノッコが口いっぱいにパンを詰めたまま言った。
「つぎ、たおすとき、もっと派手にたおれてやる」
「無理しなくていいから」と凱斗。
「そこは、ほめろよ」
ネネは笑ってしまった。
*
閉庁前、凱斗が書類の控えを受け取りに来た。
「今日のこと、ちゃんと聞いてくれてありがとう」
「私は話を整理しただけ。決めたのはみんなだよ」
「でも、俺の言い分だけで片づけられてたら、グリグたちが困ったままだった」
ネネはペンを置いた。
「カイトって昔から、誰かを助けようとすると先に走るでしょ」
「……自覚はある」
「いいところでもあるよ。でも、助けられる側が何を望んでるか、たまには立ち止まって聞いて」
凱斗は少し考えてから、素直にうなずいた。
「ネネにも、そうすればよかったな」
思いがけず昔の話になり、ネネの耳がわずかに揺れた。
「……今は、ゴブリンの話をしてるんだけど」
「ごめん。でも、今聞いとかないと、また勝手に決めそうで」
「聞けば何でも教えるわけじゃないからね」
「うん。答えたくないときは、そう言って」
その返事は、昔よりずっと扱いやすかった。
凱斗が帰ったあと、シズが机の隅に一枚の紙を滑らせた。
《第七迷宮・安全に関する投稿の照会》
差出人は、迷宮案内広報課。
「今日の騒動の口コミかしら?」
「いえ、数日前の投稿みたい」
ネネは紙を読んだ。
《投稿者:勇者・天城凱斗》
《評価:星ひとつ》
《内容:退避路の案内が危険。実際に戻れなかった。確認されるまで利用を勧めない》
何度読み返しても、内容はまっとうな安全上の指摘に見えた。
ただし、広報課からの照会事項が妙だった。
《勇者による低評価投稿が集客に及ぼす影響について、削除の可否を確認したい》
「……削除?」
シズが肩をすくめる。
「星が少ないのが困るんでしょうね」
「出口が少ない方が困りませんか?」
ネネは、机の上の相談票を新しい束に重ねた。
どうやら明日は、星を増やすより先に、道を確かめる仕事になりそうだった。
彼女は今日の勤務表を閉じ、まず自分の休憩時間が削られていないことを確かめた。
よし。今のところは、守られている。




