第30話 出口は戻りましたが、勇者が帰りません
出口を開ける前に、出口へ人を集めてはいけない。
雨宮ネネはその注意書きを三度読んだあと、四度目にとうとう口を開いた。
「では、開けたことを誰に知らせればいいんでしょう」
「集めるなと書いてあるだけで、知らせるなとは書いてないわよ」
織部シズが即答した。ごもっともである。ただ、ここまで出口の案内でひどい目に遭っていると、少しの曖昧さも放っておきたくなくなる。
第七迷宮の管理搬入口を、避難路として臨時に使うための会議だった。
机の中央には保守台帳、点検手順、現地の配置図。周囲には迷宮保安班の七草伊織、地図保守担当のモルン、シズ、そして着任早々すっかり定位置が決まった感のあるネネがいる。窓の外はまだ明るい。にもかかわらず、部屋に置かれた時計だけが妙にせわしなく見えた。
「北三号の照明、残り二時間四十分です」
ネネが最新の連絡を読むと、七草は短く頷いた。
「予備の灯りは現地班が搬送中。ただし、搬入口が使えるかどうかとは別に、北三号には届ける。避難路が使えなかった場合も想定しておく」
残り二時間四十分という数字に、ネネは安堵しかけた。保安班が動いている。それは確かに心強い。だが灯りが届くまで、迷宮の中にいる六人の時間は減り続ける。
「搬入口の検査は?」
「外側の扉と荷役床は確認済み。内側の保守廊下を、東二号退避室と北三号待機区画のそれぞれに接続できるか、現場班が確かめている」
モルンが図面の上に鉛筆を置いた。
「管理搬入口自体は固定施設です。問題は、そこへ向かう区間が本当に固定されているかどうかで……」
「地図には固定って書いてありますね」
「はい」
「地図に書いてあるだけでは?」
「だめです」
モルンが即答したので、ネネは思わず笑った。
「すみません。今日いちばん頼もしい返事でした」
「地図係としては、ちょっと複雑です」
彼は鉛筆で、東と北から伸びる二本の細い線を示した。どちらも途中に検査印の空欄がある。
地上への出口は、一つ見つかった。けれど、そこへ辿り着けることと、見つけた出口を安全に開けられることは、別々に確かめなければならない。
前の職場では、受付と受理と回答の区別を何度も説明した。新しい職場では、入口と通路と出口の区別を説明している。異動したのに、仕事の根っこがほとんど変わっていない。
「雨宮さん、さっきから耳が立ってる」
「何か聞こえます?」とシズ。
「いえ。自分の職歴に対する疑問が」
「それは耳じゃなくて頭の仕事ね」
シズが言い終わると同時に、通信管が鳴った。
*
『北側保守廊下、接続確認。基準点二カ所一致、床面に異常なし。北三号へ徒歩誘導可能です』
七草は報告者の名前と時刻を復唱させた。続けて、廊下の照明、換気、足場、途中に閉じる扉がないかを尋ねる。ネネには同じような質問を繰り返しているように聞こえたが、答えが返るたび、机の地図に印が一つずつ増えていく。
「東側は?」
『東二号からの保守廊下も接続確認済み。ただし最後の曲がり角は担架を水平に運べません。負傷者の搬送方法を再検討中です』
ネネは東側の名簿に目をやった。五人のうち一人は足を痛めている。昨日のままなら歩けると言った人だが、今は担架で安静にしている。
手順書どおりなら通れる道と、実際にこの五人が通れる道は違う。
「東側の全員に、今わかった条件を伝えたいです」
ネネが申し出ると、七草は頷いた。
「まず移動しないよう伝えて。こちらで搬送の方法を決めるまで待機」
ネネは通信管に向かい、名乗ってから説明した。搬入口へ向かう道は確認できたこと。北側の六人を先に誘導する可能性があること。東側の負傷者については、現地班が安全な運び方を確かめていること。
『こっちは後回しですか?』
声を上げたのは、東側にいた採掘作業員だった。責めるというより、我慢していた不安がこぼれたような声だった。
「そう感じさせてしまって、すみません。東側の五人を置いて帰るという話ではありません。負傷した方を安全に搬送できる方法が決まるまで、今いる退避室で待機していただきたいんです」
『……順番が決まったら、知らせてもらえますか』
「はい。決まったことと、まだ決まっていないことを分けてお知らせします」
通信を切ってから、ネネは小さく息をついた。
順番を説明するのは得意だ。けれど、説明された方が納得するかどうかは別の話だ。前の職場でも、番号札の順序だけでは解決しないことが山ほどあった。
「今の返し、よかったわよ」
シズが低い声で言った。
「ありがとうございます。昔なら、『もうすぐです』って言ってたかもしれません」
「すぐじゃないものね」
「はい。嘘になるので」
七草の端末へ現地班から図面が届いた。東側の曲がり角は狭いが、固定された保守点検口を開ければ担架のまま直進できるという。点検口の開放には設備担当の立ち会いが必要だった。
「設備担当、手配する。北側から先に搬出口まで誘導を開始。両班とも、搬出口への到着予定時刻を重ねないで」
七草が指示を出す。
ネネは《北側先行》と書きかけ、慌てて下へ一行足した。
《東側は負傷者搬送経路の確認中。救助中止ではない》
後からその一行だけを読んだ人が、間違えないように。
*
管理搬入口の外に張り出す荷役床は、見た目よりもずっと小さかった。
現地班が送ってきた映像には、岩壁に取りつけられた鉄の扉が映っている。扉を開けると、外側の足場がせり出し、係員の合図で固定される仕組みだという。荷物の搬出に使う施設なので、奥には人の流れをせき止める柵が設けられていた。
「十一人まとめて出たら、ここで詰まりますね」
「だから第一項が『出口に人を集めないこと』なの」とシズ。
「やっとわかりました。手順の最初に理由を書いてくれれば、四度も読まなかったのに」
「改訂意見、出しておきなさい」
「着任二日目になる前に?」
「新鮮なうちがいいわ」
ネネはもう驚かなくなった。ここでは仕事が増えたというより、仕事の方から勝手に増殖してくる。
七草は外側の検査員に、荷役床の固定状態と、地上の集合場所を最終確認させた。避難者は扉の手前で一組ずつ待ち、保安班の誘導で通過する。外に出たら荷役床に留まらず、柵の先の待機広場へ進む。負傷者の搬送は専用の吊り具を使い、現地班と地上班の両方が確認してから行う。
「これで開けられますか?」
ネネの問いに、七草は少しだけ首を傾げた。
「避難者がいる場所から搬入口まで、安全に行けることを確認できればね。扉だけ開けても仕方ない」
「そうでした」
何度聞いても、出口というものは思いのほか手がかかる。
北三号の六人が保安班に合流したとの連絡が来たとき、現地の照明は残り一時間半になっていた。途中で届けられた予備灯のおかげで、暗闇になる心配は当面ない。それでも六人の足取りは慎重で、通信の向こうからは靴音の合間に長い沈黙が流れてくる。
『前方、固定廊下へ入りました。六人全員、列を維持しています』
「了解。最後尾の確認を続けてください」
七草が返す。
ネネは名簿の横に、まだ印をつけなかった。
最初の人が搬入口に到着したところで、外の係員が開放許可を読み上げた。金具の軋む音が、通信管を通ってこちらまで届く。荷役床の固定を確認した合図が入り、いよいよ避難者の通過が始まった。
『一人目、地上待機広場へ』
『二人目、同じく』
ネネは一人ずつ名前を照合した。三人目は荷物を取りに戻ろうとして止められたらしい。
『あれ、俺のつるはしが――』
『つるはしより先に、あなたの身体を運んでください』
保安班の返答に、シズが机を叩いて笑いそうになった。
「いいわね、その言い方。案内文に使える」
「使わないでください。誤解が増えます」
『四人目、地上待機広場へ。五人目、六人目も移動完了』
六人の点呼と地上班の受領記録が一致して、ようやくネネは北側の欄に印をつけた。
《北側六名 地上退出確認》
自分の書いた文字を見た瞬間、腕に入っていた力が抜けた。まだ、残りが五人いる。
*
東二号の退避室では、勇者が少し揉めていた。
『歩ける人だけ先に出してくれればいいだろ。俺は負傷者と一緒に残るから』
通信越しの声は、昨日と変わらずよく通った。
「東側の搬送計画は、まもなく確定します」と七草。「あなたが残るかどうかも、現地班と相談して決めてください」
『いや、護衛なんで。依頼人を置いていくのは――』
「勇者さん」
ネネはつい口を挟んだ。
『はい、雨宮さん』
「負傷された方は、あなたが残ることを希望しているんですか?」
向こうが静かになった。少しして、別の男の声が聞こえてくる。
『いや、俺は早く出たい。こいつ、さっきから大丈夫かって三分おきに聞いてくるんだよ。心配してくれるのはありがたいけど、足より頭が痛くなってきた』
『三分おきって、そんなに聞いてないだろ!』
『数えた。十二回目からは数えてない』
シズが口元を覆った。ネネも笑うのをこらえながら記録する。本人は早く安全に出たい。それが確認できた。
「勇者さん、護衛として心配なのはわかります。でも、ご本人の希望も聞いてあげてください」
『……そうします。悪かったな。俺、先に決めつけた』
聞き覚えのあるような、言い方だった。
ネネは一瞬、ペンを止めた。どこで聞いたのか思い出せない。通信管は声を低く変えるし、この数日であまりに多くの人の声を聞いた。前の職場での記憶まで引っ張り出すのは、さすがに疲れているのかもしれない。
そこへ、東側の保守点検口を開放したという知らせが届いた。通路の曲がり角を通らず、担架を水平に運べる。現地班が実際に担架の通行試験を済ませ、固定廊下と搬入口の間に危険な段差がないことも確認した。
東側の五人は現地班の先導で移動を始めた。歩ける四人が先に進み、負傷者の担架を最後尾の隊員が守る。勇者は隊列の中ほどにつき、狭い場所では剣の鞘を身体へ寄せて通ったらしい。
現地班から、負傷者の状態は安定していると報告が入った。ネネはその言葉を誰かに伝える前に、次の質問をした。
「搬入口では、担架ごと安全に渡せますか」
『専用の吊り具を取りつけています。地上班と接続確認後、一人ずつ通します』
扉の前で避難者が溜まらないよう、最初の二人が地上に出るまで残りは廊下の安全な場所で待機した。そこから先の報告は、思っていたよりあっけなかった。
『一人目、地上へ。二人目、地上へ』
『三人目、地上へ』
『負傷者、搬送開始。吊り具固定確認』
ネネの指が紙の端を押さえた。通信管の向こうで、金具が擦れる音がする。しばらくして、地上班の声が返った。
『負傷者、地上班へ引き渡し完了。医療担当が受領しました』
次に勇者の名前が呼ばれるはずだった。けれど通信が一拍止まる。
『最後の一人が、何か書類を探しているようです』
シズが天井を仰いだ。
「まさか、地上に戻るのに申請書が要ると思ったの?」
現地班の返答があった。
『本人いわく、護衛契約の控えを落としたかもしれないと。床を探しています』
七草は受話口を取った。
「緊急退避中です。書類の捜索は認めません。必要なら、保安班から記録保全の手続きを案内します。あなたも退出してください」
『……了解しました』
少しの沈黙のあと、最後の一人が搬入口を通過した。
地上班が十一人の氏名を読み上げ、怪我人を含め全員の受領を報告した。ネネは二枚の名簿を並べ、所属や人数の欄まで照合してから、最後の空欄に印をつけた。
《十一名全員 地上退出確認》
「……帰れた」
声に出したつもりはなかったのに、隣のシズが「帰れたわね」と返してくれた。
モルンは地図の上で両手を広げていた。歓声を上げるかと思ったが、その前に抱えていた巻物がほどけ、足もとに落ちる。
「よかったですね、モルンさん」
「ええ! 今日は地図が役に立ちました!」
「確認してから使う、という意味では」
彼は少し考えたあと、素直に頷いた。
「……そうですね。最初からそうしておけばよかったです」
*
すべてが終わったわけではなかった。
搬入口を使った臨時の避難が終わると、保安班は誰も残っていないことを確かめてから、通常出口側の可動区画を調整し直した。ずれていた通路は、固定出口の前までつながり直したという。これで出口への道は戻った。ただし床の荷重試験や扉の作動検査はこれからで、迷宮は当面、新規の入場を制限したままだ。
日が傾くころ、保安班と設備管理課の共同報告が届いた。
新経路の命令を制御盤が受信した時点で、《案内表示の更新可》という通知が先に配信されていた。一方、通路の接続位置を実地で確認する作業は未完了のまま、旧版の案内標識の撤去だけが予約されていた。
それが事故の直接の原因だったのか、ほかにも設備上の不具合があったのかは、これから調べる必要がある。ただ少なくとも、地図上の『更新済み』を、現地の『通行可能』として扱った記録が残っていた。
「これ、次の地図の版を出すとき、また起こりませんか」
ネネの問いに、七草は書類を閉じた。
「今夜のうちに、接続確認が取れない区画の案内更新を止める。通常出口は安全確認が終わるまで閉鎖。正式な原因調査は、明日から設備側と進める」
「出口が戻ったのに、まだ使えないんですね」
「避難に使える出口と、通常営業で使っていい出口は違うから」
「……前の職場より、『済』の種類が多いです」
シズが机の上に書類を一枚置いた。
《第七迷宮 臨時退出経路 確保済》
その下には赤字で、《通常出口 安全確認中》とある。
「少なくとも十一人は、これで帰れる場所へ戻れたわ」
「はい」
ネネは紙の端を揃えた。十一人が地上に出たという記録と、これから改善しなければならない不具合の記録。その二つを、同じ「解決済」で一緒くたにしてはいけない。
そこへ、受付から小さなベルが鳴った。
「雨宮さん。さっきの救助者のうち一人が、相談窓口に残ってるそうよ」
シズが端末をネネの方へ向けた。
「医療担当の確認は済んでいますか」
「ええ。本人は負傷なし。護衛の仕事について、どうしても確認したいことがあるって」
「明日でもいいのでは……」
「それは本人に聞いてみないとね」
受付には、折り目の多い申請書が届いていた。《護衛契約に伴う経路障害の被害申告》とある。相談内容は、避難中に失った契約書の控えと、依頼人へ報告すべき危険情報の記録保全。筋の通った相談だった。
「さっきの勇者さんですね」
「そう。剣は保安預かりにしてあるから安心して。整理券を取って待ってるみたい」
「勇者様が、おとなしく整理券を……」
ネネはほんの少し感心した。以前の職場で出会った勇者なら、まず剣を机に置いてから話を始めただろう。
申請書の最後に、本人の署名がある。
異世界の文字は、庁内端末を通すと本人が登録した表記に直される。ネネはいつもの癖で先に案件名を読み、最後に氏名欄を確認した。
《天城 凱斗》
その二文字を見た瞬間、ネネの耳が動かなくなった。
たぶん、同じ名前の人なのだ。そうでなければ説明がつかない。勇者はこの世に何人もいるのだから、その一人がたまたま同じ名前でも――。
「……雨宮さん?」
シズが呼ぶ声を、ネネは聞いていなかった。
生前、何度も呼んだ名前だった。
そして、もう二度と呼ぶことはないと思っていた名前だった。




