第25話 私一人だけ、元に戻せば終わりですか
朝、鏡の前で髪を結ぼうとした雨宮ネネは、右の耳を三度もリボンに巻き込んだ。
人間だった頃は、寝癖がついても水で直せば済んだ。いまは寝癖の上に耳の癖がある。昨日の面談で散々触ったせいか、右耳だけが妙に前へ倒れていた。
「……あなたたち、私の意思で動く予定はないんですか」
鏡の中の耳は答えず、ネネがため息をつくと一緒に沈んだ。そこだけは律儀である。
机には、鈴原から渡された《身体形質・個別再評価のご案内》が置いてあった。三つの選択肢の前にある小さな四角は、昨夜からずっと空白のままだ。
《現状維持を希望》
《変更の可能性について説明を希望》
《変更の審査を希望》
今の姿のままでいいと思う瞬間はある。廊下で落とした硬貨が転がる音を遠くまで聞き取れたときや、小声の相談に気づけたときは、この耳を少し誇らしく思った。
けれど、誇らしいことと、選びたかったことは違う。昨日、自分が鈴原に言った言葉を、今度は自分で引き受けなければならない。
ネネは用紙を鞄にしまった。結論を出すより先に、聞いておきたいことがあった。
*
相談室へ入ると、白瀬律が床に膝をついていた。
その前には職員用の椅子が一脚、見事にひっくり返っている。脚の間から紙の帯が垂れ、背もたれには《全種族対応・自動調整式》と大きく書かれていた。
「白瀬さん。椅子を取り調べてるんですか」
「施設管理課が試験導入した備品です。尻尾の長さを自動で判定するそうですが、誰も座っていないのに変形しました」
「誰も座っていないのに?」
「はい。僕の上着の裾を尻尾と認識したようです」
白瀬が上着を引くと、椅子の座面がぎゅっとすぼまり、脚が一本だけ短くなった。人が座る前に椅子の方が諦めている。
「全種族対応なのに、白瀬さんには対応できなかったんですね」
「僕は人間型ですが」
「それで駄目なら、ずいぶん心配です」
そこへミラが来た。ひっくり返った椅子を見て、すぐに取扱説明書を開く。
「使用者の形質に合わせて、支えの位置を変更します。高精度の感応術式ですね」
「本当に高精度ですか」とネネ。
「術式自体は正常です。ただ、検出対象が『座面周辺で動く突出部分すべて』になっています」
「上着の裾も尻尾にされるんですね」
「長い袖や鞄の紐も、尻尾として扱う可能性があります」
ミラが試しに説明書をかざすと、椅子は紙の角に反応し、背もたれを勢いよく倒した。後ろの書類棚へぶつかる寸前、白瀬が脚をつかんで止める。
「……まず、使用停止にしましょう」
「形質を測る前に、座る人に聞いた方が早いんじゃないですか」
ネネの言葉に、ミラは説明書の余白を見つめた。
「その項目は、ありません」
どうしてこの職場では、家具まで本人確認が苦手なのだろう。
結局、椅子には《使用停止・判定条件の再確認中》という札が結ばれた。朝礼前から、確認中のものが一つ増えた。
*
「雨宮さん。昨日の面談はどうでしたか」
白瀬が落ち着いたところで尋ねた。ネネは自分の鞄から説明事項の控えを取り出したが、机の上には置かなかった。
「身体の候補を選んだ理由は聞けました。前世の職歴を見て、窓口向けの聴覚補助がある形質を勧めたそうです」
「なるほど」
「でも、形質を確定したときの個別の同意記録は、まだ見つかっていません。五営業日以内に、所在確認の進捗だけは知らせると言われています」
「そうですか」
「それと、身体を変更するための再評価は、先に申し込めるそうです」
白瀬はうなずいた。それ以上、尋ねてこない。
ネネは少し迷い、椅子の残骸に視線を移した。
「……白瀬さんなら、どうします?」
「僕ですか」
「こういうとき、元の身体に戻れるかどうか、先に調べますか。それとも、説明が全部そろうまで待ちますか」
白瀬は一度、考え込むように腕を組んだ。
「僕の身体ではないので、どちらを選ぶべきかは言えません。ただ、再評価を申し込むことと、説明不足についての申立てを続けることは、別の手続きですよね」
「はい」
「なら、一方を進めるために、もう一方をやめる必要はないはずです。実際にどう扱われるかは、受付先で確認してください」
ネネは鞄の内側に入れた用紙へ目を落とした。
昨夜、いちばん最初に考えたのは、自分の再評価を後回しにすることだった。他の転生者の説明記録にも疑問がある。自分だけ先に調べてもらうのは、ずるい気がした。
だが、その感覚には覚えがある。生前の市役所で、誰かの仕事が終わるまで帰らなかった日。自分の予定を後回しにして、気づけば週末が終わっていた日。誰もそこまで頼んでいないのに、一人で決めて、一人で不満をためた。
自分のことを決めるのが苦手だったくせに、ほかの人の分まで決めようとしている。
「……受付で聞いてきます」
「その方がいいと思います」
白瀬はようやく微笑んだ。
「それと、昨日からの椅子に関する問い合わせは、今のところ施設管理課で受け付けます。雨宮さんの尻尾のことだからといって、全部あなたの仕事になるわけではありません」
「なってたまるものです」
ネネは今の椅子に腰を下ろした。以前、白瀬たちが用意してくれた、尻尾の逃げ場がある椅子だ。少し座り心地がよくなっただけで、こんなに仕事がしやすくなる。
元に戻るかどうかを考えるとき、この椅子を惜しいと思う自分もいる。それは変な話だった。身体を変えるか悩んでいるのに、先に椅子の行く末を気にしているのだから。
*
昼休み、ネネは個別再評価の受付窓口へ行った。
列の先頭では、背中に大きな甲羅を持つ男性が、書類を両手で広げていた。
「『現在の身体のままでよい』に印をつけたら、あとで変えたくなっても駄目なのか?」
「今回の再評価については申込みをしない扱いです。将来の申立ての権利を放棄する意味ではありません」
「なんだ。『現状維持を希望』って書かれると、一生この甲羅でよいと誓うみたいじゃないか」
受付の女性は慣れた調子で説明し、男性はほっとして番号札を返した。
ネネはそのやり取りを聞いて、手元の用紙を見た。
同じ言葉でも、書く方と読む方で、まるで違う重さになる。自分も窓口で何度も見てきたことだった。
順番が来ると、ネネは三つの項目を示した。
「変更の審査を希望した場合、審査の結果、変更できるとわかったら、その場で身体が変わるんですか」
「いいえ。まず現在の形質と変更の可能性を評価します。変更可能と判断された場合も、実施するかどうかは改めてご本人に説明し、意思を確認します」
「審査中に気が変わったら?」
「取下げはできます。ただし、検査のために身体へ負担がかかる工程は、事前に確認を取ります。審査だけで元の姿に戻るとは限りません」
「その説明は、書面でもいただけますか」
「はい」
女性は丁寧に冊子を開いた。検査の項目、形質の安定性、変更によって失われる可能性のある感覚、必要な休暇。それらは細かな字で書かれていて、身体を変えることが衣服の仕立て直しではないのだと、改めてわかった。
「それと、身体の選定時に説明が足りなかったかもしれないという、別の申立てがあります。こちらの再評価を申し込むことで、そちらが終了扱いになることはありませんか」
女性は端末に記載された手続きの区分を確認した。
「申立て番号をお持ちですか」
「はい」
ネネは自分の控えを見せた。女性は二つの番号が別々の処理欄へ登録されることを示し、説明記録の照合や審査は、再評価とは独立して続くと確認してくれた。
「本人が希望して現在の身体を変えた場合でも、過去の説明が適切だったかどうかの問題は残ります。自動的に取り下げにはなりません」
「……よかった」
昨日に続いて、また声が出た。
窓口の女性は、軽く首を傾げた。
「お急ぎでしたか」
「いいえ。急いで決めたくないので、急いで確認してるんです」
「それは、大切なことだと思います」
ネネは用紙へ目を落とした。悩んでいる間に、誰かがいい案を選んでくれたら楽かもしれない。けれど、それではまた、誰の選択なのかわからなくなる。
少し迷ったあと、三つ目の四角へ自分の手で印をつけた。
《変更の審査を希望》
元の身体へ戻ると決めたわけではない。戻れるのか、戻ることで何を失うのかを知ったうえで、自分で決めたい。そのための最初の申込みだった。
受付の女性が受理印を押す。
「結果の通知先は、こちらの宿舎でよろしいですか」
「はい。変更の可否だけでなく、理由と選択肢も書面でお願いします」
「承知しました」
番号のついた控えを受け取り、ネネは窓口を離れた。
やっと一つ、誰かの都合ではない申込みをした気がした。
*
相談室へ戻ると、ミラが机の上に書類を三つの山に分けていた。
「黒羽室長からです。先日の正式照会について、対象となる記録の整理方法を決めるそうです」
「もう返事が?」
「審査結果ではありません。調査に使う資料を、どの部署がどの権限で出せるのかという確認です」
「その確認のために、これだけの書類が?」
「今は三つですが、説明が必要なら六つになります」
「増える方向の提案をしないでください」
ミラが示した一覧には、優先配属の連携記号がついた相談案件の区分が並んでいた。個人の名前はない。どの案件がどの世界へ送られたかも、ネネの立場では見られない。
《候補選定に関する照会》
《本人への説明記録に関する照会》
《確定手続きに関する照会》
それらが別々の担当部署に保管されているため、同じ一件について問い合わせても、片方の記録だけでは全体がわからない。しかも、相談が解決したかどうかと、照会に答えたかどうかで使われる「完了」の印が異なるという。
「なんで『完了』を一種類にしておかないんでしょう」
「一種類にすると、何が完了したか区別できなくなります」
「今だって区別できてませんよね」
「そこが改善対象です」
ミラは真面目に答えた。ここまで来ると、言い合う方が損な気がする。
ネネは一覧の端にある小さな欄を見つけた。
《個別再評価への案内送付》
「……これ、送ったかどうかまで記録されるんですね」
「案内業務の進捗としては、必要です」
「でも、案内を送っただけじゃ、困りごとは終わっていませんよね」
「はい。再評価で何を希望するかも、説明記録への異議を続けるかも、本人次第です」
ネネは自分の受理控えを思い出した。もしあの窓口で、個別再評価を申し込めば過去の申立てが終了すると言われていたら、どうしていただろう。
そもそも、案内を受け取っていない人もいるかもしれない。ただし、今ある資料だけでは、いると決めつけることもできない。
「室長に、ここを確認してもらえますか。案内を送った数だけじゃなくて、未回答の申立てがどこへ回っているか。それから、回答する部署と期限も」
「個別の相談記録を全部見たいということですか」
「いいえ。私は、ほかの人の名前や身体を知りたいわけじゃありません。どういう経路で処理されるかを、担当部署に確認したいんです」
ミラは一度うなずき、調査依頼に使える書式を開いた。
「個人を特定しない件数と、処理区分の照合なら、室長の正式な依頼の範囲で確認できるかもしれません。ただし、どこまで出せるかは審査部門の判断です」
「はい。確認できるところまでで構いません」
ネネは文案を書いた。
《優先配属の候補選定、個別説明、形質確定に関係する相談について、案内送付の有無のみで終結処理されていないか、各手続きの記録区分を照合すること》
入力を終えて画面を見つめる。自分が思っていることを、怒らずに書こうとすると長い文章になる。もう少し短くできないものか。
ミラが横からのぞいた。
「趣旨は明確です。ですが、この部分は相談室の権限を越える可能性があります」
「じゃあ、室長にお願いするしかないですね」
「はい。責任者に回します」
「『責任者を出せ』って言わなくても出てきてくれるの、助かります」
ちょうどそのとき、奥の扉が開いた。
「呼ばれた気がしたけれど」
黒羽宗一が顔を出した。
ネネは端末の画面を隠しそうになり、やめた。職務上の文案である。隠す理由がない。
「室長。このままだと、手続きが一つ終わるたびに、誰かの苦情まで終わったことになりませんか」
「なる場合があるかどうか、確かめる必要があるね」
「私は今日、再評価を申し込みました。でも、前に受けた説明が適切だったかは、まだ答えが出ていません。ほかの人にも、似たことが起きていないか……」
そこでネネは言葉を止めた。自分の申立ての内容を、職員としての話に混ぜかけたことに気づいたのだ。
「すみません。いまのは私個人の経験です。業務として確認をお願いしたいのは、こちらの処理区分の扱いです」
黒羽は頷き、画面に並ぶ項目をひとつずつ読んだ。
「いい整理の仕方だと思う。ただし、調べた結果、何も問題がない案件もあるだろうし、相談者がこれ以上の調査を望まない場合もある。僕たちが一律に決めることではないね」
「はい。対象の方に新しく何かを強制するつもりはありません」
「では、個人情報を除いた処理状況の確認と、必要な場合に本人へ説明を届ける経路があるか。この二つを、独立審査部門への追加照会にしよう」
黒羽が決裁欄へ署名する。
白瀬が奥から新しい用紙を運んできた。室長の署名が一つ増えるたびに、紙が二枚ずつ増える仕組みらしい。
「……この前は三倍でしたよね」
「今回は控えを減らしたんだよ」と黒羽。
「室長、誇らしそうですけど、一枚署名して二枚増えるの、まだ十分に変です」
「改善計画の途中だからね」
ネネは笑って、できあがった照会文書を所定の箱へ入れた。小さな紙鳥が折り目を伸ばし、くちばしで封筒の端をつまむ。飛び立ったと思ったら、宛先の確認に手間取って、いったん箱の上へ戻ってきた。
「……あなたも、まず確認する派ですか」
紙鳥は封筒をくわえ直し、今度こそ廊下へ飛んでいった。
*
夕方、ネネのもとへ二通の通知が届いた。
一通は、個人の申立て番号にひもづくものだった。
《身体形質・個別再評価 申込み受理》
《評価工程の説明と実施日程については、別途通知します》
もう一通は、黒羽の署名した業務上の照会についての受領控えだ。
《独立審査部門 追加照会受領》
《対象案件の処理状況・通知経路について、必要資料の確認を開始します》
どちらにも結論は書かれていない。それでもネネは二通を並べ、少しだけ肩の力を抜いた。
自分の身体について申し込んだ審査は、自分の名前で進む。相談室の照会は、黒羽が責任者として引き受けた。二つを同じことにしてしまいそうだった朝から、ずいぶん遠くへ来た気がする。
「雨宮さん、もう退勤ですか」
白瀬が机の横に来た。
「はい。今日は自分の申込みを一つ、室長の照会を一つ。珍しく二つとも進みました」
「結論が出るまで、まだ時間はかかりますけどね」
「わかってます。あとは……」
言いかけて、ネネは自分の耳を触った。
「もしこの耳がなくなったら、今の椅子、どうなるんでしょう」
「備品ですから、次に必要な人が使います」
「そこはもうちょっと名残惜しがってくれません?」
「人事異動のたびに椅子を送別していたら、うちの部署は毎年大変ですよ」
ネネは吹き出した。身体を変えるかどうかも決めていないのに、今から椅子の心配をしている。自分という人間は、死んでもあまり変わらないらしい。
帰り支度を終え、二通の通知を別々の封筒へしまう。生前、紗季と映画へ行く約束をしたときのように、まだ実現していない予定が一つ、自分の手元にできた。今回は、その予定を急いで誰かに譲らずにいよう。
電灯を消す直前、背後で小さな音がした。朝から使用停止になっていた万能椅子が、誰も座っていないのに座面を縮めたのだ。
「……あなたも再評価、受けた方がいいですよ」
ネネは椅子にそう言ってから、自分の耳がぴんと立っていることに気づいた。
どちらも、なかなか言うことを聞いてくれない。




