第32話 勇者認定証は、通行許可証ではありません
迷宮管理局には、開庁前から行列のできる窓口が三つある。
入域申請、遺失物届、そして苦情受付。どこに並ぶか迷った人のための案内窓口まであるのだが、そこにも行列ができているので、初めて来た人はたいがい途方に暮れる。
雨宮ネネが今朝見つけた四つ目の行列は、窓口の前ではなかった。
「……何をしてるの、カイト」
閉鎖中の第七迷宮へ続く保安扉の横で、天城凱斗が立っていた。昨日と同じ外套に、今日はなぜか胸元から銀の飾り紐を垂らしている。後ろには冒険者が三人、興味津々といった様子で並んでいた。
「おはよう。言っただろ、協力の申請に来るって」
「聞いた。でも、受付はあっち」
「そうなんだけど、ここの係の人に、先に資格を見せろって言われてさ」
凱斗は胸元を指さした。飾り紐の先には金属製の札がぶら下がっている。
《勇者認定・第三等級》
ネネは嫌な予感がした。昨日の証書は開くと鐘が鳴った。今日の札は大人しそうに見えるが、油断はできない。
「……それ、光ったりしないよね」
「光るよ。暗い洞窟だと便利だから」
「今は明るいから、光らせないで」
「わかった。じゃあ身分確認だけ」
凱斗が札の裏を押した途端、勇ましいファンファーレが保安扉に響いた。
後ろの三人が拍手した。
「何で鳴らしたの!」
「俺も今、裏を押すと鳴るって知った!」
警備の職員が札を見上げ、真面目な顔で尋ねた。
「その音は緊急通報ではありませんね?」
「違います。すみません」
「では消音してください。現在、この区域では警報音の聞き分けが必要です」
勇者が神妙に飾り紐を外す。ネネは二度目のファンファーレが鳴らないことを祈った。
そこへ、保安班の七草伊織がやって来た。腰の小さな鍵束から一本を選びながら、凱斗の後ろに並ぶ三人を見た。
「あなたたちは?」
「勇者様が行くなら俺たちも入れるかと」
「入れません」
「でも、勇者様が――」
「認定証があるのは勇者本人でしょう。あなたたちには何がありますか」
三人は顔を見合わせた。うち一人が、使い込まれた鉄の兜を差し出す。
「……気合い?」
「通行書類の欄にはありません」
七草は保安扉の前へ《閉鎖中・許可なき立入り禁止》の札を追加した。すでに同じ札が二枚あるのに、三枚目でようやく周囲の人が下がったのだから、人間の視線というのは不思議なものだ。
凱斗が両手を上げる。
「俺は勝手に入ろうとしたわけじゃないですよ。申請はするつもりでした。ただ、現地で身分を見せた方が早いと言われて」
「その案内自体は間違っていないわ」と七草。「ただし、確認するのは資格と協力内容。入域許可ではありません」
「勇者認定があっても?」
「勇者認定は、あなたが勇者であることを示す書類です。いま通ってよい場所を示す書類ではありません」
凱斗は認定札を見下ろした。
「この札、ずいぶん立派なのに……」
「立派さで扉は開きません」
ネネは思わず頷いた。元彼がやり込められる光景が、なぜこんなに見慣れているのだろう。
*
相談調整係へ戻ると、織部シズが申請用紙を広げて待っていた。
「おはよう、天城さん。昨日のお話は七草主任に伝えてあるわ。今日はまず、どんな協力ができるかを聞かせてください」
「昨日通った経路の確認です。出口がずれた場所を実際に見たので、案内の間違いを伝えられます。それと、重い扉を開ける必要があるなら俺が――」
「現場の扉は勝手に開けない」とシズが先に言った。
「はい。そこはもう覚えました」
彼があまり素直に頷くので、ネネはかえって落ち着かなかった。昔の凱斗なら、言われたことを全部飲み込んでから、自分なりの近道を探し始める。市役所の手続きでさえ「直接担当者に会えば早い」と言い出して、二人で一度窓口をたらい回しにされたことがあった。
「……念のため、凱斗さんには立入禁止区域の図を大きめに渡した方がいいと思います」
ネネが口を挟むと、彼が顔をしかめた。
「そこまで信用ないか?」
「昨日までの行動を見ても、確認は必要だから」
「昨日はちゃんと指示に従っただろ。契約書も探しに戻らなかったし」
「戻ろうとはしてたよね」
「それは認めるけど……今は戻らないって決めて来てる」
不服そうな声だったが、凱斗は机を叩かなかった。手元の申請書に目を落とし、続けて尋ねる。
「俺が何をできるか、先に説明してもいいですか」
ネネはそこで、少し恥ずかしくなった。
彼が何かを勝手に決める前に止めようとして、今度は自分が彼の行動を決めつけていた。前世で交際していたからといって、現在の凱斗が何を考えているのかまでわかるわけではない。
「……ごめんなさい。聞きます」
凱斗は意外そうに顔を上げ、それから真面目な調子で話し始めた。
逃げる途中で見た、通路の曲がり角。避難の一行がいったん止まった場所。光る案内板の下を通った順番。彼が記憶しているのは剣を振るった回数ではなく、怪我をした依頼人をどこで休ませたかということだった。
「そのとき、北へ行けって矢印が光ってた。でも保安班の人は、南の退避室へ戻れって言ったんです」
「北の案内は、更新済みだったからかしら」とシズ。
「たぶん。でも変だったんですよ。矢印が光ってるのに、その先の壁が閉じてた」
ネネは、第七迷宮の救助記録を開いた。案内板の更新通知は届いていたが、実際の通路の接続確認は遅れていた。その食い違いは、救助後の共同報告にも残っている。
「七草主任には、この位置で案内板を見たと伝えていい?」
「もちろん。俺が見た場所が違うかもしれないから、地図と照らしてほしい」
その言い方に、ネネの指が止まった。
以前の凱斗は、道に迷っても「こっちで合ってる」と言い張ることが多かった。自信があるのは長所でもあったが、二人で出かけたときには、目的地まであと十分と言われて四十分歩いたことがある。
凱斗はネネの表情を見て、心外そうに眉を上げた。
「何」
「昔なら絶対、『俺が見たんだから間違いない』って言ってたなと思って」
「そりゃ、勇者になってからも何度か道に迷ったからな」
「何度か?」
「……数えると自信なくなるくらい」
シズが申請書へ目を戻した。
「では、証言協力をお願いします。場所の特定は図面担当と保安班で行います。天城さんの記憶だけで確定はしません。それでよろしい?」
「はい」
「いい返事。雨宮さん、資料の照合を頼める?」
「はい」
シズはそこまで言って、二人の顔を交互に見た。
「ひとつ確認しておくわね。雨宮さん、あなたが彼の昔を知っていることと、彼が今どんな仕事をするかは別。わかってる?」
「……今、よくわかりました」
「天城さんも。彼女が前世で何をしてくれたかは、ここでの手続きとは関係ないからね」
「はい。それも、わかってます」
ネネは、シズが二人の事情を聞きたがらない理由を少し理解した。気づかないふりをしているのではない。仕事に関係のないところへ踏み込まないために、あえて線を引いているのだ。
*
申請書には、いかにも迷宮管理局らしい欄があった。
《参加可能な作業:案内補助・証言・荷役・その他》
《立入り希望区域:____》
《安全教育:受講済/未受講》
凱斗が《その他》へ大きな丸を書き、横に《魔物討伐》と記入する。
「安全調査の協力申請ですよね?」とネネ。
「万一、魔物が出たら役に立つかと」
「その場合は保安班が判断します。討伐を頼むための申請ではありません」
「勇者って、こういう書類だと使い道が狭いんだな」
「剣より使いやすい筆記具を持ってきてくれて助かります」
凱斗は笑いながら《証言》へ丸を付け直した。《荷役》にも丸を付けたかったらしいが、シズに「必要になったら保安班が検討する」と言われ、いったんペンを置いた。
そのとき、図面保守担当のモルンが地図を抱えて飛び込んできた。
「七草さんからです! 通路の検証に、現場を覚えている方のお話が必要だそうです!」
うれしそうに広げた地図が、机から垂れ下がる。巻き戻ろうとする端を凱斗が押さえると、モルンは目を輝かせた。
「すごい! 勇者さんですね!」
「わかる?」
「見たことあります、その紋章。地図を押さえてくださる方は初めてですけど!」
凱斗は片手で地図を押さえたまま、妙な顔をした。
「勇者が役に立つって、こういうことか……」
「少なくとも、今はすごく助かります!」
そこへ七草からの通信が入る。現地での検証は、閉鎖区域の外側に設けた固定の観測区画から始めるという。危険区画そのものに入る必要は、まだない。
「では、安全教育を受けていただいてから、観測区画へご案内します」とシズ。「立入許可は保安班の判断で、区域と時間を限定して発行します。もし今後、閉鎖区画に入る必要が出ても、それはまた別の申請です」
「つまり、今日の許可で全部の場所に入れるわけじゃないんですね」
「そのとおり」
凱斗は頷いた。ネネは、彼が一度で理解したことに少し安心した。
ところが安全教育の理解確認で、彼の手が止まった。
《問三 通路上で見慣れない箱を発見した場合、適切な行動を選びなさい》
選択肢は三つ。
一、拾って遺失物窓口に届ける。
二、剣で叩いて正体を確かめる。
三、距離を取り、位置を記録して保安班へ連絡する。
「……これ、箱が宝箱だったら?」
「それも含めて三番です」とネネ。
「人の持ち物だったら?」
「三番です」
「じゃあ魔物だったら――」
「それも三番!」
凱斗は渋々といった様子で三番を選んだ。
「昔だったら、二番を選んでた」
「二番だと、箱が怒るかもしれないから」
「箱が怒る?」
「この迷宮、ミミックもいるの」
ネネの説明に、彼は素直に目を丸くした。
凱斗にとっては、宝箱に化けて襲ってくる魔物だ。ここでは動く設備や住みついた魔物が管理対象になり、危険なのか、契約のある魔物なのか、現場の確認が必要になる。剣で斬れば報告は早いが、壊したあとの責任はそれほど簡単ではない。
「冒険者向けの案内書にも、もう少し大きく書いてほしいな」
「それは正当なご意見として受け付けます」
「お前、なんか嬉しそうだな」
「お客さんが正しい改善案を出してくれたら、そりゃ嬉しいよ」
そう答えたとき、ネネは、仕事中に彼へ笑いかけたのが今日初めてだと気づいた。
*
午後、七草の指示で観測区画への同行が認められた。
許可証には、区域と時刻、同行する保安担当者名が明記されている。凱斗の勇者認定証ほど華やかではない。灰色の厚紙に、読みやすい黒い文字。光もしなければ、音も鳴らない。
「……地味ですね」と凱斗。
「それが正式な通行許可証よ」とシズ。「読めれば仕事をするには十分」
凱斗は認定札をしまい、許可証を胸の前へ付けた。ネネは少しだけ面白くなかった。勇者の飾り紐より、ずっと似合っているように見えたからだ。
観測区画は、通常出口に通じる廊下の手前にあった。床には黄色い線が引かれ、線の先は保安班の管理区域になっている。壁には、例の《出口はこちら》の案内板がまだ取り付けられていた。
「……あれです」
凱斗が言った。
「閉じ込められたとき、あの矢印が北を向いていた。今は右だけど、板の根元にひびがある。覚えてます」
モルンが図面の番号を確かめ、七草が現地の座標標識と突き合わせた。確かに、凱斗の言う位置だった。観測区画から見る限り、通路の接続は戻っているように見える。しかし七草は扉を開けようとしなかった。
「案内板の表示と、接続位置の記録は取れた。次は設備班の検査を待つ」
凱斗が口を開く。ネネは彼が「俺が行って確かめる」と言う気がして、先に身構えた。
「七草さん。あの案内板、今は出口が戻ってるから光ってるんですか?」
予想と違う質問だった。
「現地制御盤の状態は、これから照合する。なぜ?」
「俺たちが逃げてたとき、壁が閉じてるのに矢印だけ動いたんです。出口の位置が変わったのか、案内だけが変わったのか、それで判断できなくなった。今も、もしあの板だけ先に『通れる』って教えたら……また誰かが迷うんじゃないかと思って」
七草は案内板を見上げた。
「そこは調べる価値がある。モルン、表示の更新記録と現地の切替記録を分けて持ってきて。表示が通行許可の代わりになっていないか確認する」
モルンが慌てて手帳を広げた、そのときだった。
壁の案内板が、ちかちかと二度またたいた。矢印が右から左へ回り、《出口はこちら》という文字だけを残して止まる。左は、七草が立入禁止にしている閉鎖通路だった。
「ほら、これです!」
凱斗が声を上げた。思わず身を乗り出しかけた彼を、七草が片手で制した。
「黄色い線から先には出ない。モルン、表示が変わった時刻を控えて。技術班に電源を切り分けさせるから、まず記録を保存する」
「はいっ。ええと、今の時刻は……」
モルンが何枚もの図面をめくり、時計を探し始める。
「時計は壁にあります!」
ネネが教えると、モルンは耳を赤くした。七草は現場の設備職員に連絡し、記録を保存したうえで案内板の自動表示を停止させた。表示面には仮の覆いが掛けられ、その上へ《出口案内停止中。保安員の指示に従ってください》という札が取りつけられる。
人を惑わせる矢印が、ようやく黙った。
「これで、表示の切替えと実際の通路が一致していなかったことは確認できた。原因の特定は設備側の調査を待つ」
七草がそう言うと、凱斗は頷き、足もとの線を見た。
「俺、今日ここに来てよかったですかね」
「あなたの証言がなければ、現場の確認は別の順番になっていた。役に立ったわ。ただし次からも、許可が出ている場所でね」
「はい。勇者認定証じゃなくて、こっちの許可証で」
その答えを聞き、七草は満足そうに一度だけ頷いた。
ネネは、凱斗の発言をそのまま記録へ落とした。《本人が観測した案内板の挙動》《本日確認された誤表示》《原因は調査中》。以前の職場なら、ここまで揃えるころには「確認中」の札が三枚増えている。
「勇者さん、ひとつ訊いていい?」
シズが凱斗に声をかけた。
「どうして今日は、扉を開けると言わなかったの?」
「昨日、救助してくれた人たちにずいぶん迷惑かけたので。俺が勝手に動くと、また誰かが止めに来るだろうし」
彼は少し考えてから付け加えた。
「それに、俺が見たものの意味は、俺一人じゃ決められないから」
ネネは顔を上げた。
生前の凱斗が同じ言葉を口にしたことは、おそらく一度もない。少なくとも、ネネは知らない。それが寂しいのか、嬉しいのか、すぐには決められなかった。
*
夕方、凱斗の調査協力は予定の時刻で終了した。
彼の名で提出された報告には、《現場証言》《保安教育受講済》《固定観測区画への限定入域許可》と記されている。閉鎖区画への通行許可は、今日も出ていない。
「正式に協力してもらって、助かりました」とネネが言うと、凱斗は首を傾げた。
「ネネがそういう言い方すると、ちょっと照れる」
「職員として言ってるの」
「わかってる。それでも嬉しいって話」
彼は認定証をもう一度取り出しかけ、思い直して鞄へ戻した。
「明日、また来てもいい?」
「次の確認が必要なら、担当から連絡があるよ。見学だけなら今は受け付けてない」
「いや、仕事の話じゃなくて……閉庁後に、少し話せないかと思って」
ネネは即答しなかった。断る理由を探しているのではない。会えばきっと、仕事では聞けないことを聞くことになる。彼がいつ死んだのか、自分と別れてから何をしていたのか。そうした質問を、答えの用意もないまま投げるのが怖かった。
「今度の休みに、時間が取れるか見てみる。まだ約束はできないけど」
「うん。それでいい」
「勝手に店を予約したりしないでよ」
「……そこまで信用ないのか」
「さっきより少しある」
凱斗は笑った。今度は言い返してこなかった。
彼が帰ると、シズが机の上に小さな連絡票を置いた。
《第七迷宮・設備点検に関する追加相談》
《対象:罠設備の停止表示》
《申立て内容:停止札を取り付けようとしたところ、設備に食べられた》
ネネは目を閉じた。
「……設備が?」
「設備として登録されたミミックらしいわ」
「停止札を?」
「ええ。飲み込んだって」
七草からの追記がある。
《現地職員による接近作業を一時中止。設備班と生体管理担当に合同確認を依頼済》
ネネは今日の安全教育の問三を思い出した。見慣れない箱を見つけたら、距離を取って報告する。
勇者に三番を選ばせたばかりなのに、今度は役所の方が箱に書類を食べられている。
「勇者認定証で、箱を説得できませんかね」
「ファンファーレが鳴るなら、まず音を止めないとね」
シズは真顔で答えた。
ネネは明日の予定表を開いた。そこには、赤い文字で《罠設備・緊急調整》と書かれている。
異動してからまだ数日。勇者にも、魔物にも、ついには設備にまで言うことを聞いてもらえない。
迷宮管理局の仕事は、どうやら受付順より、食べられない順に進める必要がありそうだった。




