第29話 勇者様でも、出口は見つかりません
勇者が迷子になっている。
雨宮ネネは着任初日の業務日誌にそう書きかけて、ペンを止めた。失礼だろうか。それとも、現状を端的に表した、たいへん優秀な記録だろうか。
「『勇者を含む五名、東連絡路で待機中』でいいわよ」
背後から織部シズが言った。
「心を読まないでください」
「耳がぴんと立ってたから。どうせ余計なこと考えてるんだろうなって」
「耳でそこまでわかるんですか?」
「今のは当てずっぽう」
着任二日目になる前に、この先任の前では耳を隠す練習が必要かもしれない。もっとも今は、そんな練習をしている場合ではなかった。
第七迷宮の東側に取り残された五人は、標識四十二の近くで救助を待っている。北三号待機区画の六人と合わせて、所在がわかったのは十一人。ただし、まだ一人も地上へ戻れていない。
保安主任の七草伊織が通信管へ身を寄せた。
「東連絡路。先ほどの護衛の方に、もう一度確認したいことがあります」
『はい。俺です』
若い男の声が返ってきた。よく通る声だったが、少しむっとしている。
「壁の破壊を提案したのは、あなたですね」
『提案というか、選択肢として。剣が通れば、向こう側に出られるかもしれないんで』
「向こう側がどこなのか、わかっていますか」
『……出口側の通路、のはずです』
「その『はず』が確認できないため、我々が対応しています」
向こうで誰かが、小さく拍手した。
『おい、拍手するな。俺だってみんなを出したくて――』
「その気持ちは受け取りました。剣は鞘に納めたまま、現地班の到着を待ってください」
『了解しました』
ずいぶん素直に従う人だ。ネネは意外に思った。輪廻転生庁へ来ていた勇者たちは、もっと話が長かった気がする。剣が勝手に抜けたり、魅力を最大にして婚姻届を持ってきたり。勇者という肩書にも、いろいろな人がいる。
通信管の奥で、男が何か言いかけた。
『ただ、ひとつだけ――』
「何ですか」
『壁を斬らないなら、そっちから来る人も、間違った壁を通らないようにしてください』
七草の眉が、わずかに動いた。
「理由を聞かせてください」
『俺たち、標識四十二からずっと動いてません。でも、さっき救助に向かったって人の声が、壁の反対側から聞こえたんです。隣の通路がつながってるなら、呼べば会えると思ったのに、声だけ遠くなって……』
ネネは記録用紙に視線を落とした。相手は壁を破ろうとしていた。それは危険な行動だが、無茶をしたくなった理由まで無視してよいわけではない。
「七草さん。標識四十二の隣は、図面だと何番ですか」
「最新の設計図では四十三。現地が同じとは限らない」
モルンが広げかけた地図を押さえた。
「四十三のさらに隣には、保守用の歩廊があります。でも、そこへ直接出られる版と、いったん南へ回る版があって……」
「版で分かれ道ができるの、やめてもらえません?」
「僕だってやめたいですよ!」
モルンが身を乗り出した拍子に、地図の端が跳ねた。ネネの長い耳に紙が触れ、ぱしんと乾いた音がする。
「すみません!」
「いえ、地図に叩かれるのは初めてなので、勉強になります」
シズが笑いをかみ殺しながら、耳に絡んだ紙を外してくれた。
*
午後一時を過ぎるころ、地上の保安詰所から封筒が届いた。
差出人は設備管理課。封筒の中央には赤い判が押されている。
《第七迷宮 出口廃止届》
「……出口、廃止したんですか?」
ネネは思わず声を上げた。
「してない」と七草。
「でも廃止って書いてあります」
「だから問題なの」
シズが封筒を開き、薄い書類を取り出す。表題の下には、《廃止対象:旧出口案内表示 第三版》と小さく印刷されていた。
「出口じゃなくて、古い案内表示の廃止ね。題名を短くしすぎてる」
「短くしていい場所、ほかにありますよね」
ネネは封筒を裏返した。小さな注意書きがある。《本票は出口施設の廃止を意味しません》。注意書きで救えるなら、最初から題名に書いてほしい。
さらに困ったことに、廃止届の写しが保守班へ送られていた。旧版の案内板を取り外すための作業員が、すでに迷宮の入口へ向かっているという。
「取り外しだけなら、今でもできるんじゃないですか?」
ネネが訊くと、七草は首を振った。
「現場には使える案内が少ない。古い表示は誤誘導の原因になる一方、位置を確かめる目印にもなっている。保安班が代わりの標識を置くまで、勝手に撤去されると困る」
「じゃあ、撤去の中止を」
「私から保安班の管轄区域へ停止指示を出す。シズ、管理課には作業内容の変更を伝えて」
シズがうなずく。ネネは連絡先と時刻を記録したが、途中で手が止まった。
「この廃止届、最初にどこが出したんでしょう」
「地図保守室から設備管理課へ回付されていますね」とモルン。「あ、僕の部署だ」
モルンは眼鏡を押し上げ、端末を二度たたいた。
「昨日の地図改版と連動して発行されたものです。新しい出口案内の登録が済んだので、古い表示を撤去する予定になっていたみたいで」
「新しい案内、まだ使えてませんよね」とネネ。
「……そうですね」
書類の上では、新しい道ができたことになっている。だから古い道しるべを片づけようとしている。肝心の道が通れるかどうかは、誰もまだ確かめていない。
ネネは、昨日見た三本の矢印を思い出した。指示どおりに作業した人が三人いたから、三方向へ「出口はこちら」が増えたのかもしれない。
「お知らせする順番が逆になってません?」
七草が書類を見たまま答えた。
「その可能性がある。だから、まだ原因と決めつけないで。廃止の連絡と、通路の不具合は別の記録で確かめる」
はい、と答えて、ネネは用紙を二枚に分けた。できるだけ簡単な欄にしたかったが、迷宮の出口は簡単な欄には収まってくれそうになかった。
*
モルンの端末には、昨日の操作履歴が残っていた。
《十七時四十分 新経路案・承認》
《十八時一分 現地制御盤・受信》
《十八時六分 現地接続確認・未了》
「受信したのに、つながっていなかったんですか」
「受信は、命令を受け取ったという意味です」
「受け取っただけ?」
「ええ。通路が実際に動いて、接続できたという意味ではありません」
モルンは説明しながら、机の端に小さな木製の模型を置いた。三つの輪を組み合わせた、迷宮の可動区画を示す道具らしい。中心に穴の開いた板を差し込むと、隣の板と通路が一直線につながる。
「通常はこの順番です。新しい経路の指示を出す。各区画が動く。現地の接続確認をする。その結果を受けて、地図と案内板を更新する」
モルンが一つ目の輪を回す。穴はまだ隣の板と合っていない。それなのに、彼は二枚目の板に《出口》と書いた札を置いた。
「今回は、受信の通知が改版の完了通知として扱われた可能性があります」
ネネは札を見た。模型では指一本ぶんのずれにすぎない。実際の迷宮では、その隙間は厚い石壁だろう。
「じゃあ出口そのものは、まだあるんですね」
「あります。地上につながる固定施設です。ただ、現在の可動通路が、そこへ届いていないかもしれません」
「『出口が消えた』というより、『出口への道がつながっていない』?」
「そう言える可能性が高くなりました。でも、現場側の位置を測るまでは確定できません」
ネネはすぐに「解決」と書きたくなった。出口が残っているだけで、なんとなく安心できる。しかし、残っている出口へ行けない十一人にとっては、状況はまだ何も変わっていない。
七草は模型を指で固定した。
「現地班が外側から基準点を確認する。指示を出し直すのは、その後。動かすことで別の待機区画を危険にさらすわけにはいかない」
この迷宮では、出口を元へ戻すだけの操作にも、許可と確認が必要になるらしい。ネネは一瞬だけ、勝手に動いた道の方へ苦情を言いたくなった。誰かが聞いてくれる窓口は、まだ知らない。
そんなことを考えていると、通信管から短い警告音が鳴った。
『東連絡路より。標識四十二の周りで、床の継ぎ目が開いてきています。こちらの五人は待機していますが、ずっとここにいて大丈夫ですか』
今度は勇者ではない声だった。語尾が震えている。
七草が立ち上がる。
「東側の現場班、応答を。保守歩廊から四十二を目視できていますか」
『こちら現場班。歩廊の基準点を確認済み。四十二の通路を外側から確認できました。揺れがあります。東二号退避室へ移す方が安全です』
「連絡路は?」
『固定区間の四十六番まで通行可能。四十二から四十六までの短い可動区間は、こちらで位置を測定中です』
七草は、すぐには移動を命じなかった。
「測定が終わるまで、五人は今の場所で待機。床の継ぎ目から離れ、壁にも寄りかからないで。負傷者は歩かせず、現場班が合流してから搬送します」
ネネは五人の名簿を手元へ寄せた。救助されるのは人間で、地図の点が五つ動くだけではない。ひねった足は急に治らないし、待っている人の不安も、危険区域の線を消せば消えるわけではなかった。
*
安全確認の結果が届くまでに、二十分ほどかかった。
長い二十分だった。調整室では誰も叫ばず、足音と紙の擦れる音がいつもより大きく聞こえた。シズは待機区画の水と照明の残量を問い合わせ、モルンは可動区間の境を地図に赤く引き直す。七草は現場班の報告を一つずつ確認し、ネネは情報の食い違いがないか、名簿を繰り返し見た。
やがて通信が入る。
『可動区間の位置固定を確認しました。四十二から四十六まで、現場班の誘導下で通行可能。退避室の設備も使用できます』
「了解。現場班が先導してください。五人は一列、間隔を空けすぎないように。負傷者は担架を使用。最後尾の確認をお願いします」
七草の指示が終わると、ネネは勇者たちの回線を開いた。
「こちら現地相談調整係の雨宮です。これから東二号退避室へ移動します。保安班の指示に従ってください」
『雨宮さん、聞こえてます。ところで、俺が先に渡って危なくないか確認した方が――』
「先に確認した方は、もういらっしゃいます」
『……そうですね』
「勇者様には、負傷された方のそばで護衛をお願いできますか。剣は抜かずに」
『それならできます』
返事に迷いがなかった。ネネは少しほっとした。
通信を切る直前、男がつけ加えた。
『ひとつお願いしてもいいですか。移動する人に、どこへ行くかちゃんと伝えてください。さっきからみんな、出口だと思って喜んでるんです』
ネネは口を閉じた。自分も、もう少しで「助かります」と言いそうになっていた。
「……ありがとうございます。そこは、私から先に説明します」
ネネは通信に戻り、行き先は地上ではなく安全な退避室であること、移動後も帰還経路の確認が必要であることを、もう一度伝えた。がっかりしたような声が重なったが、説明し終えるまで誰も途中で遮らなかった。
移動が始まると、通信管の奥で靴底の音が響いた。時折、担架の金具が石壁に触れる。ネネには、その音だけで経路の安全を判断することはできない。ただ、動くたびに聞こえる「一人、二人」という点呼を、手元の名簿に重ねて待つ。
五人目の名が読み上げられたとき、今度こそ肩の力が抜けた。
『東二号退避室、到着。五人の入室を確認。負傷者は手当てを継続します』
七草が受領時刻を記録し、ネネにも確認の印を求めた。
《東側五名 危険区間からの移動完了》
その下には、まだ空欄が二つあった。
《十一名全員の地上退出確認》
《通常出口の安全確認》
埋めるには、まだ時間がかかる。
*
北三号待機区画の六人にも、東側の避難者が無事に退避室へ入ったことが伝えられた。向こうでは誰かが大きな拍手をし、「じゃあ次は俺たちだな!」という声が上がった。
「次の退出経路はまだ未確定です。期待させる言い方は避けてください」
ネネが思わず通信へ口を出すと、シズが肩を軽くたたいた。
「さっきの勇者さんと同じこと言ってる」
「それは褒め言葉ですか?」
「半分くらい」
「残りの半分、気になります」
モルンが地図の下から一冊の古い保守台帳を引きずり出した。紙の間に薄い金属板が挟まっている。
「待ってください。固定出口とは別に、管理用の搬入口があります。可動区画を経由しない、外側の保守通路につながっているはずです」
七草が顔を向けた。
「搬入口は現役なの?」
「最後の実地確認は先月です。今日使えるかは、調べないとわかりません。でも、位置は固定されています」
図面には、通常出口とは反対側の外壁に、小さな扉が描かれていた。人が一人ずつ通れる幅はある。ただし《管理用・一般通行不可》と赤字で書かれている。
「通すなら、保安班の現地確認と臨時使用の許可が必要ね」とシズ。
「はい。それまでは、避難の案内に使いません」と七草。
ネネは思わず頷いた。少し前の自分なら、《別の出口があります》とだけ聞けば、喜んでしまったかもしれない。だが、確認していない通路を頼りに人を動かすことは、もうしたくなかった。
モルンが台帳の裏表紙を開くと、折り畳んだ小さな札が落ちた。
《管理搬入口 開放手順》
《第一項 出口に人を集めないこと》
「……開ける前に集まったら、いけないんですか?」
「扉の外側に一時的な荷役床が出る構造なので」とモルン。「人が密集していると危険なんです」
シズは書かれた注意事項を数えた。
「全部で十九項目。読んでるうちに朝になるわね」
「今のうちに読みます」とネネ。
七草が短く頷いた。
「明日まで待つとは限りません。検査班を手配します。通せる道が一本でもあるなら、使える条件を先に確かめたい」
ネネは、使い終わった名簿を机の端へ寄せた。代わりに新しい用紙を広げ、《管理搬入口・臨時使用に必要な確認事項》と見出しを書く。まだ出口はない。でも、確認すべき場所が一つ増えた。
そのとき、通信管から小さな声がした。
『あの、退避室の者です。勇者が受付の人に伝えたいことがあるって』
「はい。どうされました?」
受話口の向こうから、先ほどの男が応じた。
『俺たちは待てます。でも、北三号の六人には、灯りがあとどのくらいあるか知らせてください。勝手に帰ろうとする人が出るかもしれないから』
ネネは記録を見た。最初の連絡では残り七時間。今は、そこからさらに時間が経っている。聞けばわかることを、確かめずに安心材料にするわけにはいかない。
「ありがとうございます。すぐ確認します」
『あと、もうひとつ』
「はい」
『剣で壁を斬るのは、やめときます』
その言い方がおかしくて、ネネは笑いそうになった。
「助かります。こちらとしても、壁の修繕申請を増やしたくありませんので」
通信の向こうで、誰かが噴き出した。男も、少しだけ笑ったようだった。
ネネは受話口を戻し、七草へ北三号の照明残量を再確認するよう伝えた。するとシズが、傍らの書類箱を軽く叩いた。
「ひとまず、出口の廃止届は返送しておこうかしら」
「お願いします。差し戻し理由は……」
ネネは赤い判の押された表題を見つめた。
「『出口がまだ見つかっていないため』で、通じますかね」
「正確には『廃止対象が案内表示であることの明記を求める』かな」
「そっちの方が、ちゃんとお役所ですね」
差し戻し欄に書き込んだ瞬間、廊下の案内板が、からんと音を立てて回った。
《出口はこちら》
ネネは、反射的に矢印を追いかけそうになり、踏みとどまった。
「……それは、どの版の出口ですか」
誰も答えなかった。少なくとも、今日の管理局では、その問いがいちばんまともな質問だった。




