第31話 元彼が勇者になっていた件について
署名欄の名前を見てから、雨宮ネネは同じ行を四回読んだ。
《天城 凱斗》
読み間違いなら三回目くらいで気づきそうなものだが、四回読んでも天城凱斗だった。漢字も同じ。前世で付き合っていた男の名前と、一画たりとも違わない。
「雨宮さん、受付番号が点滅してるわよ」
隣から織部シズが声をかけた。ネネが視線を上げると、呼出端末は《二十八番 待機中》を示している。申請書の受付番号も二十八番だった。
「……二十八番の方、ですね」
「そうよ。昨日までのあなたなら、もう呼んでるところ」
「昨日までの私に代わってほしいです」
「異動したばかりなのに?」
事情を説明できないままネネが黙ると、シズは申請書をちらりと見た。眉がわずかに動いたが、余計なことは訊かず、窓口の前へ椅子を一脚増やした。
ネネは呼出ボタンを押した。
「二十八番でお待ちの、天城凱斗様」
声が自分でも驚くほど硬かった。
待合の奥で、大柄な男が立ち上がる。短く切った黒髪に、日に焼けた肌。肩から下げた外套の留め具には、銀色の剣を象った徽章があった。剣そのものは保安班へ預けたらしく、腰のあたりだけが妙に軽そうだ。
顔は知らない。少なくとも、ネネの記憶にある凱斗の顔ではなかった。前世の彼はこんなに背が高くなかったし、目の色も違う。もっとも、今のネネだって耳が頭の上に生えている。昔の写真と見比べられたところで、言い訳できる自信はない。
男は席に近づくと、開口一番、書類を指さした。
「俺の申告、今日中に受けてもらえますか。護衛の依頼人に報告しないといけないんで」
「相談の受付はできます。まず、本人確認からお願いします」
「はい。勇者認定証ならあります」
男は外套の内側から折り畳みの証書を取り出した。縁に金糸が縫い込まれ、中央には立派な紋章が浮き上がっている。ネネが期待したのは氏名欄だったが、証書は開くと小さな鐘の音を立てた。
《勇者認定・第三等級》
さらに光の文字が空中へ広がる。
《魔獣討伐歴 三十二件》
《地域貢献表彰 五件》
《勇敢なる――》
「すみません、光る部分を止めていただけますか。本人確認に必要な欄が隠れてしまって」
「あ、そうか。これ、普通は見せると喜ばれるんですけど」
「こちらは受付なので」
男が証書の隅を二度押すと、音楽の終わり損ねたような音が鳴って文字が消えた。ようやく現れた氏名と登録番号は、申請書の記載と一致している。
その指の動きを、ネネは知っていた。
生前、凱斗は電車の改札で切符を入れたあと、戻ってきた切符を指で二度叩く癖があった。なくさないためのおまじないだと言っていたが、一度なくして二人で駅員室へ行ったことがある。今の男は、全然違う手をしている。それなのに動かし方だけ、妙に同じだった。
「天城……凱斗さん」
「はい」
「お名前は、生前から同じ表記をお使いですか」
言ってしまってから、受付の質問としては踏み込みすぎたと気づいた。こちらが業務上確認すべきなのは、現地登録と申請書の一致であって、生前の名前ではない。
男は怪訝そうに瞬きをした。
「転生者だって、わかるんですか」
「転生者の方は珍しくありません。ただ、今の質問は必要ありませんでした。失礼しました」
ネネが身分照合用の端末へ視線を戻そうとすると、男がふいに首を傾げた。
「……その声」
思わず顔を上げる。
「さっき通信で話してくれた人ですよね。怪我した依頼人の希望を聞けって」
「はい。私です」
「それだけじゃなくて、なんか……」
男はネネの顔を見た。長い耳へ視線が移り、さらに、背もたれの脇からのぞく尻尾へ落ちた。そこからもう一度、顔に戻ってくる。
「まさか」
嫌な予感がした。いや、嫌というより、予感していたことが現実になろうとしている。その区別を考えている場合ではない。
「……ネネ?」
昔の呼び方だった。
ネネの耳が、本人の許可なく勢いよく立った。隣でシズが「あら」と小さく言った。
「カイト……?」
男の目が見開かれる。次に、信じられないという顔で笑った。
「本当にネネかよ。お前、なんでここに――いや、待て、耳!」
「そこからですか!」
「だって耳だぞ!」
「私だってあなたの格好について聞きたいことが山ほどあります!」
「何、勇者の格好?」
「そこは説明いりません! さっき自分で光らせてましたから!」
待合にいた二人の職員がこちらを見た。ネネは慌てて声を落とし、机の上の番号札を指で押さえた。凱斗もつられて番号札を見たが、こちらは何も光らない。
「……知り合い?」
シズが聞いた。
「前世で、その」
「元彼です」
答えたのは凱斗だった。
ネネは彼を睨んだ。訂正すべき箇所はない。ないが、本人の了承なく、しかも職場で二秒で公表する内容ではない。
「ええと、元彼です。すみません」
「謝るところなの?」
「なんとなく……」
「なら、まず手続きをしましょう。雨宮さん、この件は私が主担当になるわ」
シズは手際よく担当者欄を変更した。ネネが戸惑っていると、理由を聞かれるより先に説明する。
「知り合いを担当しちゃいけないって決まりではないけど、今の状態だと、お互い必要な確認より余計な質問をしそうだから。救助の連絡記録を作ったあなたには、資料整理を手伝ってもらう。天城さん、それでいい?」
「構いません。あの、別に俺、優先しろとか言うつもりじゃ――」
「そういう話はまだ誰もしてないわよ」
凱斗は口を閉じた。ネネは思わず吹き出しそうになり、椅子の背に身を寄せる。懐かしい。何か言う前に、言い訳までまとめて喋るところが。
*
相談の内容自体は、きわめてまともだった。
凱斗は第七迷宮で、採掘関係者の護衛を請け負っていた。避難中に契約書の控えが見当たらなくなり、依頼主へ提出する予定の業務報告に、通行不能だった時間と現場で受けた指示を正しく記載できなくなっていた。護衛を中断して帰ってきたのではないことも、確認してほしいという。
「依頼主さんは無事なんですね」
ネネが尋ねると、凱斗はうなずいた。
「さっき医療担当に引き渡しました。足は痛そうだったけど、命に別状はないって。ただ、俺、契約の控えを落としたって言ったら……」
「何か言われた?」
「『また戻って探すなよ』って。三回言われました」
三回で済んだのは温情かもしれない。ネネが心の中で数えていると、シズが通信記録を開いた。
「契約書そのものの再交付は、こちらではできません。契約を取り交わした窓口か、原本の保管先へ相談していただくことになるわ」
「はい」
「その代わり、避難が始まった時刻、保安班から出された指示、あなたが地上へ戻った時刻は、確認できる範囲で証明できます。護衛契約を果たしたかどうかの判断とは別だけどね」
「それで助かります。俺が勝手に逃げたみたいに書かれたくないんで」
ネネは記録を照合しながら、凱斗が避難の最後まで現地に残っていたことを確認した。保安班に書類の捜索を止められた時刻も残っている。都合の悪い部分だけ消すわけにはいかないので、そこも含めてまとめる。
「ちなみに、なんで控えを持って迷宮へ入ったんですか。原本を預けたときに写しを取りませんでした?」
「取った。持ってた方が、何かあったとき説明しやすいだろ」
「その『何か』のために、避難中に戻ろうとしたんですね」
「……今そう言われると、馬鹿みたいだけど」
「馬鹿というか、紙を大切にする順番が少し」
「お前、そういう言い方するの、昔から変わってないな」
ネネはペンを止めた。
昔の、という二文字は便利だ。目の前の仕事に突然、二人しか知らない時間を持ち込めてしまう。
「天城さん。お話は今回の避難についてお願いします」
「……はい。すみません」
ネネの敬語が硬くなる。凱斗も背筋を伸ばす。見ていたシズは何も言わず、二人の間に申請書を一枚差し入れた。
「じゃあ、これは本人が確認して。『依頼人への連絡を、私に代わって職員が行うことを希望する』。希望するかしないか、どちら?」
「どっちでも――」
凱斗が途中で口をつぐんだ。
ネネも反射的に顔を上げていた。
「どっちでもいい、は本当にどっちでもいいときだけ言ってよ」
言葉が先に出てしまった。凱斗の指先がぴたりと止まる。
「……お前、それまだ言うのか」
「あなたがまだ言うからでしょう」
「いや、今のは、ネネ……じゃなくて雨宮さんに負担かけたくないって意味で」
「なら、そう言ってください。必要なのは、依頼主さんにあなた自身で連絡するかどうかの希望です」
凱斗は口を開きかけ、閉じた。それから、書類をもう一度読んだ。
「俺が自分で連絡します。状況は説明したいし、本人にも確認したい」
「わかったわ。それなら代理連絡は希望なしね」
シズが淡々と記入する。
ネネは机の陰で膝をつねりそうになった。仕事の話をしていたはずなのに、気づけば昔の喧嘩の入り口に立っている。別れてから一度も顔を合わせていないのに、口論になりかけるまでの時間は、驚くほど短かった。
凱斗がネネを見る。その目つきは前世と違うのに、言いたいことを飲み込むときの眉の寄せ方は覚えているものだった。
「……ごめん。今のはちゃんと考えて答えるべきだった」
ネネは思いがけず、返事に困った。
かつての凱斗なら、「そこまで細かく決めなくてもよくない?」と笑っていたかもしれない。今の彼は、笑わずに書類へ向き直っている。勇者になったからなのか、別れてから過ぎた時間のせいなのか。確かめたくても、この席で尋ねることではなかった。
*
証明書の発行には、保安班の確認印が必要だった。
シズが七草主任へ照会を出すと、数分後には、避難中の指示記録と当事者の退出時刻をまとめた回答が届いた。迷宮内の遺失物については、閉鎖区画の安全点検が終わるまで捜索しないことも明記されている。
「剣で壁を斬ってでも書類を取りに行く、なんて言わないでしょうね」
シズが確認すると、凱斗は不満そうに鼻を鳴らした。
「俺だって、もうやりませんよ。閉じ込められて懲りましたから」
「二日前なら?」
「……少し考えたかもしれません」
「正直で結構」
相談票に添付された救助記録を見ながら、ネネは彼の署名を改めて眺めた。異世界の文字から変換されても、凱斗の名前は凱斗のままだ。
あれほど近くにいたのに、別れてからは連絡を取らなくなった。元気でいるかどうかさえ、知らなかった。ネネは生前、凱斗が遠くへ行ったとばかり思っていた。本人を目の前にしてみると、その「遠く」が思っていた以上だったらしい。
「これで当局からお出しできる記録は揃いました」
シズが説明すると、凱斗は丁寧に頭を下げた。
「助かりました。帰ったらギルドで契約の控えを再交付してもらいます。依頼人にも、まず無事かどうか聞いてから」
「その順番でお願いね。補償や契約上の評価は、こちらで決めることではないので、必要な資料は依頼先へ提出して」
「はい」
凱斗が立ち上がりかけると、ネネが思わず声をかけた。
「天城さん。もう一つだけ」
彼が振り返る。
「再入域の許可は、まだ出ていません。書類を探しに戻るのは、やめてくださいね」
「わかったって。そこまで信用ない?」
「今回の経過を見る限り、慎重に確認した方がいいと思います」
「元カノにそんな言い方される勇者、俺くらいだろ……」
少なくとも、ネネが知る限りでは一人だ。調べるつもりもない。
シズは発行済みの記録を封筒へ入れ、窓口の外へ視線を向けた。
「あと七分で閉まるわよ。個人的な話は、勤務が終わってからにしてね」
ネネの耳が跳ねた。時間のことなど、完全に忘れていた。
「すみません!」
「だから謝るところじゃないって」
シズは笑って、次の整理券を呼びに行った。
ネネは資料を片づけながら、凱斗がまだ窓口の前にいることに気づいた。彼は手渡された封筒を握ったまま、そこから動けずにいる。
「……ネネ」
今度は仕事の名前ではなかった。窓口の奥を気にしていたのか、彼の声は少し低い。
「お前も、こっちに来てたんだな」
「……うん」
「俺、てっきり、もう会えないと思ってた」
ネネは封筒を握る手を見た。前世と違う手だった。けれど、あの駅の改札で切符を叩いていた指と同じ癖がある。
「私も。あんたが死んでるなんて、知らなかった」
「……そうだよな。別れてから、連絡してなかったし」
「私も死んでるんだけどね」
「いや、それが一番びっくりした」
「勇者になってる方が、私にはびっくりだよ」
凱斗は笑いかけて、途中で真顔になった。
「何があったんだ?」
「いろいろ。話せることはあるけど、今すぐ全部は無理」
返事が硬くなった自覚はあった。だからといって、急に優しく取り繕う気にもなれない。凱斗だって、聞かれたら困ることがあるだろう。
ネネは窓の向こうへ目をやった。廊下の灯りが一つずつ落ち始めている。
「……今日の相談受付は、あと七分で終わるから」
「さっき聞いたよ、それ」
「じゃあ、覚えておいて」
凱斗は困ったように笑った。
「変わってないな、ネネ」
「それ、今日二回目」
「……でも、ちょっと変わった気もする」
その言い方が、ネネには少しだけ嬉しかった。
凱斗は封筒を外套の内側へしまい、窓口の脇に置かれた案内板を指さした。
《第七迷宮 閉鎖区画への立入りを禁止します》
「明日、安全確認の協力を申し出ようと思ってる。保安班には、救助された当事者として伝えられることがあるから」
「協力はありがたいけど、許可が出るまでは入れないよ」
「勇者でも?」
「勇者でも」
「……勇者認定証、立派なんだけどな」
「光るだけじゃ安全確認にならないからね」
凱斗は真剣な顔で頷き、それから少しだけ、いたずらっぽく笑った。
「じゃあ、明日も番号札取って来るわ」
「えっ、また来るの?」
「だって、申請しなきゃ始まらないんだろ」
言い返せなかった。
相手が正しい手順を覚えたことを、こんなに喜べない日が来るとは思わなかった。ネネは立ったままの耳を片方ずつ伏せ、窓口の時計を見上げた。
迷宮管理局に来て、まだ三日も経っていない。
前の職場では魔王が整理券を取った。今度は元彼が、勇者になって整理券を取っている。
次の異動先には、せめて知り合いのいない世界を希望したい。
ただし、その希望が通るとは限らないことを、ネネは誰よりよく知っていた。




