第27話 異動先に「ダンジョン」と書いてあります
星を見に行くのに、傘が必要だとは思わなかった。
輪廻転生庁の南通りにある映写館は、古い劇場を改装した建物だった。入口で渡された案内には、《本日の上映中、客席に微量の星屑が降る場合があります》とある。希望者には貸出用の傘もあるらしい。
「星屑って、掃除が大変そうですね」
雨宮ネネが訊くと、受付の女性は慣れた様子で答えた。
「ほとんどは床に着く前に消えます。でも、お耳の長いお客様には念のためお貸ししています」
「……そんなに積もります?」
「前回、角のあるお客様の上で三十分ほど光っていたので」
ネネは傘を借りた。天井いっぱいに夜空が映し出されるという劇場で傘を差すのは、どう考えても邪道だが、耳の先が三十分発光し続けるのも困る。
休日を取って映画を見に来たのは、転生して初めてのことだった。前世で紗季と約束した映画は、結局見ることができなかった。そのことを劇場の入口で思い出したが、席を取るのをやめようとは思わなかった。
座席の選択画面を前に、しばらく迷う。空いている席は多い。前寄りにすると首が疲れそうだし、後ろ過ぎると星が遠い。結局、中央より少し後ろを選んだ。
生前の自分なら、紗季にどこがいいか訊いただろう。今は誰にも相談せず、一席だけ予約した。
上映が始まると、劇場の天井が消えた。深い群青の中を光が流れ、見知らぬ世界の星座がいくつも現れる。ある星には羽があり、別の星は魚の形をしていた。ネネにはそのどちらも名前がわからない。
わからなくても、美しいものは美しかった。
途中、細かい光が雨のように降ってきた。隣の客が傘を広げ、ネネもあわてて真似をする。傘の内側で星屑がぱちぱちと音を立てた。傘越しに見る星空は少し狭くなったが、それも悪くなかった。
帰り道、劇場の出口でアンケートを渡された。
《本日の鑑賞体験について、ご希望に沿った内容でしたか》
ネネは笑ってしまった。休みの日まで希望条件を問われるとは。
《はい》に印をつけ、自由記入欄には《傘は事前に案内してほしいです》と書いた。借りるときに驚いたのだから、次の客には知らせておけばいい。
それから紙を返し、誰にも呼ばれないまま宿舎へ帰った。
*
休み明けの朝、ネネの机に薄い封筒が置かれていた。
《人事課 正規登用選考結果のお知らせ》
正規登用の希望は、少し前の職員面談で伝えていた。勤務記録を提出したことも覚えている。けれど、採用時の書類に「正規登用制度あり」と書かれていた頃のネネにとって、それは給料が少し上がり、職員寮にいつまで住めるか心配しなくて済む、漠然とした未来の話だった。
封筒の角を持ったまま固まっていると、白瀬律が隣から声をかけた。
「開けないんですか」
「こういうの、開ける前がいちばん平和な気がして」
「不合格だったら、開けなくても結果は変わりませんよ」
「励まし方の研修、受けたことあります?」
「受講済みです」
「本当に?」
「修了証はあります」
ネネは封を切った。
《選考結果:合格》
《正規任用候補者として登録》
《任用前に、配置先および勤務条件について本人との面談を実施します》
合格、という二文字を何度か読み返した。生前、採用試験の申込画面を送信した夜のことが浮かぶ。問題集には、まだ解けなかった頁が残っていた。あの試験を受けに行くことは、ついになかった。
だからといって、今の合格があの日の埋め合わせになるわけではない。それでも、嬉しいものは嬉しかった。
「……受かりました」
「おめでとうございます」
白瀬はいつもと変わらぬ声で言った。その変わらなさが、かえってありがたかった。
「でも、正規任用『候補者』って何ですか。まだ候補なんですね」
「条件を確認して、本人が任用を受けるか決める段階です」
「条件を確認したら、今度は耳が六本に増える、とかありませんよね」
「身体形質の話ではありません」
「一応、訊いておきたくて」
用紙の裏には、面談で案内される配置候補が二つ書かれていた。
《第一候補 輪廻転生庁・転生相談室》
《第二候補 迷宮管理局・現地相談調整係》
ネネは第二候補を読み直し、次に表紙をひっくり返した。何かの見間違いかと思ったが、やはり同じ文字があった。
「……異動先に、ダンジョンって書いてあります」
「正式には迷宮管理局です」
「言い換えても、ダンジョンですよね?」
「そうですね」
「なぜそんなに落ち着いてるんですか」
「人事課が作った配置候補ですから」
その平静を少し分けてほしい。そう思ったが、今の自分には落ち着いて確かめるべきことがある。ネネは、二つの候補の横に並ぶ小さな注記を読んだ。
《いずれの候補も、本人への条件説明および意向確認後に調整を行います》
あの身体形質の確定記録には、こういう一文がなかった。
今度は、あった。
*
人事課との面談は、三日後に行われた。
担当の男性は、ネネが入室すると机の上へ資料を四冊並べた。一冊目が給与と任用条件、二冊目が配属先の業務内容、三冊目が勤務地と福利厚生、四冊目だけがやけに厚い。
「こちらは迷宮管理局勤務者向けの安全事項です」
表紙には《落盤》《魔物との接触》《道迷い》《空間転移の誤作動》と書かれていた。
「安全事項の目次に、すでに命の危険があるんですが」
「現地に出る職員が対象の項目です。雨宮さんに案内しているのは、主に相談内容の受理、現地担当との連絡、記録の整備です」
「主に、ということは」
「緊急時に安全担当への通報や退避誘導をお願いする場合があります。魔物の討伐や危険区域への単独立入りは職務に含まれません」
「そのあたりは、ぜひ太字で」
男性は資料に印をつけた。ネネはその動きを見届けてから、質問票を開いた。
赴任先の相談窓口は、迷宮管理局の管理区域内に設けられているらしい。勤務時間は原則として定時制。ただし、現地で事故が起きた場合には当番職員からの連絡を受けることがあり、当番の割当てと手当は別紙に定めるという。
「この当番、月に何回くらいですか」
「配属予定の係で、ひと月の上限を設けています。直近の実績はこちらです」
「危険手当は?」
「実際に対象業務に従事した時間について支給されます。窓口に座っているだけで一律に付くものではありません」
「残念……いえ、それはそうですよね」
ネネは苦笑して、続けて尋ねた。
「相談者が落盤の危険を訴えたとき、誰が現場を止められるんですか。相談係が手続きを済ませるまで、待ってもらうんでしょうか」
担当者は、二冊目の資料を開いた。
「現地保安担当への緊急通報経路があります。危険区域への立入りを一時停止する権限は保安側にあり、相談係はその判断に必要な情報を伝え、当事者への連絡状況を記録します」
「それなら、窓口の人が『管轄外です』って返している間に石が落ちてくる、ということは避けられそうですね」
「避けるための仕組みです。ただし、現地の判断や対応に問題があれば、検証は必要になります」
ネネは、以前相談室へ来た、岩肌のような鱗の女性を思い出した。彼女が申し出た採掘場の危険については、現地で立入りを控える指示が出され、その後の検査も継続中だった。紙に書くことと、実際に人を危ない場所から遠ざけることは違う。その間をつなぐ仕事なら、簡単ではないけれど意味がある。
「もう一つ。第一候補のまま相談室に残ることも、ちゃんと選べるんですよね」
「はい。どちらを希望されても、勤務条件の確認後に配置調整を行います。今回の二候補を希望しない場合も、その意思を提出できます」
「それで合格がなかったことになるとか」
「希望の提出だけを理由に、選考結果を取り消すことはありません。調整のため、任用時期が変わる可能性はあります」
「わかりました。そこも控えに残してください」
担当者は嫌な顔をせず、説明記録に書き足した。ネネはそれを見て、ようやく資料の四冊目を閉じた。
あの頃の自分なら、先に「どこでも頑張ります」と言っただろう。質問が多いと思われるのが嫌で、細かな条件を聞かずに笑ってしまったかもしれない。
いまは、面談時間を少し延ばしてでも聞いた。聞いて、迷った。
それだけのことが、思いのほか難しかった。
*
「どうでした、人事課」
その日の夕方、書類棚の前でミラに声をかけられた。
「資料が四冊ありました。安全事項だけ、分厚い辞書みたいでした」
「迷宮管理局なら、それでも薄い方です」
「怖いこと言わないでください」
ミラは手に持った帳票を机に置くと、わずかに顔を傾けた。
「希望は決めたんですか」
「まだです。残る方も選べるって言われましたし」
「どちらにも不都合はありますね」
「ミラさん、人の進路相談で最初に不都合から話すの、やめた方がいいです」
「よいところもありますよ。ここには慣れた同僚がいて、向こうには新しい問題があります」
「後半、全然よいところじゃない!」
「問題を整理する仕事が、お好きでしょう」
否定できなかった。けれど、だから迷宮へ行くのではない、とネネは思った。仕事を任せたい人がいるから、と言われて出かけるのでは、以前と同じだ。
黒羽室長に報告すると、彼は「どちらでも構わないよ」と言った。
「それ、少し寂しいです」
「君が残ってくれたら助かる。でも、助かるからという理由で引き留めるのは、今回の話に反するだろう?」
「……そうですね」
「こちらの相談室は、引き継ぎをする。君がいなくても、今の制度改善を続けられるようにね」
黒羽は書類の束をぽんと叩いた。新しい手続き区分の導入は、まだ全ての部署では終わっていない。雨宮ネネ一人が頑張ったから良くなる、そんな役所であっては困るのだ。
「室長。私、あの椅子は持っていけますか」
「尻尾の切れ込みがある椅子?」
「はい。最初に支給してもらった方です」
「備品の持出しは手続きが要るね。向こうでも支給申請はできるはずだよ」
「そうですよね。わかってました」
ネネは、ようやく笑った。大事だったのは椅子そのものではなく、自分の身体に合う椅子を頼んでいいのだと知ったことかもしれない。
*
回答期限の前日、ネネは南通りの映写館で買った小さなしおりを机に置いていた。
紙には、あの日見た見知らぬ星座が印刷されている。劇場を出るとき、売店で選んだものだった。前世では予定を立てるだけでも迷っていたのに、転生してからは、仕事を終えたあとにひとりで買い物までしている。
少し可笑しかった。
候補の案内をもう一度読む。
転生相談室には、何度も顔を合わせた客がいる。机の隣には白瀬がいる。ミラの説明は相変わらず正確で、不器用だ。黒羽室長は、面倒な話から逃げない。
ここに残りたいと思う自分は、間違いなくいる。
一方、迷宮の相談窓口には、岩だらけの通路の先で困っている人がいる。何が起こるかわからない。仕事内容を読んでも、まだ知らないことの方が多い。新しいところへ行ったからといって、立派な人間になれる保証もない。
それでも、知らない場所を自分の足で見に行きたい気持ちがあった。
耳も、尻尾も、まだ今のままだ。身体形質の再評価については、今後の工程説明を待っている。配属先を選んだところで、そちらの結論まで急がせるつもりはない。
ネネは用紙の《本人希望》を開き、第二候補に印をつけた。
《迷宮管理局・現地相談調整係を希望》
次の欄は自由記入だった。そこには、配属を希望する理由を書くように、とある。
ネネは少し悩んだ末、短く記した。
《知らない場所で、これまでとは違う仕事をしてみたいため。》
ありきたりな理由だと思った。けれど、仕事に向いているからでも、誰かに必要とされたからでもない。もちろん、困っている人を放っておけない気持ちはある。
そのどれもが、自分の代わりに決めていい理由にはならない。
ネネは送信した。受理番号が表示されたので、控えを保存する。送信した瞬間に採用が確定するのではなく、これから正式な配置調整の通知が来る。今なら、その待ち時間にも意味があるとわかる。
しおりを手帳に挟むと、長い耳が揺れた。
*
配置調整の結果が出たのは、その一週間後だった。
《正規任用決定》
《配属先 迷宮管理局・現地相談調整係》
《着任日および勤務条件 別紙のとおり》
今回は、別紙が本当に同封されていた。
「……そこに感動してる時点で、だいぶ慣らされてますよね、私」
呟くと、隣の白瀬が一度だけ笑った。
最後の勤務日、相談室では小さな送別会が開かれた。立派な会場も、長い挨拶もない。勤務終了後の休憩室に、茶と菓子が並んだだけだ。ミラが用意した菓子の袋には、ひとつずつ《本人用》と札がついていた。
「これ、何のためですか」
「以前、共用の菓子をどなたかが能力試験用に持っていこうとしたので」
「ああ……そんなこともありましたね」
「札があれば、食べてよい人がわかります」
「全員、自分のものしか食べられないなら、交換会になりません?」
白瀬はネネの前に小さな包みを置いた。中には、使い慣れた型の筆記具が一本入っている。
「迷宮局でも、紙の書類は多いそうです」
「……ありがとうございます。これ、白瀬さんが使ってるのと同じものですよね」
「同じ型です。予備を買いました」
「おそろいって言ってくれてもいいのに」
「備品と間違われますよ」
包みには、短い紙片が添えられていた。
《困ったら、まず記録を見てください。記録がなくても、相手の話を聞いてください。》
ネネは読み終わって、顔を上げた。
「白瀬さんが、そんなことを書いてくれるなんて」
「最初に説明しておきたくて」
その言葉が、二人にだけわかる冗談になったことを、ネネは少し嬉しく思った。
黒羽は最後に、庁の古い相談標語を印刷した紙を差し出した。
《お客様の声を大切にします》
「……室長、これ、桐谷さんが食べたやつと同じです」
「そう。だから、額には入れないでおこうと思ってね」
「また食べられたら困りますもんね」
「困るのは、紙を食べるお客様より、書いてあることを忘れる職員かな」
黒羽はそう言って、紙を裏返した。裏には新しく、手書きの一文が加えられていた。
《職員の声も大切にします》
ネネは笑った。少し遅いくらいだ。でも、遅いから無意味なわけではない。
送別会が終わり、誰もいなくなった相談室へ戻る。受付台には、明日の番号札が補充されていた。椅子の座面には、尻尾のための切れ込みがある。最初にこの椅子が届いた日、これだけでしばらく頑張れると思った。
いまは、椅子がなくても頑張れるとは思わない。必要な椅子は、次の職場でも頼めばいい。
「お世話になりました」
ネネは誰にともなく言い、照明を落とした。
*
迷宮管理局の庁舎は、輪廻転生庁よりもずっと低かった。地上には三階しかない。地下に何階あるのかは、案内板に書いていない。
正面玄関の脇には、職員用の掲示があった。
《初めての方へ 庁舎内で道に迷った場合、むやみに壁を破壊しないでください》
ネネは読んで、しばらく立ち止まった。
「……壁を壊す選択肢があるんですか」
返事はない。案内板の矢印は右を指し、その下の古い矢印は左を指している。訂正する前に、新しい方を貼ったらしい。
ネネは職員用端末に届いていた着任案内を確認した。
《受付窓口は地下一階。東側廊下の奥。ただし、廊下の位置は変動する場合があります》
「場所の説明に、『場合があります』を入れないでほしい……」
廊下の奥から、何かが激しく転がってくる音がした。次いで、鎧のようなものを着た男性が角を曲がり、こちらに駆けてくる。頭には兜、片手にはひしゃげた地図。息を切らしながら、彼は叫んだ。
「新しい相談員さんですか! 助けてください!」
ネネは職員証を出した。
「本日着任の雨宮です。まず、お名前と、何が起きたのか教えてください」
男性は、あんぐりと口を開けた。
「名前より先に、出口です!」
「出口?」
「第七迷宮の出口が、昨日から行方不明なんです! 冒険者が帰れません!」
背後で、重たい石の擦れる音が響いた。入口だと思っていた扉の位置が、いつの間にか少しずれている。男性は振り返り、また悲鳴を上げた。
ネネはしばらくその扉を見つめ、それから職員証の裏に印刷された緊急連絡先を確かめた。
危険区域の安全確保が先。現地の担当者へ通報し、迷宮内にいる人の数と位置を確認する。その次に、出口が勝手に消えたという苦情の受付だ。
順番さえ間違えなければ、なんとかなる。そう思いたい。
「わかりました。まず現地保安担当に連絡します。それから……」
目の前で、案内板の《出口》という矢印が、ひとりでにくるりと回った。
「……その前に一つだけ確認させてください」
「何ですか!」
「ここの出口は、今どちらですか」
男性は、泣きそうな顔で答えた。
「それを聞きに来たんです!」
ネネの耳が、天井に向かってぴんと立った。
死んでも窓口。今度は、出口のない迷宮で。




