第4話 婚約破棄の予定がないのですが!
「婚約破棄を予約したいのです」
午後一時ちょうど、薔薇の刺繍が入ったドレスの令嬢が、転生相談室のカウンターへ厚い書類を置いた。
雨宮ネネは七分前に開いた昼食の包みを、まだ半分も片づけられていなかった。勇者の恋愛相談が長引き、ようやく取り出したサンドイッチは、食べるより先に午後の受付ベルを聞く羽目になったのである。
「……婚約の破棄について、ご相談ですね」
「いいえ。破棄そのものは当然起こるはずですから、日時と会場を押さえたいのです」
「日時と会場?」
「断罪は王立学院の卒業記念舞踏会。来月の十五日、午後八時、庭園で。雨の場合は大広間へ変更でお願いいたしますわ」
ネネは窓口にある案内板を見た。転生相談、能力照会、身体変更に関する申立て。どこを探しても、婚約破棄の会場予約という項目は見つからない。
「恐れ入りますが、こちらは輪廻転生庁の転生相談室でして……」
「存じています。ですから、生まれ変わる際の予定どおりに進んでいないと申し上げているのです」
令嬢は書類の一枚目をめくった。細い指先には真珠の指輪。爪も髪もよく手入れされているが、その目の下だけは少し疲れて見える。
「わたくしはリディア・アルヴェイン。第百九十三世界、アルヴェイン伯爵家の長女です。転生前、悪役令嬢として波瀾に満ちた人生を送るつもりでおりました」
「悪役令嬢、ですか」
「はい。学園で皆から嫌われ、婚約者の王子殿下に大勢の前で断罪され、辺境へ追放される。そこから才能を開花させ、自由な人生を取り戻すのですわ」
実に手際よく説明された。生前、市役所で受け付けた移住相談でも、ここまで細かく転居先の人生を決めてきた人はいなかった。
「ところが、予定が一向に進みませんの」
「と申しますと」
「殿下が、わたくしに優しいのです」
ネネは思わず顔を上げた。
「……それは、よかったのでは?」
令嬢の笑みが止まった。
「どこがですの?」
頭の上で耳が伏せた。しまった。つい自分の基準で答えてしまったらしい。
「失礼しました。まず、どういう点でお困りなのかを伺います」
「わたくしが意地悪をしても、殿下は叱ってくださらないのです。先週など、親睦会の席でわざと紅茶をこぼしましたのに、火傷はないかと心配されました」
「それは心配しますよ」
「大切な書類をわざと落としてみても、一緒に拾ってくださって。夜会で無礼な振る舞いをしても、お疲れなのでしょうと帰りの馬車を用意されるのです」
ネネは隣の白瀬律を見た。白瀬も困った顔で端末を開いている。婚約者の王子殿下に関する記録があるわけではない。客の転生条件を調べるためだ。
「そうした振る舞いは、もうおやめになったほうが……」
「ええ、わかっております。ですから、ちゃんと断罪の日取りを確定したいのですわ。いつになるか決まれば、それまでは余計なことをせずに済みますもの」
どうしてそうなる。言葉に出しかけて、ネネは一度飲み込んだ。
リディアは次の書類を差し出してきた。題名は『断罪当日進行表』。開会の挨拶から婚約破棄宣言、涙を流すタイミング、追放後の馬車の手配まで、時間単位で記されている。
「ご覧ください。急な変更にも対応できるよう、三通り用意しておりますの」
「雨天時だけでなく、進行まで?」
「殿下が途中で謝り始めた場合の案もあります」
「殿下、まだ何もなさっていませんよね」
リディアは少し胸を張った。
「ええ。ですからこそ、準備が大切なのですわ」
「ちなみに、殿下がどうしても破棄を宣言してくださらない場合は、代理の方をお願いできまして?」
「婚約破棄の代理ですか?」
「どなたか威厳のある方を。悪役を断罪する役なら、勇者でも構いませんわ」
「勇者の方は、つい先ほど別のご相談でいらっしゃいましたが」
「まあ。では、その方に!」
「ご本人も恋愛でお困りでした。巻き込まないであげてください」
*
「転生条件を確認しました」
白瀬が端末を回す。記録には貴族階級での出生、語学適性、社交に関する補助能力が並んでいた。リディアの名も、今の姿も、本人が述べたとおりである。
しかし、どこにも「悪役令嬢」の文字がなかった。
「リディアさん。悪役令嬢として転生する、という条件は、どちらで確認されたのでしょう」
「申請時の案内ですわ。『貴族社会の中心で、あなたが物語を動かす』と」
「その文言だけ、ですか?」
「それに、貴族令嬢で、婚約者は王子で、学園にも通っているのですよ。ほかにどのような人生が考えられます?」
ネネにも思い当たる物語はあった。学生時代に友人が貸してくれた小説の中にも、似た展開はたくさんあった気がする。けれど、小説でよく見ることと、現実に必ず起こることとは別だ。
「お客様の転生記録では、家柄や適性は確認できますが、婚約が破棄される時期や、その後の事件は指定されていません」
「では、あの案内文は何だったのですか」
「文言の確認はできます。ただ、先の出来事までお約束する仕組みではないんです」
リディアは眉を寄せた。
「そんな。わたくし、断罪のあとに何をするかまで決めてきましたのに」
「ちなみに、何をされる予定だったんですか」
「各国を旅して、古い地図を集めるのです。誰にも行き先を決められずに、知らない町へ行ってみたくて」
そこで初めて、令嬢の声が明るくなった。
「王都の図書館にしかない測量図がありましてね。山向こうの街道は、今の地図と実際の道筋がまるで違うそうなのです。自分の足で確かめられたら、どんなに……」
楽しそうに語りかけたリディアが、ふっと口をつぐんだ。人のいる場所でこの話をするのは、久しぶりなのかもしれない。
「それなら、追放されなくても旅には出られるのでは?」
「伯爵家の娘が、婚約したままで各国を気ままに巡れるわけがありませんわ」
「王子殿下には、そのご希望をお話しになりましたか」
「……お話しできるわけがないでしょう」
なぜ、と問い返す前に、リディアは卓上の書類を揃えた。
「殿下は優しい方です。お願いすれば、旅に必要なものまで揃えようとなさるでしょう。でも、そうされたら、わたくしはまた誰かが敷いた道を歩くことになります」
ネネは返事を急がなかった。リディアは婚約者を嫌っているわけではなさそうだ。むしろ、傷つけたくないからこそ相手に先に破棄してほしいのだろう。それが相手の望みとも限らないのに。
「決めていた筋書きがなくなると、どうしたらいいかわからなくなりますね」
そう言うと、リディアは驚いたように顔を上げた。
「……あなた、そういう経験がおありなの?」
「私は人間に転生するつもりが、耳と尻尾がつきました。今も手続きの説明を求めているところです」
ネネの耳が言葉に合わせるように持ち上がる。リディアの視線がそこへ向いた。
「まあ。それはずいぶん思い切った配役変更ですわね」
「配役ではないと思いたいです」
「でも、似合っていますわ」
「ありがとうございます。……ただ、似合うかどうかと、私が選んだかどうかは別なんですよね」
その瞬間、リディアは唇を噛んだ。何かを言い返す代わりに、進行表をもう一度見つめる。
ネネは少し話が重くなりすぎたのを感じて、椅子を引き寄せ直した。
「ひとつ、今できることを確認しましょう。舞踏会で婚約を破棄する役を、誰が引き受ける予定なんですか」
「もちろん殿下です」
「殿下は引き受けているんですか」
「いえ。ですから、当日に――」
「驚かせて言わせる?」
「……そうなりますわね」
リディア自身、口にして初めて気づいたようだった。
「それは予約ではなくて、殿下への無断の仕事の割り振りですね」
白瀬が横から淡々と補足した。
「事前の同意がない場合、予定表には未確定と書くのが妥当です」
「白瀬さん。会議室の予約みたいに言わないでください」
「予約のご相談ですので」
リディアはついに吹き出した。上品に笑おうとしているのに、肩が何度も揺れている。
「お役所というのは、何でも予定表にしてしまうのですね」
「本日はお客様が持ってこられたんですけど」
自分の声に少し棘が混じったのを感じ、ネネは咳払いをした。笑わせるために困っている相手を追い詰めたくはない。
「ただ、舞踏会で殿下が何をおっしゃるかは、こちらでは決められません。リディアさんが将来どうしたいのかも、私が決めることではないです。そこは、さっき勝手に『よかったのでは』と言ってしまったので……すみませんでした」
リディアはしばらくネネを眺めてから、小さくうなずいた。
「では、わたくしが、わたくしの筋書きを書き直すしかないのですね」
「ええ。必要なら、転生前の案内に誤解を招く表現がなかったか、こちらで調べます。それとは別に、現地で婚約や旅のことを相談できる窓口も案内できますよ」
リディアは進行表の一ページ目を指で叩いた。
「それでも、いきなり殿下に『旅に出たい』とは言いづらいですわ」
ネネは、その気持ちなら少しわかると思った。本人が直接言うのが難しいから、役所へ申立てが来る。だからといって、他人に言わせれば済むわけでもない。
「でしたら、まずは伝える内容を整理してみませんか。断罪の台本ではなくて、話し合いのためのメモを」
リディアは少し考え、豪華な鞄から羽根ペンを取り出した。
「わかりました。お得意ですもの、段取りを作ることなら」
*
数分後、カウンターには新しい紙が一枚置かれていた。
題名は『殿下との協議事項』。
その下に、旅に出たい理由、婚約をどう考えているか、婚約者本人の希望を聞くこと、と箇条書きが続く。ネネは内容を確認しながら、最初の一行に目を留めた。
「『断罪を始める前に』は、削りましょうか」
「習慣で書いてしまいましたわ」
リディアがさらりと線を引いた。
「それと、殿下が旅を認めてくださったら?」
「行きます。たとえ反対されても、どうすれば行けるかは自分で考えたいです。でも、婚約を続けるかどうかまでは……まだ決められません」
「今決めなくてもいいと思います。お二人のことですから」
白瀬が手元の端末を閉じた。
「転生庁としては、将来の婚約破棄を確定することはできません。ただし、転生前の説明の照会は受け付けられます。記録の写しを取り寄せ、返答先を登録しましょう」
「お願いいたします。そこは、きちんと納得したいですもの」
ネネは受付内容を『将来の婚約破棄予約』から『転生前の案内内容に関する照会』へ変更した。以前の自分なら、突拍子もない相談だと決めつけていたかもしれない。今回は、何を約束できるかを最初に確かめられた。
「ところで雨宮さん」
「はい」
「悪役令嬢らしい威厳のある顔つきというのは、どう練習すればいいでしょう」
「まだ続けるんですか、その路線」
「たとえ悪役の予定がなくても、毅然とした態度は必要でしょう? 殿下に本音を話すとき、緊張してしまいそうで」
なるほど、そこは言われてみれば一理ある。ネネは背筋を伸ばし、役所で苦情を聞いていた頃に覚えた、丁寧だが譲らない表情を作ってみせた。
「こういう感じでしょうか。『恐れ入りますが、そのご要望にはお応えできません』」
「まあ、凛々しい。ぜひもう一度」
「『規則の範囲でお話を伺います』」
「完璧ですわ。敵役にも通用しそう」
白瀬がひとつ咳払いをした。
「雨宮さん、耳が震えていますよ」
「練習です。見ないでください」
「緊張しているのが、よくわかりますね」
リディアは笑いながら立ち上がった。さきほどまで握りしめていた進行表は、鞄の奥へしまわれている。
「ありがとうございました。断罪のご予約は、取り消させていただきますわ」
「もともと受け付けていません」
「まあ。手厳しいこと」
令嬢は一礼し、窓口の扉へ向かった。そこまで歩いたところで、ふと振り返る。
「もし殿下が本当に婚約を破棄なさったら、また伺っても?」
「転生時の説明に関するご相談でしたら」
「では、恋愛の結果報告は?」
「そちらは、できればご友人にお願いします」
リディアの笑い声が廊下へ遠ざかっていく。次の瞬間、彼女の姿が薄くなり、靴音だけが途切れた。転生先で目が覚めたのだろう。鞄も進行表も消え、相談室には使用済みの受付票が一枚だけ残った。
ネネは時計を見た。午前中には、魅力が最大でも恋人ができない勇者。午後には、婚約者が優しすぎて困る令嬢。輪廻転生庁の職員は、恋愛の専門家ではないはずなのに。
「白瀬さん。明日は、できれば普通の苦情がいいです」
「普通、ですか」
「たとえば、貸した物が返ってこないとか、失くした物が見つからないとか。そういう、落ち着いて確認できるものを」
白瀬は手元の次回予約一覧を開いた。
「それなら、ちょうど明日の午前に、紛失物の相談がありますよ」
「本当ですか。よかった」
「無限収納の能力をお持ちの方ですね。収納した物を取り出せなくなったそうです」
ネネの耳が、ゆっくりと後ろへ倒れた。
「……失くした物の数だけ、先に教えていただけます?」
「ご本人にも、わからないそうです」
新しい椅子は、今日も座り心地がよかった。残念ながら、それ以外に安心できる材料はなかった。




