第26話 苦情は、なかったことにできません
輪廻転生庁の相談室には、四種類の「済」がある。
受付済、連絡済、回答済、終結済。
雨宮ネネは今朝、その四つが同じ色の札になっていることに気づいた。昨日までは受付済と回答済が青、連絡済が黄、終結済が赤だった。見分けにくいという苦情を受けて、施設管理課が色を統一したのだという。
「見分けにくいから統一したら、もっと見分けにくくなりません?」
書類箱の前にしゃがんでいた白瀬律が、四枚の札を順に取り上げた。
「色の区別が苦手な職員にも読めるよう、文字を大きくしたそうです」
「そこはいいことです。でも文字を読まないとわからないのは、前から同じですよね」
「形も同じですからね」
「形まで同じにしなくていいんです」
白瀬は札を戻すと、一枚だけ裏返した。そこには《終結済の札を使用する際は、終結済であることを確認してください》と印刷されていた。
「……確認方法は?」
「別紙参照、とあります」
「その別紙は?」
「札の発注元へ照会中です」
ネネの耳が左右別々の方向へ倒れた。色を変えただけの札が、相談室に新しい仕事を持ってきたらしい。
ミラが書類棚から小さな箱を持ってきた。
「赤い札なら、旧型が残っています」
「捨てないでくれてありがとう、ミラさん」
「廃棄申請の承認が下りなかっただけです」
「感謝する相手を間違えました」
窓口の外から、呼出機の電子音が聞こえた。ネネは札のことをいったん忘れ、椅子に座った。尻尾の逃げ場がある、いつもの椅子だ。
この数週間、庁内ではさまざまな記録が動いていた。優先配属制度に関する独立審査、過去の相談票の再点検、説明を担当した部署への照会。どれも大切で、どれも進みが遅い。
そして今日、ネネ自身の申立てに、初めて審査部門からの説明が届くことになっていた。
*
昼過ぎ、ネネは職員証を鞄の底にしまって東別棟へ向かった。
呼び出されたのは第七面談室ではなく、その隣にある小さな審査説明室だった。以前の面談では、身体の候補を選んだ鈴原澄子が説明を担当した。今日は、選定にも確定登録にも関わっていない審査官が待っていた。
「独立審査室の八田です。本日は雨宮さんの申立てについて、確認できた事実と、未確認の事項を分けてお伝えします」
ネネは思わずうなずいた。分けてくれる。まだ話が始まったばかりなのに、その一言に少し安心してしまった。
八田は薄い封筒から、二枚の紙を取り出した。
「はじめに、記録の発生時刻です。四月十四日午前九時十二分に身体形質の候補選定、十五日午前十一時四十一分に確定登録、十六日午前十時七分に庁内就業希望の受付。この順序は、原記録から確認できました」
「はい。前の面談でも聞きました」
「候補選定に使われた前世の職歴は、市民協働窓口での四年間の勤務です。また、雨宮さんが一般の再就業支援を希望した記録もあります」
「仕事の紹介を受けたい、という希望です」
「そのとおりです」
八田は二枚目の紙を指した。
《身体形質確定時の承諾照合》
《参照先:再就業支援・候補案内受付票》
ネネは、その文をゆっくり読んだ。長い耳の先で、自分の髪がわずかに動いた。
「この受付票が、見つかったんですか」
「はい。保管先をたどることができました」
「じゃあ、私が何に同意したか、わかるんですね」
八田はすぐに答えなかった。紙の向きを変え、ネネの方へ差し出した。
受付票には、二つの欄があった。
《再就業支援に関する候補案内を受け取る》
《候補案内のため、職歴と希望条件の照合を認める》
どちらにも承諾の印がついていた。記憶の欠けた転生時のことだから、ネネにはその画面を見た覚えがない。それでも、そこに記されているのは仕事の紹介と情報の照合だけだった。
「耳のことも、尻尾のことも、書いてありませんね」
「はい。この受付票には、身体形質の説明項目がありません」
「では、別のところで説明された記録は?」
「関連する保管先も確認しましたが、今回の確定登録に対応する個別説明記録は、特定できませんでした」
ネネの膝の上で、指が重なった。
探せなかった、という言葉は聞き慣れている。市役所でも輪廻転生庁でも、「記録がない」は「出来事がなかった」と同じ意味ではない。口頭で説明された可能性も、別の場所に資料が残っている可能性もある。
だが、それならどうして確定登録できたのか。
その疑問を口にする前に、八田が続けた。
「現行の原記録からは、個別の身体形質について説明し、ご本人の意思を確認したと認めることができません。一般の再就業支援への承諾を、形質確定の承諾として照合した処理が確認されています」
「……私が押した印は、仕事を紹介してもらうためのものだった」
「少なくとも、この記録で確認できる範囲では、そうです。形質確定に関する説明手続きが適切だったとは判断できません」
八田はもう一枚、署名欄のある紙を重ねた。
「確定記録の照合方法に不備があったことは、管理室も認めています。担当部署から、訂正説明とお詫びの書面をお送りします。これでお困りだった時間が戻るわけではありませんが」
「……はい。書面をいただいたら、ちゃんと読みます」
ネネは、深く息を吸った。
以前、鈴原は「あなたに向いている身体だと判断しました」と言った。その判断が生まれた事情は理解できた。窓口では人手が足りず、よく聞こえる耳が役に立つ。実際、その耳で助けられたこともある。
けれど、向いているから選ばれたことと、自分で選んだことは、やはり違うのだ。
「それで、私はどうなるんでしょう」
声にすると、思っていたよりずっと現実的な質問だった。
「いまの身体は取り消しです、なんて言われたら困ります。明日も仕事があるので」
八田は首を振った。
「雨宮さんの現在の身体や生活を、審査結果だけで変更することはありません。庁内就業の申込みと採用の記録も、別の手続きとして有効です。今回確認したのは、身体形質の確定に至る説明と承諾の取り扱いの問題です」
「じゃあ、明日いきなり耳がなくなることは?」
「ありません」
「尻尾だけ、朝起きたらなくなっているとか」
「ありません」
「……すみません。そこ、先に聞いておきたくて」
「大事な確認です」
まじめな顔で答えられると、かえって照れくさい。
八田はさらに、身体形質の個別再評価はネネの申込みに従って続くこと、変更可能という結論が出ても実施の前に改めて同意を取ること、今回の記録の問題と変更の可否は別々に通知することを説明した。
「ここまでの説明について、確認したいことはありますか」
ネネは自分の質問票を開いた。書き込んだ質問には、すでに答えられたものもある。
残った一行を指で押さえた。
「私の申立ては、これで終わるんですか」
「説明記録に関する審査は、今回の判断をもって一区切りです。ただし、ご本人への訂正説明と必要な書面の交付が完了するまでは、対応が終了したことにはなりません。確認事項があれば、引き続き受け付けます」
八田は控えの下に、対応する部署と回答期限を記した。
「ずいぶん細かく書くんですね」
「細かく書かずに困った事例が、今回の審査の対象ですから」
その答えがおかしくて、ネネは少し笑った。
笑った途端に、目の奥が熱くなった。怒鳴りに来たわけではないし、誰かに慰めてほしいわけでもない。それなのに、こちらが何を知りたいのか一つずつ確認されただけで、こんなに気が緩むとは思わなかった。
泣いたら耳まで下がるだろう。今は、それを見られたくなかった。
*
翌日の午後、相談室の奥にある会議机へ、白瀬とミラ、それから黒羽宗一室長が集まった。
議題は優先配属制度の業務上の調査だった。ネネ個人の申立てとは別に、相談処理の経路や完了扱いについて、黒羽の名で独立審査部門へ照会していたものである。
ネネの個人資料は、この机にはない。昨日の説明についても、自分から話していない。
黒羽が配布した資料には、名前や転生先を伏せた案件の分類と、審査部門からの是正指示が載っていた。
「まず、優先配属制度そのものを廃止する判断ではない。本人の希望と受入先の条件が合い、必要な説明と承諾が取れている案件まで、問題にする理由はないからね」
黒羽は穏やかに話し始めた。
「ただし、今回の確認では、一般の支援参加への承諾が、個別の身体形質の確定手続きに流用されていた例が見つかった。また、案内を送っただけで苦情を終結扱いにした記録もある」
ミラが配布資料の表を示す。
「抽出した記録の中に、同じ参照番号が異なる手続きへ自動転記されていたものがあります。番号があること自体は、承諾の内容を証明しません。今回の指示が出たあとは、この方式のまま新たな確定登録を進めることはできません」
ネネは、数字の並ぶ表を見つめた。
四角に斜線が二本入った、あの連携記号も載っている。ただしそこには《候補選定に関係する照合記号。本人の承諾を示すものではない》とはっきり添えられていた。
最初にその印を見つけた日、自分の耳がこんな姿になった理由のすべてが、この小さな四角に書き込まれているような気がした。今ならわかる。印はただの印で、どんな意味を持たせたかを確かめるのが仕事なのだ。
「未確認の案件は、全部やり直しになるんですか」
ネネの問いに、黒羽は首を横に振った。
「本人が希望していない再転生や形質変更を、一律に命じることはできない。今の暮らしを続けたい人もいる。そこで、まず確認が必要な対象を再点検し、説明を求める窓口と、必要に応じて個別の再評価を選べることを案内する」
「その案内を送っただけで、また終結済になったりしません?」
「ならないよう、記録の扱いを変える。以前に終結扱いにされた申立ても、案内しただけだったものは処理経路を見直すよう指示が出ている」
白瀬が新しい処理区分の試案を開いた。
《案内送付》
《本人への説明実施》
《追加申立て受付》
《申立てへの回答》
《終結条件確認》
「別々に記録するそうです。従来は、案内を送った時点で自動的に処理を終えた扱いになる経路がありました」
「それで『回答済』になっていたんですね」
「はい。回答を作った部署は仕事を終えています。でも、相手に届いたか、説明が足りたかは別です」
ネネは、先週泣きそうな顔で窓口に来た人たちを思い出した。あれだけ何度も「期限は終わっていません」と言ったのに、庁の内部では、別の意味で勝手に終わっていたものがあったらしい。
黒羽が続けた。
「今回、審査部門が指示したのは、一般の支援参加への承諾を形質確定の承諾として扱う自動処理の停止、対象案件の再点検、それから相談への回答責任の明確化だ。記録を保管する部署、説明する部署、申立てへの返答を引き受ける部署を、これからは案件ごとに指定する。最初の回答期限も必ず通知する」
「全部、できるんですか」とネネ。
「全部一日で、というのは無理だね。だからこそ、進捗と期限を残す。対象の洗い出しもこれから続く」
「審査官の皆さんも、残業でしょうね……」
「たぶんね」
「仕事ができる人に、仕事が集まっていくのはどこの世界でも同じですね」
黒羽は苦笑した。
「君たちの仕事を際限なく増やすつもりはないよ。今日決めるのは、相談室としてどこまで引き受けるか、だ」
そこへ、会議室の扉が小さくノックされた。
「失礼します。配属調整課の田所です。改訂する案内の表題について、ご意見をいただけないでしょうか」
見覚えのある、よく通る声だった。優先配属制度の説明会で、花吹雪の投影画面を使っていた広報担当である。今日は花吹雪の代わりに、分厚い紙の束を抱えている。
「仮題なのですが、《転生適性を最大限に活用するための個別理解促進及び同意形成に関するご案内》と」
「長いです」とネネが言った。
田所の笑顔が一瞬だけ止まる。
「内容を正確に伝えようとすると、どうしても」
「内容が正確でも、何をしてほしいのかわからなければ、読んだ人は困ります」
ネネは、山岸という包丁に転生した男性の声を思い出した。聖剣になれると思って、読めなかった書類に署名した人だ。
「たとえば、最初の一行は『身体や仕事の決まり方について、説明を受けられます』では駄目ですか。その次に、何を選べるのか、どこへ連絡するのかを書く方が」
田所は紙を見つめた。しばらくして、筆記具を取り出す。
「……確かに。読んでほしい言葉と、伝えたい言葉は違いますね」
「はい。あと、選ばないという返事もできることを書いてください」
田所はうなずいた。
「それは、必ず入れます」
その場で案内の言い回しが決まったわけではない。法務確認も、他部署との調整も残っている。けれどネネは、長い表題の上に引かれた一本の線を、悪くない変化だと思った。
*
新しい処理区分を相談室で使い始めたのは、それから数日後のことだった。
最初の試運転で、呼出端末が《回答済》の札を二枚同時に吐き出した。
「もう一枚は何の分ですか」
「回答を送ったことへの回答でしょうか」と白瀬。
「やめてください。永遠に終わりません」
ミラが端末を止め、職員向けの説明欄を開く。
「一枚は相談者用、一枚は発送部署の控えです。宛先が違います」
「じゃあ札の裏に宛先を書きましょう。誰に渡すか、見ればわかるように」
それを聞いた白瀬が、静かにペンを差し出した。
「雨宮さん。以前より、確認することが増えましたね」
「前より間違えたくないだけです」
「それもありますが」
「……なんですか」
「自分が何を選べるか、よく聞くようになりました」
ネネはすぐに返事をしなかった。
前世では、土曜に映画へ行くことさえ、やっと自分で決めた。その土曜日を生き延びることはできなかった。いま、耳の長い身体でここに座り、明日の勤務予定を確認している。不満は山ほどあるし、この仕事でまた理不尽な客に叱られるだろう。
それでも、今度は誰かに自分の人生の項目を埋めてもらわなくていい。
「白瀬さん。私、明日の午後、時間休を取りたいです」
「再評価の検査ですか」
「いいえ。個人的な用事です。詳しく説明しないと駄目ですか」
「いいえ。業務上必要な申請だけで結構です」
「よかった」
ネネは申請画面を開いた。休みの理由を勝手に推測する項目は、幸い今のところ見当たらない。
「ところで、休みの日は何をされるんですか」
「いま聞きませんでした?」
「職員としては尋ねていません」
「……その使い分け、ずるいですよ」
白瀬の口元がわずかに上がった。
ネネは、少し考えて答えた。
「映画を見に行こうと思ってます。こっちの世界にも、映像を映す劇場があるでしょう」
「ありますよ。庁の南通りに、星を天井いっぱいに映すところが」
「そこ、行ってみます」
母の梨も、紗季と並んで座るはずだった席も、戻ってはこない。だからといって、今ある休日を使わずに取っておく理由にはならなかった。
休暇の申請を送信したところで、受付機から新しい番号札が一枚出てきた。白瀬が受け取り、裏面を確かめる。
《相談終了》
「……まだ、相談者さん来てませんよね?」
ネネが言うと、ミラが顔を上げた。
「昨日の設定変更で、印字項目の順序が入れ替わったようです。正しくは《相談受付》です」
「『相談』だけ合ってればいいと思ってません?」
「訂正依頼を出します」
ネネは席を立ち、用紙を差し替えた。少し手間は増える。それでも、相手が何を伝えに来たか聞く前に、その相談を終わらせるわけにはいかない。
受付機がもう一度動き、今度は正しい番号札が出てきた。
ネネはそれを待合の方へ向けて、声をかけた。
「次の方、どうぞ。お話を聞かせてください」




