第33話 罠の停止札を、罠が食べました
迷宮管理局に来てから、雨宮ネネが覚えた新しい仕事のひとつに、掲示物の生存確認がある。
避難経路の矢印は勝手に方向を変え、通行許可の表示は実際の通路より先に更新される。今度は、停止札を食べられたという。
「食べられたんですよね。風で飛んだとか、誰かが持っていったんじゃなくて」
ネネが尋ねると、織部シズは朝一番の連絡票を裏返した。
「担当者が目の前で見ているわ。赤い停止札を差し出したら、箱がぱくっと」
「差し出したら?」
「停止の表示は、本来は設備の外側に取りつけるものなんだけどね」
「何だか、もう嫌な予感がします」
第七迷宮は引き続き閉鎖中だが、その地上に併設された訓練棟は別の入口を持ち、一般向けの安全講習を行っている。剣の扱い方や簡単な罠の見分け方を学ぶ施設で、魔物との模擬遭遇も体験できるらしい。
今回の問題は、そこの訓練用ミミックだった。
生きた魔物なのに、台帳上は《擬態式罠設備・第七号》として管理されている。訓練時には宝箱になりきって参加者を驚かせ、噛みつく代わりに判定札を渡す。安全性を確かめるため、本日午前は訓練を止めて点検する予定だった。
「点検前に現地の係員が停止札をつけようとして、食べられたのね」
「はい。予備を持っていったら、それも食べたそうです」
「二枚?」
「正確には三枚。最後は『飲み込むな』と書いて差し出したんですが、その注意書きも食べられました」
ネネはしばらく口を閉じた。注意書きの内容を読ませたいなら、まず相手の口から離して見せるべきではないだろうか。
「で、困ったことに、入口の案内板にはまだ《午前の部・通常訓練》と出てるの」
「……点検で止まってるんじゃないんですか?」
「制御盤では停止処理が済んでる。でも現地に札がないから、何も知らない参加者には分からない。設備担当は口を開けさせて札を取り返すつもりらしいわ」
シズは続けて、今日の体験予約が十二組あると教えた。全員を帰せば済むと言いたいところだが、その案内もまだ届いていない。予約の問い合わせはすでに三件。うち一件は「開場前から並んでいるのに宝箱が開かない」という苦情だった。
「いえ、開かない方がいいんです。今日は」
「だから、現地へ行って、そこから説明しないとね」
*
訓練棟の入口には、見事な金色の宝箱が飾られていた。
箱の前では、革鎧を着た若者たちが記念撮影をしている。頭上の掲示板には《体験訓練 午前の部》の文字。だが横の扉には太い鎖が掛かり、《点検のため入場をお待ちください》と手書きした紙が貼られていた。
「開いてるんですか、閉まってるんですか?」
列の先頭にいた少女が尋ねた。ネネが答えようとしたとき、すぐ後ろの少年が言った。
「宝箱が出てるんだから、始まってるんじゃない? あれ、絶対レアなやつだよ」
金色の宝箱が、がたんと揺れた。全員が息を呑む。
「飾りじゃないの!?」
「お客様、その箱には触らないでください!」
ネネが声を張るより早く、箱のふたが持ち上がり、中から赤い停止札の角がのぞいた。
「ほら、景品!」
「違います! うちの備品です!」
駆け寄りかけた少年を、入口の係員が止めた。ネネはシズとともに列を後ろへ下げ、予約をいったん保留する旨を伝えた。見た目には金色の宝箱でも、実際には訓練場から勝手に出てきた生きた罠だ。誰も近づいていない今のうちに、扉の前を空けなければならない。
そこへ七草伊織が保安員を連れて現れた。
「訓練棟の一般入口を閉鎖します。予約済みの方は受付で払い戻しか日程変更を選んでください。訓練開始の案内が出ていますが、本日は使えません」
「えっ、でもさっき、稼働中だって聞きましたよ」と先頭の少女。
「制御盤では停止しています。ただ、現地表示が不正確です。どちらを信じていいか分からない状態で、訓練を始めるわけにはいきません」
七草の説明で人の流れがようやく変わった。シズは入場受付の職員へ連絡し、ネネは問い合わせ用の掲示文をその場で作る。表示の理由を説明せずに「危険だから」と書くだけでは、また別の憶測が生まれるだろう。
奥の作業室から、設備担当の牧野が飛び出してきた。片手に長い挟み具、もう片方に第四の停止札を持っている。
「七草主任! 対象が逃げまして!」
「見れば分かるわ。停止措置は?」
「制御盤の作動指示は切っています。ただし、個体の移動までは止められません」
「生き物ですからね」とネネ。
「いや、登録上は設備でして」
「設備が歩いたり、注意書きを食べたりしてる時点で、話を分けませんか」
牧野は言い返しかけたが、箱がもう一度揺れたので、挟み具を構え直した。
「ふたを開けて札を回収すれば、点検できます」
「本人は開けていいと言ってます?」
「本人、といいますと」
「その箱です」
牧野とネネの視線が宝箱に集まった。箱はかたかたと二度震え、蝶番のあたりから小さな声を出した。
「……あけるな」
牧野がぴたりと止まった。
「喋れるんですか?」とネネ。
「喋りますよ。訓練中も『残念でした』くらいは」
「だったら、今まで誰も事情を訊かなかったんですか?」
「喋る内容が、いつも苦情だったもので……」
ここでも苦情は苦情扱いされていたらしい。ネネは自分の耳が、知らないうちに後ろへ倒れていることに気づいた。
*
人が引いた広場で、ミミックは黙り込んだ。
箱の表面には大きな傷がある。装飾の金箔もところどころ剥がれていて、長年の訓練をこなした道具に見えた。ただし道具と違って、呼びかけると蝶番がゆっくり動く。
生体管理担当の職員が持ってきた記録には、ミミックの名前が《ポコ》とあった。訓練参加は本人が承諾した契約で、一定時間ごとに休息を取ることになっている。
「ポコさん。私、迷宮管理局の雨宮といいます」
ネネは規定の距離を保ってしゃがんだ。箱の高さまで目線を下げても、ふたの隙間が少し広がるだけだった。
「今は点検のため訓練を止めています。停止札を飲み込んだ理由を、聞いてもいいですか」
「……とめたら、もう、いらないんだろ」
思いがけない答えだった。
「誰かにそう言われたんですか?」
「まえの、はこ」
ぽつり、ぽつりとポコが話したところによると、以前隣の区画にいた古い宝箱型の装置が、故障したあと運び出されたのを見たらしい。その箱は魔物ではなく、純粋な機械だった。だがポコには、自分と同じ箱が《使用停止》の札をつけられていなくなったように見えた。
「赤いの、ついたら、いなくなる」
ふたがぎゅっと閉まる。ネネは背後の牧野を見た。
「廃棄の記録と、今日の点検は別ですよね」
「もちろんです。今回は定期点検で……でも、そんなふうに受け取っていたとは」
「説明はしましたか」
「説明書は渡してあります。訓練運用の手順を一式」
ネネが見せてもらうと、分厚い手順書には停止、退役、交換、撤去という言葉が似た書体で並んでいた。しかもポコに渡した写しには、魔物本人向けの説明が一枚もなかった。
「説明書を渡した」と記録した職員は、目の前でポコが「いらない」と震えているところを見なかったのだろう。ネネは手順書の角をそっと揃えた。
「点検したら、また訓練に戻れる可能性はあります。ただし、結果によって休養や別の方法が必要になるかもしれません。そこは検査が終わる前には決められません」
ネネがそう説明すると、ポコのふたが少し上がった。
「……ほんとに?」
「今日の停止札は、退役の通知ではありません。私からも記録に残します。それに、ふたを勝手にこじ開けるのは、やめてもらいます」
牧野が気まずそうに目を逸らした。
「前回の内部点検で、蝶番の固定具を入れようとしたんです。それが痛かったのかもしれません」
「いたかった」とポコが答えた。
「その時に言ってくださいよ」
「いった!」
鋭い声が響き、牧野が腰を引いた。
「……記録には、《検査時に暴れる》とだけ」
「それ、暴れた理由まで書ける欄はないんですか」とシズ。
「……ありません」
シズは一瞬黙り、ネネの方を見た。朝からこの案件を早く片づけようとしていた彼女の表情が、少し変わった。
「雨宮さん。設備の点検だけで終わらせたら、また同じことになるわね」
「はい。まずは、ポコさんの安全な診察方法を決めたいです」
生体管理担当が、外から蝶番や歯の状態を観察し、必要な内部確認はポコが納得してから行う方法を提案した。牧野には、身体に触れずに確認できる制御系の点検を先に進めてもらう。
ようやく話が通じ始めたと思ったとき、入口の向こうから聞き覚えのある声がした。
「ネネ! その箱、危ない!」
天城凱斗だった。
昨日まで第七迷宮の調査に協力していた勇者は、今日は別件の報告書を届けに来ていたらしい。騒ぎを聞いて外へ出たところ、ポコが牧野の手元の挟み具に噛みつこうとするのを見たのだ。
凱斗の右手が腰の剣へ動く。抜きかけた刃が鞘の留め紐に引っかかり、金具が大きな音を立てた。
「カイト、抜かないで!」
声は間に合った。だが、その音に驚いたポコが、長い舌を伸ばして足元の訓練用操作板を叩いてしまう。
ばしゃん、と音がした。
作業台の上に積まれていた模擬金貨が、仕掛けの筒から一斉に噴き上がった。金色の薄板が空中を舞い、牧野の頭に張りつく。罠の制御盤とは別電源の演出装置が、停止されずに残っていたらしい。退避していた予約客の一人が、遠くから拍手した。
「大当たりだ!」
「違います! 訓練は中止です!」
ネネの声が広場に響く。七草の保安員が操作板を切り離し、飛び出した模擬金貨を回収した。幸い、作業区域の外へは飛ばず、けが人もいない。ポコはふたをきつく閉じて震えていた。
凱斗は剣から手を離し、素早く一歩下がった。
「……すみません。人が襲われると思って、反射的に」
「見えていないところで判断しないでって、昨日習ったよね」
「うん。俺が間違えた」
彼が素直に謝るので、ネネはかえって言葉を失った。以前の彼だったら「危なかったんだから仕方ない」と一言くらい反論しただろう。
もっとも、昔より反省が早いからといって、金貨が空を飛んだ事実は消えない。
「ポコさん、怖かったよね。ごめんなさい。今は誰もふたを開けないから」
ネネが伝えると、箱の隙間から小さな声がした。
「……あの、けんのひと、きらい」
「当然だと思う」と凱斗。
勇者が宝箱に嫌われる。絵本なら大事件だが、いまは苦情処理票を一枚増やすだけで済みそうだった。
*
その後、シズが訓練棟の受付を引き受け、予約客への連絡を進めた。ネネは七草、牧野、生体管理担当と一緒に、運用を再開する条件を整理した。
制御盤の停止だけでは、見学客には休止が分からない。別電源の演出装置も、施設全体の停止点検に含めるべきだった。停止札を本人が飲み込める位置へ取りつける手順も、今日で見直す必要がある。生きたミミックの点検では、装置側の安全確認と本人の身体の確認を分け、どちらも記録に残さなければならない。
ネネが書いた変更案を、シズが横から読んだ。
「《停止表示は入場口に設置し、対象個体の口元に近づけない》……そこまで書くの?」
「三枚食べられましたから」
「《停止中の個体にも説明を行う》」
「黙って止められたら、また廃棄されると思うかもしれません」
「なるほど。じゃあ、受付の案内板も直さないとね。十二組に謝るのは私たちだもの」
シズはそう言い、予約案内の改訂を引き受けた。朝には一刻も早く札を回収したがっていたのに、今はその札がなぜ食べられたのかまで気にしている。ネネは少し嬉しくなった。
点検はその日のうちに完了しなかった。設備の停止状態と周囲の安全は確認できたが、ポコの身体に触れる検査は翌日に持ち越された。本人が納得できるよう、手順を見せてから相談することになった。
ポコはふたの隙間から赤い札を一枚だけ吐き出した。紙はふやけて、文字もほとんど読めない。
「残りは?」と牧野が尋ねる。
「まだ、ある」
「無理に出さなくていいですよ」と生体管理担当が言った。「まず、身体に負担がないか見ましょう」
ポコがふたを一度だけ閉じ、すぐに開く。こくりとうなずいたように見えた。
凱斗はしばらく遠くからその様子を眺めていた。剣は鞘に収め、両手を空けている。
「俺も、なんか書いた方がいい?」
「書くなら、近づいて剣を抜こうとしたことを。見たことと、思ったことは分けてね」
「了解。あと、さっきは本当に悪かった」
「謝る相手は私だけじゃないよ」
凱斗はポコへ向き直り、少し腰を折った。
「怖がらせてごめん。お前が何を嫌がっていたのか、聞こうともしなかった」
ポコは返事をしなかった。だが今度は、ふたをぎゅっと閉めたりもしなかった。
*
閉庁間際、訓練棟の使用停止が正式に掲示された。今度の札は、誰の口も届かない入口の柱に固定されている。
ネネが帰り支度を始めると、凱斗が廊下で待っていた。報告書はもう提出したらしく、両手には何も持っていない。
「今日は俺、役に立つつもりで来たのに、逆だったな」
「模擬金貨の片づけは手伝ってくれたでしょ」
「出した原因が俺だからな」
「そこ、ちゃんと覚えてるならよかった」
凱斗は笑いかけたあと、珍しく言葉を選ぶように足元を見た。
「昔さ。デートの待ち合わせ場所も、こうやって先に確認すればよかったな」
「……何の話?」
「俺が『この駅でいいよな』って決めて、違う出口で一時間待ったことあっただろ」
「あったね。しかも私に『遅い』って連絡してきた」
「そう。あのときも、ちゃんと訊けばよかった」
ネネはあの日のことを覚えていた。正確には、駅の反対側へ走りながら腹を立てていたことを覚えている。後から凱斗は謝った。ネネも自分が出口番号を確かめなかったことを認めた。結局デートはしたが、二人とも少し不機嫌だった。
「……じゃあ今は、先に訊いて」
「うん。帰り、一緒に歩いてもいい?」
思わず、耳が動いた。
「門までなら。途中で勇者らしい近道を見つけても、勝手に行かないでよ」
「わかった。今日は案内に従う」
二人で歩き出してすぐ、廊下の向こうから牧野が駆けてきた。
「雨宮さん! ポコが、もう一枚札を出しまして! その下から、こんなものまで!」
牧野の手には、透明な証拠袋があった。中には小さな銀の指輪が入っている。飾り石を留める爪の一つが曲がっていた。
「何ですか、これ」
「分かりません。訓練中に混ざったのか、前から持っていたのか……本人は『ぼくの』と言っています。でも、冒険者の遺失物届にも似た指輪があるらしくて」
凱斗が袋を覗き込み、何か言いかけた。ネネはその前に手を上げる。
「まだ、誰の物か決めないでください。預かった経緯と、ポコさんの話を別々に記録しましょう」
牧野がうなずいて戻っていく。凱斗は隣で、何やら感心したように息を吐いた。
「……宝箱って、思ったより面倒なんだな」
「今さら何を。中身があるだけ、普通の苦情より難しいよ」
ネネは窓口の明かりが消えるのを確かめ、凱斗と並んで歩き出した。
勇者にとって宝箱は、開ければ報酬が手に入るものだったらしい。迷宮管理局では、開けたあとに誰のものかを調べる仕事が待っている。
しかも、その宝箱本人まで、持ち主を名乗るのだから。




