第28話 出口がありません! 案内図はあります!
雨宮ネネが着任初日に覚えたのは、この職場では出口の方が逃げ出すこともある、ということだった。
目の前の石扉が、低い音を立てて少し右へずれた。さっきまで隙間から見えていた灯りが、壁の陰へ消える。地下の空気はひんやりとしていて、古い石と湿った土の匂いがした。
「それで、出口が動いたのは何時ごろですか」
「何時ごろって……昨日から見つからないんです!」
兜の男性は、くしゃくしゃになった地図を突き出した。ネネは受け取りかけて手を止める。紙には赤い線が何本も引かれており、そのすべてが《出口》と書かれた同じ丸へ集まっていた。
図面の上では、ずいぶん帰りやすそうな迷宮である。
「すみません、訊き方が悪かったです。最後に出口を確認できた時刻はわかりますか」
「昨日の夕方です。巡回のときは、ちゃんと扉がありました。そのあと夜番が見に行ったら、壁になってて……いや、壁になったのか、通路ごとずれたのか、それもわからなくて」
「わかりました。では、まず保安班に通報します」
ネネは職員証の裏にある緊急連絡先へ端末をつないだ。呼出音は一度も鳴らず、低い女性の声が応じた。
『迷宮保安班、七草です。場所と要件を』
「本日付で現地相談調整係に着任した雨宮ネネです。第七迷宮で通常出口が確認できず、出域できていない方がいると伺いました」
『その件は対応中。そちらに走っていった巡回員、まだいますか』
「はい。今、目の前に」
『兜を脱ぐように伝えてください。あのままだと顔認証が通らない』
ネネは男性を見た。額から顎まで鉄板で覆われている。
「兜を脱いでください」
「今ですか!?」
「顔認証に必要だそうです」
「……顔を見るんですか。出口の方を見てもらえませんかね」
ごもっともだと思ったが、確認には順番がある。男性が兜を脱ぐと、内側から薄い紙が一枚落ちた。《本日の巡回:地上部》と書いてある。
『本人確認できました。巡回補助の芦田さんですね。そこから動かないでください。今、係の案内役を向かわせます』
通話が切れる前に、七草はもう一つだけ言い添えた。
『雨宮さん。着任初日で申し訳ないけれど、あなたにも仕事を頼みます。まず、そこが今も地下一階か確かめて』
ネネは足元を見下ろした。床は石造りで、壁には《地下一階》の札がある。
「地下一階と書いてあります」
『それは昨日も書いてあった。表示盤の数字を読んでください』
柱に埋め込まれた小さな盤には、《B1・位置基準点12》と表示されていた。ネネが読み上げると、七草はようやく「そこなら大丈夫」と答えた。
大丈夫な場所を確認するところから始まる仕事らしい。
*
案内役が到着したのは、それから三分ほど後だった。
濃い緑の制服を着た女性で、背が高く、腰には折り畳み式の標識と細い縄が巻きつけてある。歩きながら端末を操作していたが、ネネの前ではきちんと手を止めた。
「織部シズ。現地相談調整係の先任です。雨宮さんね」
「はい。本日からお世話になります」
「挨拶はあとでまとめて受け取るわ。保安班からは、あなたに資料整理を頼めって言われてる。荷物、持てる?」
「持てます」
「よかった。じゃあ、それを持って」
渡されたのは、ネネの身長ほどもある木箱だった。
「……資料って、何キロぐらいあるんですか」
「中身は地図よ」
「重量の答えになっていません」
「持たなくていい。車輪がついてるから」
木箱の底には小さな車輪が四つあり、引くと妙に軽かった。さらに《転倒注意》の札が七枚も貼ってある。七枚ある理由は聞かないことにした。
「新人の初仕事が避難支援なんて、災難ね」とシズが言った。
「そうですね。昨日までは、迷宮で困っている方のお話を聞く仕事だと思っていました」
「その認識は間違ってないわ。今まさにみんな困ってる。ただ、話を聞く場所が動くだけ」
「その『だけ』が、大きすぎませんか」
シズは少しだけ口元を緩めた。
「言えるうちは大丈夫。黙り込まれると、こっちも心配になるから」
廊下を進むと、床に貼られた矢印が三方向へ分かれていた。いずれも《出口はこちら》と書かれている。看板の下では、迷宮に残った仲間を迎えに来たらしい冒険者たちが、地図を広げて言い争っていた。
「だから、あっちへ行ったら元の場所に戻ったんだって!」
「俺は右を信じる。昨日も右で帰れた!」
「昨日と今日で道が違うんだから、昨日を信じるな!」
三人とも正しそうな顔をしているが、誰ひとり仲間のいる場所へ近づけていない。
「みなさん、今は通路へ入らず、こちらで待機をお願いします」
ネネが声をかけると、一人が矢印を指した。
「でも出口って書いてあるぞ!」
「確認中です。安全が確かめられるまで、案内に従って進まないでください」
「役所の案内に従ったからここにいるんだよ!」
痛いところを突かれた。前の職場なら、窓口の掲示に書かれた言葉を一度は信用してほしいと言っただろう。しかし三本の矢印が三方向へ出口を主張している以上、その理屈には無理がある。
「……おっしゃるとおりです。今の案内は信用しないでください。安全確認が取れたものだけ、保安班からお知らせします」
自分で言っていて、役所の職員が口にする台詞とは思えない。
シズは素早く標識を広げ、矢印の上へ《経路確認中・進入禁止》と記した覆いを掛けた。冒険者たちは不満そうだったが、ひとまず足を止めた。
「雨宮さん、今の言い方でいい」とシズが小声で言った。「ただ、あとで案内の間違いを正式に訂正して。間違えた地図を配ったことと、今すぐ安全を確保することは、別の仕事だから」
「はい」
ネネは端末に時刻を残した。帰れない冒険者の苦情を受けるのは、全員が無事に地上へ戻ってからでも遅くない。そう判断してよい種類の苦情があると、ネネは初めて知った。
*
現地調整室は、地下一階の奥にあった。壁一面の地図と、何本もの通信管、隅には湯飲みを温めるための小さな火鉢が置かれている。壁の時計は三つあり、どれも違う時刻を指していた。
「時計が壊れているんですか」
「それぞれ違う世界の標準時刻よ。ここの管理局は、複数の世界にある迷宮をまとめて受け持っているの。第七迷宮はそのうちの一つ」
「なるほど……」
「ちなみに休憩時間は、いちばん短くなる時計に合わせるわけじゃないから安心して」
「まだ何も言ってません!」
「顔に出てた」
ネネは耳を押さえた。顔だけでなく、耳にまで出ているらしい。
壁際では、小柄なモグラ族の男性が、木箱の中から紙の筒を次々取り出していた。眼鏡を鼻先に引っかけ、尻尾で引き出しを閉めている。
「モルン! 七番の図面、最新のを」とシズが呼ぶ。
「最新というのは、いつ作成したものですか。昨日の夕方の最新版なら二枚、今朝の最新版なら四枚あります」
「一枚にして」
「それができていれば、僕はここにいません」
モルンは深刻な顔で筒を一本抜いた。途中で筒の蓋が外れ、中の地図が勢いよくほどける。端が彼の足元をぐるりと巻き、さらに机の脚に絡みついた。
「あっ、待って、これ順番に剥がさないと!」
「剥がす?」とネネ。
「第七迷宮の地図は、通路が変わるたびに修正紙を重ねるんです。剥がし方を間違えると、五日前の廊下が復活します」
「地図の上だけですよね?」
「地図の上だけです。現地まで復活するなら、むしろ助かるんですが」
ネネは木箱の《転倒注意》の札を思い出した。七枚では足りないかもしれない。
扉が開き、先ほど通話した七草伊織が入ってきた。額に傷跡がある、背筋の伸びた女性だった。濡れた靴のまま机に近づき、地図に手をつきかけて、モルンから鋭く止められる。
「そこはまだ乾いてません! 昨日の変更箇所です!」
「昨日なのに?」
「乾燥に時間がかかるインクなんです!」
七草は手を引いた。迷宮の保安主任が地図係に叱られるところを、ネネは初日から見ることになった。
「まず、残っている人数を揃えます」
七草が机上の端末を投影すると、《出域未確認十一名》と表示された。
「第七迷宮の現時点の入域記録と出域記録の差は十一人。うち六人は北三号待機区画から応答があった。残り五人は東側の連絡路にいる可能性が高い。ただし、昨夜の通信以降、個別の照合はまだ終わっていません」
ネネは十一という数字を書きかけて、ペンを止めた。
「待機区画の六人と、東側の五人は、名簿で照合できていますか。同じ方が二つの集計に入っている可能性は?」
「そこを調べているところです」と七草。
「なら、《十一人全員の所在が確認できた》とは、まだ書けませんね」
七草がこちらを見る。ネネは少し身構えた。着任初日の人間が、保安主任の数字に口を挟んだのだ。
「そうです。だから、名簿を二枚に分けてください」
返ってきたのは、叱責ではなく仕事だった。
ネネは出域未確認者の一覧を開き、六人の確認済み欄に印を付けた。東側の五人は仮の位置情報を別欄へ写す。同じ名前を探し、入域した班の構成と照らし合わせると、採掘作業員と冒険者が混在していた。
「同じ班ではないんですね」
「採掘作業員三人と、護衛を含む冒険者八人。合計十一。六人の方は本人確認済み。東側の五人については、現場の応答待ちです」
シズが受け取った控えを見て言う。
「いいわ。保安班にはそのまま渡して。人員の取り違えがいちばん困る」
ネネは確定した人数と未確認の人数を、太い線で分けた。輪廻転生庁では、本人の希望と庁が決めたことを分けてきた。今度は、人の所在がわかったことと、わかったつもりになっていることを分ける。
似たような仕事なのに、こちらは間違えると本当に道の中で人が消える。
*
午後を待たず、現地から最初の追加連絡が入った。
『こちら北三号。六人全員、けがは軽微。飲み水はあります。灯りの魔石は、あと七時間くらいです。ただ、戻ろうとした人がさっき二人いて……』
通信管の向こうで、誰かが「だって矢印があるじゃないか!」と怒鳴った。
ネネは無意識に耳を立てた。よく聞こえる。それは便利だったが、耳がいくら長くても、通信管の向こうの壁の強度まではわからない。
七草が声を張る。
「北三号の待機区画から出ないでください。こちらで通路の移動を一時停止し、迎えの班を出します。目印の番号札が見える位置にいて」
『了解です。でも、入口の表示が《出口まで三分》になってます』
「表示を覆って。今はあれを使わないで」
『……三分なら、歩いて確かめても』
「確かめに行くのは保安班です。待機してください」
相手がようやく応じ、七草は通信管を下ろした。ネネは《北三号・照明残約七時間》と書き足した。七時間あれば十分なのか、足りないのか。自分には判断できない。けれど、判断する人に伝えなければ、七時間はただ黙って減っていく。
「『出口まで三分』って、何を基準に測っているんですか」とネネは訊いた。
「設計図上の最短経路。通路の変動が反映されなければ、いくらでも短くなる」
「表示が間違っていても、『三分』だけは正確に見えるんですね」
「だから厄介なんです」
モルンが机に広げた地図の一点を指した。
「この辺りから、案内板の向きがまとめて変わっています。出口の現在位置を確認せず、予定された接続先だけを参照しているようです」
「なぜそんな仕組みに?」
「通常は位置の更新がすぐ入るんです。地図係にも、更新が通ったという通知は来ています。ただ……」
モルンは、めくりかけていた修正紙から手を離した。
「現地の接続が完了したという記録までは、ここにありません」
七草は頷いた。
「完了していないのか、記録が届いていないだけかは、現物を見てから判断する。モルン、発行した図面の版と、現地が受け取った版を別々に出して。シズ、関係者への案内を頼む」
ネネは、地図の余白に赤い字で《要現地確認》と書いた。地図の上でだけ道がつながっていても、人は帰れない。自分の前世にはなかった、厄介な種類の書類だった。
*
東側の五人から応答があったのは、昼の鐘が鳴った直後だった。
迷宮の通信管は、遠い区域からの声を通すと少しだけ低く聞こえる。聞き取りづらいときには、発信元の標識番号を確認する。それが保安班の決まりだと、シズはネネに説明した。
『東連絡路、標識四十二。五人います。ひとり足をひねったけど、歩けます』
若い男性の声だった。息の乱れはあるが、言葉ははっきりしている。
「こちら保安班、七草。五人の名前を順に。負傷者は無理に移動させないでください」
返ってきた氏名を、七草とネネがそれぞれ記録する。五人のうち一人は採掘作業員で、四人は冒険者だった。氏名は仮名簿と一致している。ネネは最後の一人に印をつけ、七草へ頷いた。
「これで十一人、全員の所在と応答を確認できました。ただ、救出はまだです」
「そう。人員照合完了、と記録して。避難完了にはしないで」
七草は現地へ待機を指示し、足を痛めた人の状態と周囲の安全を確かめた。応答した男性はしばらく黙ったあと、少し気まずそうに言った。
『ひとつ、お願いがあるんですが』
「何ですか」
『うちの護衛が、さっきから壁を斬って近道を作ろうとしてて』
「斬らせないでください。隣の区画までひびが入る恐れがあります」
『そう伝えてます。でも本人が、強度には自信があるって』
「剣の強度じゃない。壁の向こうの人の安全です」
通信の奥から、別の男の声がした。
『だったら、俺が先に様子を見て――』
『ちょっと、あんたは護衛なんだろ! どこ行く気だ!』
喧嘩になりかけた声を聞いて、ネネは端末の記録欄に手を伸ばした。苦情として記すべきか、危険行動として伝えるべきか。一瞬だけ迷い、先に七草の方へ向き直る。
「壁を斬るおそれがあること、保安班の注意事項に入れてください。相談としての受理はあとにします」
「了解。現場班から直接指示させます」
シズがネネの横で小さく笑った。
「初日なのに、もううちの順番を覚えたのね」
「順番だけは、前の職場でもずっと気にしていたので」
「ここでは番号札より、先に命ね」
「……だいぶ重要な違いですね」
通信管の向こうでは、まだ護衛の男が何か抗議していた。七草は表情を変えず、接続先の保安班へ短く指示を送る。
「護衛の方には、動かず一団を守るよう伝えて。現場の指揮権は保安側です」
シズが名簿をめくり、ひとつの欄で指を止めた。
「この護衛、勇者認定を持っているそうよ」
ネネは思わず顔を上げた。
「勇者がいるんですか?」
「いるのよ。剣も強いらしい」
「じゃあ、魔物が出ても少しは安心……ですよね?」
「魔物には、ね」
七草が通信を切り、迷宮の図面を見下ろした。
「出口を斬って作るわけにはいかないから」
地図の上には、赤い線と青い線と、何度も貼り直された《出口》の文字がある。十一人の居場所はわかった。しかし、そこから安全に帰る道は、まだ確認できていない。
ネネは二枚に分けた名簿を揃え、最後に残った欄へ目をやった。
《安全な退出経路 未確定》
転生して最初の職場では、勇者も魔王も整理券を取った。新しい職場では、勇者が剣を持って出口を探している。それなのに、誰もその先へ進めない。
「……勇者様でも、迷子になるんですね」
シズが頷いた。
「なるわよ。勇者だって、地図を読めるとは限らないもの」
するとモルンが、床に散らばった図面の中から顔を上げた。
「それなら、地図を読める僕が行きましょうか?」
七草とシズが同時に言った。
「あなたはここにいて」
モルンは、ほどけた図面にもう一度足を取られた。
ネネは、その理由を聞かないことにした。




